ヒンディー語映画『きっと、またあえる』はボリウッド映画の幕の内弁当だバウルとインドのポピュラーミュージック

2020年04月05日

ベンガルの漂泊の歌い人、バウルとボブ・ディラン


映画『タゴール・ソングス』を見て以来、すっかりベンガルにはまっている。
改めて説明すると、「ベンガル」とはインド東部のウエスト・ベンガル州とバングラデシュを合わせた、ベンガル語が話されている地域のことである。
ベンガルmap

(画像出典:映画『タゴール・ソングス』公式サイトhttp://tagore-songs.com

ベンガルの音楽文化を語るうえで、避けて通れないのが「バウル(Baul)」だ。
バウルは、インド領ウエストベンガルにもバングラデシュにも存在する漂泊の「歌い人」である。
バウルはUNESCOによって世界文化遺産にも認定されているが、彼らを的確に定義するのは難しい。
「吟遊詩人」「神秘的詩人」「芸術的修行者」などと言われることもあるようだが、研究者によっても、また個々のバウルによってもその解釈は異なるようだ。
バウルの特徴として、概ね共通認識となっている点を挙げるとすれば、こんなところだろうか。
  • バウルは、俗世を捨てた放浪の行者である。
  • バウルは宗教やカーストにとらわれない存在である。バウルになる前、ヒンドゥーを信仰していた者もムスリムだった者もいる。バウルの思想は、特定の宗教を拠り所にしていない。また、上位のカーストでも、最下位のカーストでも、バウルになってしまえば関係ない。男のバウルだけではなく、女のバウル(バウリニ)もいる。
  • バウルは世襲ではない。バウルの家に生まれたからといって子がバウルになるのではないし、バウルの家に生まれなくてもバウルになれる。
  • バウルは師匠のもとで修行する。弟子入りや出家に似た儀式を経て、バウルとなる。
  • バウルはマドゥコリと呼ばれる托鉢で生活する。
  • バウルは「歌い人」として認識されることが多いが、その修行は歌だけに限らない。ヨーガのような精神的な修行も求められる(むしろ、精神的な修練がバウルの本質だとする見方も多い)。
  • 最近は、俗世を捨てず週末だけバウルの修行をする者や、修行はあまりせずにバウルの歌を歌う者もいる。彼らをバウルと考えて良いかどうかは意見が分かれる。
バウルは何百年も前からベンガルに存在していた生き方だ。
ベンガル語の「バウル」という言葉は、もともと「狂気」という意味を持っているという。
世俗の生活や世間の常識から自由になり、一心に己の信仰(特定の宗教に寄らない彼らの生き方を信仰と呼ぶのは少し違和感があるが)を追求して生きる人々が、バウルなのである。
バウルは彼らの間に伝わる伝統的な歌も歌うし、自作の歌も歌う。
彼らの歌には深い意味が込められているが、その歌詞の意味は、バウル以外には容易には分からないような比喩的な表現がされているという。


バウルについて日本や欧米で紹介するときに、必ずと言っていいほど言及されるフレーズがある。
それは「バウルはボブ・ディランにも影響を与えた」というものだ。
確かに孤高の歌い人のイメージを持つボブ・ディランとバウルのイメージは重なるが、もしこの話が本当だとしたら、ディランは、いったいどこでこのベンガルの修行者と出会ったのだろうか。
ディランの音楽には、ビートルズやストーンズのようにインドの楽器を導入した曲があるわけではないし、彼がインドから思想的な影響を受けているという話も聞いたことがない。
はたして、ディランはいつ、どこでバウルに出会い、どのような影響を受けたのだろうか。


調べてみると、話は1967年のコルカタにさかのぼるようだ。
当時コルカタのカーリーガート付近に住んでいたあるバウルのもとに、コルカタきっての高級ホテルであるオベロイ・グランドの使者がやってきた。
どうしても彼の歌を聴きたいという客が宿泊しているのだという。
このバウルの名前はプルナ・ダシュ・バウル(Purna Das Baul)。
父も妻も弟も息子もバウルという、生粋のバウル文化の中で生きてきた男だ。
オベロイ・グランドで彼を待っていたのは、アルバート・グロスマン(Albert Grossman)というアメリカ人だった。
当時、ジャニス・ジョプリンやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらのマネージャーを務めていた人物だ。
プルナがバウルの歌を披露すると、グロスマンはすっかり夢中になり、彼にアメリカをツアーしないかと持ちかけてきた。

この頃のアメリカでは、激化するベトナム戦争への反発から、若者達の間でカウンターカルチャーとしてヒッピームーブメントが巻き起こっていた。
彼らは過度な物質主義に偏った西洋文明への反発から、東洋、とくにインドの文化に接近していった。
シタール奏者のラヴィ・シャンカルがビートルズ(とくにジョージ・ハリスン)に多大な影響を与え、有名なウッドストック・フェスティバルに出演したのもこの頃だ。
精神的な要素を重視するインド文化は、その是非はともかく、マリファナやLSDで新しい意識を覚醒させようというヒッピー文化との親和性も高かった。
俗世を捨てた行者であり、歌い人であるバウルが受け入れられる土壌が、確かに当時のアメリカにはあったのだ。


プルナ・ダシュ・バウルはグロスマンの提案を承諾し、弟のラクスマン・ダシュ・バウルを含むバウルの楽団を結成して、アメリカ各地で公演を行うことになった。
ボブ・ディランがバウルに初めて出会ったのは、どうやらこの時のようだ。
バウルの楽団は、当時ディランがニューヨークに所有していたビッグ・ピンクと呼ばれる住居兼スタジオでも演奏を行った。
その様子はディランとともにプレイしていたザ・バンドのガース・ハドソン(Garth Hudson)によってプロデュースされ、"Bengali Bauls at Big Pink"というタイトルで音源化されている。

ディランは確かにバウルに感銘を受けたのだろう。
プルナとラクスマンの兄弟は、ディランが67年末に発表したアルバム"John Wesley Harding"のジャケットにも登場している。
BobDylanJohnWesleyHarding
(ディランの左右にいるのがバウルの兄弟)

とはいえ、その後のディランの音楽にバウル音楽の要素が見られるわけではない。
ディランがバウルの何に影響されているのかと言えば、それは彼らの生き方や、音楽や詩に向き合う姿勢ということになるだろう。
プルナ・ダシュ・バウルに、ディランはこう語ったという。
「俺たちはどちらもルーツの音楽を歌っている。俺たちの目的は同じなんだ。俺たちは人々のために歌ってる。音楽を通して物語や愛を伝えているんだ。君がベンガルのバウルなら、俺はアメリカのバウルさ」

新しいサウンドを模索していたビートルズやサイケデリック・ロックのバンドたちが、インド古典楽器の瞑想的な響きを導入したのに対して、歌詞(ことば)を伝えることを重視したディランが、詩人であり行者でもあるバウルに惹かれたというのは興味深い。
西洋文化に代わるものとして、インドのメインストリーム的な伝統文化への接近を試みた当時の多くの人々とは異なり、ディランはベンガルの「伝統的アウトサイダー」に共感したのだ。
こうして始まった彼らの親交は途切れることなく続き、1990年にはプルナの息子の結婚式のために、ディランはプライベートでコルカタを訪れたという。

ここでもう一度時計の針を1967年に戻したい。
そもそもの話になるが、アルバート・グロスマンは、いったいどこでバウルのことを知ったのだろうか。
当時のアメリカでバウルが広く知られていたとも思えないし、流浪の歌い人であるバウルがグロスマンの行動半径にいたとも考えにくい。
おそらくだが、グロスマンは親交のあったビート詩人のアレン・ギンズバーグを通してバウルのことを知ったのではないだろうか。
ギンズバーグは、ヒップームーブメントから20年ほどさかのぼる1940年代末にニューヨークで勃興したビート文学(ビートジェネレーション、ビートニク)を代表する作家の一人だ。
ビート文学の作家たちは、自由な精神性、ドラッグの使用、東洋思想への傾倒などを特徴としており、ヒッピーたちにも大きな影響を与えた。
50年代にインドを訪れたことがあるギンズバーグは、コルカタに長く滞在してベンガルの詩人たちとの交友を深めたという。
ギンズバーグはそこでバウルの文化にも触れたようで、とくに2000曲ものバウル・ソングを作ったと言われる19世紀の伝説的なバウル、ラロン・シャーに大きな影響を受けたと言われている。
グロスマンがギンズバーグから、この街に暮らすプルナ・ダシュ・バウルについて聞いていたとしても、不思議ではない。

ところで、バウルの歌は、ベンガルが誇る大文学者タゴールにも多大な影響を与えていることが知られている。
というよりも、かつてはベンガルでも「奇妙な歌を歌う世捨て人」となかば蔑まれていたバウルは、タゴールが評価したことによって、その文化的価値が認められるようになったという。
 

タゴールが再評価し、ベンガルの詩人たちに受け継がれたバウルの文化が、ギンズバーグを介してボブ・ディランにまで繋がっているということになる。
アジア人で最初のノーベル賞受賞者タゴールと、シンガーソングライターとして初のノーベル賞受賞者であるボブ・ディランの両方にインスピレーションを与えたバウルの存在は、我々が考えるよりもずっと大きいのかもしれない。


ところで、ベンガル文化がニューヨークのカウンターカルチャーに及ぼした文化的な影響は、バウルからディランへの一方向だけのものではなかった。
ディランもまた、ベンガル、とくにコルカタの文化に大きな影響を与えているのだ。
2013年にリリースされた世界中のミュージシャンによるボブ・ディランのトリビュートアルバム"From Another World"では、プルナ・ダシュ・バウルは彼の代表曲のひとつ"Mr. Tambourine Man"を披露している。

歌詞もベンガル語に訳されており、言われなければオリジナルのバウル・ソングかと思ってしまうような出来栄えだ。

ベンガルにおけるディランの影響は彼のみにとどまらない。
コルカタのシンガーソングライターKabir Sumanはディランの代表曲"Blowin' in the Wind"(『風に吹かれて』)をベンガル語でカバーしている。


また別のシンガーによる『風に吹かれて』のカバーもある。

もはや完全にオリジナルなメロディーラインになってしまっているが、ディランがバウルの音楽性ではなく精神に影響されたように、この曲もディランが曲を通して伝えようとしたメッセージをカバーしているということなのだろう。

長きにわたりイギリスによるインド統治の中心地だったコルカタは、インドではかなり早くから英語のロックが受容されていた街だ。
とりわけディランは多くのミュージシャンたちに影響を与え、とくに詩人としてこの地で高く評価されているという。



ベンガルは、インド独立運動の中心地となった社会運動への意識の高い土地でもある。
そもそもこの地方がインドとバングラデシュの二つの国に分割されたのも、独立運動の勢いを削ぐために、イギリスがヒンドゥーとムスリムの居住地を分けて統治したことが原因だ。
ウエストベンガルは、インドのひとつの州となったのちも社会運動が活発で、長きにわたって共産党が州政権の座についていたことでも知られている。
1960年代のアメリカでプロテスト・フォークを代表する存在でもあったボブ・ディランが、こうした背景を持つこの地で高く評価されるのは当然と言えるだろう。

コルカタにはディランを讃えるこんなポエトリー・リーディングの音源まで存在している。


自らを「アメリカのバウル」と称したボブ・ディランと、そんなディランを詩人として讃えるコルカタの人たち。
そこには、何百年も前からアウトサイダーとして生きてきたバウルの文化と、20世紀のアメリカのカウンターカルチャーの旗手の心が重なって生まれた、美しい交流があったのだ。




参考サイト:
https://www.livemint.com/Leisure/qjaPL5lDYAtYJUrqeLdEkL/Bob-Dylan-and-the-Bauls.html

https://www.thequint.com/lifestyle/art-and-culture/tagore-bob-dylan-allen-ginsberg-connection-with-bauls-of-bengal

https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta


https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta

https://www.thehindu.com/entertainment/music/a-documentary-tracks-kolkatas-long-lasting-love-affair-with-bob-dylan/article31110327.ece

参考文献:
村瀬 智『風狂のうたびと バウルの文化人類学的研究』東海大学出版部 2017年
川内 有緒『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』幻冬舎文庫 2015年


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この記事へのコメント

1. Posted by Bong-Khepa   2020年04月05日 22:29
プルノ・ダシュの父は、タゴールと親交のあったノボ二・ダシュです。
Hari KI Diye Pujibo Boloという歌を贈ってます。
2. Posted by Bong-Khepa   2020年04月05日 22:58
追記 ノボ二・ダシュ( Nabari Das)とアレン・ギンズバーグは60年代に会っているみたいです。
3. Posted by 軽刈田 凡平   2020年04月06日 11:34
Bong-Khepaさん、ありがとうございます!
めちゃくちゃお詳しいですね!
彼らがそこまで直接的に影響を与えあっていたとは知りませんでした…。
アジア人初とミュージシャン初の二人のノーベル賞受賞者と、20世紀後半のカウンターカルチャーに大きな影響を与えたバウルの詩、もっと知られて、評価されるべきですね…。

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