コルカタ&バングラデシュ ベンガルのラッパー特集!『世界はリズムで満ちている』は音楽映画の傑作!

2020年03月23日

『タゴール・ソングス』が描く「うた」と人間の理想的な関係

4月18日(土)からポレポレ東中野で公開される映画『タゴール・ソングス』のパンフレットで、文章を書かせてもらった。

 

この『タゴール・ソングス』、公開前からの好評につき、3月28日から、同じくポレポレ東中野のレイトショー枠で、レクチャー付きの先行上映が始まる。
私も4月1日の上映後に、「タゴールソングとインドポピュラー音楽」というテーマで、佐々木美佳監督と対談形式でトークを行うので、ぜひみなさんお越しください。

「仮設の映画館」にて上映中!(検索してみてください)
また、ついに6月1日から全国劇場での公開が決まりました!

というわけで、今回は、この大注目の映画『タゴール・ソングス』について書く。

そもそもの話になるが、タゴールという名前を聞いたことがある人でも、「タゴール・ソング」を知らないという人は多いのではないだろうか。(私もそうだった)
1861年、当時イギリス領インドの首都だったコルカタに生まれたタゴールは、数多くの詩や小説、戯曲を書き、詩集『ギタンジャリ』で、アジア人で初のノーベル賞(文学賞)を受賞した。
日本では詩人のイメージが強いタゴールだが、じつはその生涯で2,000曲を超える楽曲を作った「ソングライター」でもあった。
そのタゴールによって作った「うた」がタゴール・ソングだ。
ヒンディー語では「ラビンドラ・サンギート」、そして彼の故郷の言葉であるベンガル語では「ロビンドロ・ションギト」という。
タゴール・ソングは今でもベンガルの地で愛唱されており、タゴールの歌とともに生きる人々を綴ったドキュメンタリー映画が、この『タゴール・ソングス』なのだ。

と、さも知った風なことを書いたけれども、これらは全てこの映画を見てから覚えたこと。
正直に言うと、最初にパンフレットの原稿の話をもらった時は、困ったなあと思ったものだった。
タゴールのことは名前くらいしか知らなかったし、100年前の大文学者である彼は、いつも私が追いかけている現代のラッパーやミュージシャンとはあまりにもかけ離れた存在だからだ。
はっきり言って、何も書ける気がしない。
ところが、気乗りしないまま軽い気持ちで試写を見てみたら、私はすっかりこの映画に夢中になってしまった。
そこに「うた」と人間との理想的な関係が描かれていたからだ。

誰にでも、大切な「うた」というものがあるだろう。
励ましてくれたり、慰めてくれたり、ときに生きる指針を示してくれるような「うた」。
あるいは、それはもっと暗い、やるせない孤独や憂鬱を肯定してくれるような「うた」かもしれない。
多くの人にとって、それは思春期に出会った、自分とほぼ同時代に作られた「うた」なのではないだろうか。
「歌は世に連れ世は歌に連れ」とはよく言ったもので、世の中が変われば人の心も変わるし、時代が変われば新しい歌が必要になる。
だから、ポピュラーミュージックにはその時代や社会で歌われる理由が必ずあるし、そうやって音楽は発展してきた。

ところが、ベンガルでは、現代の音楽だけではなく、100年も前に作られた「タゴール・ソング」が、今もなお個人の魂に寄り添ってくれる「うた」であり続けているのだ。
まるで、ポピュラー・ミュージックのように。
別に懐古的な老人や、伝統主義者たちだけではない。
ストリートのラッパーや、EDMやデスメタルも聴く音楽ファン、スラム育ちの青年、今風の女子大生まで、誰もがタゴールの「うた」に寄り添われて生きている。
念のために言うと、ここで「ベンガル」と書いているのは、コルカタを含むインド領ウエストベンガル州と、ベンガル地方の東部すなわちバングラデシュの両方のこと、つまりベンガル全域のことである。

別にベンガルに限らなくても、インド人は(南アジア人は、と言ってもよい)伝統をとても大事にしている人々だ。
このブログでもいつも紹介しているように、インドの若手ミュージシャンは、古典音楽の楽器や歌唱法をロックに取り入れたり、伝統音楽をサンプリングしてヒップホップのトラックを作ったりもしている。
ミュージシャンに限らなくても、南アジアには信仰を大事にしている人が多いから、そういう人たちは何百年、何千年前の言葉を日々祈りのなかで唱えていたりもする。
だが、この映画を見る限り、タゴール・ソングは、そういった「俺たちの誇るルーツ」とか「信仰」とは全く違うもののように思える。
なんというか、タゴール・ソングは、もっと普遍的で、かつ個人的な「うた」なのだ。

タゴール・ソングのテーマはさまざまだ。
『カントリーロード』や『ふるさと』みたいなものもあれば、ブルーハーツの『月の爆撃機』みたいなものもある。
ゲーテの詩みたいなものもあれば、黒人霊歌みたいなものもあるし、最近のアメリカあたりの女性シンガーみたいに「女性を自立した個人として扱ってほしい」と歌うものまである。

いずれにしても、100年も前の歌が、単なる伝統としてではなく、極めてリアルなものとして、現代を生きるベンガルの人々に語りかけているのだ。
映画に出てくる人々の年齢や宗教、階層や立場が極めて多様であるということからも、タゴール・ソングが持つ普遍性が分かる。
タゴール・ソングは、コミュニティや世代の違いを超えて、ベンガルの人々にとって特別な存在なのである。
いったいタゴール・ソングの何が特別なのだろうか。

ここまで書いてこう言うのもなんだが、私はタゴール・ソングの音楽としての素晴らしさについては、じつは今でもよく分かっていない。
メロディーは決してキャッチーではなく、つかみどころがない。
それに唱歌のようにシンプルに歌われるタゴール・ソングは、インドの古典音楽ヒンドゥスターニーやカルナーティックのように、ヴォーカリストの超人的の技量を味わうものでもないようだ。
シンプルな4拍子やワルツではなく、歌詞に合わせて拍が変わったりするから、リズムも取りにくい。
要するに、言葉を超えて伝わりやすい要素が、ほとんどない音楽なのだ。

これは、きっとまず初めに伝えるべき「ことば」があり、その「ことば」を活かすための抑揚のようなものとして、メロディーが作られているからだろう。
それは、一般的なポピュラーミュージックのような、一定のリズム(グルーヴ)に沿ったメロディーではない。
タゴール・ソングの旋律は、言葉に合わせて強弱や長短のつけられた、捉えどころはなくても吹く風のように心地の良い「フロウ」(流れ)なのだ。
おそらくだが、タゴール・ソングの本当の良さを理解するには、ベンガル語を正しく理解し、その表現や響きの美しさを感じられるようになることが必要なのだろう。
大詩人タゴールが作った「うた」は、きっと何よりも「ことば」を大事にした「うた」なのだ。

日本にも昔はそういう「うた」があった。
寄席に行くと、落語の合間に俗曲とか粋曲と呼ばれる歌を三味線に合わせて歌う人が出てくることがある(柳家小菊さんとか)。
「梅は咲いたか桜はまだかいな」みたいな端歌とか、「会えば短い、会わねば長い、待てば尚更、長い夜」なんていう都々逸なんかをやってくれるのだが、こういう歌も、まず「ことば」ありきで節がつけられているから、何拍子という概念はほとんど無かったりもする。
伝統音楽に疎くても、そういう「うた」を聴いて、いいものだなあ、感じる日本人は多いはずだ。

(ところで、先ほどから、メロディーよりも「ことば」を大事にした歌という意味で、ひらがなで「うた」と書いている。余談になるが、馴染みのあるところだと、盆踊りの「炭坑節」や、わらべうたの「あんたがたどこさ」も「言葉のリズムを活かすための拍子の破調」がごく自然に取り入れられた「うた」だ。四拍子でリズムを取っていると、おかしなことになってくるので試してみてほしい。きっと日本語を理解しない人にとっては、タゴール・ソングのように捉えどころのないメロディーだと思われてしまうことだろう)

我々日本人は、いつのまにかそうした日本語の「ことば」を活かしたフロウ/メロディーを持つ音楽を追いやり、欧米式のポップミュージックを自分たちの歌として受け入れてきた。
もちろん、今日の日本語のポピュラー・ミュージックでも、優れた作詞家・作曲家が作った歌を聴いて、言葉とメロディーとの間に必然性とでも言うべき関係を感じることはあるけれども、音楽家ではなく「ことば」の人が作る、そよ風のように自然な旋律の伝統は、日本からはもう失われてしまったのかもしれない。

話をタゴール・ソングに戻そう。
こんなふうに書くと、タゴール・ソングはベンガル語を解さない我々にとって、音楽的な魅力に乏しい「うた」のように思えてしまうかもしれないが、じつはこのことは、この映画の魅力にほとんど影響を及ぼさない。

歌を作る人は、自分の作品がいつまでも人々の心に影響を与えるものであってほしいと願うことだろう。
そして、歌を聴く人もまた、歌に自分の心にぴったりとはまる「ことば」を求めているはずだ。
そんな音楽と人間の理想的な関係が、100年前の「うた」と現代を生きる人々の間に存在している。
この奇跡のような事実を扱っているというだけで、この映画の面白さはもう半分以上決まったようなものである。
この面白さの前では、メロディーの「つかみどころの無さ」なんて、ほとんどどうでもいい要素なのだ。
『タゴール・ソングス』に出てくる人たちは、プロの音楽家も一般人も、それぞれがタゴールとの間に特別な関係を築いている。
その誰もが愛おしくて、また彼らの心のうちを、少しずつ効果的に我々に届けてくれる構成もすばらしい。
彼らがときに誇らしげに、ときに「ことば」と向き合うように歌うタゴール・ソングは、その歌い手の表情や佇まいを含めて、例えようもなく魅力的である。

もう一つ付け加えると、ベンガル人たちと「ことば」の距離の近さがまた素敵なのだ。
(「ことば」というのは、「詩」と言いかえても良いのだけど、詩というと日本ではあまりにも非日常的な存在になってしまうなので、ひらがなで「ことば」と書くことにした)
女子大生が会話の中で唐突に「私も詩人よ」と言い出したりしても、誰にも変に思われたりせず、自然と「無理するなって。君の詩、読んだことないけど」なんて返される。
そんなベンガル人たちと「ことば」との距離感は、とても好ましいもののように思える。
我々は、過去の人々が(もちろん、現在の人々も)心をこめて紡いだ「ことば」を、あまりにも自分から遠ざけてはいないだろうか

この映画を見れば、100年も前の「うた」や「ことば」とともに生きることができるベンガルの人々が、きっとうらやましく思えるはずだ。
それに、100年前の「うた」や「ことば」を糧に生きている彼らが、なんだかとてもかっこよくも見える。
さて、そうした「うた」も「ことば」も持たない我々は、どうやって生きてゆこうか。
映画『タゴール・ソングス』は、遠いベンガルの人々を見ていたはずなのに、そんなことを思わされたりもする作品である。




4月1日のトークでは、「タゴールソングとポピュラー音楽」というテーマで佐々木監督とお話しします。
どんなことを話そうか、どんな音源を紹介しようか、いろいろありすぎて、今から大いに迷っています。
タゴールを知っている人も知らない人も、南アジア(この映画でいうとインドやバングラデシュ)か音楽か詩か映画か人間か社会のいずれかに興味がある人であれば、楽しんでもらえるものになるのではないかと思います。
ポレポレ東中野で、20:50から上映開始、上映後にトークです。
そして、他の日のラインナップも、とても面白そうなテーマのものが揃っています。

遅い時間になりますが、ぜひお越しください!



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