インド本

2020年08月08日

歴史的名著!『食べ歩くインド』by小林真樹

食べ歩くインド

アジアハンター代表、小林真樹さんの『食べ歩くインド』(旅行人)。
この本が間違いなく面白いだろうということは分かっていたのだが、インドの音楽シーンについて読むべき本が溜まっていたので、秋頃にいろいろ落ち着いてから買おうと思っていた。

ところが、書店でついうっかり実物を見つけてしまい、手にとって、ぱらぱらとページをめくってみたら、もう駄目だった。
自分はけっしてインドのスペシャリストではないけれど、インドに興味を持ってかれこれ20年。
いつしか、インドに関する本を読むとき、未知のことを知るというよりも、どこか「確認する」みたいになっている自分がいた。
ちょっと調子に乗っていたのかもしれない。
何なんだこの本は。
もう、全く知らないことしか書かれていない。
しかも、それがいちいち面白くて、興味(と食欲)をそそる…。

気がついたら、『北・東編』『南・西編』の二冊を持ってレジに並んでいた。
というわけで、今手元には、読み終わったばかりの2冊がある。

この2冊については、SNS上で、旅好き、南アジア好き、南アジア料理好きのみなさんが、的を射た言葉で絶賛しつつ紹介しているのをたくさん読んでいたので、料理についてはズブの素人の自分は、けっして評したりするまい、と固く心に決めていたのだが、あまりの面白さに、気がついたら、こうしてブログに書いてしまっている。
恐るべきは、私の忍耐力の無さではなく、この本の持つ魔力だ。


南インド料理をはじめとする南アジアの料理は、静かな、しかし熱狂的なブームになっていると言われて久しく、びっくりするほど詳しい人がたくさんいるが、この本ははっきりいって怪物だ。
『北』編の「ガルワール料理」「バスタル地方の部族食」、『南』編の「ラヤシラーマ料理」「オーナムのサッディヤ料理」「ウドゥピ料理」とか、まったく聞いたことのない料理が次から次へと出てくる。
パキスタン、バングラデシュ、ネパールといった周辺諸国の料理はもちろん、南アジアのなかでも独特の文化を持つ、インド北東部の「アッサム料理」「ナガ料理」「マニプリ料理」「カシ(メーガーラヤ)料理」までカバーしており、守備範囲の広さと深さでは全く類を見ない奇書だ。

内容は耳慣れない言葉の連続なのだが、はっきりいってそんなことはどうでもいいくらい、この本は面白い。
今まで誰も記していない、ローカルの文化のなかだけに生きている面白いものを追い求める小林さんの情熱がびんびん伝わってくるからだ。
「北インド/ガルワール料理」から一例を挙げると、例えばこんな文章だ。

他のインドの諸地域同様、ガルワールでも豆は最もポピュラーな食材の一つ。主な料理は、バット(黒豆)を使った汁物料理のバット・キ・カチュロニ、ローストしたウラッド豆の豆粥料理であるチェースー、ベスンのガッテー(団子)を具にしたガッテー・キ・サブジーなど。ガハットダール(ホースグラム)もガルワール全体で一般的で、特にこのガハットの豆粥ペーストと野菜を使ったファーヌー(スープ状の煮込み料理)、また冬の間に保存食料として、ペーストにしたウラッド豆を団子にして日干ししたバリーや、同様にムーング豆の乾燥団子マンゴーリーなどがある。バリーもマンゴーリーも野菜汁に入れて食べる。

(一応言っておくと、耳慣れない単語についてはきちんと説明がされているし、巻末には五十音順の用語説明も付いている)
インド料理についての知識があれば、もちろん一層楽しめるのだろうが、私みたいな素人が読んでも、この笑っちゃうくらいに知らない言葉が出てくる文章は楽しくってしょうがない。

小林さんが書く圧倒的な未知の情報のなかに、自分の持つ限られた知識や経験と重なる部分が見つかると、また格別の喜びがある。
個人的に言えば、「コルカタに中華料理が多い理由はこんなことだったのか」とか、「菓子ロシュ・ゴッラ(ラス・グッラー)の地理的帰属をめぐる西ベンガル州とオディシャ州の法廷闘争なんてものがあったのか。そういえばラッパーのBig Dealが『ラス・グッラーはオディシャ生まれだぜ』ってラップしてたな」とか、「パールシー(ゾロアスター教徒)が炭酸飲料の製造をしてた話って、ロヒントン・ミストリーの小説に出てきたな」なんていう発見に、脳内で予想外のシナプスが繋がる快感があった。

小林さんの興味の対象は、食材や調理方法にとどまらず、年月が生み出した店や客の雰囲気、その土地の歴史や文化、民族の伝統や信仰にも及ぶ。
料理の表層的な味だけではなく、その味を生み出した地層のような背景を紐解いてゆく過程は知的興奮に満ちている。
読んでいると、小林さんのなかで、狂気にも似た好奇心が、静かに、しかし激しく燃えていることが、がんがん伝わってくる。

『食べ歩くインド』を読んで、辻調理師学校を設立した辻静雄の著作を思い出した。
フランスの食と食にまつわる文化に魅せられ、その歴史から最先端までをわかりやすく、かつ詳細に書き記した彼の著書は、日本におけるフランス料理の普及に多大な役割を果たした。
自分は西洋の料理にも全く疎いが、一時期、読み物としての面白さにはまって、彼の本を夢中になって読んでいた。
『食べ歩くインド』も、数十年後には、同じように「古典」としての評価が確立しているはずだ。
今後、日本で、いや、もしかしたら世界で、インドの食や料理について書くとき、『食べ歩くインド』以前と以後に時代が明確に二分されるのではないか、という気すらしている。

なんか興奮して気持ち悪いくらいに絶賛してしまっているが、そういう本だ、これは。


最後にもうひとつだけ。
あとがきに書かれていた「誤解を恐れずにいえば、インド食べ歩きは美味しさの追求が最優先事項ではありません」という文章に、思いっきりシビれた。
(じゃあ何が最優先なのかは、ぜひご自身で読んでみてください)

私は「古典音楽でも映画音楽でもないインド音楽」という、極めてニッチなテーマでブログを書いているが、同様に誤解を恐れずに言えば、そこに音楽としての完成度の高さを追求しているわけではない(何を音楽の完成度とするかは置いておいて)。
ポピュラーミュージックとしての完成度や新しさ、社会へのインパクトを最優先事項とするならば、他に書くべき音楽はいくらでもあるだろう。
それでも、現代ポピュラー音楽の直接的ルーツである欧米から地理的・文化的な距離があるうえに、様々な民族、言語、宗教、伝統、歴史、価値観がときにモザイクのように、ときに坩堝のように合わさったインドという磁場で生み出される新しい音楽(とその背景)に、言いようのない面白さを感じているのだ。

インドという汲めども汲めども決して面白さの尽きない泉のような国で、小林さんが料理文化を追求しているように、自分も音楽カルチャーをこれからも追求していこう、という思いを新たにした次第です。


『食べ歩くインド』を読んでいて思い出したミュージックビデオを2つほど貼りつけておきます。

オディシャ(オリッサ)州プリー出身の日印ハーフのラッパーBig Dealによる、世界初のオディア語ラップ"Mu Heli Odia" .

2:20頃から「奴らにラスグッラーはオディシャのものだと教えてやれ」というリリックが。
西ベンガル州とのラスグッラー訴訟の話を読んだあとだと、この「奴ら」っていうのは、インド人全般って意味じゃなくてベンガル人のことなのかな、なんて思ったりもする。

ジョードプルのヒップホップグループJ19 Squadが同郷のラッパーJagindar RVとSumsa Supariと共演した地元讃歌"Mharo Jodhpur".

『食べ歩くインド』を読んで、この1:00から出てくる団子みたいなのが、全粒粉を丸めて火を通したラージャスターン名物ダール・バーティなるものだと分かったのはうれしかった。(その後に出てくるのは「カスタ・カチョーリー」か?)

インド人は基本的に地元愛が非常に強いので、他にもローカルな食べ物が出てくるミュージックビデオがあった気がするんだが…自分がいかに食文化を見過ごしちゃっているかを思い知らされた。

最後の最後に、『食べ歩くインド』を読んだ全員が必ず思う感想を、私にも言わせてください。
「コロナが落ち着いたら、インドに行ってこの本片手にいろんなものを食べまくりたい!」


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2020年07月19日

よみがえる"India Psychedelic" インドの60年代ロック事情! 知られざる'Indian Summer of Love'


先日取り寄せた本、"India Psychedelic: the story of rocking generation"(Sidharth Bhatia著)がめちゃくちゃ面白い。
IndiaPsychedelic

この本は、知られざる1960年代のインドのロックシーンについて、ジャーナリストである著者が当事者たちに丁寧に取材して書かれたもの。
「60年代のインドのロック」なんていうと、自分みたいな一部のマニア向けの本だと思うかもしれないが(まあそうなんだけど)、この本は当時の若者たちの息遣いがとてもリアルに描かれていて、単純に青春群像として、ものすごく面白かった。

この時代のインドは、1947年の独立から10年以上が経ち、中国やパキスタンとの国境紛争や食糧危機、深刻な貧困などの問題を抱える一方で、都市部では独立期を知らない若い世代が新しい価値観を持ち始めていた。
世界中の若者たちと同じように、この時代に登場した新しい音楽に夢中になった者たちがいたのだ。
「新しい音楽」とは、かつての宗主国であるイギリスから世界に衝撃を与えたビートルズ、そしてそれに続いて登場したアメリカやイギリスのロックバンドたちのことだ。

60年代以前のインドに洋楽好きがいなかったわけではない。
イギリス統治時代から、都市部の上流階級は、レストランでジャズの生演奏を楽しんでいたという。
当時の演奏者の多くは、イギリス人の血を引くアングロ・インディアンと呼ばれるクリスチャンのコミュニティーの出身者や、その頃まだポルトガル領だったゴアの出身者だった。

インターネットも衛星放送もない時代(地上波のテレビ放送さえ、インドでは1965年にやっとデリーで始まった)、インドにいた数少ない洋楽好きの若者たちは、古典音楽ばかりの国営放送ではなく、海を渡って届くRadio CeylonやBBCやVoice of Americaにラジオの周波数を合わせていた。
1962年、ビートルズのデビュー曲"Love Me Do"が海を越えた電波に乗ってラジオから流れると、彼らはこの新しい時代の音楽に夢中になった。
インドでも、他のあらゆる国と同様、都市部の若者たちのなかに「自分たちもバンドを組んでロックを演奏したい!」というティーンエイジャーたちが現れはじめたのだ。

バンガロール(現ベンガルール)ではTrojansが、ボンベイ(現ムンバイ)ではJetsが、マドラス(現チェンナイ)ではHellionsが、カルカッタ(現コルカタ)ではCavaliersが産声を上げ、多くの若者たちがそれに続いた。
この時代、日本でロックバンドたちを「グループ・サウンズ」と呼んでいたように、インドでも、この新しい音楽を演奏する若者たちを呼ぶ独自の呼称があった。
その頃、インドでは、ロックバンドは「ビート・グループ」と呼ばれていた。

彼らは、楽器も音源も満足に入手できない当時のインドで、工夫と情熱で楽器や機材を入手し(あるいは自ら作成し)、見よう見まねで音楽活動を始めた。
当時のインドはソビエト寄りの外交政策を取っており、西側諸国の物資を手に入れることは非常に難しかったのだ。
何しろ、レコードの入手すら、欧米に親戚か知人でもいない限り難しかった時代である。
「ビート・グループ」始められるのは、ごく一部の人たちだけだった。

欧米では、「労働者階級の音楽」だったロックは、インドでは「富裕層の音楽」だった。
それでも、ロックに夢中になった若者たちが、退屈な社会に飽き飽きしていて、この新しいカルチャーに希望を持っていたという点は同じだった。
ロックは、インドでも、保守的な社会に対する反抗の象徴だったのだ。
当初、ビート・グループを結成した若者の多くは、欧米文化と親和性の高いアングロ・インディアンの若者たちだったが、やがて都市部に暮らすアッパーミドルのヒンドゥーやムスリムやシク教徒のなかにも、ビート・グループを始める若者たちが現れるようになった。

レコーディングが今よりずっと難しかった時代の話である。
ほとんどのビート・グループは音源を残すことなく消滅してしまったが、彼らの中には、その後、国際的なキャリアを築いた者たちもいた。

Trojansの中心メンバーだったBidduは、バンド解散後にイギリスに渡ると、1974年に大ヒットしたディスコ・ソング"Kung-Fu Fighting"を手がけ、その後も長くダンスミュージックのプロデューサーとして活動した。(彼のことはいずれまた詳しく書いてみたい)
Biddu
Bidduが1967年にイギリスでリリースしたシングル

ムンバイ出身の女性シンガーAsha Puthliは、保守的でチャンスの少ないインドに見切りをつけ、アメリカに渡って、ジャズ/ソウルシンガーとしてOrnette Colemanらと共演。
当時のインド人女性としては非常にラディカルな生き方を貫いた彼女の音楽は、のちにJay-Zや50centにサンプリングされ、今でもカルト的な評価を得ている。
AshaPuthuli
Asha Puthliが1974年にアメリカでリリースしたアルバムジャケット

ビート・グループ出身者でもっとも成功を収めたのは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地Panchiganiのハイスクール・バンド、HecticsのメンバーだったFarrokh Bulsaraだろう。
パールシー(ペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、少年時代にインドでHecticsのメンバーとして活動したのち、家族とともにイギリスに渡った。
Farroukhは英語風に名前を改め、イギリス人たちとバンドを結成すると、その天才的なヴォーカル・パフォーマンスとソングライティングで、ロックの歴史に不朽の名を残すことになる。
みなさんご存じのクイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのことだ。
彼が在籍していたHecticsも、数枚の写真を残すのみで、音源は残されていない。
Hectics
ピアノに向かっているのが、若き日のフレディ・マーキュリーことFarroukh Bulsara

話を60年代のインドに戻そう。
インド各地の大都市には、文化や流行の中心となる繁華街がある。
ボンベイならチャーチゲート地区、カルカッタならパーク・ストリート、バンガロールならばブリゲイド・ロードがビート・グループたちの活動の場だった。

当時、人気レストランは、バンドの生演奏を売りにしており、ホテルのバンケットホールでも、生演奏の夕べが催されていた。
かつてはムーディーなジャズが流れていた場所にビート・グループが出演するようになると、レストランやホテルに若者たちが詰めかけるようになった。
ビート・グループたちが演奏する洋楽のヒット曲のカバーに、流行に敏感な若者たちはすぐに夢中になったのだ。

この頃のアーティストの音源や動画は非常に少ないのだが、いくつか紹介できるものを貼り付けたい。
アングロ・インディアンのジャズ・シンガー、Pam Crainは、1956年にパーク・ストリートにオープンしたClub MocamboやBlue Fox Restaurantといった伝説的なヴェニューに出演し、ビート・グループ前夜のカルカッタで「パーク・ストリートの女王」と呼ばれていた。
この音源は、やはりカルカッタを拠点に活動していたサックス奏者Braz Gonsalvezとの共演した1970年のもの。


"The King of Rock'n'Roll of India"、「ボンベイのエルヴィス」ことIqbal Singhは、ビート・グループの少し前の時代に活躍した歌手で、これは映画"Ek Phool Char Kante"の一幕。

ターバンにスーツでツイストしまくる姿に強烈な違和感を感じるが、目を閉じて聴くと、彼のヴォーカルはとてもうまくエルヴィスの特徴をとらえている。
当時のレストランの雰囲気がよく分かる映像だ。

インドで最初のオリジナル・ロックソングとされるカルカッタのThe Cavalliersの"Love is a Mango"は、シタールを導入したインドらしいサウンド。

インドのロックバンドが、その最初期から古典音楽とのフュージョンを行っていたことが分かる貴重な一曲だ。
カルカッタは、イギリス支配時代の首都だったことから、アングロ・インディアンが多く暮らしており、当時のインドで西洋文化の受け入れが最も進んでいた街でもあった。

マドラス(現チェンナイ)のThe Mustangsは、ベンチャーズ・スタイルのギターインストゥルメンタルだ。

今以上に保守的で、カルナーティック音楽一色だったマドラスにも、ロックに夢中となった大学生たちがいたのだ。

ボンベイのThe Sasvagesが1968年にリリースした"Pain"と"Girl Next Door".
彼らは前年に行われたSound Trophy Contestで優勝した副賞として、スタジオでのレコーディングの権利を獲得してこの2曲を録音した。

2曲目の"Girl Next Door"でヴォーカルを取っているのは前述のAsha Puthli.
この後、彼女はシンガポールに渡り、現地のバンドThe Surfersとの音源を残したのち、ボンベイ時代に知り合ったアメリカ人モダンダンサーMartha Grahamを頼ってニューヨークに渡る。
アンディ・ウォーホルや現地のジャズミュージシャンと知り合った彼女が、現在でもカルトクラシックとされる音源を残したことは、先ほど書いた通りだ。
だが、ほとんどのミュージシャンに取って、アメリカやイギリスは憧れの土地であると同時に、あまりにも遠い場所だった。


60年代の後半に入ると、若者たちから始まったビート・グループのムーブメントに注目する大人たちが現れてきた。
Imperial Tobaccoは、若者向けの新しいメンソールたばこのブランド'Simla'のプロモーションの一環として、インドじゅうのビート・グループを集めたイベントを行った。
1970年と71年に行われた、Simla Beat Contestである。
このイベントに出演したバンドのコンピレーション盤は、当時のインドのバンドの数少ない音源となっている。
ここに収められている音源は、決して演奏力が高いわけでも音質が良いわけでもなく、オリジナル曲ですらないものがほとんどだが、限られた環境のなかで当時のインドの若者たちが必死に取り組んだ成果だと思いながら聴くと、胸に熱いものがこみ上げてくる。

ボンベイのVelvette Foggは、ドアーズのようなキーボードが入ったサイケデリックなサウンドでCreamの"I'm So Glad"をカバー。


このブログでもたびたび取り上げている通り、インドのなかでもロック人気のとくに高いインド北東部のバンドも、当時から存在感を発揮していた。
Simla Beat Contestにも出演したFentonesは、「インドのロックの首都」と呼ばれている北東部メガラヤ州シロンの出身。
ここでは、イギリスのバンドChristieが1970年にリリースした"Until The Dawn"をカバーしている。 



やがて、インドにも、単に享楽的でサイケデリックなロックだけでなく、ボブ・ディランらの影響を受けた、社会的なテーマを歌うフォークシンガーが登場するようになる。
1970年代以降、インドでは、都市部と農村の格差や、社会の不正義に対する問題意識が強くなり、デリーのSt.StephensやカルカッタのPresidency、ボンベイのElphinstoneのような名門大学では、学生運動が活発化していた。
暴力すら厭わずに毛沢東主義での社会経済開放を目指す「ナクサライト運動」は、西ベンガル州で発足すると燎原の火のように広がっていった。
こうした風潮が、産声をあげたばかりのロックシーンにも影響を与えたのだ。

「初めてディランを聴いたとき、自分の人生ですべきことが決まったんだ」と語るデリーのフォークシンガーSusmit Boseは、「インドのボブ・ディラン」とも「インドのキャット・スティーヴンス」とも呼ばれている。
彼が1978年にリリースしたアルバム"Train To Calcutta"に収録された"Rain Child".

彼のような西洋風のフォークソングを、インドではローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ。
古典歌手の父を持つ彼は、親に隠れてギターを練習し、フォークソングを歌っていたことがばれて家を追い出されてしまったこともあるという。

メガラヤ州シロンのLou Majawもまた、「インドのボブ・ディラン」と呼ばれることの多いシンガーだ。
1972年に始めたディランの誕生日に行うメモリアルコンサートを毎年続けている彼は、80歳近くなった今もタンクトップに短パンという衣装で歌い続けている。

今年はコロナウイルスによるロックダウンでディランのバースデーコンサートを開催できなかったため、この動画をYouTubeに投稿していた。

60年代のカルカッタで活躍したバンドThe UrgeのサックスプレイヤーだったGautam Chattopadhyayは、ナクサライトに共感した活動をしていたため、仲間とともに2年間の州追放処分を受けたという経歴を持つミュージシャンだ。
1975年にカルカッタに戻ると、ジャズやロックにベンガルのフォークミュージックを融合した音楽に乗せて文学的な歌詞を歌うMohineer Ghoraguliを結成した。

彼らの音楽は少数のディランのファン以外には見向きもされなかったが、90年代以降、新しい世代に、ベンガル独自のロックの先駆けとして再評価されている。


60年代から70年代にかけて、インドのロックミュージシャンたちは、お金のためではなく、音楽への純粋な愛情と表現衝動に基づいて音楽活動を行っていた。
そもそも、インドでロックバンドが職業になる時代ではない(それは今もほとんど変わらないが)。
学生時代のひとときが終わると、音楽から離れてしまう者も多かったし、アングロ・インディアンや富裕層のなかには、より良いキャリアを目指して海外へと移住してしまう者も多かった。

インドの時代背景も変わってゆく。
欧米では反体制の象徴だったロックも、社会運動の過激化に伴い、インドのロックファンの中心だった学生たちから、富裕層、すなわち「搾取する側の音楽」と見なされるようになってゆく。

そして、世界中の音楽シーンで、ロックバンドが花形だった時代は終わりを告げ、ディスコ・ミュージックの台頭が始まる。
踊りが大好きなインドのエンターテインメント産業(すなわち映画業界)は、ディスコを巧みにローカライズして映画音楽に取り入れていった。
流行に敏感なリスナーたちは、ロックから離れ、ディスコ・ミュージックに夢中になってゆく。

こうして、「インディアン・サマー・オブ・ラブ」は終わりを告げた。
(説明するのも野暮だが、英米のヒッピー・ムーブメント「サマー・オブ・ラブ」よりずっと規模の小さかったインドの「ロックンロール黄金時代」を、小春日和を意味する「インディアン・サマー」にかけてこう呼びたい)

この時代の「ビート・グループ」たちが、古き良き思い出以上の何かを、インドの音楽シーンに残したのかどうかはわからない。
結局、インドのロックシーンが復活するのは、インドが経済開放路線に舵を切り、インターネットで海外の情報がリアルタイムで入手できるようになった90年代以降まで待たなければならなかった。
インドのインディー音楽が爆発的に広がるのは2010年代に入ってからだが、今日でも、音楽シーンの圧倒的主流である映画音楽と比べると、その売り上げ規模は圧倒的に少ない。

だが、1960年代のインドで、海の向こうからやってきたリズムとサウンドに夢中になり、そこに音楽以上のもの(例えば自由とか)を見出して、お金のためでも名誉のためでもなく、全てを打ち込んで演奏した若者たちがいたという事実は、とても興味深いし、感動的だ。
経済成長著しいインドでは、懐古的な作風の映画や音楽も楽しまれるようになってきているようだし、そろそろこの時代をテーマにした映画が作られても良いと思うのだけれど。

今回もずいぶん長くなってしまったが、この時代については、まだまだ調べ甲斐がありそうなので、そのうちまた何か書くつもり。
それでは!



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2020年07月07日

『バウルを探して〈完全版〉』でバングラデシュの風にどっぷり浸かる


川内有緒・文、中川彰・写真の『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)が、すごく良い。

baul(三輪舎さんのウェブサイトから画像をお借りしました)

この本は、2013年に幻冬社から出版された『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』に、バウル探しの旅に同行した中川彰さんの写真を大幅に追加したもの。
2015年には『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』と改題して幻冬社文庫にも入っているから、今回の「完全版」で、3回目の出版ということになる。
(その経緯は、川内さんが書いたこちらのnoteに詳しい。発売日に書かれたこの記事も、ぐっと来る)

私は幻冬舎文庫版を持っていて、もともとかなり好きな本だった。
単行本で買った本を気に入って、加筆された部分があるからとか、持ち運びやすいからとかといった理由で文庫化されたときにまた買うというのは、たまにある。
でも、私はコレクター的な本好きではないので、文庫で持っている本を単行本で買い直すというのは、今まで一度もしたことがなかった。
そもそも、一度文庫化された本が、全集とかでもないのに別の形で出版されるというのも、あまり聞いたことがないし。
ところが、この「完全版」、中川さんの写真目当てで買ってみたら、それだけでなく、すごく良かったのだ。

川内さんの文章は、文庫の時から変わっていない(たぶん)はずなのだが、読んだときの質感が全然違う。
なんというか、文庫版がライブ盤のCDだとしたら、今回の完全版は、ライブそのもの。
それくらい違う。

何がそんなに良いのか。
まず、本そのものの、モノとしての佇まいがすごく良い。
ページを180度開くことができて写真が見やすい「コデックス装」になっていたり、背表紙にあたる部分(コデックス装だと、ページがむき出しになっている)に打たれたドットが模様になっていたり、異常なまでにこだわりのある装丁になっている。
ただ、そういう非日常的な装丁だから良い、というのではなくて、本の内容と装丁とがぴったりと一致して、特別なものではなく、本来こうあるべきだったもののように感じられる、そういう良さがある。
この装丁を担当したのは、矢萩多聞さん。

次に、中川彰さんの写真が良い。
もともと文庫版の写真の少なさはちょっと不満だったし、文庫版のあとがきで、彼が本の出版を待たずして亡くなってしまったことを知っていたのでちょっと感傷的になっていたところはあったと思うが、それを差し引いて余りあるほどに、良い。

中川さんの写真からは、バングラデシュの人や空気の匂いが、濃厚に漂っている。
排気ガスやお香や朝靄や牛の糞の匂い、クラクションや怒鳴り声や風の音が感じられるような写真なのだ。
撮影対象を特別に見せようなんて、これっぽっちも思っていないようなのに、その表情から、風景から、色合いから、その場所にしかない空気が濃密に立ち上ってくる。
よそ者の旅人としてバングラデシュを見ているのではなく、この国で繰り返されている日常のなかに、ふっと迷い込んでしまうような、そんな写真である。

川内さんの文章もそうだ。
「バングラデシュに存在する、謎の吟遊詩人を探しに行く」という、これ以上ないほど非日常的なテーマなのに、川内さんの文章は、なんというか、日常と地続きなのである。
かつて憧れだった職場を退職し、さて、これからの人生をどうするか、というタイミングでのバウル探し。
それなのに、全く肩の力が入っていない(ように読める)。
日本での日常から、日本とは全く違うバングラデシュの奥へ、奥へと入ってゆくのだが、操縦のうまいパイロットがふわっとなめらかに離着陸するように、普段着のまま異世界に入ってゆくような感覚がある。
好奇心のアンテナは思いっきり伸ばしながらも、変な力が入っていないから、気がついたら、自分のまわりを吹いている風が、バングラデシュの風になっているような錯覚を覚えてしまう。

そう、理由はよく分からないが、この本、風にあたりながら読みたい本である。
川っぺりのベンチかなんかで読むのもいいし、ベランダに椅子を出して読むのも、なんなら窓を開けてみるだけでもいいと思う。
本の手触りを味わうように、風の感触を味わいながら読むと、たぶんこの本の良さはもっと増すはずだ。

それにしても、この装丁の力と、中川さんの写真の力はすごい。
もちろん、主役は川内さんの文章なのだが、文庫版で読んだはずの文章が、初めて読んだように、いや、初めて読んだ時以上にみずみずしく感じられる。
…という趣旨のことをTwitterでつぶやいたら、川内さんご本人から、「映画が大画面だとより楽しめるように、本の形によっても、読み心地は変わるのだろうと思います」というご返信をいただいた。
言いたかったのはまさにこういうこと!
『バウルを探して〈完全版〉』を読みながら、歴史のある佇まいの映画館の大スクリーンで、最高の音響と最高の座り心地の椅子で、大好きな映画を鑑賞してるみたいな、ぜいたくな時間を楽しんでいる。

ベンガルってどこ?とか、バウルってなに?という人も含めて、「体験としての読書」にどっぷり浸かりたい人全員に、全力でおすすめしたい。



(便宜上、この記事のカテゴリが「インド本」になっていますが、「バングラデシュ本」です。読むともれなく無性にバングラデシュに行きたくなるという副作用付きです。)






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2020年04月24日

インド魔術の神秘に迫る!山田真美さんの名著『インド大魔法団』『マンゴーの木』





今月に入ってから、2回にわたってベンガルの漂泊の歌い人「バウル」についての記事をお届けした。
バウルについて考えるたびに、どうしても頭の中をよぎってしまうのは、あの謎の占い師「ヨギ・シン」のことだ。

かつては「奇妙な歌を歌う世捨て人」として、賎民のような扱いを受けていたバウルは、タゴールとディランという二人のノーベル文学賞受賞者に影響を与え、そして彼ら自身がUNESCOの無形文化遺産に登録されたことによって、ベンガルの伝統文化の担い手という評価を確固たるものにした。
今やバウルは、オルタナティブな生き方をする行者として、ベンガルのみならず世界中からカリスマ視されるまでになった。

一方で、パンジャーブ地方から世界に飛び出し、少なくとも100年以上の歴史を持つ放浪の占い師「ヨギ・シン」たちは、仲間のシク教徒からは低い身分として見られ続け、そして世界中の都市で「詐欺師」の烙印を押されながら生きている。
(彼らについては、この下のリンクで詳しく紹介している)
なんとかして彼らを、伝統を守ってきた人々として正当に評価されるようにすることはできないだろうか。
彼らについてこれまでしつこく書いてきた理由のひとつには、僭越ながらこうした思いがあった。
いつの日か、代々木公園で行われる「ナマステ・インディア」みたいなイベントの会場で、ヨギ・シンがその伝統の技術を披露する、なんてことがあったらいいなあ、と思っていたのだ。



ところが、あろうことか、私は「ヨギ・シン」当人とのコンタクトという願ってもない機会をふいにしてしまった。
(その詳細は、上のリンクに詳しく書いてある)
千載一遇のチャンスを逃した私は、仕方なく、インターネットや文献での調査を再開することにした。

ちょうどその頃、私が「ヨギ・シン」に夢中になっているということを知っている方から、インドのマジックに関する本として、山田真美さんの著書『インド大魔法団』と『マンゴーの木』を紹介してもらった。
これまで書いてきた通り、ヨギ・シンは占い師でありながら、奇術師とも言える不思議な存在である。
インドでは「占い」と「マジック」は表裏一体のものとして存在しており、さらに言うと、インドの伝統的な占いやマジックには、予知や透視のような、超自然的な能力との境目が曖昧な部分すらあるのだ。

インドのマジックについて日本語で書かれた本は極めて少ない。
この2冊にも、きっと何かヒントがあるに違いない。
そう思って読み始めてみたところ、想像以上の面白さにすっかり夢中になってしまった。
2冊とも、一応ノンフィクションの体裁を取っているのだが、本自体がまるでインドのマジックのように摩訶不思議な内容で、このタイミングでこの本に出会ったことが運命だったのではないかとすら思えるほどに惹きこまれてしまったのだ。
インド大魔法団マンゴーの木

この本の著者の山田真美さんは、今では公益財団協会日印協会の理事や日印芸術研究所の言語センター長を務めている方である。
『インド大魔法団』が出版されたのは1997年(私が初めてインドを訪れた年だ!)。
作品の舞台は1989年から始まるのだが、この本の冒頭で、山田さんは「インドにはさして興味はなかった」と明言している。
つまり、この2冊は、今では日印関係の要職を務める山田さんが、マジックをきっかけにインドにハマるきっかけを描いたものでもあるのだ。

この物語はこんなふうに始まる。
(先ほども書いた通り、ノンフィクションなのだが、そのへんの小説よりもよほど奇妙なこの本の内容は、やはり「物語」と呼びたくなる)
山田さんは、運命とも言えるような偶然が重なり、インドの「魔法」に興味を持ってゆく。
そして、まるで何者かに導かれるように、インドの「魔法使い」を探す旅に出ることになるのだ。
そこから先は不思議な出来事の連続だ。
インドに到着早々に、よく当たるという占い師が山田さんに不思議な「予言」をする。
「この旅の中で、白い貴石を手に入れる。それを差し出す人の助言を聞きなさい」というものだ。
その後、山田さんはインド政府の協力を得て、伝統的な「魔法使い」を探すべく、インド一周の旅に出るのだが、インド文化や宗教の専門家たちからは「もはやインドには魔法使いなど存在しない」と断言されてしまう。
かつてのバウルや今日のヨギ・シンのように、インドのマジシャンたちは、近代化の波の中で、注目する価値のない伝統と見なされ、ほぼ無視されていたのだ。
1990年のインドで伝統的な手品師を探すということは、日本に外国人がやってきて「ガマの油売りが見たい」とか「バナナの叩き売りが見たい」なんて言うのと同じようなものだったのだろう。
それでも不思議なことがたくさん起きてしまうのが、インドという国だ。
(とくに、この時代のインドには、今の何倍も「不思議」が生きていたはずだ)
山田さんは次から次へと現れる占い師(手品師たちや路上の占い師たちと違い、占星術のような伝統的で理論的な占いは敬意を持って扱われている)、宝石商、旅人、大道芸人、伝統舞踊家らによって、インドの持つ底なしの不思議で魅力的な世界にはまってゆく。
仮に多少の演出を入れて書かれているとしても、それでも「運命」としか言いようのない超自然的な力が働いていると感じられることが、次々に起きるのだ。
そして、調査の鍵を握る伝説の魔法使い、「P.C.ソーカ(P.C. Sorcar) 」との出会いから、物語は驚愕の展開を見せる。
(クライマックス近く、物語の本筋とは関係のないところで、ある手品師が、ヨギ・シンの占いにも通じる心理トリックの種明かしをする場面もあって見逃せない)
そして、「白い貴石」を持った人物は現れるのか…。


こうした「人探し」や「謎解き」の面白さは、まだインターネットがない時代だからこそ成立していたとも言える。
今では、PCソーカのことも、インドの伝統的なマジックのことも、検索すればある程度のことは簡単に分かってしまう。
世界中が情報で繋がった現代世界では、謎や神秘が存在できる場所は、確実に小さくなっているのだ。
1990年代は、「魔法使い」のような存在が神秘として存在することができた最後の時代だったのかもしれない。
携帯もメールもまだまだ普及していなかった90年代のインドを思い出しながら、少し懐かしい気持ちにも浸ることができたのだった。

続編の『マンゴーの木』は、私がヨギ・シンを探しているように山田さんがこだわりつづけていた、インドの伝統的な「魔法」を探す物語だ。
そのマジックでは、「魔法使い」が地面にタネをまいて、その上に布をかぶせると、みるみるうちに本物の実をつけたマンゴーの木が現れるのだという。
物語の舞台は1997年。
山田さんは前回の旅をきっかけに、なんとインド文化交流庁の招聘研究者として、デリーで暮らし、インドの神話の研究者になっていた。
もはや前作のように、次々と現れるインドの不可思議な魅力(魔力?)に翻弄されるのではなく、研究者として積極的に謎に満ちた世界に飛び込んでゆく姿は、じつに頼もしい。
その調査範囲はインド南端のケーララ州におよび、ついに、もはや存在しないと思われていたインド伝統の「魔法使い」のありかをつきとめる…。

途中で何人ものインド人マジシャンが出てくるのだが、華やかな衣装に身を包み、ステージで洗練されたマジックを繰り広げる彼らは、欧米式の演出を好み、「マンゴーの木」のようなインドの伝統的なマジックにはほとんど目もくれない。
ロープトリックも、カップ&ボールも、そして箱の中に入れた美女に剣を刺すマジックもインド発祥だというのに、伝統的なストリートマジックに関しては、過去のものとして追いやられてしまっているのだ。
コンテストに出るようなマジシャンたちも、決してスターというわけではない。
インドではマジシャンとして生活してゆくことはまだまだ難しい。
彼らの多くが、銀行員など他の仕事をしながら、マジシャンを続けているのだ。

まして「マンゴーの木」のような伝統的なマジックを生業とするマジシャンに関しては、村から村を渡り歩く貧しい放浪の大道芸人であり、その連絡先を探すことすらままならない。
こうした扱いゆえか、伝統を受け継いで守っているマジシャン自身も、その伝統を、ほとんど価値のないものと思っているようなのである。
ある人物が発するこの言葉を読んで、胸がつまりそうになった。
「俺は長いこと、自分がやっていることなんて、所詮は誰からも注目されることのない、絶滅寸前の大道芸だと思っていたんです。だから、日本人の女の人が俺の芸を見たがっていると聞かされた時も、担がれているんじゃないかと疑ったぐらいです。(中略)生まれてこのかた、こんなふうにちゃんと俺の話を聞いてくれて、芸の一部始終を写真に収めてくれた人なんて、一人もいませんでしたから。今日は俺、貴女から勇気をもらったような気がします。うまく言えないけど、来てくれて本当にありがとう」

急速な経済成長や近代化、グローバル化のなかで、インド人のなかに自らのルーツを大切にしようという意識が芽生えてきているが(過剰な宗教ナショナリズムは、その悪いほうの一面だ)、一方で、これまで権威とは無縁に引き継がれてきた伝統は無視され、切り捨てられようとしている。
そうした風潮のなかで、伝統を守っている当の本人も、1990年代の時点で、すでにあきらめを感じていたようだ。
「マンゴーの木」が書かれてから20年を超える年月が過ぎ、その後、伝統的なマジシャンたちは、その居場所と誇りを少しでも取り戻すことはできたのだろうか。

今回紹介した2冊の本で山田さんがインドの伝統に向けるまなざしには、とても深い共感を覚えた。
共感しすぎて、読んでいて「私もいつかヨギ・シンについてこんな本が書きたい」という気持ちが湧いてくるのを抑えられなかったほどだ。
それよりも何よりも、単純にめちゃくちゃ面白い2冊だった。
「インドのマジック」という分野は、私もヨギ・シンに興味を持つまで全く意識したことがなかったが、まさかここまでの深さと面白さのある世界だったとは、想像すらしていなかった。
本当にインドの魅力は底なし沼だな…と感じさせられたこの2冊、まだまだ当面外出自粛が続きそうな毎日ですが、何か面白い本を探している方に、オススメです!
ヨギ・シンの話を面白いと感じてくれた人なら、最高に楽しめるはずです。



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2019年11月01日

インド写真集にやられる(その2) 三井昌志『渋イケメンの旅』


先日、銀座のソニーイメージングギャラリーに、三井昌志さんの写真展『渋イケメンの旅』を見に行ってきた。
これは、写真家の三井さんがインドじゅうをバイクで旅して出会った、渋くてカッコイイ働く男、すなわち「渋イケメン」を撮影した写真を集めた展示企画だ。
渋イケメンの旅
(画像は三井さんのウェブサイト「たびそら」よりhttp://tabisora.com/blog/exhibition2019-sony/

三井さんは、「渋イケメン」シリーズの写真集をこれまで2冊発表しており(『渋イケメンの国』『渋イケメンの世界』)、このたびシリーズ3作目で、写真だけでなく文章も充実した『渋イケメンの旅』を発売したばかり。

三井さんによると、「渋イケメン」の定義はこうだ。

1.目力が強く、面構えに存在感がある

2.年齢を重ねることを恐れず、自然な「渋み」を漂わせている

3.外見には無頓着で、「異性にモテよう」という意識が希薄である

日本では絶滅危惧種の「渋イケメン」だが、インドでは肉体労働者や職人などに、このタイプの男たちがわりとたくさんいる。
知識や理屈だけではなく、経験と技術に裏打ちされた仕事ができる男だけが漂わせる、自信と貫禄。
決して暮らしぶりがよいわけでも、教養や学歴が高いわけでもないかもしれないが、彼らには「粗野な品格」とでも呼べるような雰囲気がある。
無駄口は叩かず、愛想笑いはせず、困っている人がいれば、助ける。
思えば、小さい頃に思い描いていた「大人」というのは、わりと渋イケメン的な人間像だった気がする。
(大人になった私が果てしてそういう人間になれたかどうかは言わぬが花でしょう)

前回紹介した名越啓介さんの『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』が、「宗教的祝祭」を撮影したものであるのに対して、三井さんが撮影しているのは日々の「労働」。
俗世を捨てた修行者たちが集まる非日常的な世界ではなくて、市井を生きる人々の「日常」そのものだ。
クンブメーラのサドゥーたちがロックスターやラスタマンだとしたら、三井さんが撮影するのはさしずめブルースマン。
繰り返される日々に、すり減らされるのではなく深みを増して生きてきた男たちの写真は、ガキとくたびれたおっさんばかりの国になってしまった日本で見ると、率直に言って心に刺さる。

今の日本にも熟練の労働者はいるだろうが、
我々が知識や目新しさ、人あたりの良さばかりをもてはやしてしまったせいで、渋イケメン的な男性はすっかり見なくなってしまった。
俺だって、例えば家の水道工事に来てもらうんだったら渋イケメンよりも愛想のいい人のほうがいいもの。

三井さんは、バイクでインド中を回り、小さな街の工場や、名もない村の畑や、道端のチャイ屋などで、「渋イケメン」を見つけては撮影したそうだ。
三井さんが撮った「渋イケメン」には、厳しさだけでなくどこか温かみを感じさせる表情の男たちが多いのも特徴だ。
観光地でないインドの街や村には、外国人に対して本当に親切であたたかい人がたくさんいる。
コミュニティの構成員全員の顔が見えるような街では、悪い人間はなかなか生まれようがない。

代々同じように、生まれて、働いて、家族を作り、子孫を育て、そして死んでゆくという人生を、あるがままに受け入れて暮らしている人々。
旅人の感傷と知りつつも、古い時代のままに生きるインドの人々に姿には、やはりどこかほっとしてしまう。

しかし、都市部を中心に、インドの価値観も変わりつつある。
『渋イケメンの旅』(本のほう)のなかに、「そんなわけでインドでは、日本(も含めた東アジア圏)でよく見られるようなフェミニンな男はまったく人気がない。つるっとしてかわいいジャニーズ系のアイドルなんてものは存在しないし、もしいたとしても誰にも見向きもされないだろう」という文章が出てくるが、今ではインドでも韓流アイドルが流行している
(例えば、BTSのライブ・ドキュメンタリー映画の"Burn The Stage"はインド40都市で公開され、人気を博したという。参考:「インドで盛り上がるK-Pop旋風!」) 
90年代以降のIT人材のバブル的な需要増加や経済成長もあり、インドでも「汗の匂いのしない、センスの良い男たち」の存在感は大きくなるばかりだ。

無責任な外国人としては、古い価値観からの自由を求めて音楽で表現をはじめた若い世代のミュージシャンたちにも、いわゆる昔ながらの「渋イケメン」にも、それぞれにインドならではの言いようのない魅力を感じてしまう。

前回の記事で、『地球の歩き方』インド編の名文句、「私は実はあなたなのだ」を紹介したが、三井さんの視線を通したインドは、渋く、たくましく、やさしい。
インドの最新の音楽は、ネットを通してでも知ることができるが、渋イケメンたちに会うには実際にインドに行くしかない。
そんなわけで、私は三井さんの写真を見るたびに、インドに旅したくなってしまうのだ。


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2019年10月29日

インド写真集にやられる(その1) 名越啓介『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』


少し前に、岡田悠さんという方が、「ねとらぼ」で「地球の歩き方」の独特の文体の「煽り文句」をランキング形式で紹介して話題になっていた。
その1位が、案の定というかインド編だったのだが、それはこんな文章だった。
インド。それは人間の森。
木に触れないで森を抜けることができないように、人に出会わずにインドを旅することはできない。

インドは「神々と信仰の国」だという。
また、「喧騒と貧困の国」だともいう。
だが、そこが天国だとすれば、僕たちのいるここは地獄なのだろうか。
そこを地獄と呼ぶならば、ここが天国なのだろうか?
インドを旅するキミが見るのは、天国だろうか地獄だろうか?

さあ、いま旅立ちの時。
インドはキミに呼びかけている。
「さあ、いらっしゃい!私は実はあなたなのだ。」

20年以上前に私が初めて買った「地球の歩き方」にも、全く同じ煽り文句が掲載されていたと記憶している。
毎年の改訂をくぐり抜けてきた、歴史ある名文なのである。

それにしても凄い文章だ。
たかが旅行なのに、旅人が見るのは天国か地獄。
「神々と信仰」というあまりにも大仰な世界か、「喧騒と貧困」という明らかに不快な場所か。
ほとばしる非日常感。
そしてそれに続く文章がまた強烈だ。

「私は実はあなたなのだ」

自分探し系バックパッカー直撃の名文句である。
きっとリゾートやショッピングを求めてインドに行こうとしていた人は(そもそもいないかもしれないが)、そっとガイドブックを書架に戻すことだろう。
 

写真家がインドを旅するとしたら、何をどう切り取るだろうか。
マハラジャ、聖者、乞食。
聖地、市場、スラム。
祝祭、祭礼、儀式。
そして街を行き交う人々や動物、荷車やトラックやリクシャー。
インドは絵になる被写体には事欠かない国だ。

写真家が撮るインド、それはほかでもない、写真家その人なのではないだろうか。

「私は実はあなたなのだ」

バガボンド

名越啓介の『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』は、写真家とインドとの真剣勝負が見られる1冊だ。
名越啓介は、アメリカのチカーノギャングやスクワッター(不法居住者)、フィリピンのごみ山スモーキーマウンテンのスカベンジャー(ごみを集めて生活する人々)らを撮影してきた写真家だ。
最近では、ブラジル系の住民が多く暮らしている豊田市の保見団地の人々とともに暮らし、撮影した写真集『Familia 保見団地』で、「写真の会賞」を受賞している。

今回彼が撮影した「クンブメーラ」は、インドの川沿いにある4箇所の聖地、アラハバード、ハリドワール、ナーシク、ウッジャインで、隔年で開催される、巨大な規模のヒンドゥー教の宗教行事である。
とくにアラハバードで行われる年は規模が大きく、一説には一億人ものヒンドゥー教徒が、聖地での沐浴のために集まるという。
名越は、「週刊プレイボーイ」編集者の近田拓郎を伴って、三たびアラハバードのクンブメーラを訪れた。

この『バガボンド』には、国じゅうから集まった人々の群れや動物たちの写真なども収められているが、何よりも目をひくのが「サドゥー」たちの写真だ。

サドゥーとは、所有を放棄し、放浪と修行に生きるヒンドゥーの行者のことだ。
一部の者は、衣服すら身に着けず、裸に聖なる灰を塗りつけただけの姿で暮らしている。
豊かだった人、貧しかった人。
カースト、家族、仕事、人間関係。
あらゆるしがらみを断ち切って、サドゥーとして生きる人が、インド・ネパールには500万人もいるという。
聖者のように崇められている者もいれば、観光客相手に祈りの文句を唱えて高額の布施をせびる詐欺師まがいの者もいる。
輪廻からの解脱と悟りを求めている者もいれば、夜逃げ同然の者もいる。
彼らはあらゆる秩序に縛られない。
大麻はインドでももちろん違法だが、彼らは瞑想のために、車座になってガンジャのパイプを回す。

髪を切らないサドゥーは、必然的にラスタマンやロックスターのような佇まいになる。
天然のドレッドヘアー。
鋭い眼光。
修行者であることを意味するオレンジ色の衣。
名越は煩悩の数、108人のサドゥーを、憑かれたように白バックの前で撮影してゆく。

年老いたサドゥー。
若さの残るサドゥー。
片足立ちのサドゥー。
手を上げてポーズを取るサドゥー。
なぜか、豹柄の布を頭と体にまきつけたサドゥー。
どんな人生を歩んできたのか、どんな生活をしてきたのか、何を考えているのか。
何ひとつ手がかりすらないが、白バックによってアラハバードという聖地から切り離されたサドゥーは、ただその存在感だけを強烈に浮かび上がらせる。
ドレッドヘアー。
個性あふれるキメのポーズ。
誰ひとり同じでない僧衣の着こなし。
それは、サドゥーというあまりにも過酷な生き方から遠く離れて、まるでファッションスナップのようですらある。
強烈な存在感と、すかしたようなクールさが共存した、不思議で不穏な感覚。

写真の合間に挿入される近田の文章もまた凄い。
なにか得体の知れない、ひりひりした緊張感が漂っている。
彼はこの本に取り掛かる前、両親を相次いで失くしている。
だが、それだけではない、何か心の底のマグマのようなものを感じる文章だ。

ふつう、日本とは全く異なる価値観の国インドの、歴史ある巨大宗教行事について書くなら、その成り立ちや信仰上の意義を、少なからず咀嚼し、紹介しようとするだろう。
だが、近田はほとんどそれをしない。
クンブメーラのど真ん中に飛び込み、巡礼者やサドゥーの洪水のなかに身を置き、満足のいく撮影のための「もがき」だけが、焦燥感とともに綴られている。

世界最大の祝祭のど真ん中に、気鋭のカメラマンを伴って飛び込む情熱。
しかも、近田は仕事としてではなく、集英社から13日間の休暇を取ってまで、何かに衝き動かされるかのようにクンブメーラに来ているのだ。
この情熱は、どこから来て、どこに向かうのか。

この二人は、文化的・宗教的な文脈に溺れることなく、また、表層的な理解に甘んじることもなく、感性だけを武器にこの巨大な祝祭に対峙し、そこにぎりぎりの充実感を感じているようなのだ。
「知られざる祭礼の紹介」でも「絵になる写真の撮影」でもない、クンブメーラの巨大なエネルギーと、研ぎ澄まされた魂とがぶつかって飛び散る火花。
近田と名越が求めているのは、本当に純粋に、ただそれだけなのだ。

彼らは、きっと初めてひとり旅をしたときの初期衝動を、ほとんどそのままの形で抱え続けている。
二人とも私と同世代のはずだが、そのひりひりした感覚を維持したまま、発狂することも倦むこともなく、ペンやカメラを持ち、混沌のなかに飛び込んでゆく。
畏敬というよりも、恐怖にすら近い感情が湧き上がってくる。

ひとりひとりだと個性あるサドゥーたちが、群衆となって沐浴場を目指している写真もまた圧巻だ。
何が彼らを突き動かしているのか。
それは分からない。
分からないが、やはり名越、近田の二人と同じような、純粋だが得体の知れない衝動が、巨大なうねりとなって聖地サンガムに渦巻いていることが、伝わってくる。

サドゥーやクンブメーラ以外の写真も刺激的である。
子どもたちや、街のギャングを撮った写真のそれぞれが、不敵だったり、ユーモラスだったりする。
インドの人々を、資本主義社会の抗えないひずみの中で、しぶとくしたたかに生活する個人として、我々の前に提示する。
彼がこれまでに撮影してきたスモーキーマウンテンの人々や、スクワッターと同じように

インドの写真には、じつは意図的に作られた「型」があるのだが(例えば、静謐な空気の中で祈る老女、貧しくとも目を輝かせる子ども、肉体労働の合間にチャイを飲みタバコをくゆらす労働者、など)、名越はその「型」を外した、ありのままの人間を提示する。

写真の中のギャングやサーカス団、サドゥーたち。
そしてファインダーのこちら側にいるはずの名越啓介と近田拓郎から、つまりバガボンド(放浪者)たちから、「お前はどうなんだ?」「お前はどう生きているんだ?」と問いかけられているような気配を感じる。

名越啓介が切り取ったインド。
近田拓郎の感じたインド。
そして私のインド。
「私はじつはあなたなのだ」
という問いかけが乱反射する。 
 
『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』から感じた感覚の正体をつかもうとして、よく分からないことばかり書いたかもしれない。
ひとつ言えるのは、クンブメーラのような伝統的で巨大な宗教行事を、歴史的文化的なものとしてではなく、純粋なエネルギーの放出として現代的な感性で受け止め、作品に転化する名越啓介の感覚は、いつも紹介している現代インドのアーティストたちとも通底しているのではないか、ということだ。

インドはやっぱり分からない。
だが、確実に、刺激的で、面白い。

(今回は文中敬称略にさせてもらいました)



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2019年08月25日

インドのお受験事情を描いた映画『ヒンディー・ミディアム』は、あなたの物語であり、私の物語でもある


今年はインド映画の公開が相次いでいるが、今回は9月6日から全国で公開される映画『ヒンディー・ミディアム』を紹介したい。
主演は『アメージング・スパイダーマン』などのハリウッド映画でも活躍するイルファン・カーン(Irrfan Khan)、主人公の妻役にパキスタンのトップ女優でインド映画初出演のサバー・カマル(Saba Qamal)、監督はサケート・チョードリー(Saket Chaudhary)。

『ヒンディー・ミディアム』と言われても、どんな意味だかピンと来ない人も多いと思うが、ここで言う「ミディアム」は、肉の焼き方ではなく、「伝達手段」という意味。
「ヒンディー語を伝達の手段とする」という映画のタイトルは、デリーなど北インドの公用語である「ヒンディー語で教育を行う学校」を表している。
ヒンディー・ミディアムの対義語にあたる言葉は「イングリッシュ・ミディアム」。
「英語を教える学校」ではなく、「英語で教える学校」ということだ。
ほぼ全ての高等教育が英語で行われるインドでは、良い大学に進んで、高収入な仕事(いわゆるグローバル企業など)に就くには、小学校から英語で授業を行う「イングリッシュ・ミディアム」の学校に通うことが非常に大事なのである。

各地域のローカル言語(物語の舞台となったデリーではヒンディー語)で教育が行われる公立学校は、イングリッシュ・ミディアムの学校に比べると総じてレベルが低く、英語での高等教育に適応するにも言語の面でかなり不利になってしまう。
(そう考えると、大学院まで母国語で学ぶことができる日本は、かなり恵まれているとも言えるし、また英語中心のグローバリゼーションが進む今日の状況からすると、特殊だとも言えるだろう)
 
この物語は、ごく簡単に言うと、ヒンディー・ミディアムの教育しか受けていない夫婦が、なんとかして娘をイングリッシュ・ミディアムの名門小学校に通わせようとするコメディ映画なのだ。


あらすじと見どころ

物語の主人公は、デリーで衣料品店を営む夫婦、ラージとミータ。
ラージは、持ち前のセンスと接客技術で、一代でオールドデリーの老舗テーラーを大型店舗にまで成長させた敏腕経営者だ。
教育熱心なミータは、娘のピアをなんとかしてイングリッシュ・ミディアムの名門学校に入れたいと思っている。
「インドでは英語は階級そのもの」
裕福な暮らしをしているものの、自分もラージも誇れるような学歴を持っておらず、英語が苦手であることに、彼女は劣等感を持っていた。
ミータの希望で一家は人情に厚い下町を離れ、志望する小学校の学区にあたる富裕層が暮らすエリアに引越すが、下町育ちのラージ一家は、個人主義で冷たく、外見や話す言語を気にする土地になかなかなじめない。
二人は宗教の見境なく神頼みに励み、ピアをお受験のための塾に通わせるが、なかなか志望校の合格は得られない。
ミータはとうとう、自分たちの身分を偽り、定員の25%に割り当てられた低所得者層のための特別枠を狙って、貧しい人々が暮らす地域に引っ越すことを決意する。
だが、志望校の校長は潔癖で、賄賂や不正は絶対に許さない堅物だ。
彼らは、自分たちが本当に貧しいエリアに暮らす住民だと信じてもらえるよう、必死にふるまうことを迫られる…。


映画の見どころは、下町育ちの成金夫婦が、娘の教育のために慣れない上流階級暮らしや貧乏生活に挑戦する、可笑しくも涙ぐましい奮闘っぷりだ。
こう書くと、まるでこの映画が、インド固有の社会事情に根ざした別世界の物語のように感じるかもしれないが、じつはこれが日本に暮らす我々の心にも、がんがん刺さってくるのである。

この映画のテーマはもちろん「教育」だが、本当の主題は、「本当に良い生き方とは何なのか」という、普遍的かつ根源的な問いかけだ。
この映画のクライマックスは、志望校への合格/不合格ではなく、じつはその後にある。
富裕層を中心とした一部の人しか通うことができないイングリッシュ・ミディアム・スクールに、あらゆる手段を尽くして(不正な手段を使ってまで)入学することが、本当に立派なことなのか?
自分の家族のみの豊かさや社会的評価を得るためだけに生きることが本当に良いことのか?
この作品のメッセージは、子どもがいる人には「自分の子どもを育てるべきか」という問いかけとして、子どもがいない人には、「自分はどのように生きるべきなのか」という問いかけとして突き刺さる。
とはいえ、これは小難しい作品ではなくインドの大衆映画。
社会派映画であると同時に徹底したエンターテインメント作品でもあるから、難しいことは考えずに、ストーリーに没頭して楽しむことができるのも魅力だ。


インドの教育事情

この映画でが全てにおいてリアルかというと、そんなことはなく、インドの娯楽映画にありがちな、大衆礼賛的な、理想化された部分も大きい。
映画のなかのヒンディー・ミディアム・スクールは、貧しくとも貧しいなりに教育熱心だが、実際はローカル言語の公立校では、待遇の悪さから教師のモチベーションが極めて低く、教師の質も悪い。
授業が極めていい加減だったり、受験対策の放課後の補習のために追加料金(要は教員の小遣い稼ぎ)を要求されたりすることも多いという。 
少しでも良い教育を受けさせたいという親の気持ちにつけこんだ、未認可の教育機関も多く、現実はもっとややこしくて複雑だ。
(インドのこうした未認可教育事情に関しては、『インドの無認可学校研究ー公教育を支える「影の制度」ー』(東信堂)などの著者のある小原優貴さんの研究に詳しい) 


インドの格差と教育

この映画では、2009年に施行されたRTE法(Right To Edication Act)に基づいて、私立学校の入学定員の25%に割り当てられた貧困層のための入学枠が重要なトピックとなっているが、こうした制度や、被差別階級である指定カースト・指定部族への入学優遇枠をもってしても、インドの格差は、なお解決には程遠い。(制度自体が悪用されたり、政治利用されたりすることも少なくない)

この映画に描かれているように、英語能力や教育程度による階級意識も根強く、中島岳志さんの『インド人のことはインド人に聞け!』(講談社、2009年)によると、地元言語で教育を受けた学生が、大学での英語の講義について行けずに自殺する例すらあるという。
この本で紹介されている現地報道では、インドのコラムニストは、英語のことを、端的に「下層・中流階級にとっては憧れの言語であり、上流階級にとっては流行りの言語である」と述べている。
英語が海外での仕事や、航空会社、ホテル、マスコミ、金融、ショッピングモールなどの高給で見栄えの良いキャリアに結びついているからだ。
(ただし、それはネイティブ・スピーカーが話す英語'English'ではなく、「インド英語」'Inglish'であることが多く、悪質な英語教育機関が乱立していることにも触れている)
インドの大ベストセラー作家Chetan Bhagatの"A Half Girlfriend"も、英語が苦手な学生がスポーツ推薦で名門大学に入学するという設定の、教育格差をテーマにした内容だった(映画化もされている)。

実際、英語ができる・できないという格差は、ビジネスや就職だけではなく、あらゆる場面で情報や機会の格差となりうる。
例えば、私が普段ブログに書いている音楽の情報は、ほぼすべて英語で書かれたウェブサイトや媒体で得ている。
ヒンディー語などの地域言語で楽曲を発表しているアーティストも、情報発信は基本的にすべて英語で行なっているのだ。
もし私が現地言語しかできないインド人だったら、そもそもロックやヒップホップの情報を得ることすら難しいだろう。
それがどんなものか正確に把握することすら難しいかもしれない。
私が知る限り、ローカル言語を中心に情報発信をしているのは、タミルのヒップホップグループCasteless Collectiveと、ケーララ州のブラックメタルバンドWilluwandiだけだ。
彼らはいずれも、カースト制度の外に位置付けられた被差別民の尊厳のための音楽を演奏しているアーティストであり、地域言語での情報発信は、英語にアクセスできない人々に情報を伝えるためだろう。

インドのいわゆる上流階級には、結構な割合で、「家でも英語で話している」という人たちがおり、彼らに会うたびに、「家庭内で、母語ではなく、英語を使って話すっていうのは、どんな感じがするものなのだろう」と思っていたのだが、この映画を見て、少しその感覚がつかめた気がした。


何やら話しが大幅に逸れた上に、あんまりタイトルと関係ない内容になってしまったような気がしないでもないが、『ヒンディー・ミディアム』、たいへん面白くて考えさせられる、非常にオススメの映画です。
かといって涙腺に電極を刺されたように号泣したり、ものすごく悩まされたりするほどに胃もたれする映画ではなく、爽やかな娯楽としてもとても良くできています。
公開は9月3日から!

(今回は「インドのことを知らなくても楽しめる!」とか言いながら、映画に関連するインド事情をひたすら語りまくるという、インド好きにありがちなことをやってしまった…。この病気治らないなー)

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2019年05月24日

混ぜたがるインド人、分けたがる日本人  古典音楽とポピュラーミュージックの話

『喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの[日本体験記]』という本がある(文春文庫)。
M.K.シャルマなる人物が書いた本を、インドに関する著書で有名な山田和氏が翻訳したものだ。
山田氏は、デリーの小さな書店で「日本の思い出」と題されたヒンディー語の私家版と思しき本を見つけて購入し、その後、奇遇にもその本の著者のシャルマ氏と知り合うこととなった。(曰く「9億5000万分の1の偶然」)。
この奇縁から、山田氏がシャルマ氏にヒンディー語から英語への翻訳を依頼し、それを山田氏がさらに日本語に訳して出版されたのが、この本というわけだ。

日本人のインド体験記は数多く出版されているが、インド人による日本体験記は珍しい。
シャルマ氏は、90年代初期の日本に滞在した経験をもとに、持ち前の好奇心と分析力を活かして、日印の文化の相違や、虚飾に走りがちな日本人の姿を、ときにユーモラスに、ときに鋭く指摘している。
全体を通して面白いエピソードには事欠かない本書だが、とくに印象に残っているのは、シャルマ氏が日本人の同僚とインド料理店を訪れた時の顛末だ。

私は料理同士をミックスさせ、捏ねると美味しくなると、何度もアドヴァイスをしたのだが、誰も実行しようとしなかった。混ぜると何を食べているのかわからなくなる、美味そうでない、生理的に受けつけない、というのが彼らの返事だった。
その態度があまりにも頑ななので、私は彼らが「生(き)(本来のままで混じり気のないこと)」と呼んで重視する純粋性、単一性への信仰、つまり「混ぜることを良しとしない価値観」がそこに介在していることに気づいたのである。
インドでは、スパイスの使い方がそうであるように、混ぜることを愛する。

(同書「インド人は混ぜ、日本人は並べる」の章より)

その後、シャルマ氏は「日本食も混ぜた方が美味しくなると思うか」という質問に「そう思う」と本音で答えた結果、「それは犬猫の食べ物」と言われてしまったという。
インド人は様々な要素を混ぜ合わせることを豊穣の象徴として良しとし、日本人はそれぞれの要素の純粋性を尊重するという、食を通した比較文化論である。

なぜ唐突にこんな話をしたかというと、インドの音楽シーンにも、私はこれと全く同じような印象を受けているからだ。
彼ら(インド人)は、とにかくよく混ぜる。
何を混ぜるのか?
それは、彼らの豊かな文化的遺産である古典音楽と、欧米のポピュラーミュージックを混ぜるということである。
それも、奇を衒ったり、ウケを狙っているふうでもなく、まるで「俺たちにとっては普通のことだし、こうしたほうが俺たちらしくてかっこいいだろ」と言うがごとく、インドのミュージシャン達は、ごく自然に、時間も場所も超越して音楽を混ぜてしまうのだ。
日本では「フュージョン」と言うと、ジャズとロックとイージーリスニングの中間のような音楽を指すことが多いが、インドで「フュージョン」と言った場合、それはおもに伝統音楽と現代音楽の融合を意味する。

その一例が、前回紹介した「シタールメタル」だ。
古典音楽一家に生まれ育ったRishabh Seenは、シタールとプログレッシブ・メタルの融合に本気で取り組んでいる。

ヒップホップの世界でも、Bandish ProjektやRaja Kumariが古典音楽のリズムをラップに導入したり、Brodha Vがヒンドゥーの讃歌を取り入れたり、そして多くのラッパーがトラックに伝統音楽をサンプリングしたりと、様々なフュージョンが試みられている。


Bandish ProjektもRaja Kumariも、インド伝統の口で取るリズム(北インドではBol, 南インドではKonnakolという)からラップに展開してゆく楽曲の後半が聴きどころだ。

Eminemっぽいフロウを聴かせるBrodha Vの"Aatma Raama"はサビでラーマ神を讃える歌へとつながってゆく。

 Divineのトラックは、実際はテレビ番組のテーマ曲の一部だそうだが、伝統音楽っぽい笛の音色をBeastie Boysの"Sure Shot"みたいな雰囲気で使っている!
Divineはムンバイを、Big Dealはオディシャ州をそれぞれレペゼンするという内容の曲。トラックもテーマに合わせてルーツ色が強いものを選んでいるのだろうか。

伝統音楽との融合はヒップホップだけの話ではない。
Anand Bhaskar CollectiveやPaksheeといったロックバンドは、ヒンドゥスターニーやカルナーティックの古典声楽を、あたり前のようにロックの伴奏に乗せている。


タミルナードゥ州のプログレッシブメタルバンドAgamは、演奏もヴォーカルもカルナーティック音楽の影響を強く感じる音楽性だ。

例を挙げてゆくときりがないので、そろそろ終わりにするが、エレクトロニック・ミュージックの分野では、Nucleyaがひと昔前のボリウッド風の歌唱をトラップと融合させているし、古典音楽のミュージシャンたちも、ラテンポップスの大ヒット曲"Despacito"を伝統スタイルで見事にカバーしている。(しかも、彼らが使っている楽器のうちひとつはiPadだ!)



まったくなんという発想の自由さなんだろう。
異質なものを混ぜることに対する、驚くべき躊躇の無さだ。

翻って、我が国日本はどうかと考えると、我々日本人は、混ぜない。
最新の流行音楽に雅楽や純邦楽の要素を取り入れるなんてまずないし、ロックバンドが演歌や民謡の歌手をヴォーカリストに採用するなんてこともありそうにない(例外的なものを除いて)。
そう、日本は「分けたがる」のだ。
純邦楽は日本の伝統かもしれないけど、ロックやヒップホップとは絶対に相容れないもの。
民謡や演歌の歌い方は、今日の流行音楽に取り入れたら滑稽なもの。
素材の純粋さを活かす日本文化は、混ぜないで、分けることでそれぞれの良さを際立たせる。

いったいなぜ、日本人とインド人でこんなにも自国の伝統と西洋の流行音楽に対する接し方が違うのか。
なぜインド人は、何のためらいもなく古典音楽と最新の流行音楽を混ぜることができるのか。
その理由は、インドの地理的、歴史的な背景に求めることができるように思う。

よく言われるように、インドは非常に多くの文化や民族が混在している国で、公用語の数だけでも18言語とも22言語とも言われている(実際に話されている言語の数は、その何倍、何十倍になる)。
現在のインドは、もともとひとつの国や文化圏ではなく、異なる文化を持つたくさんの藩王国や民族、部族の集まりだった。
彼らは移動や貿易や侵略を通して、互いに影響を与えあってきた歴史を持つ。
11世紀以降本格的にインドに進入してきたイスラーム王朝もまた、インド文化に大きな影響を与えた。
かつての王侯たちは、異なる信仰の音楽家や芸術家たちをも庇護して文化の発展を支えていたし、イスラームのスーフィズムとヒンドゥーのバクティズムのように、異なる信仰のもとに共通点のある思想が生まれたこともあった。
インドの歴史は多様性のもとに育まれている。
こうした異文化どうしの交流と影響の上に成り立っているのが、インドの芸術であり、音楽なのだ。

また、スペインやポルトガルなどの貿易拠点となったり、イギリス支配下の時代を経験したことの影響も大きいだろう。
インド人は、かなり昔から南アジアの中だけでなく、東(インド)と西(ヨーロッパ) の文化もミックスしてきたのだ。
音楽においても東西文化の融合はかなり早い段階から行われていて、ヨーロッパ発祥のハルモニウム(手漕ぎオルガン)は今ではほとんど北インドやパキスタン音楽でしか使われていないし、南インドでは西洋のバイオリンがそっくりそのまま古典音楽を演奏する楽器として使われている。
 

彼らの音楽的フュージョンは、一朝一夕に成し遂げられたものではないのである。
彼らはスパイス同様、音楽的要素も混ぜることでもっと良くなるという思想を持っているに違いない。
そもそも例に上げているスパイスにしても、インド原産のものばかりではない。
例えば今ではインド料理の基本調味料のひとつとなっている唐辛子は、大航海時代にヨーロッパ人によってインドにもたらされたものだ。
古いものも、新しいものも、自国のものも、他所から来たものも、混ぜ合わせながら、より良いものを作ってきたという歴史。
その上に、今日の豊かで面白いフュージョン音楽文化が花開いている。
長く鎖国が続いた日本の歴史とは非常に対照的である。

日本の音楽シーンでは、ルーツであるはずの文化や伝統と、現代の流行との間に、深い断絶がある。
その断絶の起源が鎖国にあるのか、明治にあるのか、はたまた戦後にあるのかは分からないが、とにかく我々は長唄や民謡とヒップホップを混ぜようとしたりはしない。
というか、そもそも伝統音楽と流行音楽の両方を深く聴いているリスナー自体、ほとんどいないだろう。

日本人は、分ける。
インド人は、混ぜる。

と、ここまで書いて、ふと気がついたことがある。
スパイスや音楽については混ぜることが大好きなインド人も、なかなか混ぜたがらないものがある。
それは、彼らの「生活」そのものだ。
例えば、食。
スパイスについては混ぜることを良しとしている彼らも、食生活そのものに関しては、都市に住む一部の進歩的な人々以外、総じて保守的である。

牛を神聖視するヒンドゥーと、豚を穢れているとするムスリム、さらには人口の3割を占めるというベジタリアンなど、インドには多くの食に関するタブーがある。
それらは個人やコミュニティーのアイデンティティーと強く結びついており、気軽に変えられるものではない。
音楽に関する仕事をしていて、アメリカ留学経験も日本在住経験もあるとても都会的なインド人が、頑なにベジタリアンとしての食生活を守っている例を知っている。
その人は信仰心が強いタイプでは全くないが、生まれた頃からずっと食べていなかった肉を食べるということに、気持ち悪さのような感覚があるという。
(多様性の国インドにはいろんなタイプの人がいるので、あくまで一例。最近では逆にベジタリアン家庭に育っても、鶏肉くらいまでは好んで食べる若者もそれなりにいるようだ)
多くのインド人にとっては、小さな頃から食べ慣れた食生活を守ることが、何よりも安心できることなのだろう。

また、結婚についても同様に、インド人は混ぜたがらない。
ご存知のように、インドでは結婚相手を選ぶときに、自分と同等のコミュニティー(宗教、カースト、職業、経済や教育のレベルなど)から相手を選ぶことが多い。
保守的な地方では、カーストの低い相手との結婚を望む我が子を殺害する「名誉殺人」すら起こっている。(家族の血統が穢れることから名誉を守るという理屈だ)
 
一方、日本人は食のタブーのない人がほとんどだし、海外の珍しくて美味しい料理があると聞けば喜んで飛びつき、さらには日本風にアレンジしたりもする。
食に関して言えば、日本人は混ぜまくっている。
結婚に関しても、仮に「身分違いの恋」みたいなことになっても、せいぜい親や親族の強硬な反対に合うことがあるくらいで、殺されたりすることはまずない。
日々の暮らしに関わる部分では、日本人のほうが混ざることに対する躊躇が少なく、インド人のほうが分けたがっているというわけだ。
国や民族ごとに、人々が何を混ぜたがり、何を分けたがっているのかを考えると、いろいろなことが分かってくるような気もするが、話が大きくなり過ぎたのでこのへんでやめておく。


最後に、冒頭で紹介した山田和氏の「喪失の国、ニッポン〜」をもう一度紹介して終わりにする。
この本は、これまで読んだインド本の中で、確実にトップスリーには入る面白さで、唯一欠点があるとすれば、なんとも景気の悪いタイトルくらいだ。 
主人公のシャルマ氏は、花見の宴席を見て古代アラブの宴を思い起こし、「やっさん」というあだ名の同僚からペルシアの王ハッサンを想像してしまうぶっ飛びっぷりだし、後半では淡い恋のエピソードも楽しめる。 
実は、この本の内容は全て山田氏の創作なのではないかという疑惑もあるようなのだが(正直、私もちょっとそんな気がしている)、もしそうだとしても、それはそれで十分に面白い奇書なので、ご興味のある方はぜひご一読を!



インドのフュージョン音楽については、過去に何度か詳しく書いているので、興味がある方はこちらのリンクから!
混ぜるな危険!(ヘヴィーメタルとインド古典音楽を) インドで生まれた新ジャンル、シタール・メタルとは一体何なのか

「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」

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goshimasayama18 at 21:49|PermalinkComments(0)

2019年03月07日

バジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(後半)

(一応前回の続き。前回を読まなくてもとくに問題はないです)

一連のインドによるパキスタン領内への攻撃に対して、ソーシャル・メディア上で支持や祝意を表明している著名人も多い。
例えば、前回紹介した「バジュランギおじさんと小さな迷子(Bajrangi Bhaijaan)」の主演俳優サルマン・カーン(Salman Khan)もその一人だ。

南アジアを遠く離れた日本でこうした知らせを聞く限り、核保有国同士の戦争の一歩手前である武力行使への礼賛は、どうしても受け入れがたく感じてしまう。
しかしながら同時に自分の国が度重なるテロに脅かされた経験などない我々に、彼らを批判する資格などないのではないかとも考えさせられる。
自国民を守るべき軍隊が、自国の脅威となるテロの根絶を図るのは当然とも言えるからだ。

では、対国家ではなく対テロならば他国領土への武力行使も容認すべきなのか。
そもそも今回の攻撃対象がテロの拠点だという証拠は本当にあるのか。
もしそうだとしても、多くの人々が、平和を愛する気持ちではなく、報復的な感情や敵意や愛国心にもとづいて歓喜の声を上げている状況を、どう解釈したらいいのだろうか。
もやもやした気持ちはなかなか晴れそうにない。

今回のインドによるパキスタン領内への空爆は、2月14日のカシミールでの爆弾テロへの報復的措置だと言われている。
カシミール問題は非常に根が深く複雑で、歴史を振り返るにしても、どの立場を取るかによっても大きく解釈が変わってくる非常にやっかいなものだが、ごく大まかに言うとこういうことになる。

1947年のインド・パキスタン分離独立時、カシミール地方では、ムスリムが大半を占める住民をヒンドゥーの藩王(マハーラージャ)が統治する体制が取られていた。
この時点で、カシミールには、

1.インド(ヒンドゥーがマジョリティーを占める世俗国家)への帰属
2.パキスタン(イスラーム国家)への帰属
3.独立

の3つの選択肢があった。
しかし、藩王国としての意思が表明される前にパキスタンがこの地域に武力介入して来たため、藩王はインドへの帰属を決意する。
インドも軍隊を派遣し、結果的にカシミールは南部をインド、北西部をパキスタンが実効支配することとなった。
(さらに言うと、このジャンムー・カシミール地域の北東部は中国が実効支配しているのだが、ややこしくなるので、今回は割愛する)

インド領となったジャンムー・カシミール州では、インドへの帰属に反対するムスリムの住民たちによる抗議運動が始まり、それを阻止するインド政府側との抗争で多くの犠牲者が出る悲劇が繰り返された。
過激派による暗殺やテロ行為、そしてそれに対するインド政府の弾圧によって、今日まで多くの一般市民が犠牲となっている。
カシミール情勢の泥沼化は、印パ両国の対立激化や、ヒンドゥー至上主義とイスラーム原理主義の台頭と結びつき、もはやどう転んでも誰かの逆鱗に触れてしまうという、大変な状況になってしまった。

こうした複雑かつデリケートなカシミールの歴史を、分かりやすく読むことができる小説が、インドのジャーナリスト、ヴィクラム・A・チャンドラ(Vikram A. Chandra)の「カシミールから来た暗殺者」(現代:"The Srinagar Conspiracy")だ。
前回紹介した「バジュランギおじさんと、小さな迷子」(Bajrangi Bhaijaan)が、「宗教と国家のナショナリズムを、個人の絆と人間愛が乗り越えてゆく物語」だとすると、この「カシミールから来た暗殺者」は、「個人の絆や人間愛が、宗教と国家のナショナリズムによって分断され、蹂躙されてゆく物語」だ。

物語は1947年のカシミールから始まる。
印パ分離独立にともない国中が混乱する中、インド領カシミールに暮らすヒンドゥーのカウール家とムスリムのシャー家は、そうした情勢に関係なくお互いに結婚や孫の誕生を祝いあい、家族同然のつきあいを続けていた。
シャー家の人々は、イスラーム国家であるパキスタンに帰属することよりも、世俗国家インドでヒンドゥーの友人たちとも共存できることを喜んでいた。

カシミールをめぐる印パの抗争は続く1960年半ば、両家に相次いで男の子が生まれる。
カウール家に生まれたヴィジャイとシャー家に生まれたハビーブは、兄弟同然に育っていった。
ヴィジャイの夢は父の跡を継いで軍人になること、ハビーブの夢は高級官僚だ。
カシミールの美しい自然の中、ハビーブはカウール家にショールを売りに来る身寄りのないムスリムの少女ヤースミーンに淡い恋心を抱き、3人は友情を育みながら大きくなってゆく。
  
だが、インドとパキスタンとの対立構造の緊張の中で、ムスリムの間では、ヒンドゥーがマジョリティーを占めるインドの支配下にいることへの不満が少しずつ大きくなってゆく。
イスラーム学校に通う友人のひとりが独立運動に傾倒すると、やがてハビーブもその影響を受け、カシミールの独立を目指す組織に加盟する。

はじめのうち、それはあくまで自由と独立を目的とした運動であり、極端なイスラーム原理主義とは距離を置いていたはずだった。
だが、その運動をパキスタンのイスラーム武装組織が支援しはじめると、自由を求める闘争は過激化してゆく。
暗殺や誘拐が横行し、パキスタンで武装訓練を受けたハビーブも反対派の殺害に手を染める。 

過激化した独立運動に対するインド側の取り締まりは、情け容赦がなかった。
数多くの民族問題や独立運動を抱えるインドにとって、カシミールの独立は決して認めることができないものだからだ。
インド政府による独立運動への弾圧。過激派による体制派やヒンドゥー教徒への報復。
無関係の市民も大勢が巻き込まれ、この地上で最も美しい土地のはずだったカシミールの亀裂は、もはや修復不能なものとなってしまう。

やがて政府側の巧みな鎮圧で独立運動が下火になると、国外から来たイスラーム原理主義者が闘争を牛耳るようになる。
カシミールのための闘争は、カシミール人の手を離れ、カシミールのためのものですらなくなってしまう。

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」が理解と理想を描いたものだとしたら、「カシミールから来た暗殺者」に描かれているのは、悲しみと現実だ。
ただただ自由と平和を願っていた人々が不条理な暴力の犠牲になり、抱いていた理想はもはや夢想することもできないほどに遠ざかってゆく。

読むのが辛くなるような部分もあるが、人間ドラマやサスペンス的展開を丁寧に描いたストーリーは緊張感があって飽きさせることがなく、この小説はエンターテインメントとしても優れている。
(インド側いちジャーナリストの視点から描かれた小説であること、この小説の発表が今から20年近く前の2000年だということには留意が必要だろう。カシミールが印パ両国の間で翻弄され続けていることは今も変わらないが)
あまりにもドラマティックな展開に「ボリウッド的すぎる」という批判もあるようだが、それでもこの小説は実際の歴史にそって書かれたものだし、いつ身近な人が犠牲になるかも分からない暮らしは、カシミールの現実そのものなのだ。


そんなカシミールのリアルを、ラップで表現するアーティストがいる。
1990年にジャンムー・カシミール州の州都スリナガルで生まれたRoushan Illahiは、故郷カシミールからその名を取ったMC Kashの名義で、カシミールの現実とそこで暮らす市民の心情を綴った楽曲を発表している。

彼が最初の楽曲をリリースしたのは2010年。
この年、インド軍による民間人の殺害に対する抗議行動が鎮圧される中で、10代の少年たちを含む100名以上の犠牲者が出る惨事が起きた(インド政府はこの暴動はパキスタンの煽動によるものだと主張している)。
MC Kashもまた、この弾圧で自らの友人を失った。
この出来事に触発された彼は、あまりにも理不尽な現実に抗議し、自由を求める気持ちを綴った"I Protest"を発表する。
彼はカシミールの状況についての認識を広めるため、故郷の母語であるカシミーリー語ではなく、より多くの人々に自分の言葉を届けられるよう、英語でラップすることを選んだ。

組織的な暴力のもと、人の命がいとも簡単に奪われる現実のなかで、自由を求めて抗議する、あまりにもヘヴィーな内容のリリック。
この曲の最後に読み上げられるのは、弾圧のなかで命を落としたカシミールの市民たちの名前だ。

この楽曲をリリースしたことで、彼は過激派や分離主義者との関係を疑われ、スタジオにいたところを警察に急襲される。
彼は誰のサポートも受けておらず、自分の意思で活動していると主張したが、スリナガルのほとんどのスタジオは、厄介ごとを恐れて協力を拒否するようになってしまう。
だが、この曲は自由を求める人々のアンセムとなり、"I Protest"の言葉はインド軍の横暴に抗議する人々の合言葉として、ソーシャルメディア上で使われるようになった。
その後も彼は困難にめげず、カシミール市民の魂と日常をラップした数多くの楽曲を発表している。

この"Beneath This Sky"では真実を直視しろと訴え、体制の腐敗を批判する。

全てのシャッターが下ろされ、鉄条網が張られたスリナガルのストリートがリアルだ。
 
ポップカルチャーを扱うメディア'101India'の企画で、同郷のスーフィー・ロックバンドAlifと共演した楽曲"Like A Sufi".
祈りの音楽と自由を求めるラップが相乗効果で胸に迫ってくる。  
スーフィズムはイスラーム神秘主義と訳される、自己を滅却し神との合一を目指す思想。
「バジュランギおじさん」で、パワンたちが訪れた聖者廟で歌われていたのも、カッワーリーというスーフィズムの音楽だ。
「カシミールから来た暗殺者」にも聖者廟が出てくるが、聖者崇拝は南アジアのイスラームに独特なもので、他の地域のムスリムからは、唯一神のみを信仰すべきとする本来のイスラームにはそぐわないものとされることもある。
だが聖者廟に祀られた聖者たちは、宗教の枠を超えてヒンドゥー教徒たちにも崇拝されていることも多く、地元の人々にとってはとても大事な存在だ。
「カシミールから来た暗殺者」では、外国から来たイスラーム原理主義者たちが、聖者崇拝の伝統を軽視する様子を通して、闘争がカシミールの人々の手を離れてゆく様子が描かれている。
 
"My Brother" は生まれながらに自由を奪われる不条理を嘆き、金のために魂を売り渡す仲間たちに団結を呼びかける楽曲で、同じくAlifとのコラボレーション。
 

過酷な環境のなか、ヒップホップこそが彼の生活であり、魂であることを綴った"Everyday Hustle"

ヒップホップという音楽が、インドのなかでも他の都市とは段違いに過酷なカシミールにあってさえ希望になりうることが分かる一曲だ。

MC Kashの音楽は、ヒップホップと言ってもダンスミュージックやパーティーミュージックではないし、その内容に反してアジテーション的でもない。
静かで美しいトラックに切実な言葉を紡ぐそのスタイルは、むしろスラム(ポエトリーリーディングの一形態)に近いと言えるかもしれない。

このドキュメンタリーで、MC Kashは、幼い頃から銃口を向けられ、女性はレイプに怯えながら暮らす日常について語っている。
 
あまりにも過酷な環境のなか、彼にとってヒップホップだけが情熱を注げる対象であり、自分を解放できる故郷のような存在でもあり、そして自分が育ったスリナガルのストリートの現状を伝える手段だった。
音楽的には2pacに、思想的にはマルコムXやチェ・ゲバラに影響を受け、自分はカシミールの反逆者たちを代弁する存在だと語る彼は、カシミールの独立によって自由と平和がもたらされることを信じて待ち望んでいることを打ち明ける。

だが、彼はカリスマティックな革命家のような、特別な存在になることを目指しているのではない。
何よりも彼は、自分の音楽を通して、カシミールの人々が、この曲を平和な地で聴くリスナーたちと同じように、尊厳ある幸せな生活を望む普通の人々であることを伝えたいと語っている。
彼もまた、暴力にさらされつづける街で、ヒップホップを愛し、人並みの幸福や自由を望む、一人のごく普通な青年なのだ。


「バジュランギおじさんと、小さな迷子」のような、現実が厳しいからこその理想を描いた映画もまた素晴らしいが、一方で、「カシミールから来た暗殺者」やMC Kashが語る、厳しすぎる現実についてもきちんと目を背けずにいたい。
昨今の印パの衝突で、またしても暴力や政治によって、この美しい土地に暮らす人々に苦しみがもたらされていると思うと本当に胸が痛む。

いつの日か、人々であふれた平和なスリナガルのストリートを歩きながらラップするMC Kashの姿を見ることができるのだろうか。
その日が来ることを、心から願っている。


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2019年03月04日

バジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(前編)

(この記事の途中に、映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子』のラストシーンに関する記述があるので、ラストを知りたくない方は読まないことをおすすめします)

カシミール地方での悲しいニュースが続く。
2月14日に自爆攻撃で41人が死亡。
2月18日に銃撃戦で9人が死亡。

25日にはテロリストの拠点への攻撃として、インド空軍がパキスタン領内に空爆。
インド側は約300名を殺害と主張しているが、パキスタンは被害はごく軽微なものだったと真っ向から対立する内容を発表した。
パキスタンはインドの戦闘機を撃墜してパイロットを捕虜にしたが、対話による解決を望むとして3月1日に解放(パイロットに暴力を振るおうとしていた民間人をパキスタン軍が制止したという報道もあった)。
インドもパキスタン機を撃墜したと発表したがパキスタンはこれを否定。
両国ともに自国民へのメンツの維持と国際社会への正当性のアピールという思惑があり、事実は杳として分からない。
そもそもインド政府の「テロリストの拠点がパキスタン領内にあり、パキスタンはテロ取り締まりを怠っている」という主張をパキスタン側は否定しており、はじめから議論は噛み合っていないのだ。

インド国内ではイスラーム過激派によるテロがたびたび起きているが、インドではその背景にパキスタンがいるという見方が強く、今回の空爆は、まもなく総選挙を控えたインドのモディ首相が強硬姿勢により支持率の挽回を狙って行ったものという見方もされている。
実際にインド国内ではこの空爆を評価する(「憎きパキスタンによくぞやった!」的なものも含めて)声も強いようだ。

2015年のインド映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子』は、国家の対立や宗教の違いを乗り越えるヒューマニズムを描いて印パ両国で大ヒットとなったが、ひとたび今回のような事態になると、ナショナリズムが加速し報復感情が高まるのは毎度のこと。
今はことが大きくならないことを願うのみだ。 


ご存知の方も多いと思うが、『バジュランギおじさんと小さな迷子(原題:Bajrangi Bhaijaan)』は、迷子になり国境を越えてデリーにたどり着いたパキスタンの女の子シャーヒダ(彼女は口がきけない)を、敬虔なヒンドゥー教徒のパワン(別名バジュランギ)が両親のもとに送り届ける道中の試練と奇跡を描いた映画だ。

インドは世俗主義を掲げるもののヒンドゥー教徒がマジョリティーであり、一方のパキスタンはイスラーム国家。
さらには解決の糸口の見えないカシミールの領土問題もある。
今回の空爆からも分かる通り、インドとパキスタンは核兵器を向け合う敵国同士であり、両国の国民感情はもともと険悪だ。
国家対立、宗教対立にもとづく偏見や誤解を正直者のパワンがどう乗り越えてゆくのか、というのがこの映画の見所というわけである。

映画を見て、国家や宗教という重いテーマをほのぼのとした娯楽作品に仕上げたカビール・カーン監督の手腕とバランス感覚に舌を巻いた。
南アジアから離れた感想を言わせてもらうなら、隣国との関係で憎しみが高まりつつある今の日本でこそ、もっと見られるべき映画だと感じた。
(そもそも日本だったらこんなリスキーなテーマの娯楽映画は制作することも難しいだろう。商業主義と批判されがちなボリウッドだが、こうしたインド映画人の気骨にはただただリスペクトしかない)

この映画にまつわる文化的、宗教的、神話的背景についてはすでに多くの方が的確な解説をしてくれているので、今回はこの映画のなかでも扱われている「ヒンドゥー・ナショナリズム」について書いてみる。

「ヒンドゥー・ナショナリズム」を非常に簡単に言うと、「インドはヒンドゥーの土地である」という思想と言い換えられる。
そのため、ヒンドゥー・ナショナリズムでは外来の宗教であるイスラームやキリスト教を自国文化を破壊するものとして敵視する傾向がある。
実際に、ヒンドゥー教徒にとって聖なる存在である牛を屠畜したムスリムを襲撃したり、クリスマスやバレンタインデーのようなキリスト教の習慣への反対運動を起こしたり、暴動に乗じてモスクを破壊したり他宗教の信者を虐殺したりするような問題が起きている。
大きすぎる大国インドでは、ナショナリズムにおいてすら国民がひとつにまとまることは難しい。

映画の中でヒンドゥー・ナショナリズムが明確に描かれている場面のひとつが、パワンの少年時代の回想シーンにある。
「父はRSSに所属していた」というシーンがあるが、RSSは正式名称をRashtriya Swayamsenak Sanghと称し、日本語では「民族義勇団」と訳されるヒンドゥー至上主義団体のこと。
イギリス統治下の時代にヒンドゥー精神の発揚を目的として結成されたこの団体は、やがてイスラーム排斥的な傾向を帯び、ヒンドゥーとイスラームの融和を目指したマハートマー・ガーンディーを暗殺するに至る。
一度は活動が非合法化されたRSSだが、その後すぐにそれが撤回されるとヒンドゥー強硬派の支持を集め勢力を拡大してゆく。
今日でもモディ首相が所属する政権与党BJP(Bharatiya Janata Party「インド人民党」と訳される)をはじめとする多くの団体を傘下に持ち、インド全土に強い影響力を維持している。

回想シーンの中で、少年時代のパワンがボーイスカウトのような制服に身を包み、体操のようなことをしているシーンが出てくるが(「やってみたけどうまくいかなかった」とか言っているシーンだ)、これはRSSが朝夕に行なっている「シャーカー(Shakha)」と呼ばれる運動だ。
掛け声に合わせていっせいに動く運動によって子どもたちを含めた構成員の統一感を作り上げるとともに、講話などを通してヒンドゥー至上主義の思想を説くための活動として、インド各地の公園で行われている。
つまり、主人公パワンは、単に「敬虔なヒンドゥー教徒」というだけではなく、ヒンドゥー至上主義的な家庭に生まれ育ったという設定なのだ。

数あるヒンドゥー至上主義団体の中で、ときに暴力行為も起こす反イスラーム色の強い団体に、世界ヒンドゥー協会(VHP)傘下のバジュラング・ダル(Bhajrang Dal)がある。
この「バジュラング」は映画の主人公パワンの別名「バジュランギ」と同じくヒンドゥー教の神ハヌマーンを指しており、バジュラング・ダルは「ハヌマーンの軍隊」を意味している。
猿の神ハヌマーンは、「ラーマーヤナ」の主人公である英雄ラーマ(ヴィシュヌ神の化身のひとつ)への忠誠を尽くす戦士であったことから、ラーマ神への帰依と忠誠を象徴するようになり、転じてヒンドゥー至上主義では外敵(イスラームを指すことが多い)と戦う戦士としてのイメージが与えられるようになった。
1992年にラーマ神の生誕地と言われるウッタル・プラデーシュ州アヨーディヤーでモスクを破壊し(いわゆるアヨーディヤー事件)、今日の宗教間対立の大きな火種を作ったのも、このバジュラング・ダルのメンバーが中心だったとされる。
「バジュランギ」という名前は、敬虔な信仰と表裏一体の排他性・攻撃性を孕んでいるのである。

次にヒンドゥー・ナショナリズムが描かれるのは、パワンがシャーヒダを連れてパキスタン大使館に行くシーンだ。
反パキスタンのデモを行っていたヒンドゥー至上主義者たちが暴徒化し、大使館を襲い始める。
ヒンドゥー至上主義の家庭で育ったパワンが、その暴力性に直面する場面だ。
暴力的なナショナリズムに対して、理屈や主張をふりかざすのではなく、あくまで純真さで対峙しているというのが、この映画の非常に上手いところだと思う。
議論ではなく、万人の感情に訴える方法を用いて描くことで、巧みに批判をかわすことに成功している。

この映画は、インド国内でも大きなうねりとなっているヒンドゥー至上主義に対して疑問を呈し、自重を呼びかけるという、一歩間違えると強い反発を招きかねないテーマを扱っているわけだが、さらに絶妙のバランス感覚だなあと思ったのがラストシーンだ。

パキスタンから国境を超えてインドに戻るパワンを囲む両国の大観衆の前で、奇跡が起きて声が出せるようになったシャーヒダがパワンに向かって叫ぶ言葉は、
「Jai Shri Ram!(ジャイ・シュリー・ラーム=ラーマ神万歳)」
ヒンドゥー教徒の間ではあいさつのように使われる言葉ではあるが、パキスタンのムスリムが口にするものとしてはありえない言葉。
それに対してパワンは「アーダーブ」という手のひらを顔に向けるイスラームの挨拶を返す。
「個人間の結びつきは国家や宗教の対立を超える」というテーマを表現した美しいシーンだ。

両国の国民感情に無関係な日本人の立場からすると、ここでパワンに「Assalamu Alaikum!(アッサラーム・アライクム。ムスリムが使うアラビア語の挨拶だが、本来の意味は「あなたの上に平和を」)」と叫ばせれば尚良かったはずだと思う。
それを言わせずに、アーダーブだけで済ませたところがインドのマジョリティーであるヒンドゥー教徒の感情に配慮したカビール・カーン監督のバランス感覚なのだろう。
そもそも、原題の"Bajrangi Bhaijaan"のBhaijaanというのも、パキスタンのムスリムの言語ウルドゥー語で「兄弟」を意味する呼びかけの言葉(「にいちゃん」とか「兄貴」みたいなものだろう)で、ヒンドゥーの神ハヌマーンの別名であるバジュランギのあとにつくのは違和感のある言葉だ。
要するに、「インド(もしくはヒンドゥー)がパキスタン(もしくはイスラーム)を受け入れる」というより、「パキスタン(もしくはイスラーム)がインド(もしくはヒンドゥー)を受け入れる」という色合いのほうが、少しだけ濃くなっているように感じる部分があるということだ。

「バジュランギおじさん〜」はパキスタンでも人気だったというが、このあたりについてはどうだったんだろうかと気になって調べてみたところ、ネットで(英語で)調べた限りではとくに批判的な記述は見つけられず、パキスタンでも大好評だったという記事ばかりがヒットしてほっと一安心。
というか単に私がいろいろと考えすぎだっただけなのかもしれない。


ヒンドゥー・ナショナリズムに関しては、少し古い本になるが、2002年に中公新書ラクレから出版された中島岳志著『ヒンドゥー・ナショナリズム 印パ緊張の背景』がとても分かりやすい。
ナショナリズムというと排他的な意味合いばかりが強調されるが、RSSに代表されるヒンドゥー・ナショナリズム団体は、医療活動や教育活動、障害者や農村の支援なども積極的に行っているという。
RSSは、カルト宗教のような怪しげな存在ではなく、少なくともボリウッド映画の愛すべき主人公の父親が所属していても違和感がないほどに、一般的なものなのだ。

著者によると、意外なことに、RSS内部では、ヒンドゥーの旧弊とされるカーストによる差別は一切ないという。
RSSの内部では、最上位のブラーミンとカーストの枠外に置かれたアウトカースト(不可触民)が同じ場所で同じように過ごし、触れ合っている。
これはヒンドゥーの歴史や差別の苛烈さを知る人にとっては、にわかには信じられないことだろう。
ここでは同じヒンドゥー教徒としての団結が、カーストという小さなコミュニティーの利益よりも重視されることで、カースト差別というヒンドゥー社会最大の問題がいともたやすく解決されてしまっている。
彼らが単に時代遅れな伝統主義者の集まりではないということが分かるだろう。

中島氏は、実際にRSSの人々と寝食をともにして、ヒンドゥー・ナショナリズムに惹かれる若者たちのなまの姿を目の当たりにする。
あの「シャーカー」にも実際に参加し、その様子を書いているが、号令にあわせて一斉に動くシャーカーが最も上手にできたのは、他でもない中島氏だったという。
ふつうの日本の学校教育を受けてきただけの著者が、「回れ右」のような号令のもとに全体行動を行うシャーカーを、ナショナリズム団体に所属するインド人の誰よりも完璧にできたという記述には、大いに考えさせられるものがあった。

RSSのメンバーは、予想に反して人当たりがよく、外国人である著者に好奇心旺盛な、純粋な若者たちだったという。
物質主義文明が広がり、腐敗が進むインド社会の中で、倫理や規範を求めて宗教的伝統を見つめ直そうとする若者たちにとって、RSSが精神的な受け皿となっているのである。

ところが、真面目で精神性を大事にし、公式声明ではムスリムも仲間だと言う彼らは、ひとたびイスラームとの間の緊張が高まると(たとえそれが3.11同時多発テロやバーミヤンの大仏破壊のような国外のニュースであっても)、ムスリムを敵視し、デモ行進でインドからの追放を訴え、暴力すら辞さないほどの激しさを見せる。
若者たちの倫理や宗教的規範を求める気持ちが、排外的な愛国心に回収されてしまっているのだ。
ラーマーヤナのような古典が異教排斥のシンボルとして流用され、イスラームやキリスト教といった外来の宗教は、伝統を破壊する脅威として標的となる。
友好的で純粋だった若者たちは、全てのムスリムはテロリストだというような極論を、日常のフラストレーションとともに吐き出してゆく。

ヒンドゥー・ナショナリズムでは、本来は普遍的であるべき思想が、インドの土地を守るためのものへの矮小化され、宗教的善行は国家への奉仕に置き換えられてしまっている。
インドという国に魅力を感じたことがある人間にとって、ヒンドゥーの文化と信仰は多かれ少なかれ興味と敬意の対象だったはずだ。
貧しい人々の素朴な信仰心から、その歴史の背後にある深淵な哲学まで、インドを訪れた多くの人がヒンドゥーという伝統に惹きつけられてきた。
「私自身の生き方に、さまざまな形で影響を与えてきたヒンドゥーの信仰が、このような形で他者に対する暴力に繋がることが、私には悲しくてしかたがなかった」 という著者の言葉に、私を含めた多くの人々のヒンドゥー・ナショナリズムに対する気持ちが簡潔に表されている。

ヒンドゥー至上主義団体の構成員の多くが、過度な功利主義に疑問を抱く純粋な若者たちだということからも分かる通り、ナショナリズムの暴力性は純粋な信仰と地続きのものだ。
一見過激なナショナリズム団体が、多くの慈善事業を行っていることもその証拠だろう。
(一方でここ日本で昨今高まりつつあるナショナリズムにそうした人間性があるだろうかと思うと暗澹たる気持ちになるが)
本来はヒューマニズムに基づいたものであるはずの信仰心が、テロリズムへの恐怖や他者への無理解、そして政治的な意図によって、排他性や暴力性を帯びてしまっているのだ。

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』にはヒンドゥーやイスラームの「祈り」の場面がたくさん出てくるが、宗教や国籍が違っても、彼らが祈っている内容は憎しみや破滅ではなく、幸福や安心であるはずだ。
この映画では、主人公のキャラクターを「愛すべき愚か者」(パワンは嘘をつくことすらできない)とすることで、ごく自然に「頭(先入観や偏見)ではなく、心に基づいて行動すること」の大切さを伝えることに成功している。
この映画は「本来の信仰」が「宗教や国家のナショナリズム」を超克する物語であり、印パ両国だけでないあらゆる人々にとって、普遍的なメッセージを有している。

おっと、例によって今回も語りすぎてしまった。
長くなりすぎたので、続きはまた次回! 


今回ブログを書くにあたって特に参考になったWebの記事はこちら。
インドのニュースサイトKafina Online:"Of Hanuman, Pakistan and Bhaijaan: Prabhat Kumar"(2015年8月23日) 

後編はこちらからどうぞ:バジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(後編)

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goshimasayama18 at 00:04|PermalinkComments(4)