デリーのラップデュオ Seedhe Mautのアルバム『न』(Na)がヤバい!あらためて、インドのヒップホップの話(その5 タミル編 ルーツへの愛着が強すぎるラッパーたち)

2021年10月15日

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』について、もう1回だけ書いておきたい

10月10日(日)、水戸映画祭にて、山田タポシさんの司会のもと、安宅直子さんと『ジャッリカットゥ 牛の怒り』のトークセッションをしてきた。
以前も紹介した通り、この映画はインドの山あいのクリスチャン集落を舞台に、屠られようとしていた牛が暴走し、村の男たちをパニックに駆り立ててゆくというもの。(いろんな意味ですごい映画なのだが、ストーリー的にはただそれだけだ)



私はインド映画には相当疎いのだけど、映画をはじめとするインド事情にめちゃくちゃお詳しい安宅さん、タポシさんといっしょだったので、大船に乗った気持ちで「牛の迫力がすごかった」レベルのしょうもない感想を話させてもらった。
会場の水戸芸術館ACM劇場は音響がすばらしく、爆走する牛と終始絶叫している男どもの凄まじいパワーに圧倒されてしまって、それ以上の感想がほとんど出てこなかったのだ。

当日の安宅さんの説明にもあったとおり、インド映画には(他の国の映画と同様に) 娯楽映画と芸術映画があり、『ジャッリカットゥ』は芸術映画に分類される。
(ただし、この作品が単に高尚なだけの映画ではなく、狂気とも言えるエネルギーとサービス精神にあふれた映画であるということは強めに主張しておきたい)

『ジャッリカットゥ』はインド南部のケーララ州で作成された同州の言語マラヤーラム語の映画だ。
インド国内では比較的話者数の少ない言語(3,500万人くらい)であるうえに、マーケットの小さい芸術映画なので、日本で公開されるインド映画の中では低予算で作られた作品ということになるようだ。

低予算で作られたパニック映画といえば、アメリカで粗製濫造され、もはやひとつの文化にもなっているサメ映画が有名だ。


サメ映画界では、予算が少ないと、お金がかかるCGやアニマトロニクスがあまり使えないので、サメがテーマなのにサメがほとんど出てこないという笑い話がある。

唐突にこの話を思い出した私は、ふと『ジャッリカットゥ』の中で牛に登場するシーンはどれくらいあるのか、調べてみたくなった。
2回ほど鑑賞した印象では、全体の3分の2が牛の爆走シーンで、残り3分の1くらいが人間ドラマかな、と思っていた。
『ジャッリカットゥ』はインド映画にしては短い91分の作品である。
牛が爆走するシーンでも、牛ではなく群衆を映しているカットもあるわけだから、牛が映っているのは爆走シーンの半分、だいたい30分くらいかな、と予想していた。
ところが、いざ調べてみたら全然違った。


映画の中で、生きている牛のごく一部でもスクリーンに映っているシーンは、なんと合計でたったの5分半ほどしかなかったのである。
(生きている牛限定。牛肉は除く)
つまり、この映画の主役とも言える牛が登場するシーンは、映画全体のたったの6%ほどしかないのだ。

カット数で言うと、牛が登場するシーンはだいたい70カットくらい。
そのほとんどが、1秒から2秒のごく細かいカットである。
牛を追う、あるいは牛に追われるシーンでは、短いカットがテンポよく畳み掛けられ、じつは牛は一瞬しか映っていなくても、狂気に駆られた男たちの迫真の演技によって、そこにはいない牛の存在が感じられるのだ。

つまり、この映画は「牛がほとんど出てこないのに、強烈に牛の存在を感じさせる」という点でも、勢い任せのようでいて、すごく緻密に作られているのである。

しかも、この映画の魅力は切り替えの激しい暴走シーンだけではない。
怒号飛び交う短いカットと、森や月や落日を映した静かで長いカットの対比は、まるで自然/神の悠久の時間と、欲に囚われた人間社会の時間を表しているかのようで、緊張と緩和の独特なリズムを生み出している。

…とかなんとか、批評家気取りのたわごとは置いておくとして。

おそらくはこの『ジャッリカットゥ』も、撮影にあたって、その予算ゆえに、牛の登場シーンをふんだんには使えないという制約があったことだろう。

そこを独特なカット割りで工夫しつつ、強烈なリズム感や緊張感をも演出し、この超個性的な作品を、B級などではまったくない、文学的ですらある芸術映画に仕立て上げるとは、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督、ただものではない。
時間があったら、様々な動物系パニック映画を見ながら(ゾンビ映画でもいいかもしれない)、人間を襲うキャラクターたちが映画の中でどれだけの時間登場しているのか、調べて比べてみるのも面白いかもしれない。(俺はやらないけど)


ふと調べてみたら、この手の映画の元祖にして本家とも言える『ジョーズ』 も、「サメはほとんど出てこない」らしい。



何が言いたいのかというと、インド映画は沼に例えられるマニアックなジャンルで、しかと海ほどの広さと深さのある世界ではあるけれど、たまにはこうしてインドという枠を取っ払って見てみるのもいいんじゃないか、ということだ。
とくに『ジャッリカットゥ』みたいな芸術映画はそういう見方をしてもいいタイプの作品だろう。
そういえば、水戸映画祭のバックステージでも、生活音がリズムを刻む演出が北野武の『座頭市』っぽかったという話をタポシさんとしたんだった。


とにかく、この『ジャッリカットゥ』、未見の方は、インド映画というジャンルに関係なく見てみてほしい。
DVD化や配信を待たず、映画館で見れば、なおさら狂気の世界に浸ることができる。



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goshimasayama18 at 21:53│Comments(0)インド映画 

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