2021年10月
2021年10月24日
あらためて、インドのヒップホップの話(その5 タミル編 ルーツへの愛着が強すぎるラッパーたち)

これまで、ムンバイ編、デリー&パンジャービー編、ベンガルール編、コルカタ&その他北インド編と4回に分けてお届けしてきたインドのヒップホップの歴史。
今回は満を持してサウスのヒップホップを紹介!
ここでいう「サウス」は、当然ながらアトランタやマイアミのことではなく、南インドのことで、今回は南インドのなかでもタミルのラッパーたちを特集する。
インド南部のタミルナードゥ州は、あの「スーパースター」ラジニカーント(『ムトゥ 踊るマハラジャ』他多数)の故郷であり、自分たちの文化への強い誇りを持つことでも知られている(まあインドはどこもたいていそうだけど)。
また、同州の公用語タミル語でラップするラッパーたちは、海外でも自身のアイデンティティを守り続けている。
タミル語ラップの歴史は古く、1994年の映画"Kadhalan"の挿入歌であるこの曲は、インドのラップ史の最初期の名曲とされている。
Suresh Peters "Pettai Rap" (from "Kadhalan")
コミカルな曲調ながらもオールドスクールなビートとフロウにセンスを感じるこの曲は、インド映画音楽シーンの神とも言えるA.R.ラフマーンの手によるもの。
ラップしているのは映画のプレイバックシンガーなどで活躍しているSuresh Peters.
この曲を聞けば、いかにもな映画音楽的な曲調で知られるラフマーンが、じつは同時代の西洋ポピュラーミュージックにもかなり造詣が深いことが分かる。
(そういえば、後ラフマーンがミック・ジャガーやレニー・クラヴィッツらと結成したスーパーバンド、Super Heavyもかなりかっこよかった)
実際、タミル系のルーツを持つバンガロールのBrodha Vはこの曲に大きな影響を受けているという。
あのラフマーンがインドのヒップホップシーンにも大きな影響を与えていたとは驚きだが、しかしこの曲はあくまでも例外中の例外で、このあとタミルナードゥ州内でヒップホップが爆発的に流行するということにはならなかった。
タミル語ラップのシーンもまた、その黎明期は海外在住のアーティストたちによって牽引されていた。
タミル人には、イギリス統治時代から、労働者としてマレーシアやシンガポールなどの東南アジア地域に移住した者たちが多い。
その中でも、マレーシアに暮らすタミル人は、貧困のなかで暮らしている人々が多いようで、そうした境遇からもヒップホップカルチャーへの共感が大きく、首都のクアラルンプールは「タミル語ヒップホップの首都」とまで呼ばれているという。
1996年にクアラルンプールで結成されたPoetic Ammoの中心人物Yogi Bが2006年にリリースしたアルバム"Vallavan"はタミル語ラップ黎明期の名盤とされている。
その収録曲"Madai Thiranthu"のミュージックビデオがかなりかっこいいのだが、YouTubeの動画が直接貼り付けられない仕様になっているようなので、リンクを貼っておく。
アフリカ系アメリカ人の文化では、床屋(barber shop)はコミュニティの交流の場としても意味を持ってきたことが知られているが、これはそのマレーシア系タミル人版!
ヒップホップカルチャーの見事なタミル的翻案になっている。
こちらは'00年代からカジャンの街を拠点に活動しているラップグループK-Town ClanのRoshan Jamrockと、同じくマレーシア出身のYoung Ruff(いずれもタミル系)の共演で、その名も"Tamilian Anthem".
Young Ruff "Tamilian Anthem" Produced by Roshan Jamrock
マレーシアからシンガポールに目を移すと、2007年にデビューしたタミル系フィメールラッパーのLady Kashがいる。
Lady Kash "Villupaattu"
この曲は、タミルの伝統的な物語の形式(音楽にあわせて語る)'Villupattu'をタミル人にとってのラップのルーツの一つとして讃えるというコンセプト。
マレーシアのラッパーたち同様に、彼女がタミル人としてのアイデンティティを大事にしていることが分かる。
シンガポールはインド系住民が多いが、その半分以上がタミル人で、あの『ムトゥ 踊るマハラジャ』も、シンガポールのリトルインディアで江戸木純によって「発見」されている。
シンガポールのタミル系ラッパーでは、他にも若手のYung Rajaなどが活躍している。
東南アジア以外では、インドのすぐ南、スリランカにも多くのタミル人が多く暮らしている。
スリランカは人口の約75%をシンハラ人、約15%をタミル人が占めており、民族対立による内戦が2009年まで続いていた。
世界で最も有名なタミル系のラッパーを挙げるとすれば、それは間違い無くスリランカのタミル人をルーツを持つイギリス人のM.I.Aということになるだろう。
スリランカで生まれ、幼い頃にイギリスに移住した彼女のラッパーネームは「軍事行動中に行方不明になった人物」(Missing In Action)を表しており、「タミルの独立を目指す活動のなかで消息不明になった父のことを指している」と説明されることが多いが、実際には行方不明になったのは父親ではなくイトコらしい。
彼女がタミルらしさを強く打ち出したアルバム"Kala"からのこの曲を聴いてもらおう。
M.I.A "Birdflu"
UKの南アジア系音楽シーンに詳しい栗田知宏さんによると、この曲には、タミル語映画Jayam(2003年)の劇中曲 "Thiruvizhannu Vantha" のウルミ(両面太鼓)のビートが用いられており、曲中に入っている子どもの声はタミルの手遊び歌とのこと。
夜のシーンの背景に見られるトラのマークは、スリランカで武装闘争を繰り広げていた「LTTE(タミル・イーラム解放の虎)のロゴ」だという説もあるそうだ。
M.I.Aは2000年にデビューすると、そのラディカルな姿勢と斬新な音楽性で一躍注目を集め、MadonnaやNicki Minajと共演するなど、業界内でも高い評価を得た。
しかしながら、彼女のインド国内への影響は、そこまで大きくはなさそうで、私の知る限りでは、インド国内のミュージシャンから、影響を受けたアーティストとして彼女の名前が上がったり、インド国内の音楽メディアで彼女が大きく取り上げられているのを見た記憶はない。
その理由は、おそらく彼女のルーツがインドではなくスリランカであること、彼女がタミル語ではなく英語でラップし、タミル系コミュニティのスターというより、世界的な人気ラッパーである(つまり、自分たちのための表現者ではない)といったことではないかと思う。
また、彼女がいつもタミル的なサウンドにこだわっているわけではなく、普段は非常に個性的ではあるが、特段南アジア的ではないスタイルで活動していることも、インドでの注目の低さと関係しているかもしれない。(例えば、テルグー系アメリカ人フィメール・ラッパーで、最近活動の拠点をインドに移しているRaja Kumariは、ビジュアルやサウンドで常にインド的な要素を表出している)
もっとも、M.I.Aのデビュー当時の'00年代には私はインド国内のシーンに注目していなかったので、その頃にインドでも大きな話題となっていた可能性はある。
また、インド国内の音楽メディアはどうしてもムンバイやデリーのシーンを中心に取り上げる傾向があるので、もしかしたらタミルナードゥでは彼女は根強い人気があるのかもしれない。
スリランカ本国のタミル系ラッパーでは、Krishan Mahesonが有名だ。
彼は90年代から活躍していたスリランカのラップグループBrown Boogie NationやRude Boy Republic(いずれも英語でラップしていた)らの影響を受けてラッパーとなり、2006年にリリースした"Asian Avenue"は、世界中のタミル人に受け入れられたという。
最近ではインド国内のタミル映画のサウンドトラックでの活躍も目立っているが、正直あまりピンとくる曲を見つけられなかったので、今回は楽曲の紹介を見送る。
…思わず在外タミル系ラッパーの紹介に力が入ってしまったが、とにかくこうした東南アジアやスリランカのアーティストたちが、タミル語ラップ(あるいはタミル系のアイデンティティを表現した英語ラップ)を開拓し、インターネット等を通してタミルナードゥの若者たちにも影響を与えたことは確かだろう。
同じインド人でも、タミルのラッパーたちが思い描く「世界地図」は、たとえばイギリスや北米への移民が多い北インドのパンジャービーたちとは、おそらく全く別のものになるということは、インドのカルチャーを考える上でちょっと頭に入れておきたい。
インド国内、タミルナードゥ州内のラッパーでは、チェンナイを拠点に活動している二人組Hip Hop Tamizhaが古株にあたる。
彼らのユニット名はそのものずばり「タミルのヒップホップ」を意味しており、2015年にリリースしたこの"Club Le Mabbu Le"で注目を集めた。
Hip Hop Tamizha "Club Le Mabbu Le"
率直に言うと結構ダサいのだが、単に欧米や在外タミル人ラッパーの模倣に終わるのではなく、たとえダサかろうと自分たちならではのローカルっぽさをちゃんと混ぜてくれるところが、彼らのいいところかもしれない。
ちなみにこの曲は「女性への敬意を欠く」いう昔のヒップホップにありがちな批判を受けたりもしている。
批判したのは同郷のフィメール・ラッパーSofia Ashraf.
社会問題を鋭く批判するリリックで知られた存在で、以前この記事で特集しているので、興味がある人はぜひ読んでみてほしい。
Hip Hop Tamizhaは、その名の通りタミルへの誇りが強すぎるラッパーたちで(まあ今回紹介しているアーティストは全員そうだが)、タミル人たちの伝統である「牛追い祭」である「ジャリカットゥ」をテーマにした"Takkaru Takkaru"のミュージックビデオでは、もはやヒップホップであることをほとんど放棄して、タミル映画まんまの映像とサウンドを披露している。
(こちらの記事参照。インド映画や南アジアに興味があるなら、見ておいて損はない)
チェンナイのMC Valluvarは、そこまで人気があるラッパーではないようだが、地元のストリート感覚あふれるこのミュージックビデオは最高で、以前からの個人的なお気に入りの一つ。
MC Valluvar "Thara Local"
とくに後半、道端で唐突に始まるダンスのシーンで、何事かとそれを眺めるオバチャンや子どもたちがリアルですごくいい。
古都マドゥライのラップグループ、その名もMadurai Souljourも郷土愛が溢れまくっていて、ごく短いこのトラックは、彼らの名刺がわりの一曲。
Madurai Souljour "Arimugam"
ところで、タミル文化の面白いところは、メインカルチャーとカウンターカルチャーが渾然一体となっているところだと思っている。
インド最大の話者数を誇る北インドのヒンディー語圏では、ラップやインディーロックのようなカウンターカルチャーを実践する若者たちは、エンターテイメントの主流にして王道であるボリウッドの商業的娯楽映画をちょっとバカにしているようなところがある。
例えば、ミュージシャンがインタビューで「ボリウッド映画の音楽なんてやりたくないね。自分は金のために音楽をやっているんじゃないんだ」みたいに言っているのを目にすることがたびたびあるのだ。
ところが、タミルの場合、映画は彼らの誇りや文化の一部であり、カウンターカルチャーとかインディペンデントのアティテュードとか関係なく、そこに参加することは、表現者にとって最大の名誉だと考えられているようなフシがある。
インド国外のラッパーを含めて、ここまでにこの記事で紹介したラッパーのほぼ全員が、タミル映画のサウンドトラックに参加しているし、M.I.Aでさえも、上述の通り非常にタミル映画っぽいテイストのミュージックビデオを作ったりしている。
もしスーパースター(ご存知の通り、比喩ではなく、オフィシャルな「別名」が「スーパースター」)であるラジニカーントの映画に参加できたりしたら、もうこの上ない僥倖で、たとえ両親がラッパーになることに反対していたとしても、一族の誇りとして泣いて喜んでくれることだろう。
例を挙げるとすれば、タミル人が多く暮らすムンバイの最大のスラム「ダラヴィ」を舞台にした映画"Kaala"(日本公開時の邦題は「カーラ 黒い砦の闘い」。主演はスーパースター!)のサウンドトラックには、実際にダラヴィ出身のタミル系ラップグループDopeadeliczや、マレーシアのYogi BやRoshan Jamrockも参加している。
"Semma Weightu"
Music: Santhosh Narayanan
Singers: Hariharasudhan, Santhosh Narayanan
Lyrics/Rap Verses: Arunraja Kamaraj, Dopeadelicz, Logan"Katravai Patravai"
Music: Santhosh Narayanan
Lyrics : Kabilan, Arunraja Kamaraj, Roshan Jamrock
RAP : Yogi B, Arunraja Kamaraj, Roshan Jamrock
(詳しくはこちらの記事から)
タミルのラッパーが映画音楽に参加している例は他にもかなりありそうなのだが、きりがないので今回は割愛。
以前、マサラワーラーの武田尋善さんが「タミル人にとってのラジニカーントはJBみたいな存在」と言っていたのを聞いて、ああなるほどと思ったのだが、黒人の誇りを力強く鼓舞したジェームス・ブラウンのように、ラジニカーントもまた「タミル庶民の誇り」みたいに扱われているフシがある。(ちなみに彼自身はタミル人ではなく、マラータ系)
タミル人のなかには、北インドの言語や人々が幅をきかせているインドの現状に対する反発みたいなものが存在していて、それがメインカルチャーとかカウンターカルチャーとかに関係なく、一枚岩のアイデンティティにつながっているのだろう。
ところで、先ほど紹介した"Kaala"の監督Pa.Ranjithは、2017年にCasteless Collectiveというバンドを結成している。
彼はもともとカースト制度の枠外に位置づけられ、過酷な差別の対象となってきた「ダリット」の出身である。
Casteless Collectiveは、彼がダリットのミュージシャンを集め、その名の通りカースト制度などのあらゆる抑圧を否定するというコンセプトのバンドなのだ。
Casteless Collective "Vada Chennai"
タミルの伝統音楽である'Gaana'とラップやロックなどを融合した彼らの音楽は、サウンド的にはヒップホップとは呼べないかもしれないが、ルーツを大事にしつつもマイノリティを勇気付ける彼らのアティテュードには、かなりヒップホップ的な部分があると言ってもいいだろう。
音楽ジャンルやアートフォームとしてのヒップホップはアメリカで生まれたが、ヒップホップ的な感覚は時代や場所を問わず遍在している。
逆説的に言えば、だからこそ、その感覚を純化させ具体化したヒップホップというジャンルはすごいということになる。
Casteless Collectiveは12人にもなる大所帯バンドだが、その中のラッパーArivuは、同様のテーマのソロ作品を通して、よりヒップホップ的なスタイルの表現も追求している。
Arivu x ofRo "Kallamouni"
このCasteless Collective一派の活動には、これからも注目していきたいところ。
Netflix Indiaでは南インドのヒップホップシーンをテーマにしたドキュメンタリー"Namma Stories"も公開され、「サウス」のヒップホップはこれからますます熱くなりそうだ。
最後に、カナダ在住のタミル系ラッパー(スリランカにルーツを持つ)Shah Vincent De Paulを紹介したい。
彼はタミルの伝統楽器ムリダンガムのリズムとラップの融合という新しい試みに取り組んでいる。
在外タミル人と国内との文化の還流も、今後ますます注目すべきテーマになりそうである。
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2021年10月15日
『ジャッリカットゥ 牛の怒り』について、もう1回だけ書いておきたい
10月10日(日)、水戸映画祭にて、山田タポシさんの司会のもと、安宅直子さんと『ジャッリカットゥ 牛の怒り』のトークセッションをしてきた。
以前も紹介した通り、この映画はインドの山あいのクリスチャン集落を舞台に、屠られようとしていた牛が暴走し、村の男たちをパニックに駆り立ててゆくというもの。(いろんな意味ですごい映画なのだが、ストーリー的にはただそれだけだ)
私はインド映画には相当疎いのだけど、映画をはじめとするインド事情にめちゃくちゃお詳しい安宅さん、タポシさんといっしょだったので、大船に乗った気持ちで「牛の迫力がすごかった」レベルのしょうもない感想を話させてもらった。
会場の水戸芸術館ACM劇場は音響がすばらしく、爆走する牛と終始絶叫している男どもの凄まじいパワーに圧倒されてしまって、それ以上の感想がほとんど出てこなかったのだ。
当日の安宅さんの説明にもあったとおり、インド映画には(他の国の映画と同様に) 娯楽映画と芸術映画があり、『ジャッリカットゥ』は芸術映画に分類される。
(ただし、この作品が単に高尚なだけの映画ではなく、狂気とも言えるエネルギーとサービス精神にあふれた映画であるということは強めに主張しておきたい)
『ジャッリカットゥ』はインド南部のケーララ州で作成された同州の言語マラヤーラム語の映画だ。
インド国内では比較的話者数の少ない言語(3,500万人くらい)であるうえに、マーケットの小さい芸術映画なので、日本で公開されるインド映画の中では低予算で作られた作品ということになるようだ。
低予算で作られたパニック映画といえば、アメリカで粗製濫造され、もはやひとつの文化にもなっているサメ映画が有名だ。
サメ映画界では、予算が少ないと、お金がかかるCGやアニマトロニクスがあまり使えないので、サメがテーマなのにサメがほとんど出てこないという笑い話がある。
唐突にこの話を思い出した私は、ふと『ジャッリカットゥ』の中で牛に登場するシーンはどれくらいあるのか、調べてみたくなった。
2回ほど鑑賞した印象では、全体の3分の2が牛の爆走シーンで、残り3分の1くらいが人間ドラマかな、と思っていた。
『ジャッリカットゥ』はインド映画にしては短い91分の作品である。
牛が爆走するシーンでも、牛ではなく群衆を映しているカットもあるわけだから、牛が映っているのは爆走シーンの半分、だいたい30分くらいかな、と予想していた。
ところが、いざ調べてみたら全然違った。
映画の中で、生きている牛のごく一部でもスクリーンに映っているシーンは、なんと合計でたったの5分半ほどしかなかったのである。
(生きている牛限定。牛肉は除く)
つまり、この映画の主役とも言える牛が登場するシーンは、映画全体のたったの6%ほどしかないのだ。
カット数で言うと、牛が登場するシーンはだいたい70カットくらい。
そのほとんどが、1秒から2秒のごく細かいカットである。
牛を追う、あるいは牛に追われるシーンでは、短いカットがテンポよく畳み掛けられ、じつは牛は一瞬しか映っていなくても、狂気に駆られた男たちの迫真の演技によって、そこにはいない牛の存在が感じられるのだ。
つまり、この映画は「牛がほとんど出てこないのに、強烈に牛の存在を感じさせる」という点でも、勢い任せのようでいて、すごく緻密に作られているのである。
しかも、この映画の魅力は切り替えの激しい暴走シーンだけではない。
怒号飛び交う短いカットと、森や月や落日を映した静かで長いカットの対比は、まるで自然/神の悠久の時間と、欲に囚われた人間社会の時間を表しているかのようで、緊張と緩和の独特なリズムを生み出している。
…とかなんとか、批評家気取りのたわごとは置いておくとして。
おそらくはこの『ジャッリカットゥ』も、撮影にあたって、その予算ゆえに、牛の登場シーンをふんだんには使えないという制約があったことだろう。
そこを独特なカット割りで工夫しつつ、強烈なリズム感や緊張感をも演出し、この超個性的な作品を、B級などではまったくない、文学的ですらある芸術映画に仕立て上げるとは、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督、ただものではない。
時間があったら、様々な動物系パニック映画を見ながら(ゾンビ映画でもいいかもしれない)、人間を襲うキャラクターたちが映画の中でどれだけの時間登場しているのか、調べて比べてみるのも面白いかもしれない。(俺はやらないけど)
ふと調べてみたら、この手の映画の元祖にして本家とも言える『ジョーズ』 も、「サメはほとんど出てこない」らしい。
何が言いたいのかというと、インド映画は沼に例えられるマニアックなジャンルで、しかと海ほどの広さと深さのある世界ではあるけれど、たまにはこうしてインドという枠を取っ払って見てみるのもいいんじゃないか、ということだ。
とくに『ジャッリカットゥ』みたいな芸術映画はそういう見方をしてもいいタイプの作品だろう。
そういえば、水戸映画祭のバックステージでも、生活音がリズムを刻む演出が北野武の『座頭市』っぽかったという話をタポシさんとしたんだった。
とにかく、この『ジャッリカットゥ』、未見の方は、インド映画というジャンルに関係なく見てみてほしい。
DVD化や配信を待たず、映画館で見れば、なおさら狂気の世界に浸ることができる。
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以前も紹介した通り、この映画はインドの山あいのクリスチャン集落を舞台に、屠られようとしていた牛が暴走し、村の男たちをパニックに駆り立ててゆくというもの。(いろんな意味ですごい映画なのだが、ストーリー的にはただそれだけだ)
私はインド映画には相当疎いのだけど、映画をはじめとするインド事情にめちゃくちゃお詳しい安宅さん、タポシさんといっしょだったので、大船に乗った気持ちで「牛の迫力がすごかった」レベルのしょうもない感想を話させてもらった。
会場の水戸芸術館ACM劇場は音響がすばらしく、爆走する牛と終始絶叫している男どもの凄まじいパワーに圧倒されてしまって、それ以上の感想がほとんど出てこなかったのだ。
当日の安宅さんの説明にもあったとおり、インド映画には(他の国の映画と同様に) 娯楽映画と芸術映画があり、『ジャッリカットゥ』は芸術映画に分類される。
(ただし、この作品が単に高尚なだけの映画ではなく、狂気とも言えるエネルギーとサービス精神にあふれた映画であるということは強めに主張しておきたい)
『ジャッリカットゥ』はインド南部のケーララ州で作成された同州の言語マラヤーラム語の映画だ。
インド国内では比較的話者数の少ない言語(3,500万人くらい)であるうえに、マーケットの小さい芸術映画なので、日本で公開されるインド映画の中では低予算で作られた作品ということになるようだ。
低予算で作られたパニック映画といえば、アメリカで粗製濫造され、もはやひとつの文化にもなっているサメ映画が有名だ。
サメ映画界では、予算が少ないと、お金がかかるCGやアニマトロニクスがあまり使えないので、サメがテーマなのにサメがほとんど出てこないという笑い話がある。
唐突にこの話を思い出した私は、ふと『ジャッリカットゥ』の中で牛に登場するシーンはどれくらいあるのか、調べてみたくなった。
2回ほど鑑賞した印象では、全体の3分の2が牛の爆走シーンで、残り3分の1くらいが人間ドラマかな、と思っていた。
『ジャッリカットゥ』はインド映画にしては短い91分の作品である。
牛が爆走するシーンでも、牛ではなく群衆を映しているカットもあるわけだから、牛が映っているのは爆走シーンの半分、だいたい30分くらいかな、と予想していた。
ところが、いざ調べてみたら全然違った。
映画の中で、生きている牛のごく一部でもスクリーンに映っているシーンは、なんと合計でたったの5分半ほどしかなかったのである。
(生きている牛限定。牛肉は除く)
つまり、この映画の主役とも言える牛が登場するシーンは、映画全体のたったの6%ほどしかないのだ。
カット数で言うと、牛が登場するシーンはだいたい70カットくらい。
そのほとんどが、1秒から2秒のごく細かいカットである。
牛を追う、あるいは牛に追われるシーンでは、短いカットがテンポよく畳み掛けられ、じつは牛は一瞬しか映っていなくても、狂気に駆られた男たちの迫真の演技によって、そこにはいない牛の存在が感じられるのだ。
つまり、この映画は「牛がほとんど出てこないのに、強烈に牛の存在を感じさせる」という点でも、勢い任せのようでいて、すごく緻密に作られているのである。
しかも、この映画の魅力は切り替えの激しい暴走シーンだけではない。
怒号飛び交う短いカットと、森や月や落日を映した静かで長いカットの対比は、まるで自然/神の悠久の時間と、欲に囚われた人間社会の時間を表しているかのようで、緊張と緩和の独特なリズムを生み出している。
…とかなんとか、批評家気取りのたわごとは置いておくとして。
おそらくはこの『ジャッリカットゥ』も、撮影にあたって、その予算ゆえに、牛の登場シーンをふんだんには使えないという制約があったことだろう。
そこを独特なカット割りで工夫しつつ、強烈なリズム感や緊張感をも演出し、この超個性的な作品を、B級などではまったくない、文学的ですらある芸術映画に仕立て上げるとは、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督、ただものではない。
時間があったら、様々な動物系パニック映画を見ながら(ゾンビ映画でもいいかもしれない)、人間を襲うキャラクターたちが映画の中でどれだけの時間登場しているのか、調べて比べてみるのも面白いかもしれない。(俺はやらないけど)
ふと調べてみたら、この手の映画の元祖にして本家とも言える『ジョーズ』 も、「サメはほとんど出てこない」らしい。
何が言いたいのかというと、インド映画は沼に例えられるマニアックなジャンルで、しかと海ほどの広さと深さのある世界ではあるけれど、たまにはこうしてインドという枠を取っ払って見てみるのもいいんじゃないか、ということだ。
とくに『ジャッリカットゥ』みたいな芸術映画はそういう見方をしてもいいタイプの作品だろう。
そういえば、水戸映画祭のバックステージでも、生活音がリズムを刻む演出が北野武の『座頭市』っぽかったという話をタポシさんとしたんだった。
とにかく、この『ジャッリカットゥ』、未見の方は、インド映画というジャンルに関係なく見てみてほしい。
DVD化や配信を待たず、映画館で見れば、なおさら狂気の世界に浸ることができる。
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2021年10月08日
デリーのラップデュオ Seedhe Mautのアルバム『न』(Na)がヤバい!
今更こんなことを言うのもなんだが、ラップというのは「言葉」の音楽だ。
なので、聞いて直感的に理解できない言語(私の場合、つまり日本語以外)のラップのアルバムを1枚通して聴くっていうのはけっこうキツい。
同じラッパーてあれば、似たようなフロウや世界観の曲が多くなるし、そもそもアルバム1枚あたり2〜3曲はつまらない曲が入っている。
そういう曲は、じつはリリックがすごく良かったりするのかもしれないが、何を言っているか分からない私には知ったこっちゃない。
次からは、その曲を飛ばすようになるだけだ。
そんなわけで、海外のラッパーのアルバムを初めて聴くときは、楽しみ半分、気が重いの半分くらいの微妙な気分なことが多い。
コンセプトとかが大事なのも分かるが、端的にかっこいい曲だけ聴きたいのだ。
今回は、そんな私の外国語ラップに対する先入観を大きく打ち破ったインドのヒップホップ作品を紹介したい。
それは、デリーのラップデュオSeedhe Mautが9月にリリースしたアルバム『न』。
この作品は、シンプルなビートで客演もほとんどないという、言ってみればかなり「派手さ」には欠ける作品なのだが、ここのところ最初から最後まで、毎日のように聴きまくっている。

Seedhe Maut
ちなみにデーヴァナーガリー文字で『न』と書くタイトルは、'Na'と読むようで、アルバムの曲名は全てNから始まる曲名で統一されている。
彼らはこの作品をアルバムではなくミックステープと位置付けているようだが(ヒップホップにおけるミックステープの定義は諸説あるが、アルバムよりもカジュアルな作品集と考えれば概ね間違いないだろう)、楽曲の質の高さや統一感は、どう考えてもアルバムと呼ぶほうがしっくりする。
Seedhe Maut "Namastute"
この曲がオープニングトラック。
かなり音数を削ぎ落としているにもかかわらず緊張感を保ち続けるビートと、熟練のタブラプレイヤーにように千変万化するフロウに乗せて言葉を吐き出すラップ。
このアルバムの魅力は、単純に言ってしまえば、ただそれだけだ。
無機質なビートと表現力豊かなラッパーの声が、立体的な音の構造物となって、ときに跳ね、ときに畳み掛け、ときにスカしながら緩急をつけてリスナーの耳に流れ込んでくる。
要は、声を使ったリズム音楽としてのヒップホップの魅力が詰まったアルバムなのだ。
なので、聞いて直感的に理解できない言語(私の場合、つまり日本語以外)のラップのアルバムを1枚通して聴くっていうのはけっこうキツい。
同じラッパーてあれば、似たようなフロウや世界観の曲が多くなるし、そもそもアルバム1枚あたり2〜3曲はつまらない曲が入っている。
そういう曲は、じつはリリックがすごく良かったりするのかもしれないが、何を言っているか分からない私には知ったこっちゃない。
次からは、その曲を飛ばすようになるだけだ。
そんなわけで、海外のラッパーのアルバムを初めて聴くときは、楽しみ半分、気が重いの半分くらいの微妙な気分なことが多い。
コンセプトとかが大事なのも分かるが、端的にかっこいい曲だけ聴きたいのだ。
今回は、そんな私の外国語ラップに対する先入観を大きく打ち破ったインドのヒップホップ作品を紹介したい。
それは、デリーのラップデュオSeedhe Mautが9月にリリースしたアルバム『न』。
この作品は、シンプルなビートで客演もほとんどないという、言ってみればかなり「派手さ」には欠ける作品なのだが、ここのところ最初から最後まで、毎日のように聴きまくっている。

Seedhe Maut
ちなみにデーヴァナーガリー文字で『न』と書くタイトルは、'Na'と読むようで、アルバムの曲名は全てNから始まる曲名で統一されている。
彼らはこの作品をアルバムではなくミックステープと位置付けているようだが(ヒップホップにおけるミックステープの定義は諸説あるが、アルバムよりもカジュアルな作品集と考えれば概ね間違いないだろう)、楽曲の質の高さや統一感は、どう考えてもアルバムと呼ぶほうがしっくりする。
Seedhe Maut "Namastute"
この曲がオープニングトラック。
かなり音数を削ぎ落としているにもかかわらず緊張感を保ち続けるビートと、熟練のタブラプレイヤーにように千変万化するフロウに乗せて言葉を吐き出すラップ。
このアルバムの魅力は、単純に言ってしまえば、ただそれだけだ。
無機質なビートと表現力豊かなラッパーの声が、立体的な音の構造物となって、ときに跳ね、ときに畳み掛け、ときにスカしながら緩急をつけてリスナーの耳に流れ込んでくる。
要は、声を使ったリズム音楽としてのヒップホップの魅力が詰まったアルバムなのだ。
このアルバムを聴けば、彼らがラップを「言葉の音楽」としてだけでなく、声とビートによるリズムのアンサンブルとしても大事にしていることが分かるはずだ。
このアルバムでは、ほとんどの曲のビートをSeedhe MautのかたわれであるCalmが自ら手掛けている。
だからこそ、ラップとの相乗効果を生み出すツボを押さえたビートのアレンジができているのだろう。
それに、言葉は分からなくても苛立ちや怒りが伝わってくるラップの表現力も素晴らしい。
このアルバムでは、ほとんどの曲のビートをSeedhe MautのかたわれであるCalmが自ら手掛けている。
だからこそ、ラップとの相乗効果を生み出すツボを押さえたビートのアレンジができているのだろう。
それに、言葉は分からなくても苛立ちや怒りが伝わってくるラップの表現力も素晴らしい。
彼らがラッパーとしてもビートメーカーとしても、非凡な才能を持っていることが感じられるアルバムだ。
Seedhe Maut "Naamcheen"
ちなみにこのアルバムに参加している外部のビートメーカーはSez on the BeatとDJ Saの二人。
どちらも作品にアクセントを加えるいい仕事をしている。
この"Nanchaku"では、プネー出身のラッパーMC STANとの共演が実現。
MC STANはファッションや気怠くも挑発的なラップ(スキルもめちゃくちゃ高い)のスタイルも含めて、インドのヒップホップシーンを一新した、いま最も勢いのあるラッパーだ。
Seedhe Maut "Nanchaku ft. MC STAN"
Seedhe Mautの二人が歯切れの良いラップを披露したあとの3番目のヴァースがMC STAN.
退屈そうにすら聞こえる彼のフロウが始まった瞬間に、楽曲の空気感を変えてしまう実力はさすがの一言。
このアルバムが、インドのヒップホップ作品の中でも際立ってカッコよく聴こえる最大の理由は、ビートがことごとく今っぽいことだと思う。
インドでは、スキルの高いラッパーの曲でもビートが垢抜けないことも多いし、意欲的なフュージョン(インド音楽との融合)作品でも、センスが悪くてださくなってしまうことも珍しくない。
『न』がすごいのは、その現代的なビートを、単にアメリカのヒップホップの模倣や無国籍なサウンドにとどめているのではなく、しっかりとインド的な音に仕上げていることだ。
たとえばこの曲。
Seedhe Maut "Natkhat"
他の国のラップでも、エスニックなアクセントとしてビートにインドっぽい音が使われることがないわけではないが、ここまでインド的で、かつここまで今の空気感のあるビートは、彼ら以外には世界中の誰も作ることができないだろう。
驚くべき才能の持ち主であるSeedhe Mautとは、いったいどのようなアーティストなのだろうか?
Seedhe Mautは、デリーに暮らすCalmとEncore ABJによって、2017年に結成された二人組だ。
影響を受けたラッパーは、Run The Jewels, Clipse, Black Hippy, Mobb Deepだというから、EminemやNasや2Pacらをフェイバリットに挙げることが多いガリーラッパー(後述)に比べると、世代的にも新しく、かつシブい趣味を持っているようだ。
2017年にファーストEP "2 Ka Pahada"を発表すると、早くもデリー新興ヒップホップレーベルAzadi Recordsの目にとまり、契約を結ぶことになる。
2018年には、当時インドのヒップホップシーンの話題を独占していたPrabh Deepとコラボレーションした"Class-Sikh Maut Vol.II"を、同レーベルの3番目のタイトルとしてリリースした。
このアルバムのタイトルは、Prabh Deepのデビューアルバム"Class-Sikh"に便乗したものであり、正直なところ、この頃の彼らの印象は、ターバン姿で強烈なラップを吐き出すPrabh Deepに比べてかなり地味なものだった。
その後、彼らはSezをビートメーカーに迎えたアルバム"Bayaan"や、Karan Kanchanと組んだヘヴィロック的なシングル"Dum Pishaach"をリリースするなど、精力的な活動を展開。
印DM(インド的EDM)アーティストのRitvizのトラックに客演した"Chalo Chalain"もとても良かったが、この頃もまだ、私はSeedhe Mautに対して「多様なビートを器用に乗りこなせるデリーのストリート系ラッパー」という印象しか持っていなかった。
そんなダークホース的な存在だった彼らは、つまり今回の『न』で大きく化けたのだ。
この大化けの理由は、やはりラッパーであるCalmが自らビートを手掛けたことにあるのではないか。
自分たちのフロウを熟知しているからこその、シンプルながらもラップと立体的に絡み合うビートが、楽曲の細部に至る緊張感を生み出している。
端的に言って、このアルバムは、ガリーラップ以降のインドのヒップホップの新しい到達点と言っていい。
(ガリーラップは、2010年代のムンバイのシーンで形成されたインド版ストリートラップのこと)
ムンバイのカラーが強かったガリーラップ以降のシーンでは、デリーのPrabh DeepやプネーのMC STANが新しいスタイルを提示していたが、いかんせん彼らの音楽は、本人のキャラクターの強さに負うところが大きかった。
Seedhe Mautに関しては、その革新性が彼らのキャラクターではなく、スキルとサウンドのセンスによるものであるところが特筆すべき点だろう。
実際、Seedhe Mautは、GQ India誌に「過去10年のインドのヒップホップの歴史はムンバイのガリーラップと同義だったが、Seedhe Mautがそれを変えることになる」と評されている。
また、彼らはその詩的かつ社会的なリリックでも高い評価を得ているようだ。
本来であれば、この「インドの地域別ヒップホップシーン特集」の続編として、タミルあたりのラッパーについて書こうと思っていたところ、彼らのアルバムがあまりにも素晴らしいので、この記事を先に書いてしまった。
(サウスのシーンはあまり追い切れていないので、じっくりと調べてから書きたいと思ってます)
Seedhe Maut, これからの活躍がますます楽しみなアーティストだ。
楽曲リリースのペースも早い彼らのこと、また近いうちに新しい作品を耳にすることができるだろう。
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Seedhe Maut "Naamcheen"
ちなみにこのアルバムに参加している外部のビートメーカーはSez on the BeatとDJ Saの二人。
どちらも作品にアクセントを加えるいい仕事をしている。
この"Nanchaku"では、プネー出身のラッパーMC STANとの共演が実現。
MC STANはファッションや気怠くも挑発的なラップ(スキルもめちゃくちゃ高い)のスタイルも含めて、インドのヒップホップシーンを一新した、いま最も勢いのあるラッパーだ。
Seedhe Maut "Nanchaku ft. MC STAN"
Seedhe Mautの二人が歯切れの良いラップを披露したあとの3番目のヴァースがMC STAN.
退屈そうにすら聞こえる彼のフロウが始まった瞬間に、楽曲の空気感を変えてしまう実力はさすがの一言。
このアルバムが、インドのヒップホップ作品の中でも際立ってカッコよく聴こえる最大の理由は、ビートがことごとく今っぽいことだと思う。
インドでは、スキルの高いラッパーの曲でもビートが垢抜けないことも多いし、意欲的なフュージョン(インド音楽との融合)作品でも、センスが悪くてださくなってしまうことも珍しくない。
『न』がすごいのは、その現代的なビートを、単にアメリカのヒップホップの模倣や無国籍なサウンドにとどめているのではなく、しっかりとインド的な音に仕上げていることだ。
たとえばこの曲。
Seedhe Maut "Natkhat"
他の国のラップでも、エスニックなアクセントとしてビートにインドっぽい音が使われることがないわけではないが、ここまでインド的で、かつここまで今の空気感のあるビートは、彼ら以外には世界中の誰も作ることができないだろう。
驚くべき才能の持ち主であるSeedhe Mautとは、いったいどのようなアーティストなのだろうか?
Seedhe Mautは、デリーに暮らすCalmとEncore ABJによって、2017年に結成された二人組だ。
影響を受けたラッパーは、Run The Jewels, Clipse, Black Hippy, Mobb Deepだというから、EminemやNasや2Pacらをフェイバリットに挙げることが多いガリーラッパー(後述)に比べると、世代的にも新しく、かつシブい趣味を持っているようだ。
2017年にファーストEP "2 Ka Pahada"を発表すると、早くもデリー新興ヒップホップレーベルAzadi Recordsの目にとまり、契約を結ぶことになる。
2018年には、当時インドのヒップホップシーンの話題を独占していたPrabh Deepとコラボレーションした"Class-Sikh Maut Vol.II"を、同レーベルの3番目のタイトルとしてリリースした。
このアルバムのタイトルは、Prabh Deepのデビューアルバム"Class-Sikh"に便乗したものであり、正直なところ、この頃の彼らの印象は、ターバン姿で強烈なラップを吐き出すPrabh Deepに比べてかなり地味なものだった。
その後、彼らはSezをビートメーカーに迎えたアルバム"Bayaan"や、Karan Kanchanと組んだヘヴィロック的なシングル"Dum Pishaach"をリリースするなど、精力的な活動を展開。
印DM(インド的EDM)アーティストのRitvizのトラックに客演した"Chalo Chalain"もとても良かったが、この頃もまだ、私はSeedhe Mautに対して「多様なビートを器用に乗りこなせるデリーのストリート系ラッパー」という印象しか持っていなかった。
そんなダークホース的な存在だった彼らは、つまり今回の『न』で大きく化けたのだ。
この大化けの理由は、やはりラッパーであるCalmが自らビートを手掛けたことにあるのではないか。
自分たちのフロウを熟知しているからこその、シンプルながらもラップと立体的に絡み合うビートが、楽曲の細部に至る緊張感を生み出している。
端的に言って、このアルバムは、ガリーラップ以降のインドのヒップホップの新しい到達点と言っていい。
(ガリーラップは、2010年代のムンバイのシーンで形成されたインド版ストリートラップのこと)
ムンバイのカラーが強かったガリーラップ以降のシーンでは、デリーのPrabh DeepやプネーのMC STANが新しいスタイルを提示していたが、いかんせん彼らの音楽は、本人のキャラクターの強さに負うところが大きかった。
Seedhe Mautに関しては、その革新性が彼らのキャラクターではなく、スキルとサウンドのセンスによるものであるところが特筆すべき点だろう。
実際、Seedhe Mautは、GQ India誌に「過去10年のインドのヒップホップの歴史はムンバイのガリーラップと同義だったが、Seedhe Mautがそれを変えることになる」と評されている。
また、彼らはその詩的かつ社会的なリリックでも高い評価を得ているようだ。
本来であれば、この「インドの地域別ヒップホップシーン特集」の続編として、タミルあたりのラッパーについて書こうと思っていたところ、彼らのアルバムがあまりにも素晴らしいので、この記事を先に書いてしまった。
(サウスのシーンはあまり追い切れていないので、じっくりと調べてから書きたいと思ってます)
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