インド本

2021年05月22日

翻訳熱望! "Indian Migrants in Tokyo" インド人は日本でどう暮らしているのか?


英語の本を読むのが遅いので、紹介するのがすっかり遅くなってしまったが、Megha Wadhwa著の"Indian Migrants in Tokyo: A Study of Socio-Cultural, Religious, and Working Worlds"がめっぽう面白かった!
IndianMigrantsInTokyo
 
この本はイギリスの学術系出版社Routledgeの'Studies on Asia in the World'シリーズの一冊として刊行された、在日インド人に関する研究書である。
なんて書くと生真面目で小難しい本を想像してしまうかもしれないが、この本はとにかく読みやすくて面白い。
自分はアカデミックな立場の人間ではないので、学術的な本というと「本来は心躍る面白いテーマでも、平板かつ無味乾燥に書かなきゃいけないもの」という偏見を持っていたのだが(一般書とは違うお作法があることは存じ上げております…)、それはこの本にはまったくあてはまらない。

"Indian Migrants in Tokyo"の内容を簡単に説明すると、「日本に5年以上暮らしているインド人たちへの聞き取り調査をまとめたもの」ということになる。
だが、その内容はインタビュー記録や考察の羅列にとどまらない。
本書は、回答に協力してくれた人々や、著者本人(彼女も5年以上日本で暮らしている「当事者」の一人だ)の人生観と悲喜こもごもが込めらた、読みものとしても非常に面白いものなのだ。
ところが、洋書の研究書/専門書であるこの本はバカ高く、ハードカバーの書籍で16,510円、Kindle版でも6,510円もする(2021年5月時点)。
いくら面白いとはいえ、さすがに個人で買うのはちょっと厳しい代物である。
(幸運なことに、私はたまたま某大学の図書館で借りることができた)

率直に言って、この興味深い本を研究者だけに独占させてしまうのはもったいない。
日本語への翻訳と、もっと安価に読めるようになることを強く期待したいのだが、今回はその時の楽しみをうばわない程度に、この本の内容を紹介したい。


著者のMegha Wadhwaはデリー出身。
世界一周旅行を経験したという祖母の影響で日本に興味を持ち、日本企業での勤務を経て、上智大学のPDとして在日インド人の研究を始めた。(現在はベルリン自由大学に研究者としての籍を置いているようだ)
"Indian Migrants in Tokyo"はその7年以上におよぶ研究の集大成で、この本は、我々にとって遠いようで近く、近いようで遠い東京のインド人コミュニティを、同胞の目から覗き見るという、稀有な体験ができるものになっている。

以下、私が面白いと思った部分をいくつかのトピックとして紹介するが、これはこの本の章立てに沿っているわけではなく、独断で興味深いと感じたところをかいつまんだものだということをお断りしておく。



在日インド人は、宗教や言語や階層といったサブ・コミュニティではなく、「インド人」というアイデンティティの大きいコミュニティとしてまとまりがち!

ご存知の方も多い思うが、インドはひとつの国家でありながら、言語、民族、文化、宗教など、多様すぎるほどの多様性に溢れている。
こうした多様性は我々日本人には想像しづらいものだが、インドをひとつの国ではなく「ヨーロッパ」や「東南アジア」と同じような「地域」だと捉えると分かりやすい。
つまり、インドに28ある州が、国家と同じくらいの独自性を持ち、他と区別できる固有の文化や言語を持っているのだ。
さらに、地域や言語によって「ヨコ方向」に分けられるだけではなく、インドには、カーストや経済状況による「タテ方向」に分けられる階層も存在している。

こうした特性から、英米やドバイのようなインド系住民が多く暮らす国では、インド人たちは母国で属していた集団ごとに、別々のコミュニティを形成する傾向があるという。
(2015年の集計では、アメリカには450万人、イギリスには180万人、UAEには200万人のインド人が暮らしている)
ところが、日本で暮らすインド人は、増え続けているとはいえ35,000人程度で、そのうち東京とその近郊に暮らしているのは20,000人ほどに過ぎない。(いずれも2018年のデータ。地域的にはとくに江戸川区、江東区に多い)
こうした事情から、日本で暮らすインド人たちは、母国での地域、言語、信仰、階層といった壁を超えて、「インド人」としてひとつのコミュニティを作る傾向があるそうだ。
在日インド人たちのこんな言葉がそれを象徴している。

「私はアムリトサル(インド北西部パンジャーブ州)出身のシク教徒ですが、日本で最初にできたインド人の友達はオリッサ(インド東部)から来た女性でした。しかも私はいまだに彼女の宗教を知りません。結婚して東京に引っ越してきたとき、最優先だったのはインド人(の友達)を見つけることでした。(…中略…)夫には男友達が何人かいましたが、私は女友達を探していたんです。(…)その後、交友関係が広がって、今ではシク教徒も、そうでない人も、インド人の友達がたくさんいます」


アムリトサルとオリッサ州(現オディシャ州)はまったく別の言語や文化を持つ地域で、オリッサ出身の友人はおそらくシク教徒ではないはずである。
インド国内やインド人の多い都市に暮らしていたら、この二人は知り合うことすらなかったかもしれない。
また別の在日インド人はこう語る。

「ドバイに住んでいたときは、インド人がたくさんいたので、私は付き合う友だちを選ぶことができました。でも日本ではそんなに選択肢はありません。率直に言うと、(東京では)ドバイやインドにいたら絶対に付き合わなかったような友人も何人かいます。でもここでは、選んでなんかいられないんです。幸いなことに彼らのことを好きになることができましたが、最初のうちは、必要だったから付き合っただけでした。とても孤独だったので、誰もいないよりはましだったんです」

日本にいくつもある言語・地域によるインド人グループ(ベンガル人とか、タミル人とか)は、別のコミュニティ出身のインド人も歓迎して活動しているという。
はからずも、日本での暮らしが、彼らに「インド人」というより大きな帰属意識を感じさせているのだ。



インド人が日本の暮らしで困ること

インド人が日本で暮らすうえで困ることのトップ3は、「言語」「住居」「食生活」。

とくに言語に関しては、古い時代に移住してきた人ほど苦労が大きかったようだ。
彼らのほとんどが流暢な英語を話すが、日本人には英語すら通じないことが多かったからだ。
今では日常生活での言葉の問題は比較的少なくなってはきたものの、こと仕事の場面では、今でも言語面で苦労することが多いという。
そりゃそうだ。
ビジネスで使う日本語は、日本人でも難しい。
言語も文化も全く違うインド人が、話し言葉とは全く違う「平素は格別のご高配を賜り〜」なんて文章を読んだり書いたりするのは苦痛以外の何ものでもないだろう。
(というか、この手のビジネス文はほとんどの日本人にとっても苦痛でしかないと思う)
そのため、海外でのキャリアを追求するインド人の多くは、せっかく日本に好印象を持っていても、日本に見切りをつけて、英語が通じる欧米やシンガポールなどに渡ってしまうという。
(ちなみに日本特有の職場カルチャーについては、合う人も合わない人もいるようだ)
今では世界中に広く知られている通り、インドはITなどの分野で多くの優秀な人材を輩出している国である。
彼らが日本に定着しないということは、日本がそのまま世界市場から遅れをとってゆくことを意味する。
こうした理由で日本を離れる才能ある外国人はきっとインド人以外にも多いはずだ。
日本人としてなんとも耳が痛い話である。


「住居探し」については想像の通り。
ここでも日本の排外主義的な側面(もう少しマイルドに言うなら、外国人を苦手に感じる側面)が彼らの壁となっていて、読んでいてなんだか申し訳ない気持ちを覚える。

興味深いのは(と言っては申し訳ないが)、食に関する問題だ。
インドにはベジタリアンが多く、またノンベジタリアンであっても、日本で一般的な牛肉や豚肉を食べる習慣はほとんどない。
魚を食べることも沿岸部など一部の地域を除いては一般的ではないし、味付けも、出汁や醤油がベースの日本と、マサラの国インドでは全く異なる。
インド人が日本で食べ物に苦労していることは想像にかたくないが、その解決方法はなんともユニークだ。
ベジタリアンの間では、食べられるものが見つからないときに、マクドナルドでパティ抜きのハンバーガーとポテトフライを頼んで、バンズにポテトフライを挟んで食べるというライフハックが浸透しているという。
それが美味しいかどうかは別にして、彼らのたくましさと工夫(いわゆるジュガール〔Jugaad〕の精神)には、いつもながら驚かされる。



インドと日本と男と女

インド人から見た日本の男性像・女性像は、奇妙に映ることもあるようだ。
かつて大阪のインド総領事を務めていたVikas Swarup(ヴィカス・スワループ。映画『スラムドッグ・ミリオネア』の原作の著者としても知られる)の"Accidental Apprentice"には、日本人である登場人物の亡き妻が夫に対して非常に献身的だったという記述が出てくるし、現代インドのベストセラー作家Chetan Bhagat(『きっと、うまくいく〔3 Idiots〕』や"2 States"といったボリウッド映画の原作者でもある)の小説には、日本企業の男性が女性社員を使用人のように扱う場面が出てくる。
インドも保守的な伝統の残る国だが、高い教育を受けてきたインド人にとっては、日本こそ今なお男性上位の保守的な文化の国という印象があるのかもしれない。(これは、この本には関係のない話)

"Indian Migrants in Japan"によると、インド人から見た日本人男性の印象は「会話が長く続かない」「ハードワーキング」「家族より仕事を優先」といったものだそうで、日本人女性には「いつも笑顔」「たくさん食べるのにスリム」「見た目にすごく気を遣ってる(目は私の方が大きいけど)」と感じているようだ。
日本人女性に対しては、インドの女性から「『カワイイ』に囚われることをやめて、もっとリーダーシップを発揮すべき」という指摘もあったが、男性からは「インドの女性より話しやすいし、お酒も一緒に飲めて良い」(インドでは大っぴらに飲酒する女性はまだまだ少ない)なんていう意見も。
ちなみにインド人女性から見ると、「職場ではインド人女性のほうが強いけど、家庭では日本人女性のほうが強い」とのこと。
これには全面的に同意!



日本に来たインド人はどう変わる?

男と女をめぐる話題は続く。
貧富の差の激しいインドでは、中流階級以上の家庭では使用人を雇うことが一般的だが、日本では家政婦は非常に高くつく。
そのため、ほとんどの家庭は夫婦だけでやりくりしなければならない。
このことは悪いことばかりではなく、「結果として、夫が家事や子育てに参加してくれるようになって良かった」という女性からの意見もある。
結婚早々に日本で暮らすことになったある主婦は、インドに帰ったら夫の家族と一緒に暮らさなければならないので、年長者に従わなければならないという恐怖感と、まわりにたくさんの人がいる環境で暮らせる期待の両方を感じているという。

様々な違いがあるとはいえ、インドの人たちにとっても、日本の社会が便利で安全であることや、時間に正確であることは、総じて高く評価されている。
日本で暮らした結果、インドに帰っても時間の正確さを求めるようになってしまう人もいるという。
面白かったのは、日本文化の影響を受けて、在日インド人社会では、インド的な部分と日本的な部分が奇妙に混ざってしまうこともあるという話。
例えば、日本で行われているインドのお祭りだと、スケジュール通りに進まないという時間にルーズな部分はインド的でありつつ、行列にきちんと並ぶところは日本的、なんてこともあるそうだ。

それにしても、この本に出てくるインド人たちの日本社会に対するコメントはいちいち面白い。
たとえば、「日本では社会性と協調性が尊重されているが、インドでは個人と一人一人の努力が重視されている」。
これには同意する人が多いだろう。
ビジネスについては、「日本人は6ヶ月で決めて1ヶ月で仕上げるが、インド人は1ヶ月で決めて、6ヶ月かけて仕上げる」だそうで、これも仕事文化の違いを見事に言い当てている。



在日インド人と信仰

インド人は総じて信仰に厚い。
また、祈りや瞑想といった精神的な活動を大切にしている人たちも多い。

著者もまた、日本での生活の中で祈りの場を求めて、まず仏教のお寺や神道の神社、キリスト教の教会を訪ねてみたという。
しかし、そこにインドの寺院のような祈りや心の平安を見出すことができず、当時中野にあったというヒンドゥー寺院を訪れることになった。
(しかしそこは彼女が思っていた「寺院」とは違って…と話はさらに続くのだが、今は割愛する)
こうした記述からは、日本に暮らすインド人たちが、精神文化を非常に大事にしていることが分かるし、寺院や教会が、宗教的な意味だけでなく、社会的、文化的な集会所としての意味も持っているという考察もとても興味深い。

彼らにとって、信仰とは、自身と神とを繋ぎ人生の指針を示すだけではなく、家族やコミュニティの絆であり、アイデンティティでもある。
とくに、異国の地で子どもを育てる人々にとっては、自身の文化を引きついてゆくためにも、信仰の伝統を守ることは大きな意味を持つのだ。

この本では、ヒンドゥー教、イスラム教、シク教、ジャイナ教、キリスト教を信仰するインド人たちが、ここ日本でどのように祈りの場を設け、信仰生活を守って来たかについて詳細に記されているが、とくに興味深いのは、やはりヒンドゥー、シク、ジャイナ教といったインドで生まれた宗教の話だ。

なかでも、ターバンを巻いた姿ゆえに、日本では良くも悪くも目立ってしまうシク教徒たちの日本社会での奮闘は印象的だ。
彼らは、ときに警察に怪しまれたりしながらも、はじめは仲間が経営するレストランを借りて祈りの場を確保し、やがて専用の寺院を設けるに至る。
しかし、日本でシク教徒が戒律を守って生きるのは大変だ。
髪の毛やヒゲを伸ばすという戒律は上司の理解が得られないし、男の子が女の子と間違われるのをいやがって、髪を切りたがることもあるという。
日本で育った子どもたちが野球やサッカーのチームに入るためにターバンを巻くのをやめたり、逆にチームをやめてターバンを巻き続けることを選ぶケースもある。
こうしたトラブルだけではなく、電気店に務めるシク教徒が、そのターバン姿ゆえに人気となって、おおいに売り上げに貢献しているという例もあるというから、在日インド人の人生もいろいろだ。

各宗教の説明も丁寧で、さまざまな宗教施設での祈りや祭礼の様子も詳しく書かれており、本書はインドの宗教入門としてもよくできている。


本当はまだまだ書きたいのだが、もうずいぶん長くなったし、この本がいつか翻訳されたときの楽しみを奪ってしまうのは本意ではないので、このあたりにしておく。

最後まで面白く読ませてもらったが、できればもっと詳しく書いてほしかった部分もなかったわけではない。
ぜいたくを言えば、在日インド人の暮らしや社会に、他の南アジア諸国(ネパール、パキスタン、バングラデシュなど)出身の人々がどのように関わっているのかも知りたかった。
北インドで広く話されているヒンディー語とパキスタンの公用語であるウルドゥー語は極めて近い言語だし、インドの西ベンガル州とバングラデシュはいずれもベンガル語を公用語としている。
ここ日本で、南アジア出身者たちの国境を超えた営みが、どの程度、どのような形で行われているのか、そのあたりも今後の研究に期待したいところだ。

それから、取り上げられている移民の人選が、ホワイトカラーに偏っているように思えたのも少々残念だった。
できれば、我々が多く接するインド料理店で働く人々などのライフヒストリーも取り上げてもらえたら、より興味深い内容になったのではないかと思う。

とはいえ、これらはこの本の充実度から考えれば、あくまで些細なこと。

もう一度くりかえすが、この"Indian Migrants in Tokyo"はとにかく面白く、興味の尽きない本だった。
小林真樹さんの『日本の中のインド亜大陸食紀行』とか、高野秀行さんの『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』、室橋裕和さんの『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』と同じように、異文化に興味のある人だったら誰でも面白く読めること間違いなし。
日本で暮らすインド人の目線から見た我々の社会の姿に、はっとさせられることも多かった。
この本が翻訳され、日本でも多くの人に読まれるようになることを、祈ってやまない。




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goshimasayama18 at 13:39|PermalinkComments(0)

2021年03月28日

300回記念!諸先輩を讃える。

このブログ『アッチャー・インディア 読んだり聴いたり考えたり』も今回でちょうど300本目の記事となる。
いつもご愛読いただいている方も、最近このブログを見つけてくれた方も、みなさんありがとうございます。

始めた頃は300回も続くとは思わなかったなあ。
当初は音楽ネタがどこまで続くか分からなかったので、どう転んでもいいように、音楽っぽい言葉を入れずに『アッチャー・インディア』っていうタイトルを付けたんだった。(「アッチャー」はヒンディー語でgoodという意味で、あいづち的に使われることも多い)


これまで3年とちょっと、タイガー・ジェット・シンや謎の占い師ヨギ・シンの話題にたびたび脱線しながらも、なんとか音楽の話題を中心にここまで続けてこれたのは、ひとえに読者みなさんと、そして何よりもつねに面白い音楽と話題を提供してくれているインドのミュージシャンたちのおかげ。
あらためて感謝とリスペクトを捧げます。

今ではイベントをやらせてもらったり、たまに雑誌や映画のパンフに書かせてもらったりもしていますが、今回は、私がインドの音楽シーンの面白さを発信するずっと前からこの世界に注目していた人たちを紹介して、彼らにも最大級のリスペクトを捧げたいと思います。


最初に紹介するのは、Indian Music Catalogというウェブサイトを2014年から主宰されていたnaokiさん。
このIndian Music Catalogこそ、日本におけるインドのインディー音楽紹介系ウェブサイトの草分けだと言える。(このサイトと私のブログ以外、ほとんど分ける草生えてないけど)

naokiさんはデリーに住んでいた経験があるとのことで、現地で実際に見たアーティストについての記事などもあり、情報は早く、センスは良く、音楽の知識は豊富で、記事の分量も長すぎず読みやすい。

私がブログを始めようと思い立った時、当然、Indian Music Catalogのことは気になっていた。
その時点で、オシャレなインド音楽に関しては、ほとんど全てnaokiさんによって紹介され尽くしていたと言っても過言ではない。
このアッチャー・インディアを書くにあたり、欧米のポピュラー音楽的なセンスの良さよりも「インドらしさ」のあるアーティストを中心に紹介したり、記事の切り口を「音楽と社会」にしたりしたのは、先行するIndian Music Catalogとの差別化を図りたかったという理由も大きかった。
ブログを始めた当初は、しゅっとしたnaokiさんの文章との違いを際立たせるために、意味もなく落語っぽい語り口で書いたりもしていた(さすがに馬鹿馬鹿しくなってすぐやめたけど)。
日本では無名なインドのアーティストを扱うにあたって、naokiさんが掘り出したネタを横取りするようなことはしたくなかったから、Indian Music Catalogで紹介されたアーティストは、アッチャー・インディアではできるだけ取り上げないようにしていたし、書くとしても違う視点で書くようにしていた。

naokiさんもたびたび記事に書いている通り、インドのインディー音楽というのは、日本人にとってかなりニッチなジャンルだ。
似たようなテーマのブログを始めるにあたり、一言挨拶しようかとも思ったのだけど、いきなりわけのわからない奴から連絡が来たら快く思われないかもしれないという不安もあって、活動が軌道に乗ってから改めて連絡しようと先延ばしにしていた。
その後、Indian Music Catalogの更新は2018年を最後に途絶えてしまい、改めてコンタクトするのも微妙な感じになってしまったので、ずっと不義理なままになってしまっている。
naokiさんがもしまだインドの音楽に興味を持たれているようだったら、ぜひご挨拶したいと思っているのだが、確認するすべもないので、サイトが更新されていないか、今でもたまにチェックしている。(naokiさんの記事も楽しみだし)


次に紹介したいのは、社会学者の栗田知宏さん。
栗田さんのことを最初に知ったのは『南アジア系社会の周辺化された人々 下からの創発的実践』という本を読んだときのこと。
栗田さんはこの本の中で「ブリティッシュ・エイジアン音楽の諸実践における『代表性』と周縁化──サブ・エスニシティの観点から」という論文を書いているのだが、これを読んでぶったまげた。
この論文のなかで、栗田さんは、UKの南アジア系音楽シーンについて、北インドのパンジャーブ人の音楽「バングラー」がコミュニティの代表性を獲得しているがゆえに、南インドやベンガル系の人々が周縁化してしまっている状況を、現地でのミュージシャンやDJへのインタビューを交えて著している。
これがめちゃくちゃ面白かった。

正直に言うと、ブログを始めた当初、映画音楽以外のインド系のポピュラー音楽に興味を持っている人なんてまずいないだろうから、多少テキトーでも明らかな間違いじゃなければ書いちゃっていいか、みたいな思い上がった気持ちも少しあった。
ところが、アーティストたちの中にどっぷり入っているホンモノの研究者がいて、しかも書いているものは学術的な文章なのに読みやすく、面白いのだ。
率直に、やばい、と感じた。
これはいいかげんなことを書くわけにはいかないな、と思ったのだ。

栗田さんとは、その後ナガランドのドキュメンタリー映画『あまねき旋律』のイベントのときに知り合うことができ、以降も何度かお会いしている。
(コロナ禍以降、なかなかお会いする機会がないのが残念だ)
栗田さんの知識や感性には常に刺激を受けていて、話すたびに、段違いの「知的な基礎体力」みたいなものを感じている。
映画『ガリーボーイ』のパンフレットで栗田さんの文章を読まれた方も多いと思うが、栗田ファンからすると、あれは一般の映画ファン向けにかなりライトに書かれたものだった(それでも十分面白かったし、商業映画だから仕方のないことなのだが)。
栗田さんの研究されてきたことを、いつかまとめて読んでみたいと気長に待っている。


最後に紹介するのは、お会いしたことがなく、そして今後もお会いすることができない方だ。
その人の名前は、野上郁哉さん。
彼は、東京外国語大学の大学院に在籍していた2008年に『国境知らずの音楽雑誌 Oar』を創刊し編集長を務めていた人物で、コアな音楽好きならこの雑誌を覚えている人もいるかもしれない。
創刊後、1年に1号のペースで『Oar』を出版していたのだが、第3号を出したのち、野上さんは交通事故に遭い、24歳の若さで亡くなってしまった。
彼が『Oar』を作っていた頃、私は転職したり二人目の子供が生まれたりして、南アジアや音楽の世界から離れていたので、リアルタイムでは彼のことを知ることができなかった。

野上さんのことは、栗田さんを介して知り合った、東京外語大学でウルドゥー語/ウルドゥー文学の教鞭をとっていた麻田豊先生から伺った。
『Oar』を初めて読んだのも、麻田先生に貸してもらってからのことだ。
第1号の特集は「未知なる音楽を求めて ーインド・ネパールを旅するー」、第2号は「恍惚と陶酔 ーパキスタン音楽の旅」、第3号は「玉樹チベット族自治州と中国アンダーグラウンド・ミュージックの旅」、そして第4号は彼の没後に発売され、追悼号となったようだ。
OAR

この『Oar』、率直に言うと、文章も構成も荒削りな部分はある。
それでも、学生でありつつ、未知の音楽を紹介しようと雑誌を創刊した彼の情熱が純化したような内容に、リスペクトしか感じようがなかった。
彼はもともとロック好きだったらしく、創刊号にはインドのロックバンドの先駆的存在であるIndian Oceanの来日公演の詳報なども掲載されている。
インドのロックやインディー音楽の隆盛がもう5年ほど早ければ、それは確実に野上さんのアンテナに引っかかっていたはずだ。

彼がお気に入りとして挙げていた南アジア音楽以外のアルバムにも、私と趣味が重なるものが多く、もし会うことができたら、きっと盛り上がっただろう。
だが、もし彼が存命でも、やはり親しく話すような機会はなかったかもしれない。
彼がこの情熱を持って南アジアの音楽を掘り進めていたら、おそらく私は発信する側ではなく、野上さんが発信する情報を享受する側にいただろうからだ。
ヒンディー/ウルドゥーやパンジャービー語の語学力をはじめ、きちんとした地域研究のベースがある野上さんの情報発信が軌道に乗っていれば、私は自らインドの音楽のブログを立ち上げようと思うこともなかったかもしれない。
『Oar』とは別に、彼のブログを冊子(というにはずいぶん立派なものだが)にしたものも読ませていただいたのだが、これにもやられてしまった。
好奇心と探究心の赴くままに、音楽を聴き、本を読み、研究し、文章を書き…という彼のバイタリティあふれる存在感が伝わってきて、なんとも表現し難い刺激を受けた。
会ったことのない故人に勝手に自分の気持ちを乗せるのも失礼だと思うので、書き方が難しいのだが、文章の向こう側にある彼の存在から、なにかこうビシッとしたものを受け取らせてもらった。
それは確実に、今の自分に影響を与えている。


もちろん、南アジアの音楽シーンに早い段階から注目していたのはこの3人だけでなく、他にもたくさんの人たちがいる。
こないだのSTRAIGHT OUTTA INDIAで共演したHirokoさんは現地で古典舞踊のカタック・ダンスを学びながら現地のラッパーやミュージシャンと交流していたし(その後の彼らとの共演は以前記事にした通り)、同イベントのマネジメントからパキスタン編の紹介まで大活躍してくれたちゃいろさんはインド/パキスタン地域の音楽への目配りがとても広くて深い(コンゴの音楽にも詳しい)。
音楽評論の分野では、『ガリーボーイ』公開時のイベントで共演させてもらったサラーム海上さんが著書『プラネット・インディア』でインドのエレクトロニック系インディーミュージック創成期を取材して書いているし、アイドルカルチャーへの造詣も深いライターの鈴木妄想さんはインドのヒップホップにかなり早い段階から注目していた。
ロックに関して言えば、秋葉原のCLUB GOODMANで開催したIndian Rock Nightで共演したマサラワーラーの鹿島さんが南インドを中心にかなりいろいろなバンドを掘っていて、レアなCDも所有している。
先日インタビューさせてもらったNoriko Shaktiさんはタブラプレイヤーでありつつ、インドのクラブミュージックシーンでも活躍しているのは、記事に書いたとおりだ。
(うっかり名前を挙げるのを忘れてしまっている人もいると思うので、あとでこっそり追記するかもしれない。それから私の知らないところにも、この分野に早い段階から興味を持っていた人はきっといるはずだ)


というわけで、今回はキリのいい300本目の記事ということで、これまでなかなか触れる機会のなかった、南アジア系インディー音楽の分野で活躍されている諸先輩について書かせてもらいました。
自分は現地に住んだ経験もアカデミックなバックグラウンドもないけれど、これからも先人たちにリスペクトの気持ちを持ちつつ、自分なりのやり方で自分のやりたいことをとことんやったろう、と思っています。


次回から通常運転に戻ります! 




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2021年02月13日

Netflix『ザ・ホワイトタイガー/The White Tiger』は21世紀インドの『罪と罰』!


※今回の記事は『ザ・ホワイトタイガー』のネタバレ的な内容を含みます。この映画は冒頭でクライマックスが暗示され、そこに至るまでの過程を楽しむタイプの作品ですが(かつ最も肝心な部分には触れないように書いたつもりですが)気になる方はここでお引き返しください。

Netflix制作の映画『ザ・ホワイトタイガー/The White Tiger』を見た。
原作は、マドラス(現チェンナイ)出身の作家兼ジャーナリストのAravind Adigaによる同名の小説。
一時期、インド系の作家が英語で書いた小説を読むことにはまっていたのだが、原作の小説はその頃に読んだ中でもとくに鮮烈な印象を受けた一冊だった。
Adigaはこのデビュー作で2008年のブッカー賞を受賞している。

ちなみに日本でも2009年に文藝春秋から『グローバリズム出づる処の殺人者より』というタイトルで邦訳が出版されている。
この奇妙な邦題は、この作品のテーマを端的に表したキャッチコピーとしてはなかなかよくできていると思うのだが、あまりにも唐突な印象だからか、あまり評判がよろしくないようだ。

原作の小説は、「主人公がベンガルール(旧称バンガロール)を訪問した当時の中国首相・温家宝に宛てて書いた書簡」という一風変わった形式になっており、映画でも、原作の印象的な文章が、主人公のモノローグとしてそのまま活かされている。
(ちなみに実際に温家宝がベンガルールを訪問したのは2005年だが、映画版では2010年という設定に変更されている)
「『世界最大の民主主義国』でありながらも機会の平等には程遠いインドの成り上がり起業家から、共産党一党体制のもと躍進を遂げた中国首相への親書」というユニークな設定によって、この作品は現代社会への皮肉と洞察にあふれたものになっている。

監督は、これまでも社会派の作品で数多くの映画賞を受賞しているイラン系アメリカ人のラミン・バーラニ(Ramin Bahrani)。
主演はこの作品で初めての大役に抜擢された26歳のアダーシュ・ゴーラヴ(Adarsh Gourav)。
主人公が奉公人として仕える夫婦役を『ストゥリー 女に呪われた町/Stree』『クイーン 旅立つわたしのハネムーン/Queen』のラージクマール・ラオ(Rajkumar Rao)と、最近はハリウッド作品での活躍も目立つプリヤンカー・チョープラ・ジョナス(Priyanka Chopra Jonas)が演じている。
インド人作家のブッカー賞受賞小説を、アメリカ資本のNetflixがイラン系の監督を起用して製作したこの映画そのものが、作品のテーマである「グローバリゼーション」を体現しているとも言えるだろう。

物語のあらすじは、田舎(原作ではビハール州ガヤー地区であることが言及される)の貧しい家庭に生まれた若者バルラム(Balram)が、中央政界ともパイプを持つ地主の息子アショク(Ashok)の愛車ミツビシ・パジェロ(原作ではホンダ・シティ)の運転手となり、最終的にはベンガルールで起業家として成功を手に入れるまでの数奇な運命を描いたもの。

こう書くとシンプルなサクセス・ストーリーのようだが、登場人物の背景がなかなか複雑で、それがこの作品に不思議なリアリティーと緊張感を与えている。
主人公のバルラムは、一世代に一頭しか現れない天才「ホワイトタイガー」と称されるほどの明晰な頭脳を持ちながらも、貧しさゆえにチャンスを手に入れることができず、富める者に仕える仕事しか選べない境遇の若者だ。
バルラムのキャラクターは「貧乏だけどまっすぐな努力家」といった単純なものではなく、自身に染みこんだ奴隷根性に葛藤し、一族の中で絶対的な発言力を持つ祖母に人生を決められてしまう不条理に抵抗するという、知性ゆえの屈折を感じさせるものだ。
バルラムが仕える地主一家の息子アショクと妻のピンキーは、アメリカ帰りの先進的な考えの持ち主で、とくにピンキーは、女性や使用人を見下すインドの階級制度に反発し、夫の家族にも物怖じせずに意見する新しいタイプのインド女性として描かれている(保守的でムスリム嫌いのヒンドゥー教徒一家の中で、彼女だけがクリスチャンだ)。

バルラムは、故郷のラクスマンガル(Laxmangarh)では階級制度の染み付いた村落社会と家族のくびきに苦しめられ、奉公先一家の暮らす地方都市ダンバード(Dhanbad)では封建的な主従関係への服従を強いられる。
理解のあるアショク夫妻と引っ越した大都会デリーで、バルラムはようやく幸福に暮らせるかに思えるのだが、そうならないところにこの物語のリアリズムがある。

先進的なアショクは、保守的な彼の家族とは違い、決して使用人を暴力的に支配するわけではなく、バルラムにも気さくに接してくれる。
だが、バルラムとアショクの間には主人と使用人という決して越えられない一線がある。
アショクはバルラムに対して「友人のように接してくれ」と言う一方で、ありあまる富を自らの一族の安寧のためにだけ使い、使用人のバルラムにはごくわずかな金額しか分け与えない。
これは、先進国の富める人々が、人道的な価値観を主張し、途上国の人々に同情を示しつつも、彼らを安い労働力として使い、自分と同等のチャンスを与えようとしないことによく似た構図である。
アショク夫妻が引っ越すデリー(原作ではグルガオン)の高層マンションの豪華な部屋と、バルラムら使用人が暮らす地下の居住スペースの強烈な格差が印象的だ。
彼らの内面に目を向ければ、搾取する側には無自覚な冷酷さがあり、搾取される側には変わらない現実へのあきらめがある。

旧弊な農村社会であるラクスマンガル、貧富や階級の差が主従関係となる地方都市社会のダンバード、そしてポストモダン的な大都市のデリーと物語の舞台が変わっても、自らの立場を決して変えることができないということに、バルラム否応なしに気づかされる。
やがて彼は、この圧倒的な格差を乗り越えるためには、自分の中の意識を変えるだけではなく、倫理すら無視せざるを得ないという結論に達してゆく。
なぜなら、彼を支配する連中は、自分の身を守るためならば、倫理を曲げることも、使用人を使い捨てることも厭わないのだから。
物語の導入部で、バルラムがじつは指名手配されていることが明かされるのだが、その原因となった彼の行動こそが、この物語のクライマックスだ。

ここから物語は、さながら21世紀のインド版『罪と罰』と言えるような展開を見せるのだが、しかしバルラムには「罪」の意識はほとんどなく、また「罰」を受けることもない。
(すっかり彼の心から離れてしまった故郷の家族が悲惨な末路を迎えたことが示唆され、それが「罰」と言えなくもないのだが、原作では、彼が自身の「行為」を全く後悔していないことが明記されている)

結局のところ、この物語で「罪」の意識を感じざるを得ないのは、構造的に富める側にいる我々なのだ。
「俺がお前らと同じようにチャンスを手に入れるにはこうするしかなかった。それをお前は裁けるのか」
という問いが、少なくとも自分にとってのこの作品の後味の大部分を占めている。
とはいえ、この作品は決して重苦しい作品ではなく、現代社会の不条理を鮮やかに描き出したある種の爽快感を放っていて、この社会性と娯楽性の絶妙なバランスは、原作同様に高く評価されるべきだろう。
バルラムは、自らが罪と罰に苦悩するのではなく、その根源を見る者自身の問題として投げかける。
インドのラスコーリニコフは、なんともしぶとい。


バルラムは最終的に、グローバリゼーションの波に乗って発展著しいベンガルールで起業し、わずか数年の間に莫大な富を築く。
映画では詳述されていないが、彼が始めた事業は、コールセンターで働く人々の通勤車両のアウトソーシングである。
「コールセンター」は'00年代のインドの小説によく見られた舞台背景だ(Chetan Bhagatの"One Night @ Call Center"〔未邦訳〕, Vikas Swarup/ヴィカス・スワループの"Six Suspects"『6人の容疑者』など)。
この頃、欧米企業の本国向け電話対応窓口として、賃金が安く英語が話せる人材が豊富なインドに多くのコールセンターが開設された。
アメリカなどの本国の時間に合わせるために深夜勤務になるのが難点だが(そのために通勤の送迎が必要になる)、欧米企業にとっては安価に電話窓口を設けることができ、インド人にとっては英語力だけでそれなりに良い収入を得ることができる。
こうした需要と供給が一致して、コールセンターはインドの一大産業となった。
だが、コールセンターの仕事は、インド人であるというアイデンティティを無くして働くことを意味する。
コールセンターで働くインド人たちは、顧客にインド人であることを悟らせず、あたかも同じ国内のサービス員だと思わせるために、アメリカ風英語の研修を受け、'Happy Thanksgiving Day'のような季節の挨拶を覚え、名前まで英語風に変えさせられて(例えばVikramならVictor、NanditaならNancyのように)働くことになる。
ときにこちらがインド人であることに気づいた相手から差別的な言葉を受けることもあるし、インドより豊かなアメリカに暮らしているはずの顧客からの、あまりにも無知で非常識なクレームの対応をさせられることもある。
欧米的な豊かさへの憧れと、インド人としてのナショナリズムが交錯する場として、コールセンターはうってつけの舞台設定なのだ。

インド随一の国際都市ベンガルールで、ようやく自由と富を手に入れたバルラムが始めた事業が、こうしたグローバルな産業構造の象徴的な存在であるコールセンターに関わるものだったというのはなかなかに興味深いと思うのだが、考えすぎだろうか。

 
さらに蛇足になるが、以前から、インドの物語を「落語っぽい」と感じていたことについても少し書いておきたい。
奉公人と主人の関係、階級社会、長屋暮らし、貧富や学問の差といった要素がドラマにもおかしさにも通じるという点で、インドの物語には落語と共通する要素がそこかしこに散見される。
この作品でも「インターネットを知っているか?」というアショクに、バルラムが知ったかぶりして「村で何匹か飼ってます。今すぐ市場で買ってきましょうか」と答えるところなどはほとんど滑稽噺の世界だし、そもそも人間の業を描いた物語全体が、「鼠穴」のような重厚な噺のようでもある。
要は、インド社会に日本の江戸時代的な要素が残っているから落語っぽさが感じられるわけだが、その観点から見ると、この作品は「落語的」なインドから、グローバルなインドへの脱却を描いた作品としても見ることができる。
ものすごくどうでもいい分析だけど。


最後に、一応音楽ブログなので、音楽についても触れておきたい。
この作品のために書かれた主題歌"Jungle Mantra"を手掛けているのは、あの『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルににもなったムンバイの叩き上げラッパーDIVINEだ。

この曲では、アメリカの人気ラッパーVince Staples(インドでもエクスペリメンタルなラッパーのTre Essが影響を受けたアーティストとして名前挙げていた)との共演が実現している。
タイトル通りマントラを思わせるコーラスが印象的な曲で、世界配信される作品だけあって「インドっぽいラップでよろしく」という発注でもあったのだろうか。
ムンバイのストリートから成り上がり、Nasのレーベルと契約するまでになったDIVINEのサクセスストーリーは、まさにこの映画にぴったりの起用だ。
今度は世界配信される作品の主題歌での世界的ラッパーとの共演が実現したわけで、DIVINEはこの楽曲で主人公バルラムと同じような成功を手にしたと言えるだろう
ちなみに最近の作品を聴く限りでは、DIVINEも単なる華やかな成功だけでなく、内面の様々な葛藤を抱えている様子が見て取れる。




"Jungle Mantra"のビートメーカーはムンバイのKaran Kanchan.
彼は日本にも存在しないJ-Trapというジャンルを勝手に作ってしまうほどのジャパニーズ・カルチャー好きで、そのユニークなサウンドに以前から注目していたのだが、最近ではDIVINEやNaezyといった旧知のムンバイ勢のみならず、Seedhe MautらデリーのAzadi Records一派、R&BシンガーのRamya Pothuri、Mass Appeal IndiaのAarvuttiらに多彩なビートを提供し、インドのトップビートメーカーの一人に成長した。
Netflixがアメリカのビートメーカーに発注することもできただろうが、彼もまた大抜擢の起用と言える。


主題歌以外に、劇中で使われている音楽もなかなか興味深い。
原作では、アショクが車の中で聴く音楽として、StingとEnyaのCDが登場する。
いかにもインテリのインド人が聴きそうな趣味ながら、ちょっと古臭いなあ思っていたら、映画版ではGorillazに変えられていた。
海外帰りの現代的なセンスのインド人の趣味として考えると、なかなかいいところを突いているように思う。
またピンキーの誕生日パーティーの帰り道、車の中でへべれけになりながら盛り上がるときにかかっているのは、Punjabi MCの"Mundian To Bach Ke"のJay-Zによるリミックスで、いかにもこういう場面で彼らが聴きそうな選曲だなあ、とまた唸らされた。
他にも、インド系カナダ人シンガーのRaghavなど、なかなかツボを押さえた音楽が効果的に使われているので、ぜひそのあたりも注目してほしい。
予告編で流れるQueenの"I Want To Break Free"は、本編では使われていないが、この作品のテーマを見事に表した楽曲ではある。


最後に蛇足の蛇足。
Wikipediaの情報によると、主演のアダーシュは小さい頃から古典音楽に親しみ、俳優としてのキャリアを本格的に始める前には、SteepskyやOak Islandというプログレッシヴメタルバンドでヴォーカリストを努めていたこともあるらしい。
Oak Island · 03 Half A Clock

一時期はバンドとともにアメリカ進出を考えるほど本格的に音楽のキャリアを追求していたそうで、今後、俳優だけでなくシンガーとして活躍する姿も見られるかもしれない。

長くなりましたが今回はこの辺で。



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goshimasayama18 at 21:29|PermalinkComments(0)

2020年08月08日

歴史的名著!『食べ歩くインド』by小林真樹

食べ歩くインド

アジアハンター代表、小林真樹さんの『食べ歩くインド』(旅行人)。
この本が間違いなく面白いだろうということは分かっていたのだが、インドの音楽シーンについて読むべき本が溜まっていたので、秋頃にいろいろ落ち着いてから買おうと思っていた。

ところが、書店でついうっかり実物を見つけてしまい、手にとって、ぱらぱらとページをめくってみたら、もう駄目だった。
自分はけっしてインドのスペシャリストではないけれど、インドに興味を持ってかれこれ20年。
いつしか、インドに関する本を読むとき、未知のことを知るというよりも、どこか「確認する」みたいになっている自分がいた。
ちょっと調子に乗っていたのかもしれない。
何なんだこの本は。
もう、全く知らないことしか書かれていない。
しかも、それがいちいち面白くて、興味(と食欲)をそそる…。

気がついたら、『北・東編』『南・西編』の二冊を持ってレジに並んでいた。
というわけで、今手元には、読み終わったばかりの2冊がある。

この2冊については、SNS上で、旅好き、南アジア好き、南アジア料理好きのみなさんが、的を射た言葉で絶賛しつつ紹介しているのをたくさん読んでいたので、料理についてはズブの素人の自分は、けっして評したりするまい、と固く心に決めていたのだが、あまりの面白さに、気がついたら、こうしてブログに書いてしまっている。
恐るべきは、私の忍耐力の無さではなく、この本の持つ魔力だ。


南インド料理をはじめとする南アジアの料理は、静かな、しかし熱狂的なブームになっていると言われて久しく、びっくりするほど詳しい人がたくさんいるが、この本ははっきりいって怪物だ。
『北』編の「ガルワール料理」「バスタル地方の部族食」、『南』編の「ラヤシラーマ料理」「オーナムのサッディヤ料理」「ウドゥピ料理」とか、まったく聞いたことのない料理が次から次へと出てくる。
パキスタン、バングラデシュ、ネパールといった周辺諸国の料理はもちろん、南アジアのなかでも独特の文化を持つ、インド北東部の「アッサム料理」「ナガ料理」「マニプリ料理」「カシ(メーガーラヤ)料理」までカバーしており、守備範囲の広さと深さでは全く類を見ない奇書だ。

内容は耳慣れない言葉の連続なのだが、はっきりいってそんなことはどうでもいいくらい、この本は面白い。
今まで誰も記していない、ローカルの文化のなかだけに生きている面白いものを追い求める小林さんの情熱がびんびん伝わってくるからだ。
「北インド/ガルワール料理」から一例を挙げると、例えばこんな文章だ。

他のインドの諸地域同様、ガルワールでも豆は最もポピュラーな食材の一つ。主な料理は、バット(黒豆)を使った汁物料理のバット・キ・カチュロニ、ローストしたウラッド豆の豆粥料理であるチェースー、ベスンのガッテー(団子)を具にしたガッテー・キ・サブジーなど。ガハットダール(ホースグラム)もガルワール全体で一般的で、特にこのガハットの豆粥ペーストと野菜を使ったファーヌー(スープ状の煮込み料理)、また冬の間に保存食料として、ペーストにしたウラッド豆を団子にして日干ししたバリーや、同様にムーング豆の乾燥団子マンゴーリーなどがある。バリーもマンゴーリーも野菜汁に入れて食べる。

(一応言っておくと、耳慣れない単語についてはきちんと説明がされているし、巻末には五十音順の用語説明も付いている)
インド料理についての知識があれば、もちろん一層楽しめるのだろうが、私みたいな素人が読んでも、この笑っちゃうくらいに知らない言葉が出てくる文章は楽しくってしょうがない。

小林さんが書く圧倒的な未知の情報のなかに、自分の持つ限られた知識や経験と重なる部分が見つかると、また格別の喜びがある。
個人的に言えば、「コルカタに中華料理が多い理由はこんなことだったのか」とか、「菓子ロシュ・ゴッラ(ラス・グッラー)の地理的帰属をめぐる西ベンガル州とオディシャ州の法廷闘争なんてものがあったのか。そういえばラッパーのBig Dealが『ラス・グッラーはオディシャ生まれだぜ』ってラップしてたな」とか、「パールシー(ゾロアスター教徒)が炭酸飲料の製造をしてた話って、ロヒントン・ミストリーの小説に出てきたな」なんていう発見に、脳内で予想外のシナプスが繋がる快感があった。

小林さんの興味の対象は、食材や調理方法にとどまらず、年月が生み出した店や客の雰囲気、その土地の歴史や文化、民族の伝統や信仰にも及ぶ。
料理の表層的な味だけではなく、その味を生み出した地層のような背景を紐解いてゆく過程は知的興奮に満ちている。
読んでいると、小林さんのなかで、狂気にも似た好奇心が、静かに、しかし激しく燃えていることが、がんがん伝わってくる。

『食べ歩くインド』を読んで、辻調理師学校を設立した辻静雄の著作を思い出した。
フランスの食と食にまつわる文化に魅せられ、その歴史から最先端までをわかりやすく、かつ詳細に書き記した彼の著書は、日本におけるフランス料理の普及に多大な役割を果たした。
自分は西洋の料理にも全く疎いが、一時期、読み物としての面白さにはまって、彼の本を夢中になって読んでいた。
『食べ歩くインド』も、数十年後には、同じように「古典」としての評価が確立しているはずだ。
今後、日本で、いや、もしかしたら世界で、インドの食や料理について書くとき、『食べ歩くインド』以前と以後に時代が明確に二分されるのではないか、という気すらしている。

なんか興奮して気持ち悪いくらいに絶賛してしまっているが、そういう本だ、これは。


最後にもうひとつだけ。
あとがきに書かれていた「誤解を恐れずにいえば、インド食べ歩きは美味しさの追求が最優先事項ではありません」という文章に、思いっきりシビれた。
(じゃあ何が最優先なのかは、ぜひご自身で読んでみてください)

私は「古典音楽でも映画音楽でもないインド音楽」という、極めてニッチなテーマでブログを書いているが、同様に誤解を恐れずに言えば、そこに音楽としての完成度の高さを追求しているわけではない(何を音楽の完成度とするかは置いておいて)。
ポピュラーミュージックとしての完成度や新しさ、社会へのインパクトを最優先事項とするならば、他に書くべき音楽はいくらでもあるだろう。
それでも、現代ポピュラー音楽の直接的ルーツである欧米から地理的・文化的な距離があるうえに、様々な民族、言語、宗教、伝統、歴史、価値観がときにモザイクのように、ときに坩堝のように合わさったインドという磁場で生み出される新しい音楽(とその背景)に、言いようのない面白さを感じているのだ。

インドという汲めども汲めども決して面白さの尽きない泉のような国で、小林さんが料理文化を追求しているように、自分も音楽カルチャーをこれからも追求していこう、という思いを新たにした次第です。


『食べ歩くインド』を読んでいて思い出したミュージックビデオを2つほど貼りつけておきます。

オディシャ(オリッサ)州プリー出身の日印ハーフのラッパーBig Dealによる、世界初のオディア語ラップ"Mu Heli Odia" .

2:20頃から「奴らにラスグッラーはオディシャのものだと教えてやれ」というリリックが。
西ベンガル州とのラスグッラー訴訟の話を読んだあとだと、この「奴ら」っていうのは、インド人全般って意味じゃなくてベンガル人のことなのかな、なんて思ったりもする。

ジョードプルのヒップホップグループJ19 Squadが同郷のラッパーJagindar RVとSumsa Supariと共演した地元讃歌"Mharo Jodhpur".

『食べ歩くインド』を読んで、この1:00から出てくる団子みたいなのが、全粒粉を丸めて火を通したラージャスターン名物ダール・バーティなるものだと分かったのはうれしかった。(その後に出てくるのは「カスタ・カチョーリー」か?)

インド人は基本的に地元愛が非常に強いので、他にもローカルな食べ物が出てくるミュージックビデオがあった気がするんだが…自分がいかに食文化を見過ごしちゃっているかを思い知らされた。

最後の最後に、『食べ歩くインド』を読んだ全員が必ず思う感想を、私にも言わせてください。
「コロナが落ち着いたら、インドに行ってこの本片手にいろんなものを食べまくりたい!」


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goshimasayama18 at 02:10|PermalinkComments(0)

2020年07月19日

よみがえる"India Psychedelic" インドの60年代ロック事情! 知られざる'Indian Summer of Love'


先日取り寄せた本、"India Psychedelic: the story of rocking generation"(Sidharth Bhatia著)がめちゃくちゃ面白い。
IndiaPsychedelic

この本は、知られざる1960年代のインドのロックシーンについて、ジャーナリストである著者が当事者たちに丁寧に取材して書かれたもの。
「60年代のインドのロック」なんていうと、自分みたいな一部のマニア向けの本だと思うかもしれないが(まあそうなんだけど)、この本は当時の若者たちの息遣いがとてもリアルに描かれていて、単純に青春群像として、ものすごく面白かった。

この時代のインドは、1947年の独立から10年以上が経ち、中国やパキスタンとの国境紛争や食糧危機、深刻な貧困などの問題を抱える一方で、都市部では独立期を知らない若い世代が新しい価値観を持ち始めていた。
世界中の若者たちと同じように、この時代に登場した新しい音楽に夢中になった者たちがいたのだ。
「新しい音楽」とは、かつての宗主国であるイギリスから世界に衝撃を与えたビートルズ、そしてそれに続いて登場したアメリカやイギリスのロックバンドたちのことだ。

60年代以前のインドに洋楽好きがいなかったわけではない。
イギリス統治時代から、都市部の上流階級は、レストランでジャズの生演奏を楽しんでいたという。
当時の演奏者の多くは、イギリス人の血を引くアングロ・インディアンと呼ばれるクリスチャンのコミュニティーの出身者や、その頃まだポルトガル領だったゴアの出身者だった。

インターネットも衛星放送もない時代(地上波のテレビ放送さえ、インドでは1965年にやっとデリーで始まった)、インドにいた数少ない洋楽好きの若者たちは、古典音楽ばかりの国営放送ではなく、海を渡って届くRadio CeylonやBBCやVoice of Americaにラジオの周波数を合わせていた。
1962年、ビートルズのデビュー曲"Love Me Do"が海を越えた電波に乗ってラジオから流れると、彼らはこの新しい時代の音楽に夢中になった。
インドでも、他のあらゆる国と同様、都市部の若者たちのなかに「自分たちもバンドを組んでロックを演奏したい!」というティーンエイジャーたちが現れはじめたのだ。

バンガロール(現ベンガルール)ではTrojansが、ボンベイ(現ムンバイ)ではJetsが、マドラス(現チェンナイ)ではHellionsが、カルカッタ(現コルカタ)ではCavaliersが産声を上げ、多くの若者たちがそれに続いた。
この時代、日本でロックバンドたちを「グループ・サウンズ」と呼んでいたように、インドでも、この新しい音楽を演奏する若者たちを呼ぶ独自の呼称があった。
「ビート・グループ」。
当時、インドでは若者たちが結成した新しい音楽グループをこの名前で呼んでいた。


彼らは、楽器も音源も満足に入手できない当時のインドで、工夫と情熱で楽器や機材を入手し(あるいは自ら作成し)、見よう見まねで音楽活動を始めた。
当時のインドはソビエト寄りの外交政策を取っており、西側諸国の物資を手に入れることは非常に難しかったのだ。
何しろ、レコードの入手すら、欧米に親戚か知人でもいない限り難しかった時代である。
「ビート・グループ」始められるのは、ごく一部の人たちだけだった。

欧米では、「労働者階級の音楽」だったロックは、インドでは「富裕層の音楽」だった。
それでも、ロックに夢中になった若者たちが、退屈な社会に飽き飽きしていて、この新しいカルチャーに希望を持っていたという点は同じだった。
ロックは、インドでも、保守的な社会に対する反抗の象徴だったのだ。
当初、ビート・グループを結成した若者の多くは、欧米文化と親和性の高いアングロ・インディアンの若者たちだったが、やがて都市部に暮らすアッパーミドルのヒンドゥーやムスリムやシク教徒のなかにも、ビート・グループを始める若者たちが現れるようになった。

レコーディングが今よりずっと難しかった時代の話である。
ほとんどのビート・グループは音源を残すことなく消滅してしまったが、彼らの中には、その後、国際的なキャリアを築いた者たちもいた。

Trojansの中心メンバーだったBidduは、バンド解散後にイギリスに渡ると、1974年に大ヒットしたディスコ・ソング"Kung-Fu Fighting"を手がけ、その後も長くダンスミュージックのプロデューサーとして活動した。(彼のことはいずれまた詳しく書いてみたい)
Biddu
Bidduが1967年にイギリスでリリースしたシングル

ムンバイ出身の女性シンガーAsha Puthliは、保守的でチャンスの少ないインドに見切りをつけ、アメリカに渡って、ジャズ/ソウルシンガーとしてOrnette Colemanらと共演。
当時のインド人女性としては非常にラディカルな生き方を貫いた彼女の音楽は、のちにJay-Zや50centにサンプリングされ、今でもカルト的な評価を得ている。
AshaPuthuli
Asha Puthliが1974年にアメリカでリリースしたアルバムジャケット

ビート・グループ出身者でもっとも成功を収めたのは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地Panchiganiのハイスクール・バンド、HecticsのメンバーだったFarrokh Bulsaraだろう。
パールシー(ペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、少年時代にインドでHecticsのメンバーとして活動したのち、家族とともにイギリスに渡った。
Farroukhは英語風に名前を改め、イギリス人たちとバンドを結成すると、その天才的なヴォーカル・パフォーマンスとソングライティングで、ロックの歴史に不朽の名を残すことになる。
みなさんご存じのクイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのことだ。
彼が在籍していたHecticsも、数枚の写真を残すのみで、音源は残されていない。
Hectics
ピアノに向かっているのが、若き日のフレディ・マーキュリーことFarroukh Bulsara

話を60年代のインドに戻そう。
インド各地の大都市には、文化や流行の中心となる繁華街がある。
ボンベイならチャーチゲート地区、カルカッタならパーク・ストリート、バンガロールならばブリゲイド・ロードがビート・グループたちの活動の場だった。

当時、人気レストランは、バンドの生演奏を売りにしており、ホテルのバンケットホールでも、生演奏の夕べが催されていた。
かつてはムーディーなジャズが流れていた場所にビート・グループが出演するようになると、レストランやホテルに若者たちが詰めかけるようになった。
ビート・グループたちが演奏する洋楽のヒット曲のカバーに、流行に敏感な若者たちはすぐに夢中になったのだ。

この頃のアーティストの音源や動画は非常に少ないのだが、いくつか紹介できるものを貼り付けたい。
アングロ・インディアンのジャズ・シンガー、Pam Crainは、1956年にパーク・ストリートにオープンしたClub MocamboやBlue Fox Restaurantといった伝説的なヴェニューに出演し、ビート・グループ前夜のカルカッタで「パーク・ストリートの女王」と呼ばれていた。
この音源は、やはりカルカッタを拠点に活動していたサックス奏者Braz Gonsalvezとの共演した1970年のもの。


"The King of Rock'n'Roll of India"、「ボンベイのエルヴィス」ことIqbal Singhは、ビート・グループの少し前の時代に活躍した歌手で、これは映画"Ek Phool Char Kante"の一幕。

ターバンにスーツでツイストしまくる姿に強烈な違和感を感じるが、目を閉じて聴くと、彼のヴォーカルはとてもうまくエルヴィスの特徴をとらえている。
当時のレストランの雰囲気がよく分かる映像だ。

インドで最初のオリジナル・ロックソングとされるカルカッタのThe Cavalliersの"Love is a Mango"は、シタールを導入したインドらしいサウンド。

インドのロックバンドが、その最初期から古典音楽とのフュージョンを行っていたことが分かる貴重な一曲だ。
カルカッタは、イギリス支配時代の首都だったことから、アングロ・インディアンが多く暮らしており、当時のインドで西洋文化の受け入れが最も進んでいた街でもあった。

マドラス(現チェンナイ)のThe Mustangsは、ベンチャーズ・スタイルのギターインストゥルメンタルだ。

今以上に保守的で、カルナーティック音楽一色だったマドラスにも、ロックに夢中となった大学生たちがいたのだ。

ボンベイのThe Sasvagesが1968年にリリースした"Pain"と"Girl Next Door".
彼らは前年に行われたSound Trophy Contestで優勝した副賞として、スタジオでのレコーディングの権利を獲得してこの2曲を録音した。

2曲目の"Girl Next Door"でヴォーカルを取っているのは前述のAsha Puthli.
この後、彼女はシンガポールに渡り、現地のバンドThe Surfersとの音源を残したのち、ボンベイ時代に知り合ったアメリカ人モダンダンサーMartha Grahamを頼ってニューヨークに渡る。
アンディ・ウォーホルや現地のジャズミュージシャンと知り合った彼女が、現在でもカルトクラシックとされる音源を残したことは、先ほど書いた通りだ。
だが、ほとんどのミュージシャンに取って、アメリカやイギリスは憧れの土地であると同時に、あまりにも遠い場所だった。
彼らの多くは、インド国内でその長くはない活動期間を終えることになる。
しかし、それはまだ先のお話。


60年代の後半に入ると、若者たちから始まったビート・グループのムーブメントに注目する大人たちが現れてきた。
Imperial Tobaccoは、若者向けの新しいメンソールたばこのブランド'Simla'のプロモーションの一環として、インドじゅうのビート・グループを集めたイベントを行った。
1970年と71年に行われた、Simla Beat Contestである。
このイベントに出演したバンドのコンピレーション盤は、当時のインドのバンドの数少ない音源となっている。
ここに収められている音源は、決して演奏力が高いわけでも音質が良いわけでもなく、オリジナル曲ですらないものがほとんどだが、限られた環境のなかで当時のインドの若者たちが必死に取り組んだ成果だと思いながら聴くと、胸に熱いものがこみ上げてくる。

ボンベイのVelvette Foggは、ドアーズのようなキーボードが入ったサイケデリックなサウンドでCreamの"I'm So Glad"をカバー。


このブログでもたびたび取り上げている通り、インドのなかでもロック人気のとくに高いインド北東部のバンドも、当時から存在感を発揮していた。
Simla Beat Contestにも出演したFentonesは、「インドのロックの首都」と呼ばれている北東部メガラヤ州シロンの出身。
ここでは、イギリスのバンドChristieが1970年にリリースした"Until The Dawn"をカバーしている。 



やがて、インドにも、単に享楽的でサイケデリックなロックだけでなく、ボブ・ディランらの影響を受けた、社会的なテーマを歌うフォークシンガーが登場するようになる。
1970年代以降、インドでは、都市部と農村の格差や、社会の不正義に対する問題意識が強くなり、デリーのSt.StephensやカルカッタのPresidency、ボンベイのElphinstoneのような名門大学では、学生運動が活発化していた。
暴力すら厭わずに毛沢東主義での社会経済開放を目指す「ナクサライト運動」は、西ベンガル州で発足すると燎原の火のように広がっていった。
こうした風潮が、産声をあげたばかりのロックシーンにも影響を与えたのだ。

「初めてディランを聴いたとき、自分の人生ですべきことが決まったんだ」と語るデリーのフォークシンガーSusmit Boseは、「インドのボブ・ディラン」とも「インドのキャット・スティーヴンス」とも呼ばれている。
彼が1978年にリリースしたアルバム"Train To Calcutta"に収録された"Rain Child".

彼のような西洋風のフォークソングを、インドではローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ。
古典歌手の父を持つ彼は、親に隠れてギターを練習し、フォークソングを歌っていたことがばれて家を追い出されてしまったこともあるという。

メガラヤ州シロンのLou Majawもまた、「インドのボブ・ディラン」と呼ばれることの多いシンガーだ。
1972年に始めたディランの誕生日に行うメモリアルコンサートを毎年続けている彼は、80歳近くなった今もタンクトップに短パンという衣装で歌い続けている。

今年はコロナウイルスによるロックダウンでディランのバースデーコンサートを開催できなかったため、この動画をYouTubeに投稿していた。

60年代のカルカッタで活躍したバンドThe UrgeのサックスプレイヤーだったGautam Chattopadhyayは、ナクサライトに共感した活動をしていたため、仲間とともに2年間の州追放処分を受けたという経歴を持つミュージシャンだ。
1975年にカルカッタに戻ると、ジャズやロックにベンガルのフォークミュージックを融合した音楽に乗せて文学的な歌詞を歌うMohineer Ghoraguliを結成した。

彼らの音楽は少数のファン以外には見向きもされなかったが、90年代以降、新しい世代に、ベンガル独自のロックの先駆けとして再評価されている。


60年代から70年代にかけて、インドのロックミュージシャンたちは、お金のためではなく、音楽への純粋な愛情と表現衝動に基づいて音楽活動を行っていた。
そもそも、インドでロックバンドが職業になる時代ではない(それは今もほとんど変わらないが)。
学生時代のひとときが終わると、音楽から離れてしまう者も多かったし、アングロ・インディアンや富裕層のなかには、より良いキャリアを目指して海外へと移住してしまう者も多かった。

インドの時代背景も変わってゆく。
欧米では反体制の象徴だったロックも、社会運動の過激化に伴い、インドのロックファンの中心だった学生たちから、富裕層、すなわち「搾取する側の音楽」と見なされるようになってゆく。

そして、世界中の音楽シーンで、ロックバンドが花形だった時代は終わりを告げ、ディスコ・ミュージックの台頭が始まる。
踊りが大好きなインドのエンターテインメント産業(すなわち映画業界)は、ディスコを巧みにローカライズして映画音楽に取り入れていった。
流行に敏感なリスナーたちは、ロックから離れ、ディスコ・ミュージックに夢中になってゆく。

こうして、「インディアン・サマー・オブ・ラブ」は終わりを告げた。
(説明するのも野暮だが、英米のヒッピー・ムーブメント「サマー・オブ・ラブ」よりずっと規模の小さかったインドの「ロックンロール黄金時代」を、小春日和を意味する「インディアン・サマー」にかけてこう呼んでみた)

この時代の「ビート・グループ」たちが、古き良き思い出以上の何かを、インドの音楽シーンに残したのかどうかはわからない。
結局、インドのロックシーンが復活するのは、インドが経済開放路線に舵を切り、インターネットで海外の情報がリアルタイムで入手できるようになった90年代以降まで待たなければならなかった。
インドのインディー音楽が爆発的に広がるのは2010年代に入ってからだが、今日でも、音楽シーンの圧倒的主流である映画音楽と比べると、その売り上げ規模は圧倒的に少ない。

だが、1960年代のインドで、海の向こうからやってきたリズムとサウンドに夢中になり、そこに音楽以上のもの(例えば自由とか)を見出して、お金のためでも名誉のためでもなく、全てを打ち込んで演奏した若者たちがいたという事実は、とても興味深いし、感動的だ。
経済成長著しいインドでは、懐古的な作風の映画や音楽も楽しまれるようになってきているようだし、そろそろこの時代をテーマにした映画が作られても良いと思うのだけれど。

今回もずいぶん長くなってしまったが、この時代については、まだまだ調べ甲斐がありそうなので、そのうちまた何か書くつもり。
それでは!



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2020年07月07日

『バウルを探して〈完全版〉』でバングラデシュの風にどっぷり浸かる


川内有緒・文、中川彰・写真の『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)が、すごく良い。

baul(三輪舎さんのウェブサイトから画像をお借りしました)

この本は、2013年に幻冬社から出版された『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』に、バウル探しの旅に同行した中川彰さんの写真を大幅に追加したもの。
2015年には『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』と改題して幻冬社文庫にも入っているから、今回の「完全版」で、3回目の出版ということになる。
(その経緯は、川内さんが書いたこちらのnoteに詳しい。発売日に書かれたこの記事も、ぐっと来る)

私は幻冬舎文庫版を持っていて、もともとかなり好きな本だった。
単行本で買った本を気に入って、加筆された部分があるからとか、持ち運びやすいからとかといった理由で文庫化されたときにまた買うというのは、たまにある。
でも、私はコレクター的な本好きではないので、文庫で持っている本を単行本で買い直すというのは、今まで一度もしたことがなかった。
そもそも、一度文庫化された本が、全集とかでもないのに別の形で出版されるというのも、あまり聞いたことがないし。
ところが、この「完全版」、中川さんの写真目当てで買ってみたら、それだけでなく、すごく良かったのだ。

川内さんの文章は、文庫の時から変わっていない(たぶん)はずなのだが、読んだときの質感が全然違う。
なんというか、文庫版がライブ盤のCDだとしたら、今回の完全版は、ライブそのもの。
それくらい違う。

何がそんなに良いのか。
まず、本そのものの、モノとしての佇まいがすごく良い。
ページを180度開くことができて写真が見やすい「コデックス装」になっていたり、背表紙にあたる部分(コデックス装だと、ページがむき出しになっている)に打たれたドットが模様になっていたり、異常なまでにこだわりのある装丁になっている。
ただ、そういう非日常的な装丁だから良い、というのではなくて、本の内容と装丁とがぴったりと一致して、特別なものではなく、本来こうあるべきだったもののように感じられる、そういう良さがある。
この装丁を担当したのは、矢萩多聞さん。

次に、中川彰さんの写真が良い。
もともと文庫版の写真の少なさはちょっと不満だったし、文庫版のあとがきで、彼が本の出版を待たずして亡くなってしまったことを知っていたのでちょっと感傷的になっていたところはあったと思うが、それを差し引いて余りあるほどに、良い。

中川さんの写真からは、バングラデシュの人や空気の匂いが、濃厚に漂っている。
排気ガスやお香や朝靄や牛の糞の匂い、クラクションや怒鳴り声や風の音が感じられるような写真なのだ。
撮影対象を特別に見せようなんて、これっぽっちも思っていないようなのに、その表情から、風景から、色合いから、その場所にしかない空気が濃密に立ち上ってくる。
よそ者の旅人としてバングラデシュを見ているのではなく、この国で繰り返されている日常のなかに、ふっと迷い込んでしまうような、そんな写真である。

川内さんの文章もそうだ。
「バングラデシュに存在する、謎の吟遊詩人を探しに行く」という、これ以上ないほど非日常的なテーマなのに、川内さんの文章は、なんというか、日常と地続きなのである。
かつて憧れだった職場を退職し、さて、これからの人生をどうするか、というタイミングでのバウル探し。
それなのに、全く肩の力が入っていない(ように読める)。
日本での日常から、日本とは全く違うバングラデシュの奥へ、奥へと入ってゆくのだが、操縦のうまいパイロットがふわっとなめらかに離着陸するように、普段着のまま異世界に入ってゆくような感覚がある。
好奇心のアンテナは思いっきり伸ばしながらも、変な力が入っていないから、気がついたら、自分のまわりを吹いている風が、バングラデシュの風になっているような錯覚を覚えてしまう。

そう、理由はよく分からないが、この本、風にあたりながら読みたい本である。
川っぺりのベンチかなんかで読むのもいいし、ベランダに椅子を出して読むのも、なんなら窓を開けてみるだけでもいいと思う。
本の手触りを味わうように、風の感触を味わいながら読むと、たぶんこの本の良さはもっと増すはずだ。

それにしても、この装丁の力と、中川さんの写真の力はすごい。
もちろん、主役は川内さんの文章なのだが、文庫版で読んだはずの文章が、初めて読んだように、いや、初めて読んだ時以上にみずみずしく感じられる。
…という趣旨のことをTwitterでつぶやいたら、川内さんご本人から、「映画が大画面だとより楽しめるように、本の形によっても、読み心地は変わるのだろうと思います」というご返信をいただいた。
言いたかったのはまさにこういうこと!
『バウルを探して〈完全版〉』を読みながら、歴史のある佇まいの映画館の大スクリーンで、最高の音響と最高の座り心地の椅子で、大好きな映画を鑑賞してるみたいな、ぜいたくな時間を楽しんでいる。

ベンガルってどこ?とか、バウルってなに?という人も含めて、「体験としての読書」にどっぷり浸かりたい人全員に、全力でおすすめしたい。



(便宜上、この記事のカテゴリが「インド本」になっていますが、「バングラデシュ本」です。読むともれなく無性にバングラデシュに行きたくなるという副作用付きです。)






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2020年04月24日

インド魔術の神秘に迫る!山田真美さんの名著『インド大魔法団』『マンゴーの木』





今月に入ってから、2回にわたってベンガルの漂泊の歌い人「バウル」についての記事をお届けした。
バウルについて考えるたびに、どうしても頭の中をよぎってしまうのは、あの謎の占い師「ヨギ・シン」のことだ。

かつては「奇妙な歌を歌う世捨て人」として、賎民のような扱いを受けていたバウルは、タゴールとディランという二人のノーベル文学賞受賞者に影響を与えたことで名声を高め、さらには彼ら自身がUNESCOの無形文化遺産に登録されたことによって、ベンガルの伝統文化の担い手という評価を確固たるものにした。
今日では、バウルはオルタナティブな生き方をする行者として、ベンガルのみならず世界中からカリスマ視されるまでになった。

一方で、パンジャーブ地方から世界に飛び出し、少なくとも100年以上の歴史を持つ放浪の占い師「ヨギ・シン」たちは、仲間のシク教徒からは低い身分として見られ続け、そして世界中の都市で「詐欺師」の烙印を押されながら生きている。
(彼らについては、この下のリンクで詳しく紹介している)
なんとかして彼らを、伝統を守ってきた人々として正当に評価されるようにすることはできないだろうか。
彼らについてこれまでしつこく書いてきた理由のひとつには、僭越ながらこうした思いがあった。
いつの日か、代々木公園で行われる「ナマステ・インディア」みたいなイベントの会場で、ヨギ・シンがその伝統の技術を披露する、なんてことがあったらいいなあ、と思っていたのだ。



ところが、あろうことか、私は「ヨギ・シン」当人とのコンタクトという願ってもない機会をふいにしてしまった。
(その詳細は、上のリンクに詳しく書いてある)
千載一遇のチャンスを逃した私は、仕方なく、インターネットや文献での調査を再開することにした。

ちょうどその頃、私が「ヨギ・シン」に夢中になっているということを知っている方から、インドのマジックに関する本として、山田真美さんの著書『インド大魔法団』と『マンゴーの木』を紹介してもらった。
これまで書いてきた通り、ヨギ・シンは占い師でありながら、奇術師とも言える不思議な存在である。
インドでは「占い」と「マジック」は表裏一体のものとして存在しており、さらに言うと、インドの伝統的な占いやマジックには、予知や透視のような、超自然的な能力との境目が曖昧な部分すらあるのだ。

インドのマジックについて日本語で書かれた本は極めて少ない。
この2冊にも、きっと何かヒントがあるに違いない。
そう思って読み始めてみたところ、想像以上の面白さにすっかり夢中になってしまった。
2冊とも、一応ノンフィクションの体裁を取っているのだが、本自体がまるでインドのマジックのように摩訶不思議な内容で、このタイミングでこの本に出会ったことが運命だったのではないかとすら思えるほどに惹きこまれてしまったのだ。
インド大魔法団マンゴーの木

この本の著者の山田真美さんは、公益財団協会日印協会の理事や日印芸術研究所の言語センター長を務めている方である。
『インド大魔法団』が出版されたのは1997年(私が初めてインドを訪れた年だ!)。
作品の舞台は1989年から始まるのだが、この本の冒頭で、山田さんは「インドにはさして興味はなかった」と明言している。
つまり、この2冊は、今では日印関係の要職を務める山田さんが、マジックをきっかけにインドにハマるきっかけを描いたものでもあるのだ。

この物語はこんなふうに始まる。
(先ほども書いた通り、ノンフィクションなのだが、そのへんの小説よりもよほど奇妙なこの本の内容は、やはり「物語」と呼びたくなる)
山田さんは、運命とも言えるような偶然が重なり、インドの「魔法」に興味を持つようになる。
そして、まるで何者かに導かれるように、インドの「魔法使い」を探す旅に出ることになるのだ。
そこから先は不思議な出来事の連続だ。
インドに到着早々に、よく当たるという占い師が山田さんに不思議な「予言」をする。
「この旅の中で、白い貴石を手に入れる。それを差し出す人の助言を聞きなさい」というものだ。
その後、山田さんはインド政府の協力を得て、伝統的な「魔法使い」を探すべく、インド一周の旅に出るのだが、インド文化や宗教の専門家たちからは「もはやインドには魔法使いなど存在しない」と断言されてしまう。
かつてのバウルや今日のヨギ・シンのように、インドのマジシャンたちは、近代化の波の中で、注目する価値のない伝統と見なされ、ほぼ無視されていた。
1990年のインドで伝統的な手品師を探すということは、日本に外国人がやってきて「ガマの油売りが見たい」とか「バナナの叩き売りが見たい」なんて言うのと同じようなものだったのだろう。
それでも不思議なことがたくさん起きてしまうのが、インドという国だ。
(とくに、この時代のインドには、今の何倍も「不思議」が生きていたはずだ)
山田さんは次から次へと現れる占い師(手品師たちや路上の占い師たちと違い、占星術のような伝統的で理論的な占いは敬意を持って扱われている)、宝石商、旅人、大道芸人、伝統舞踊家らによって、インドの持つ底なしの不思議で魅力的な世界にはまってゆく。
仮に多少の演出を入れて書かれているとしても、それでも「運命」としか言いようのない超自然的な力が働いているとしか思えないようなことが、次々に起きるのだ。
そして、調査の鍵を握る伝説の魔法使い、「P.C.ソーカ(P.C. Sorcar) 」との出会いから、物語は驚愕の展開を見せる。
(クライマックス近く、物語の本筋とは関係のないところで、ある手品師が、ヨギ・シンの占いにも通じる心理トリックの種明かしをする場面もあって見逃せない)
そして、「白い貴石」を持った人物は現れるのか…。


こうした「人探し」や「謎解き」の面白さは、まだインターネットがない時代だからこそ成立していたとも言える。
今では、PCソーカのことも、インドの伝統的なマジックのことも、検索すればある程度のことは簡単に分かってしまう。
世界中が情報で繋がった現代世界では、謎や神秘が存在できる場所は、確実に小さくなっているのだ。
1990年代は、「魔法使い」のような存在が神秘として存在することができた最後の時代だったのかもしれない。
携帯もメールもまだまだ普及していなかった90年代のインドを思い出しながら、束の間の懐かしい気持ちにどっぷりと浸ることができた。



続編の『マンゴーの木』は、私がヨギ・シンを探しているように山田さんがこだわりつづけていた、インドの伝統的な「魔法」を探す物語だ。
そのマジックでは、「魔法使い」が地面にタネをまいて布をかぶせると、みるみるうちに本物の実をつけたマンゴーの木が現れるのだという。
物語の舞台は1997年。
山田さんは前回の旅をきっかけに、なんとインド文化交流庁の招聘研究者となり、インドの神話の研究者としてデリーで暮らすようになっていた。
もはや前作のように、次々と現れるインドの不可思議な魅力(魔力?)に翻弄されるのではなく、研究者として積極的に謎に満ちた世界に飛び込んでゆく姿は、じつに頼もしい。
その調査範囲はインド南端のケーララ州におよび、ついに、もはや存在しないと思われていたインド伝統の「魔法使い」のありかをつきとめる…。

途中で何人ものインド人マジシャンが出てくるのだが、華やかな衣装に身を包み、ステージで洗練されたマジックを繰り広げる彼らは、欧米式の演出を好み、「マンゴーの木」のようなインドの伝統的なマジックにはほとんど目もくれない。
ロープトリックも、カップ&ボールも、そして箱の中に入れた美女に剣を刺すマジックもインド発祥だというのに、伝統的なストリートマジックに関しては、現代のインドでは、過去のものとして追いやられてしまっているのだ。
コンテストに出るようなマジシャンたちも、決してスターというわけではない。
インドではマジシャンとして生活してゆくことはまだまだ難しい。
彼らの多くが、銀行員など他の仕事をしながら、マジシャンを続けている。
プロフェッショナルにはなかなかなれない状況でも情熱を燃やし続ける彼らは、いつもブログで紹介しているインドのインディペンデント・ミュージシャンを彷彿とさせる。

「マンゴーの木」のような昔ながらのマジックを生業とするマジシャンは、村から村を渡り歩く貧しい放浪の大道芸人であり、連絡先を探すことすらままならない。
偉大なインド・マジックは、今では尊敬を集める存在ではなくなってしまったのだ。
こうした扱いゆえか、伝統を受け継いで守っているマジシャン自身も、その伝統を、ほとんど価値のないものと思っているようなのである。
ある人物が発するこの言葉を読んで、胸がつまりそうになった。
「俺は長いこと、自分がやっていることなんて、所詮は誰からも注目されることのない、絶滅寸前の大道芸だと思っていたんです。だから、日本人の女の人が俺の芸を見たがっていると聞かされた時も、担がれているんじゃないかと疑ったぐらいです。(中略)生まれてこのかた、こんなふうにちゃんと俺の話を聞いてくれて、芸の一部始終を写真に収めてくれた人なんて、一人もいませんでしたから。今日は俺、貴女から勇気をもらったような気がします。うまく言えないけど、来てくれて本当にありがとう」

急速な経済成長や近代化、グローバル化のなかで、インド人のなかに自らのルーツを大切にしようという意識が芽生えてきているが(過剰な宗教ナショナリズムは、その悪いほうの一面だ)、一方で、これまで権威とは無縁に引き継がれてきた伝統は無視され、切り捨てられようとしている。
そうした風潮のなかで、伝統を守っている当の本人(マジシャン)も、1990年代の時点で、すでにあきらめを感じていたということなのだろう。
「マンゴーの木」が書かれてから20年を超える年月が過ぎ、その後、伝統的なマジシャンたちは、その居場所と誇りを少しでも取り戻すことはできたのだろうか。


今回紹介した2冊の本で山田さんがインドの伝統に向けるまなざしには、とても深い共感を覚えた。
共感しすぎて、読んでいて「私もいつかヨギ・シンについてこんな本が書きたい」という気持ちが湧いてくるのを抑えられなかったほどだ。
それよりも何よりも、単純にめちゃくちゃ面白い2冊だった。
「インドのマジック」という分野は、私もヨギ・シンに興味を持つまで全く意識したことがなかったが、まさかここまでの深さと面白さのある世界だったとは、想像すらしていなかった。
本当にインドの魅力は底なし沼だな…と感じさせられたこの2冊、まだまだ当面外出自粛が続きそうな毎日ですが、何か面白い本を探している方に、オススメです!
ヨギ・シンの話を面白いと感じてくれた人なら、最高に楽しめるはず!



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2019年11月01日

インド写真集にやられる(その2) 三井昌志『渋イケメンの旅』


先日、銀座のソニーイメージングギャラリーに、三井昌志さんの写真展『渋イケメンの旅』を見に行ってきた。
これは、写真家の三井さんがインドじゅうをバイクで旅して出会った、渋くてカッコイイ働く男、すなわち「渋イケメン」を撮影した写真を集めた展示企画だ。
渋イケメンの旅
(画像は三井さんのウェブサイト「たびそら」よりhttp://tabisora.com/blog/exhibition2019-sony/

三井さんは、「渋イケメン」シリーズの写真集をこれまで2冊発表しており(『渋イケメンの国』『渋イケメンの世界』)、このたびシリーズ3作目で、写真だけでなく文章も充実した『渋イケメンの旅』を発売したばかり。

三井さんによると、「渋イケメン」の定義はこうだ。

1.目力が強く、面構えに存在感がある

2.年齢を重ねることを恐れず、自然な「渋み」を漂わせている

3.外見には無頓着で、「異性にモテよう」という意識が希薄である

日本では絶滅危惧種の「渋イケメン」だが、インドでは肉体労働者や職人などに、このタイプの男たちがわりとたくさんいる。
知識や理屈だけではなく、経験と技術に裏打ちされた仕事ができる男だけが漂わせる、自信と貫禄。
決して暮らしぶりがよいわけでも、教養や学歴が高いわけでもないかもしれないが、彼らには「粗野な品格」とでも呼べるような雰囲気がある。
無駄口は叩かず、愛想笑いはせず、困っている人がいれば、助ける。
思えば、小さい頃に思い描いていた「大人」というのは、わりと渋イケメン的な人間像だった気がする。
(大人になった私が果てしてそういう人間になれたかどうかは言わぬが花でしょう)

前回紹介した名越啓介さんの『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』が、「宗教的祝祭」を撮影したものであるのに対して、三井さんが撮影しているのは日々の「労働」。
俗世を捨てた修行者たちが集まる非日常的な世界ではなくて、市井を生きる人々の「日常」そのものだ。
クンブメーラのサドゥーたちがロックスターやラスタマンだとしたら、三井さんが撮影するのはさしずめブルースマン。
繰り返される日々に、すり減らされるのではなく深みを増して生きてきた男たちの写真は、ガキとくたびれたおっさんばかりの国になってしまった日本で見ると、率直に言って心に刺さる。

今の日本にも熟練の労働者はいるだろうが、
我々が知識や目新しさ、人あたりの良さばかりをもてはやしてしまったせいで、渋イケメン的な男性はすっかり見なくなってしまった。
俺だって、例えば家の水道工事に来てもらうんだったら渋イケメンよりも愛想のいい人のほうがいいもの。

三井さんは、バイクでインド中を回り、小さな街の工場や、名もない村の畑や、道端のチャイ屋などで、「渋イケメン」を見つけては撮影したそうだ。
三井さんが撮った「渋イケメン」には、厳しさだけでなくどこか温かみを感じさせる表情の男たちが多いのも特徴だ。
観光地でないインドの街や村には、外国人に対して本当に親切であたたかい人がたくさんいる。
コミュニティの構成員全員の顔が見えるような街では、悪い人間はなかなか生まれようがない。

代々同じように、生まれて、働いて、家族を作り、子孫を育て、そして死んでゆくという人生を、あるがままに受け入れて暮らしている人々。
旅人の感傷と知りつつも、古い時代のままに生きるインドの人々に姿には、やはりどこかほっとしてしまう。

しかし、都市部を中心に、インドの価値観も変わりつつある。
『渋イケメンの旅』(本のほう)のなかに、「そんなわけでインドでは、日本(も含めた東アジア圏)でよく見られるようなフェミニンな男はまったく人気がない。つるっとしてかわいいジャニーズ系のアイドルなんてものは存在しないし、もしいたとしても誰にも見向きもされないだろう」という文章が出てくるが、今ではインドでも韓流アイドルが流行している
(例えば、BTSのライブ・ドキュメンタリー映画の"Burn The Stage"はインド40都市で公開され、人気を博したという。参考:「インドで盛り上がるK-Pop旋風!」) 
90年代以降のIT人材のバブル的な需要増加や経済成長もあり、インドでも「汗の匂いのしない、センスの良い男たち」の存在感は大きくなるばかりだ。

無責任な外国人としては、古い価値観からの自由を求めて音楽で表現をはじめた若い世代のミュージシャンたちにも、いわゆる昔ながらの「渋イケメン」にも、それぞれにインドならではの言いようのない魅力を感じてしまう。

前回の記事で、『地球の歩き方』インド編の名文句、「私は実はあなたなのだ」を紹介したが、三井さんの視線を通したインドは、渋く、たくましく、やさしい。
インドの最新の音楽は、ネットを通してでも知ることができるが、渋イケメンたちに会うには実際にインドに行くしかない。
そんなわけで、私は三井さんの写真を見るたびに、インドに旅したくなってしまうのだ。


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2019年10月29日

インド写真集にやられる(その1) 名越啓介『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』


少し前に、岡田悠さんという方が、「ねとらぼ」で「地球の歩き方」の独特の文体の「煽り文句」をランキング形式で紹介して話題になっていた。
その1位が、案の定というかインド編だったのだが、それはこんな文章だった。
インド。それは人間の森。
木に触れないで森を抜けることができないように、人に出会わずにインドを旅することはできない。

インドは「神々と信仰の国」だという。
また、「喧騒と貧困の国」だともいう。
だが、そこが天国だとすれば、僕たちのいるここは地獄なのだろうか。
そこを地獄と呼ぶならば、ここが天国なのだろうか?
インドを旅するキミが見るのは、天国だろうか地獄だろうか?

さあ、いま旅立ちの時。
インドはキミに呼びかけている。
「さあ、いらっしゃい!私は実はあなたなのだ。」

20年以上前に私が初めて買った「地球の歩き方」にも、全く同じ煽り文句が掲載されていたと記憶している。
毎年の改訂をくぐり抜けてきた、歴史ある名文なのである。

それにしても凄い文章だ。
たかが旅行なのに、旅人が見るのは天国か地獄。
「神々と信仰」というあまりにも大仰な世界か、「喧騒と貧困」という明らかに不快な場所か。
ほとばしる非日常感。
そしてそれに続く文章がまた強烈だ。

「私は実はあなたなのだ」

自分探し系バックパッカー直撃の名文句である。
きっとリゾートやショッピングを求めてインドに行こうとしていた人は(そもそもいないかもしれないが)、そっとガイドブックを書架に戻すことだろう。
 

写真家がインドを旅するとしたら、何をどう切り取るだろうか。
マハラジャ、聖者、乞食。
聖地、市場、スラム。
祝祭、祭礼、儀式。
そして街を行き交う人々や動物、荷車やトラックやリクシャー。
インドは絵になる被写体には事欠かない国だ。

写真家が撮るインド、それはほかでもない、写真家その人なのではないだろうか。

「私は実はあなたなのだ」

バガボンド

名越啓介の『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』は、写真家とインドとの真剣勝負が見られる1冊だ。
名越啓介は、アメリカのチカーノギャングやスクワッター(不法居住者)、フィリピンのごみ山スモーキーマウンテンのスカベンジャー(ごみを集めて生活する人々)らを撮影してきた写真家だ。
最近では、ブラジル系の住民が多く暮らしている豊田市の保見団地の人々とともに暮らし、撮影した写真集『Familia 保見団地』で、「写真の会賞」を受賞している。

今回彼が撮影した「クンブメーラ」は、インドの川沿いにある4箇所の聖地、アラハバード、ハリドワール、ナーシク、ウッジャインで、隔年で開催される、巨大な規模のヒンドゥー教の宗教行事である。
とくにアラハバードで行われる年は規模が大きく、一説には一億人ものヒンドゥー教徒が、聖地での沐浴のために集まるという。
名越は、「週刊プレイボーイ」編集者の近田拓郎を伴って、三たびアラハバードのクンブメーラを訪れた。

この『バガボンド』には、国じゅうから集まった人々の群れや動物たちの写真なども収められているが、何よりも目をひくのが「サドゥー」たちの写真だ。

サドゥーとは、所有を放棄し、放浪と修行に生きるヒンドゥーの行者のことだ。
一部の者は、衣服すら身に着けず、裸に聖なる灰を塗りつけただけの姿で暮らしている。
豊かだった人、貧しかった人。
カースト、家族、仕事、人間関係。
あらゆるしがらみを断ち切って、サドゥーとして生きる人が、インド・ネパールには500万人もいるという。
聖者のように崇められている者もいれば、観光客相手に祈りの文句を唱えて高額の布施をせびる詐欺師まがいの者もいる。
輪廻からの解脱と悟りを求めている者もいれば、夜逃げ同然の者もいる。
彼らはあらゆる秩序に縛られない。
大麻はインドでももちろん違法だが、彼らは瞑想のために、車座になってガンジャのパイプを回す。

髪を切らないサドゥーは、必然的にラスタマンやロックスターのような佇まいになる。
天然のドレッドヘアー。
鋭い眼光。
修行者であることを意味するオレンジ色の衣。
名越は煩悩の数、108人のサドゥーを、憑かれたように白バックの前で撮影してゆく。

年老いたサドゥー。
若さの残るサドゥー。
片足立ちのサドゥー。
手を上げてポーズを取るサドゥー。
なぜか、豹柄の布を頭と体にまきつけたサドゥー。
どんな人生を歩んできたのか、どんな生活をしてきたのか、何を考えているのか。
何ひとつ手がかりすらないが、白バックによってアラハバードという聖地から切り離されたサドゥーは、ただその存在感だけを強烈に浮かび上がらせる。
ドレッドヘアー。
個性あふれるキメのポーズ。
誰ひとり同じでない僧衣の着こなし。
それは、サドゥーというあまりにも過酷な生き方から遠く離れて、まるでファッションスナップのようですらある。
強烈な存在感と、すかしたようなクールさが共存した、不思議で不穏な感覚。

写真の合間に挿入される近田の文章もまた凄い。
なにか得体の知れない、ひりひりした緊張感が漂っている。
彼はこの本に取り掛かる前、両親を相次いで失くしている。
だが、それだけではない、何か心の底のマグマのようなものを感じる文章だ。

ふつう、日本とは全く異なる価値観の国インドの、歴史ある巨大宗教行事について書くなら、その成り立ちや信仰上の意義を、少なからず咀嚼し、紹介しようとするだろう。
だが、近田はほとんどそれをしない。
クンブメーラのど真ん中に飛び込み、巡礼者やサドゥーの洪水のなかに身を置き、満足のいく撮影のための「もがき」だけが、焦燥感とともに綴られている。

世界最大の祝祭のど真ん中に、気鋭のカメラマンを伴って飛び込む情熱。
しかも、近田は仕事としてではなく、集英社から13日間の休暇を取ってまで、何かに衝き動かされるかのようにクンブメーラに来ているのだ。
この情熱は、どこから来て、どこに向かうのか。

この二人は、文化的・宗教的な文脈に溺れることなく、また、表層的な理解に甘んじることもなく、感性だけを武器にこの巨大な祝祭に対峙し、そこにぎりぎりの充実感を感じているようなのだ。
「知られざる祭礼の紹介」でも「絵になる写真の撮影」でもない、クンブメーラの巨大なエネルギーと、研ぎ澄まされた魂とがぶつかって飛び散る火花。
近田と名越が求めているのは、本当に純粋に、ただそれだけなのだ。

彼らは、きっと初めてひとり旅をしたときの初期衝動を、ほとんどそのままの形で抱え続けている。
二人とも私と同世代のはずだが、そのひりひりした感覚を維持したまま、発狂することも倦むこともなく、ペンやカメラを持ち、混沌のなかに飛び込んでゆく。
畏敬というよりも、恐怖にすら近い感情が湧き上がってくる。

ひとりひとりだと個性あるサドゥーたちが、群衆となって沐浴場を目指している写真もまた圧巻だ。
何が彼らを突き動かしているのか。
それは分からない。
分からないが、やはり名越、近田の二人と同じような、純粋だが得体の知れない衝動が、巨大なうねりとなって聖地サンガムに渦巻いていることが、伝わってくる。

サドゥーやクンブメーラ以外の写真も刺激的である。
子どもたちや、街のギャングを撮った写真のそれぞれが、不敵だったり、ユーモラスだったりする。
インドの人々を、資本主義社会の抗えないひずみの中で、しぶとくしたたかに生活する個人として、我々の前に提示する。
彼がこれまでに撮影してきたスモーキーマウンテンの人々や、スクワッターと同じように

インドの写真には、じつは意図的に作られた「型」があるのだが(例えば、静謐な空気の中で祈る老女、貧しくとも目を輝かせる子ども、肉体労働の合間にチャイを飲みタバコをくゆらす労働者、など)、名越はその「型」を外した、ありのままの人間を提示する。

写真の中のギャングやサーカス団、サドゥーたち。
そしてファインダーのこちら側にいるはずの名越啓介と近田拓郎から、つまりバガボンド(放浪者)たちから、「お前はどうなんだ?」「お前はどう生きているんだ?」と問いかけられているような気配を感じる。

名越啓介が切り取ったインド。
近田拓郎の感じたインド。
そして私のインド。
「私はじつはあなたなのだ」
という問いかけが乱反射する。 
 
『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』から感じた感覚の正体をつかもうとして、よく分からないことばかり書いたかもしれない。
ひとつ言えるのは、クンブメーラのような伝統的で巨大な宗教行事を、歴史的文化的なものとしてではなく、純粋なエネルギーの放出として現代的な感性で受け止め、作品に転化する名越啓介の感覚は、いつも紹介している現代インドのアーティストたちとも通底しているのではないか、ということだ。

インドはやっぱり分からない。
だが、確実に、刺激的で、面白い。

(今回は文中敬称略にさせてもらいました)



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2019年08月25日

インドのお受験事情を描いた映画『ヒンディー・ミディアム』は、あなたの物語であり、私の物語でもある


今年はインド映画の公開が相次いでいるが、今回は9月6日から全国で公開される映画『ヒンディー・ミディアム』を紹介したい。
主演は『アメージング・スパイダーマン』などのハリウッド映画でも活躍するイルファン・カーン(Irrfan Khan)、主人公の妻役にパキスタンのトップ女優でインド映画初出演のサバー・カマル(Saba Qamal)、監督はサケート・チョードリー(Saket Chaudhary)。

『ヒンディー・ミディアム』と言われても、どんな意味だかピンと来ない人も多いと思うが、ここで言う「ミディアム」は、肉の焼き方ではなく、「伝達手段」という意味。
「ヒンディー語を伝達の手段とする」という映画のタイトルは、デリーなど北インドの公用語である「ヒンディー語で教育を行う学校」を表している。
ヒンディー・ミディアムの対義語にあたる言葉は「イングリッシュ・ミディアム」。
「英語を教える学校」ではなく、「英語で教える学校」ということだ。
ほぼ全ての高等教育が英語で行われるインドでは、良い大学に進んで、高収入な仕事(いわゆるグローバル企業など)に就くには、小学校から英語で授業を行う「イングリッシュ・ミディアム」の学校に通うことが非常に大事なのである。

各地域のローカル言語(物語の舞台となったデリーではヒンディー語)で教育が行われる公立学校は、イングリッシュ・ミディアムの学校に比べると総じてレベルが低く、英語での高等教育に適応するにも言語の面でかなり不利になってしまう。
(そう考えると、大学院まで母国語で学ぶことができる日本は、かなり恵まれているとも言えるし、また英語中心のグローバリゼーションが進む今日の状況からすると、特殊だとも言えるだろう)
 
この物語は、ごく簡単に言うと、ヒンディー・ミディアムの教育しか受けていない夫婦が、なんとかして娘をイングリッシュ・ミディアムの名門小学校に通わせようとするコメディ映画なのだ。


あらすじと見どころ

物語の主人公は、デリーで衣料品店を営む夫婦、ラージとミータ。
ラージは、持ち前のセンスと接客技術で、一代でオールドデリーの老舗テーラーを大型店舗にまで成長させた敏腕経営者だ。
教育熱心なミータは、娘のピアをなんとかしてイングリッシュ・ミディアムの名門学校に入れたいと思っている。
「インドでは英語は階級そのもの」
裕福な暮らしをしているものの、自分もラージも誇れるような学歴を持っておらず、英語が苦手であることに、彼女は劣等感を持っていた。
ミータの希望で一家は人情に厚い下町を離れ、志望する小学校の学区にあたる富裕層が暮らすエリアに引越すが、下町育ちのラージ一家は、個人主義で冷たく、外見や話す言語を気にする土地になかなかなじめない。
二人は宗教の見境なく神頼みに励み、ピアをお受験のための塾に通わせるが、なかなか志望校の合格は得られない。
ミータはとうとう、自分たちの身分を偽り、定員の25%に割り当てられた低所得者層のための特別枠を狙って、貧しい人々が暮らす地域に引っ越すことを決意する。
だが、志望校の校長は潔癖で、賄賂や不正は絶対に許さない堅物だ。
彼らは、自分たちが本当に貧しいエリアに暮らす住民だと信じてもらえるよう、必死にふるまうことを迫られる…。


映画の見どころは、下町育ちの成金夫婦が、娘の教育のために慣れない上流階級暮らしや貧乏生活に挑戦する、可笑しくも涙ぐましい奮闘っぷりだ。
こう書くと、まるでこの映画が、インド固有の社会事情に根ざした別世界の物語のように感じるかもしれないが、じつはこれが日本に暮らす我々の心にも、がんがん刺さってくるのである。

この映画のテーマはもちろん「教育」だが、本当の主題は、「本当に良い生き方とは何なのか」という、普遍的かつ根源的な問いかけだ。
この映画のクライマックスは、志望校への合格/不合格ではなく、じつはその後にある。
富裕層を中心とした一部の人しか通うことができないイングリッシュ・ミディアム・スクールに、あらゆる手段を尽くして(不正な手段を使ってまで)入学することが、本当に立派なことなのか?
自分の家族のみの豊かさや社会的評価を得るためだけに生きることが本当に良いことのか?
この作品のメッセージは、子どもがいる人には「自分の子どもを育てるべきか」という問いかけとして、子どもがいない人には、「自分はどのように生きるべきなのか」という問いかけとして突き刺さる。
とはいえ、これは小難しい作品ではなくインドの大衆映画。
社会派映画であると同時に徹底したエンターテインメント作品でもあるから、難しいことは考えずに、ストーリーに没頭して楽しむことができるのも魅力だ。


インドの教育事情

この映画でが全てにおいてリアルかというと、そんなことはなく、インドの娯楽映画にありがちな、大衆礼賛的な、理想化された部分も大きい。
映画のなかのヒンディー・ミディアム・スクールは、貧しくとも貧しいなりに教育熱心だが、実際はローカル言語の公立校では、待遇の悪さから教師のモチベーションが極めて低く、教師の質も悪い。
授業が極めていい加減だったり、受験対策の放課後の補習のために追加料金(要は教員の小遣い稼ぎ)を要求されたりすることも多いという。 
少しでも良い教育を受けさせたいという親の気持ちにつけこんだ、未認可の教育機関も多く、現実はもっとややこしくて複雑だ。
(インドのこうした未認可教育事情に関しては、『インドの無認可学校研究ー公教育を支える「影の制度」ー』(東信堂)などの著者のある小原優貴さんの研究に詳しい) 


インドの格差と教育

この映画では、2009年に施行されたRTE法(Right To Edication Act)に基づいて、私立学校の入学定員の25%に割り当てられた貧困層のための入学枠が重要なトピックとなっているが、こうした制度や、被差別階級である指定カースト・指定部族への入学優遇枠をもってしても、インドの格差は、なお解決には程遠い。(制度自体が悪用されたり、政治利用されたりすることも少なくない)

この映画に描かれているように、英語能力や教育程度による階級意識も根強く、中島岳志さんの『インド人のことはインド人に聞け!』(講談社、2009年)によると、地元言語で教育を受けた学生が、大学での英語の講義について行けずに自殺する例すらあるという。
この本で紹介されている現地報道では、インドのコラムニストは、英語のことを、端的に「下層・中流階級にとっては憧れの言語であり、上流階級にとっては流行りの言語である」と述べている。
英語が海外での仕事や、航空会社、ホテル、マスコミ、金融、ショッピングモールなどの高給で見栄えの良いキャリアに結びついているからだ。
(ただし、それはネイティブ・スピーカーが話す英語'English'ではなく、「インド英語」'Inglish'であることが多く、悪質な英語教育機関が乱立していることにも触れている)
インドの大ベストセラー作家Chetan Bhagatの"A Half Girlfriend"も、英語が苦手な学生がスポーツ推薦で名門大学に入学するという設定の、教育格差をテーマにした内容だった(映画化もされている)。

実際、英語ができる・できないという格差は、ビジネスや就職だけではなく、あらゆる場面で情報や機会の格差となりうる。
例えば、私が普段ブログに書いている音楽の情報は、ほぼすべて英語で書かれたウェブサイトや媒体で得ている。
ヒンディー語などの地域言語で楽曲を発表しているアーティストも、情報発信は基本的にすべて英語で行なっているのだ。
もし私が現地言語しかできないインド人だったら、そもそもロックやヒップホップの情報を得ることすら難しいだろう。
それがどんなものか正確に把握することすら難しいかもしれない。
私が知る限り、ローカル言語を中心に情報発信をしているのは、タミルのヒップホップグループCasteless Collectiveと、ケーララ州のブラックメタルバンドWilluwandiだけだ。
彼らはいずれも、カースト制度の外に位置付けられた被差別民の尊厳のための音楽を演奏しているアーティストであり、地域言語での情報発信は、英語にアクセスできない人々に情報を伝えるためだろう。

インドのいわゆる上流階級には、結構な割合で、「家でも英語で話している」という人たちがおり、彼らに会うたびに、「家庭内で、母語ではなく、英語を使って話すっていうのは、どんな感じがするものなのだろう」と思っていたのだが、この映画を見て、少しその感覚がつかめた気がした。


何やら話しが大幅に逸れた上に、あんまりタイトルと関係ない内容になってしまったような気がしないでもないが、『ヒンディー・ミディアム』、たいへん面白くて考えさせられる、非常にオススメの映画です。
かといって涙腺に電極を刺されたように号泣したり、ものすごく悩まされたりするほどに胃もたれする映画ではなく、爽やかな娯楽としてもとても良くできています。
公開は9月3日から!

(今回は「インドのことを知らなくても楽しめる!」とか言いながら、映画に関連するインド事情をひたすら語りまくるという、インド好きにありがちなことをやってしまった…。この病気治らないなー)

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goshimasayama18 at 16:24|PermalinkComments(0)