インド魔術の神秘に迫る!山田真美さんの名著『インド大魔法団』『マンゴーの木』ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その2)

2020年05月01日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その1)

前回の記事で、山田真美さんの著書『インド大魔法団』『マンゴーの木』で紹介されているインドのマジシャン事情に触れつつ、世界中を流浪する謎の占い師「ヨギ・シン」を、詐欺師扱いされる存在からその伝統に値するリスペクトを受けられる存在にしたいという内容を書いた。
その気持ちに嘘偽りはない。
だが、ヨギ・シンの調査にあたって、それにも増して私の原動力になっていたのは、もっと単純な、本能的とも言える好奇心だ。
あらゆる情報がインターネット検索で分かってしまうこの時代に、こんなに不思議な存在が謎のままでいるということは、ほとんど奇跡であると言っていい。
「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」
ヨギ・シンにまつわる全ての謎の答えが知りたかった。

いくつかの謎については、これまでの調査でかなりのことが分かっていた。
彼らが使う「読心術」のトリックは、ちょっとした心理(メンタリズム)的な技法と、以前「ヨギ・トリック」として紹介したあるマジックの技術を使うことで、ほぼ説明することができそうである。
彼らの正体については、大谷幸三氏の著書『インド通』に登場する、シク教徒のなかでも低い身分とされる占い師カーストの人々だということで間違いないだろう。




では、その占い師のカーストは、何という名前なのだろう。
彼らはインドからどのように世界中に広まったのか。
そして、世界中で何人くらいが占い師として活動しているのだろうか。
こうした疑問の答えは、依然として謎のままだった。
私は、彼らの正体をより詳しく探るべく、ほとんど手がかりのないまま、シク教徒の占い師カーストについての調査にとりかかった。

ところで、「シク教徒のカースト」というのは、矛盾した表現だ。
シク教は、カースト制度そのものを否定しているからだ。
16世紀にヒンドゥーとイスラームの影響を受けて成立したシク教は、この2つの信仰が儀式や戒律を重視し過ぎたために形骸化していることを批判し、宗教や神の名はさまざまでも信仰の本質はひとつであるという教えを説いた。
ごく単純に言えば、ヴィシュヌもアッラーも同じ神の異名であり、信仰の前に人々の貴賎はないというのがシク教の思想である。
シク教徒の男性全員がSingh(ライオンを意味する)という名を名乗るのは、悪しき伝統であるカースト制度を否定し、出自による差別をなくすためだ。
シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院では、宗教や身分にかかわらず、あらゆる人々に分け隔てなく無料で食事が振舞われているが、これもヒンドゥー教徒が自分より低いカーストの者と食事をともにしないことへの批判という意味を持っている。(黄金寺院で毎日提供される10万食もの食事の調理、給仕、後片付けなどの様子は、ドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓〔原題"Himself He Cooks"〕』で見ることができる。)

形骸化した既存の宗教への批判から生まれたシク教だが、ほかのあらゆる宗教と同様に、時代とともに様式化してしまった部分もある。
例えば、彼らのシンボルとも言える、男性がターバンを着用する習慣もそのひとつと言えるだろう。
そして、シク教徒たちもまた、インドの他の宗教同様、この土地に深く根付いたカーストという宿痾から逃れることはできなかった。
誰とでも食卓を囲む彼らにも、血縁や地縁でつながった職業コミュニティー間の上下関係、すなわち事実上のカースト制度が存在している。
ヒンドゥー的な浄穢の概念は捨て去ることができても、家柄や職業の貴賤という感覚からは逃れられなかったのだ。
結果として、路上での占いを生業とするコミュニティーに所属する人々は、シク教徒の社会のなかでも、低い身分に位置付けられることになった。

そこまでは分かっていたのだが、シク教徒の辻占コミュニティーについての情報は、なかなか見つけることができなかった。
興味本位のブログ記事や、詐欺への注意を喚起する記事は見つけられても、彼らの正体に関する情報は、英語でも日本語でも、ネット上のどこにも書かれていないようだった。
ところが、なんとなく読み始めたシク教の概説書に、思いがけずヒントになりそうな記述を見つけることができたのだ。
それは、あるイギリス人の研究者が書いた本だった。
その本のなかの、イギリス本国に渡ったパンジャーブ系移民について書かれた部分に、こんな記述を見つけたのだ。

「…第一次世界大戦から1950年代の間にイギリスに移住したシク教徒の大部分は、(引用者注:それ以前に英国に渡っていた王族やその従者に比べて)はるかに恵まれない身分の出身だった。インドでは'B'というカーストとして知られている彼らは、他の人々からは、地位の低い路上の占い師と見なされていた。イギリスに渡った'B'の家族の多くが、現在はパキスタン領であるシアルコット地区の出身である。」
(引用者訳。この本には具体的なカースト名が書かれていたのだが、後述の理由により、彼らの集団の名前や、参考にした著書については、今は明かさないことにする)

この「低い身分の路上の占い師」である'B'という集団こそが、ヨギ・シンなのだろうか。
文章は続く。

「'B'のシク教徒の先駆者たちは、ロンドンや、ブリストル、カーディフ、グラスゴー、ポーツマス、サウサンプトン、スウォンジーなどの港町や、バーミンガム、エディンバラ、マンチェスター、ノッティンガムなどの内陸部に定住した。彼らはまず家庭訪問のセールスマンになり、やがて小売商、不動産賃貸業などに就くようになった。より最近の世代では、さらに幅広い仕事についている。'B'たちは、他のシク教徒たちが手放してしまった習慣や、他のシク教徒たちに馴染みのない習慣を保持していた。」

シク教徒のなかでもとくに保守的な集団だというから、今では違う職に就いている彼らのなかに、きっとあの占い師たちもいるのではないだろうか。
彼らのコミュニティーの名前が分かれば、あとは簡単に情報が集まるだろうと思ったが、そうはいかなかった。
'B'という単語を使ってググっても、彼らが行うという「占い」に関する情報はほとんど得られないのだ。
それでもなんとかネット上で得られた情報や、探し当てた文献から得た情報(そのなかには、前述の本の著者の方に特別に送っていただいた論文も含まれている)を総合すると、以下のようになる。

'B'に伝わる伝承によると、改宗以前の彼らはヒンドゥーのバラモンであり、神を讃える詩人だったという。
'B'の祖先はもともとスリランカに住んでおり、その地でシク教の開祖ナーナクと出会った彼らは、シク教の歴史のごく初期に、その教えに帰依した。
改宗後、シク教の拠点であるパンジャーブに移り住んだ'B'の人々は、シクの聖歌を歌うことを特別に許された宗教音楽家になった。
彼らが作った神を讃える歌は、シク教の聖典にも収められている。
インドでは、低いカーストとみなされているコミュニティーが「かつては高位カーストだった」と主張することはよくあるため、こうした伝承がどの程度真実なのかは判断が難しいが、'B'の人々は、今でも彼らこそがシク教の中心的な存在であるという誇りを持っているという。
いずれにしても、彼らはその後の時代の流れの中で、低い身分の存在になっていった。
音楽家であり、吟遊詩人だった彼らは、その土地を持たない生き方ゆえに、貧困に陥り、やがて蔑視される存在になってしまったのだろうか。
少なくとも20世紀の初め頃には、'B'は路上での占いや行商を生業としていた。
彼らの22の氏族のうち13氏族が現パキスタン領であるシアルコット地区を拠点としていたという。

シク教徒の海外への進出は、イギリス統治時代に始まった。
19世紀に王族やその従者がイギリスに移住して以来、多くのシク教徒が、軍人や警官、あるいはプランテーションや工場の労働者として、英本国や世界中のイギリス領へと向かった。
彼らの中でもっとも多かったのが、「土地を所有する農民」カーストであるJatだった。
'B'の人々のイギリスへの移住は、おもに第一次世界大戦期から1950年代ごろに行われている。
とくに、Jatの移住が一段落いた1950年代に、なお不足していた単純労働力を補うために渡英したのが、職人カーストのRamgarhia、ダリット(「不可触民」として差別されてきた人々)のValmiki、そして'B'といった低いカーストと見なされている人々だった。
もともと流浪の民だった'B'は、海外移住に対する抵抗も少なかったようだ。
彼らの主な居住地(シアルコットなど)が、1946年の印パ分離独立によって、イスラームを国教とするパキスタン領になってしまったこともシク教徒の海外移住を後押しした。
シク教徒のほとんどが暮らしていたパンジャーブ地方は、分離独立によって印パ両国に分割され、パキスタン領に住んでいたシク教徒たちは、その多くが世俗国家であるインドや海外へと移住することを選んだのだ。
逆にインドからパキスタンに移動したムスリムたちも多く、その混乱の中で両国で数百万人にも及ぶ犠牲者が出たといわれている。
印パの分離独立にともない、これ以前に移住していた'B'の人々は、帰る故郷を失い、イギリスへの定住を選ばざるを得なくなった。
 
1950年代にイギリスに渡った'B'のなかには、占いを生業とするものがとくに多かったが、彼らの多くは渡英とともにその伝統的な職業を捨て、セールスマンや小売商となった。
彼らは、サウサンプトン、リバプール、グラスゴー、カーディフといった港町でユダヤ人やアイルランド人が経営していた商店を引き継いだり、ハイドパークなどの公園で小間物や衣類、布地などを商ったりして生計を立てた。
また、シンガポールやマレーシア、カナダ、アメリカ(とくにニューヨーク)に移住した者も多く、行商人としてフランス、イタリア、スイス、日本、ニュージーランドやインドシナなどを訪れる者もいたという。

1960年の時点で、イギリスには16,000人ほどのシク教徒がいたが、その後もイギリスのシク教徒は増え続けた。
先に移住していた男性の結婚相手として女性が移住したり、アフリカやカリブ海地域に移住していた移民が、より良い条件を求めてイギリスにやってきたりしたことも、その原因だった。
インドから血縁や地縁を利用して新たに移住する者たちも後を立たなかった。
1960年代以降、インディラ・ガーンディー首相が始めた「緑の革命」(コメや小麦の高収量品種への転換、灌漑設備の整備、化学肥料の導入などを指す)によって、彼らのパンジャーブ州の基幹産業である農業は大きく発展した。
しかし、この成功体験は、人々に「努力して働けば、その分豊かになれる」という意識をもたらし、皮肉にも海外移住の追い風になってしまったという。
今では海外移住者がインド経済に果たす役割は非常に大きくなり、世界銀行によると、2010年にはパンジャーブ州のGDPのうち、じつに10%が海外からの送金によって賄われている(インド全体でも、この年のGDPの5%が海外からの送金によるものだった)。
経済的な野心から違法な手段で海外に渡る者も多く、世界中で15,000人ものパンジャーブ人が不法滞在を理由に拘束されているという。

現在、イギリスには約100万人ものインド系住民が住んでおり、英国における最大のマイノリティーを形成しているが、そのうち45%がパンジャービー系の人々で、その3分の2がシク教徒である。
つまり、イギリスに暮らすインド系住民のうち、約30%がシク教徒なのだ。
インドにおけるシク教徒の人口の2%に満たないことを考えると、これはかなり高い割合ということになる。
その人数の多さゆえか、イギリスのシク教コミュニティーは、決して一枚岩ではなく、それぞれのカーストによって個別のグループを作る傾向があるそうだ。
例えば、彼らの祈りの場である寺院〔グルドワーラー〕もカーストによるサブグループごとに、別々に建てられている。
'B'の人たちは、とくに保守的な傾向が強いことで知られている。
'B'の男性は、他のコミュニティーと比べてターバンを着用する割合が高く、また女子教育を重視しない傾向や、早期に結婚する傾向があると言われている。
参照した文献によると、少なくとも20世紀の間は、'B'の女性は十代後半で結婚することが多く、また女性は年上の男性の前では顔を隠す習慣が守られていたとある。
彼らにとってこうした「保守性」は、特別なことではなく、シク教徒としてのあるべき形なのだと解釈されていた。


長くなったが、これまでに'B'について調べたことをまとめると、このようになる。
世界中に出没している「ヨギ・シン」が'B'の一員だとすれば(それはほぼ間違いのないことのように思える)、例えばこんな仮説が立てられるのではないだろうか。

(つづく)



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