2020年07月

2020年07月29日

インドのLGBTQ+ミュージシャン(その2)

(「その1」はこちら)


前回の記事で、最近インドで発表された同性愛をテーマにしたミュージックビデオと、LGBTQ+シーン出身のシンガーソングライターPragya Pallaviを取り上げた。

今回紹介するのは、LGBTQ+や女性のエンパワーをテーマとした力強いメッセージを発信しているPragyaとは少し異なり、より自然体な表現をしているアーティストたちだ。

まず最初に紹介するのは、ベンガルール(旧名バンガロール)出身で、現在はベンガルールとロンドンを拠点に活動しているシンガーソングライター、GrapeGuitarBoxことTeenasai Balamu.
2019年にリリースされたデビューEP"Out"からカットされた"Wait For You"のミュージックビデオでは、女性同士の恋愛模様を、情感溢れるダンスをフィーチャーした美しい映像で表現している。


Teenasai Balamuは自身をノン・バイナリー(男性でも女性でもないという性自認。Xジェンダーとも)の同性愛者としている。
インタビューでは、インドでクィア(性的少数者)として生きる困難さを「16歳の頃は生きづらさを感じていたし、どう生きたらいいかも分からなかった。私は移民じゃなくてインド国内の出身だったから、とくにね」と語っている。
小さい頃からピアノを学び、14歳からはギターを始めたTeenasaiは、生きづらさを感じていたという16歳のときに音楽を志すようになる。
その後、大学ではメディア学を専攻し、卒業してMBAの取得も考えていた時に、教授から音楽の道を勧められ、本格的なミュージシャンになったという。
クラウドファンディングで30万ルピー(約45万円)以上を集めて、24歳のときにデビューすると、たちまち高い評価を受け、海外のミュージシャンと並んでSpotifyのプレイリストにもピックアップされた。
これ以上ないほど順調なデビューについて、「この時は、泣きたくなるほどうれしかった。人生で最高の瞬間だった」と語っている。

デビュー曲の"Run"は、一途な愛情と孤独感を歌った曲。シンプルなアニメーションが歌詞の世界を表している。


今年の5月にこのミュージックビデオがリリースされた、"Meant To Be Yours".

Teenasaiはこのミュージックビデオに、こんなコメントを寄せている。

「この曲は、EP"Out"のなかで最後に完成した曲で、私がいちばん最初に書いた、オープンな同性愛のラブソングでもある。EPのなかで個人的に最も気に入っている曲でもあって、その理由は私が新しいこと(自身の性的指向を楽曲で表現すること?)にトライしたから。あなたも楽しんでくれることを心から願ってる。あなたが愛する人と、あなたがこの曲についてどう思ったかってこともシェアしてくれたらうれしい」

歌詞を読むと、確かに「あなたとのこの秘密をずっと守っていたい / あなたみたいな、他の男の子といっしょにいた女の子と恋に落ちるチャンスがあるなんて、思わなかった」
( Keep this secret from you / I never thought that I had a chance with a girl like you with a girl who was with another boy.)
という表現が出てくるものの、言われなければ(ヘテロセクシュアルにとっては)女性が歌う男性目線のラブソングだと思ってしまうような表現だ。
Teenasaiの曲は、すべて自分の生活が元になって生まれたものだというが、ほとんどの場合、直接的にLGBTQ+をテーマにしているわけではないようだ。
Teenasaiが歌うのは、性別に関わりのない、あくまでも普遍的な、誰もが共感できる恋愛や感情である。
(強いて言えば、「彼/彼女」といった言葉よりも、「わたし/あなた」という言葉が目立つのが特徴だろうか)。
とはいえ、Teenasaiはこうも語っている。

「最初はクィア・ミュージシャンとして有名になるつもりはなかった。でも結果的にはこれでよかったと感じている。(自分の性自認を)オープンにしようと決めた理由は、かつての私も、今の私みたいな存在がいたら良かったな、って思っていたから。自分のアイデンティティーを、これでいいんだ、って思えたはずだから」

こうした使命感に満ちた言葉は、「同性愛者には憧れられる存在が必要。それはロールモデルというよりも、ライフラインなの」と語ったPragya Pallaviとも共通するものだ。
Teenasaiの音楽やミュージックビデオからは、自身のアイデンティティーを大切にしながらも、普遍的な美しさに満ちた作品を作り続けていることがよく分かる。


おそらくTeenasai Balamuと同じようなスタンスで活動しているのが、シンガーソングライターのJayことJanvi Anandだ。
彼女はデリー大学を卒業したのち、ハリウッドの有名音楽学校MI(Musicians Institute)に進学し、今ではニューデリーとロサンゼルスを拠点に活動している。

Janandが昨年7月にリリースした"Come Home".


インドのLGBTQ+アーティストを紹介する記事で彼女のことを知り、いくつかの媒体で彼女に関する文章を読んだのだが、そのほとんどが、彼女のセクシュアリティには触れずに書かれているということに気づいた。
考えてみれば、槇原敬之やエルトン・ジョンが、記事のたびに性的指向に触れられるなんてことはないわけで、こうした扱いは至極あたり前のことだ。
彼らは「LGBTQ+のシンガー」という特別な存在なのではなく、「シンガーでもあり、性的指向でいえばLGBTQ+でもある」という、ただそれだけのことなのだ。
良かれと思ってこういう記事を書いている自分が、むしろいちばん色眼鏡で見ていたのではないかと恥じてしまった。

そんな彼女が、例外的に女性同士の愛をテーマに書いた曲が、この"Fool To Want You"だ。

彼女がこの曲を作った時、インドではまだイギリス統治時代に制定された同性同士の性行為を犯罪とする悪法「セクション377」が撤廃されていなかった。
それでもこの勇気ある曲を発表した背景を、彼女はRolling Stone Indiaのインタビューでこう語っている。
「私たちの世代で最も進歩的な人たちでさえ、LGBTQ+コミュニティーに自由を認めてくれているわけではないの。LGBTQ+の存在を認めるってことと、それを他の人々とまったく同じように受け入れるってことは、全然違うことよ。人々が、ようやく私たちのコミュニティーを受け入れ、理解しようと努めていることをうれしく思うわ。まだまだしなければならないことは多いけれど。」

それでも、この曲はLGBTQ+のためだけのものではない。
Janviは、「このミュージックビデオは、一人でいる人や、自分が自分でいることを恥ずかしく思っている全ての人のためのもの」とも語っている。

この記事を書くにあたって気がついたのは、LGBTQ+のミュージシャンが、彼らがLGBTQ+であるがゆえに扱っている根本的なテーマは、じつは至極普遍的なものだということだ。
すなわち、「自分自身であることを、誇りを持って肯定できるのか」というものである。
それが彼らが直面しなければならなかったアイデンティティーの危機によるものだと思うと複雑だが、こうした問いかけについて考えることは、個人にとっても社会にとっても、非常に意味があるはずだ。
一方で、音楽や作品はあくまでもそれ自体に価値があるのであって、アーティストの性的志向や性自認がテーマにされているのでなければ、そんなことは気にしないで楽しめばいいのである。

2回にわたって、インドというまだまだ古い価値観が残る国で、カミングアウトして活躍しているミュージシャンを取り上げたが、翻って考えれば日本も状況は五十歩百歩だ。
いつもながら思うことだが、インドについて考えるということは、結局のところ、日本や自分自身について考えることでもあるのだ。

LGBTQ+については正直不勉強な分野だったが、書くために少しネットで調べただけでも、非常に学んだことが多かった。
例えば、性自認が男性でも女性でもないノン・バイナリーの人物について書く場合は、「彼/彼女」のような代名詞を使わないということや、もし使う場合には、英語では'They'(動詞の活用は三人称単数になるが、be動詞は一般的にareを使う。再帰代名詞は'Themself')だということなんて、単純に新鮮で勉強になった。

この2回の特集で紹介しきれなかった素晴らしいアーティストもいるので、インドのLGBTQ+ミュージシャンについては、また改めて紹介する機会を持ちたい。


参考サイト:
https://rollingstoneindia.com/exclusive-premiere-grapeguitarbox-weaves-queer-love-story-wait-video/

http://gaysifamily.com/2018/11/22/music-video-singer-janvi-anand-impresses-with-fool-to-want-you/

https://rollingstoneindia.com/premiere-janvi-anand-faces-unrequited-love-fool-want/




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goshimasayama18 at 02:23|PermalinkComments(0)インドのロック 

2020年07月27日

インドのLGBTQ+ミュージックビデオとミュージシャン(その1)

完全にタイミングを逸したが、6月は世界中でセクシュアル・マイノリティーの権利や文化への支持を示す'Pride Month'とされ、LGBTQ+への共感を示すさまざまな企画がオンライン上で行われていた。
改めて説明するまでもないが、LGBTQ+とは、同性愛者、バイセクシュアル、トランスジェンダー(身体の性別と内面の性別が異なる)、男女どちらでもないと感じている人、自身の性自認や性的指向が決まっていない人などの性的少数者の総称だ。

インドのLGBTQ+事情と言えば、伝統的にM to Fのトランスジェンダー(肉体的には男性だが、性自認は女性)の人々の集団「ヒジュラー(Hijra)」が有名だ。(ひょっとしたら、バイセクシュアルやゲイの人たちもこの中に含まれているのかもしれない)
彼らは、家族を捨てて、ヒジュラーのコミュニティーの中で疑似家族的な関係を結び、宗教的儀礼(新生児誕生の祝福など)、物乞いや借金の取り立て(ヒジュラーがその陰部を露出することは、最大級の侮辱行為とされているため「お金を払わなければ、見せるわよ」という脅し文句が成立する)、売春などで生計を立てているという。
ヒジュラーを制度として見たとき、性的少数者をキリスト教やイスラーム教の伝統社会のように罪悪として扱うのではなく、社会のなかに一定の居場所が与えられているという見方もできるが、ヒジュラーの扱いはあくまで「賎民」だ。
インド社会でも、LGBTQ+の立場は極めて弱いものであることに変わりはない。

LGBTQ+が人口に占める割合は、調査方法や国によって大きく異なるが、少なければ1.5%程度、多ければ10%以上にも及ぶことがあるようだ。
13億人を超える人口を誇るインドにこの割合を当てはめれば、2000万人から1億人以上のLGBTQ+が暮らしているということになる。
インドに行ったことがある人は、想像してみてほしい。
インドには、少なくともシク教徒と同じくらいの数、多ければムスリムと同じくらいの数の性的少数者が暮らしているはずなのだ。
彼らのほとんどが、可視化されていないのは言うまでもない。

それでも、2000年以降、インドにおけるLGBTQ+への理解は、少しずつ高まってきている。
2006年には、グジャラート州のマハラジャの末裔Manvendra Singh Gohil王子がゲイであることをカミングアウトした。
王子は性的少数者を支援する財団を立ち上げると、アメリカのオプラ・ウィンフリー・ショーに出演するなど、大きな注目を集めた。
ボリウッドでも同性愛をテーマとした作品が作られるようになってくる。
2014年には障害を持ったバイセクシュアルの女性が主人公の『マルガリータで乾杯を!(原題:"Margarita With A Straw")』、2015年にはゲイであることを理由に大学教授の職を追放された実話をもとにした"Aligarh"、2020年には男性同性愛をテーマにしたロマンティックコメディ"Shubh Mangal Zyada Saavdhan"が公開されている。
2018年には、イギリス統治時代の1861年に制定された、同性間の性行為を違法とする悪法「セクション377」が最高裁によって廃止され、インドでは、少なくとも法的には同性愛は罪とは見なされなくなった。

近年では、都市部のリベラルな知識人階級を中心に、欧米の先進国同様に彼らの権利を認めるための動きも盛んになってきているようだ。
音楽シーンにもそうした風潮が見られ、最近では、プネー出身の電子音楽系プロデューサーRitvizの"Raahi"や、ムンバイを拠点に活動するシンガーソングライターRaghav Meattleの"Bar Talk"のミュージックビデオで同性のカップルが描かれている。
彼らはとくに同性愛をテーマにして活動しているミュージシャンではないから、これらの作品は「同性愛も異性愛も同じ人間同士の愛」という彼らの考えを表したものだと理解できる。

このミュージックビデオは、Prateek Kuhadの"Cold/Mess"など、インドのミュージックビデオを何本か手掛けているウクライナ出身の女性監督Dar Gaiによるもの。

この曲は2018年にリリースされたアルバム"Songs from the Matchbox"の収録曲だが、今年7月になって突然このミュージックビデオが発表された。
いずれの作品も、YouTubeのコメント欄には肯定的なコメントが溢れている。

さらに、インドのインディー音楽シーンでは、本人がLGBTQ+であることを公言しているミュージシャンも、複数活躍している。

その代表的な存在が、ビハール州の州都パトナで生まれ、ムンバイを拠点に活動しているPragya Pallaviだ。
彼女はヒンドゥスターニー声楽(北インド古典声楽)を学んで育ち、EDM、R&B、ジャズ、ヒップホップなどのジャンルの影響を受けたシンガーソングライターで、自身が'gender fluid lesbian'(性的な志向が完全に定まっていないレズビアン)であることを公表している。
彼女が昨年の「国際反同性愛嫌悪・トランスジェンダー嫌悪・バイセクシュアル嫌悪デー(International Day Against Homophobia, Transphobia, Biphobia)」である2019年5月17日にリリースしたアルバム"Queerism"は、インド初のLGBTQ+アルバムとして国内外の多くのメディアに取り上げられた。

このアルバムで、彼女はこの"Queer It Up"のようなLGBTQ+のためのアンセムのみならず、女性賛歌である"Girls, You Rule"、同性愛と家族関係をテーマにした"Mama I Need You"など、多様なテーマを取り上げている。



ディスコ調の"Queer It Up"とは対照的に"Girls You Rule"はアコースティック、"Mama I Need You"は古典声楽の影響も感じられる曲調だ。
さらに彼女のデビュー曲の"Lingering Wine"はラテンポップ調だし、直近のリリース"Jazzy Wine"はそのジャズアレンジだ。
こうしたジャンルの多様性は、彼女の音楽的なルーツの多彩さを表しているだけではないようだ。
ニュースサイトMediumのインタビューで彼女は「どんなジャンルの芸術でも、流動性/可変性(Fluidity)は、よりエキサイティングで、楽しものよ」と語っている。
この'Fluidity'は、彼女自身が'gender fluid lesbian'であることを意識して使った単語だろう。

英語とヒンディー語で歌うPragyaだが、この"Lingering Wine"のビデオはケーララ州で撮影されており、今後、さまざまな文化や言語とのコラボレーションも視野に入れているという。
彼女は、インドの多様性を積極的に取り入れることで、そのメッセージをより多くの人々に届けるだけでなく、性の多様性に対する寛容さをも訴えているのかもしれない。
このミュージックビデオに関して、彼女は、インドではまだ「良くないこと」とされている同性愛の美しさや女性同士のキスを見せることは、彼女にとってとても大事なことだと語っている。

Pragyaは「多くのLGBTQ+のティーンエイジャーにとって、あこがれることができる大人が必要なの。それはロールモデルである以上に、ライフラインなのよ」とも語っている。
Pragyaにとって、そういう存在はいなかったのだ。
言外に、彼女がいかに孤独なティーンエイジを過ごしてきたかを語っているというわけである。

それでも彼女は「インドでもインターネット・ネイティブのミレニアル世代には、新しいパワーや考えやアイデアがある」とも語っている。
ムンバイには小さいもののLGBTQ+のシーンがあるという。
インターネットにさえアクセスできれば、インドじゅうの肩身の狭い思いをしている性的マイノリティーたちも、ムンバイで、生き生きと自分のメッセージを発信している彼女の姿を見つけることができるだろう。
LGBTQ+を自然に受け入れている都市部の若い世代と、まだまだ忌避感を強く残す地方の人々の価値観の間の格差は広がる一方のようにも思えるが、それでも彼ら/彼女らにとって、自分らしく生きる場所があるというメッセージには、途方もなく大きな意味がある。

まだまだ保守的な部分を強く残しているインドの社会だが、だからこそ、Pragya Pallaviのメッセージや姿勢や強い輝きを放っている。
ブラックミュージックが、アメリカ社会でマイノリティーであることに直面しつつも、常に普遍的な魅力のある音楽を作ってきたように、LGBTQ+シーンの音楽も、当事者以外にも大いなる希望となりうるポテンシャルがあるように思う。

まだまだ新しく、小さなシーンかもしれないが、今後ますます注目したいジャンルである。



参考サイト:
https://medium.com/@jessicasecmezsoyurquhart/interview-pragya-pallavi-the-queer-musician-making-waves-in-india-cb203b59e94e

https://www.thehindu.com/entertainment/music/pragya-pallavi-on-indias-first-openly-queer-themed-music-album-queerism/article27619907.ece



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2020年07月19日

よみがえる"India Psychedelic" インドの60年代ロック事情! 知られざる'Indian Summer of Love'


先日取り寄せた本、"India Psychedelic: the story of rocking generation"(Sidharth Bhatia著)がめちゃくちゃ面白い。
IndiaPsychedelic

この本は、知られざる1960年代のインドのロックシーンについて、ジャーナリストである著者が当事者たちに丁寧に取材して書かれたもの。
「60年代のインドのロック」なんていうと、自分みたいな一部のマニア向けの本だと思うかもしれないが(まあそうなんだけど)、この本は当時の若者たちの息遣いがとてもリアルに描かれていて、単純に青春群像として、ものすごく面白かった。

この時代のインドは、1947年の独立から10年以上が経ち、中国やパキスタンとの国境紛争や食糧危機、深刻な貧困などの問題を抱える一方で、都市部では独立期を知らない若い世代が新しい価値観を持ち始めていた。
世界中の若者たちと同じように、この時代に登場した新しい音楽に夢中になった者たちがいたのだ。
「新しい音楽」とは、かつての宗主国であるイギリスから世界に衝撃を与えたビートルズ、そしてそれに続いて登場したアメリカやイギリスのロックバンドたちのことだ。

60年代以前のインドに洋楽好きがいなかったわけではない。
イギリス統治時代から、都市部の上流階級は、レストランでジャズの生演奏を楽しんでいたという。
当時の演奏者の多くは、イギリス人の血を引くアングロ・インディアンと呼ばれるクリスチャンのコミュニティーの出身者や、その頃まだポルトガル領だったゴアの出身者だった。

インターネットも衛星放送もない時代(地上波のテレビ放送さえ、インドでは1965年にやっとデリーで始まった)、インドにいた数少ない洋楽好きの若者たちは、古典音楽ばかりの国営放送ではなく、海を渡って届くRadio CeylonやBBCやVoice of Americaにラジオの周波数を合わせていた。
1962年、ビートルズのデビュー曲"Love Me Do"が海を越えた電波に乗ってラジオから流れると、彼らはこの新しい時代の音楽に夢中になった。
インドでも、他のあらゆる国と同様、都市部の若者たちのなかに「自分たちもバンドを組んでロックを演奏したい!」というティーンエイジャーたちが現れはじめたのだ。

バンガロール(現ベンガルール)ではTrojansが、ボンベイ(現ムンバイ)ではJetsが、マドラス(現チェンナイ)ではHellionsが、カルカッタ(現コルカタ)ではCavaliersが産声を上げ、多くの若者たちがそれに続いた。
この時代、日本でロックバンドたちを「グループ・サウンズ」と呼んでいたように、インドでも、この新しい音楽を演奏する若者たちを呼ぶ独自の呼称があった。
その頃、インドでは、ロックバンドは「ビート・グループ」と呼ばれていた。

彼らは、楽器も音源も満足に入手できない当時のインドで、工夫と情熱で楽器や機材を入手し(あるいは自ら作成し)、見よう見まねで音楽活動を始めた。
当時のインドはソビエト寄りの外交政策を取っており、西側諸国の物資を手に入れることは非常に難しかったのだ。
何しろ、レコードの入手すら、欧米に親戚か知人でもいない限り難しかった時代である。
「ビート・グループ」始められるのは、ごく一部の人たちだけだった。

欧米では、「労働者階級の音楽」だったロックは、インドでは「富裕層の音楽」だった。
それでも、ロックに夢中になった若者たちが、退屈な社会に飽き飽きしていて、この新しいカルチャーに希望を持っていたという点は同じだった。
ロックは、インドでも、保守的な社会に対する反抗の象徴だったのだ。
当初、ビート・グループを結成した若者の多くは、欧米文化と親和性の高いアングロ・インディアンの若者たちだったが、やがて都市部に暮らすアッパーミドルのヒンドゥーやムスリムやシク教徒のなかにも、ビート・グループを始める若者たちが現れるようになった。

レコーディングが今よりずっと難しかった時代の話である。
ほとんどのビート・グループは音源を残すことなく消滅してしまったが、彼らの中には、その後、国際的なキャリアを築いた者たちもいた。

Trojansの中心メンバーだったBidduは、バンド解散後にイギリスに渡ると、1974年に大ヒットしたディスコ・ソング"Kung-Fu Fighting"を手がけ、その後も長くダンスミュージックのプロデューサーとして活動した。(彼のことはいずれまた詳しく書いてみたい)
Biddu
Bidduが1967年にイギリスでリリースしたシングル

ムンバイ出身の女性シンガーAsha Puthliは、保守的でチャンスの少ないインドに見切りをつけ、アメリカに渡って、ジャズ/ソウルシンガーとしてOrnette Colemanらと共演。
当時のインド人女性としては非常にラディカルな生き方を貫いた彼女の音楽は、のちにJay-Zや50centにサンプリングされ、今でもカルト的な評価を得ている。
AshaPuthuli
Asha Puthliが1974年にアメリカでリリースしたアルバムジャケット

ビート・グループ出身者でもっとも成功を収めたのは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地Panchiganiのハイスクール・バンド、HecticsのメンバーだったFarrokh Bulsaraだろう。
パールシー(ペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、少年時代にインドでHecticsのメンバーとして活動したのち、家族とともにイギリスに渡った。
Farroukhは英語風に名前を改め、イギリス人たちとバンドを結成すると、その天才的なヴォーカル・パフォーマンスとソングライティングで、ロックの歴史に不朽の名を残すことになる。
みなさんご存じのクイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのことだ。
彼が在籍していたHecticsも、数枚の写真を残すのみで、音源は残されていない。
Hectics
ピアノに向かっているのが、若き日のフレディ・マーキュリーことFarroukh Bulsara

話を60年代のインドに戻そう。
インド各地の大都市には、文化や流行の中心となる繁華街がある。
ボンベイならチャーチゲート地区、カルカッタならパーク・ストリート、バンガロールならばブリゲイド・ロードがビート・グループたちの活動の場だった。

当時、人気レストランは、バンドの生演奏を売りにしており、ホテルのバンケットホールでも、生演奏の夕べが催されていた。
かつてはムーディーなジャズが流れていた場所にビート・グループが出演するようになると、レストランやホテルに若者たちが詰めかけるようになった。
ビート・グループたちが演奏する洋楽のヒット曲のカバーに、流行に敏感な若者たちはすぐに夢中になったのだ。

この頃のアーティストの音源や動画は非常に少ないのだが、いくつか紹介できるものを貼り付けたい。
アングロ・インディアンのジャズ・シンガー、Pam Crainは、1956年にパーク・ストリートにオープンしたClub MocamboやBlue Fox Restaurantといった伝説的なヴェニューに出演し、ビート・グループ前夜のカルカッタで「パーク・ストリートの女王」と呼ばれていた。
この音源は、やはりカルカッタを拠点に活動していたサックス奏者Braz Gonsalvezとの共演した1970年のもの。


"The King of Rock'n'Roll of India"、「ボンベイのエルヴィス」ことIqbal Singhは、ビート・グループの少し前の時代に活躍した歌手で、これは映画"Ek Phool Char Kante"の一幕。

ターバンにスーツでツイストしまくる姿に強烈な違和感を感じるが、目を閉じて聴くと、彼のヴォーカルはとてもうまくエルヴィスの特徴をとらえている。
当時のレストランの雰囲気がよく分かる映像だ。

インドで最初のオリジナル・ロックソングとされるカルカッタのThe Cavalliersの"Love is a Mango"は、シタールを導入したインドらしいサウンド。

インドのロックバンドが、その最初期から古典音楽とのフュージョンを行っていたことが分かる貴重な一曲だ。
カルカッタは、イギリス支配時代の首都だったことから、アングロ・インディアンが多く暮らしており、当時のインドで西洋文化の受け入れが最も進んでいた街でもあった。

マドラス(現チェンナイ)のThe Mustangsは、ベンチャーズ・スタイルのギターインストゥルメンタルだ。

今以上に保守的で、カルナーティック音楽一色だったマドラスにも、ロックに夢中となった大学生たちがいたのだ。

ボンベイのThe Sasvagesが1968年にリリースした"Pain"と"Girl Next Door".
彼らは前年に行われたSound Trophy Contestで優勝した副賞として、スタジオでのレコーディングの権利を獲得してこの2曲を録音した。

2曲目の"Girl Next Door"でヴォーカルを取っているのは前述のAsha Puthli.
この後、彼女はシンガポールに渡り、現地のバンドThe Surfersとの音源を残したのち、ボンベイ時代に知り合ったアメリカ人モダンダンサーMartha Grahamを頼ってニューヨークに渡る。
アンディ・ウォーホルや現地のジャズミュージシャンと知り合った彼女が、現在でもカルトクラシックとされる音源を残したことは、先ほど書いた通りだ。
だが、ほとんどのミュージシャンに取って、アメリカやイギリスは憧れの土地であると同時に、あまりにも遠い場所だった。


60年代の後半に入ると、若者たちから始まったビート・グループのムーブメントに注目する大人たちが現れてきた。
Imperial Tobaccoは、若者向けの新しいメンソールたばこのブランド'Simla'のプロモーションの一環として、インドじゅうのビート・グループを集めたイベントを行った。
1970年と71年に行われた、Simla Beat Contestである。
このイベントに出演したバンドのコンピレーション盤は、当時のインドのバンドの数少ない音源となっている。
ここに収められている音源は、決して演奏力が高いわけでも音質が良いわけでもなく、オリジナル曲ですらないものがほとんどだが、限られた環境のなかで当時のインドの若者たちが必死に取り組んだ成果だと思いながら聴くと、胸に熱いものがこみ上げてくる。

ボンベイのVelvette Foggは、ドアーズのようなキーボードが入ったサイケデリックなサウンドでCreamの"I'm So Glad"をカバー。


このブログでもたびたび取り上げている通り、インドのなかでもロック人気のとくに高いインド北東部のバンドも、当時から存在感を発揮していた。
Simla Beat Contestにも出演したFentonesは、「インドのロックの首都」と呼ばれている北東部メガラヤ州シロンの出身。
ここでは、イギリスのバンドChristieが1970年にリリースした"Until The Dawn"をカバーしている。 



やがて、インドにも、単に享楽的でサイケデリックなロックだけでなく、ボブ・ディランらの影響を受けた、社会的なテーマを歌うフォークシンガーが登場するようになる。
1970年代以降、インドでは、都市部と農村の格差や、社会の不正義に対する問題意識が強くなり、デリーのSt.StephensやカルカッタのPresidency、ボンベイのElphinstoneのような名門大学では、学生運動が活発化していた。
暴力すら厭わずに毛沢東主義での社会経済開放を目指す「ナクサライト運動」は、西ベンガル州で発足すると燎原の火のように広がっていった。
こうした風潮が、産声をあげたばかりのロックシーンにも影響を与えたのだ。

「初めてディランを聴いたとき、自分の人生ですべきことが決まったんだ」と語るデリーのフォークシンガーSusmit Boseは、「インドのボブ・ディラン」とも「インドのキャット・スティーヴンス」とも呼ばれている。
彼が1978年にリリースしたアルバム"Train To Calcutta"に収録された"Rain Child".

彼のような西洋風のフォークソングを、インドではローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ。
古典歌手の父を持つ彼は、親に隠れてギターを練習し、フォークソングを歌っていたことがばれて家を追い出されてしまったこともあるという。

メガラヤ州シロンのLou Majawもまた、「インドのボブ・ディラン」と呼ばれることの多いシンガーだ。
1972年に始めたディランの誕生日に行うメモリアルコンサートを毎年続けている彼は、80歳近くなった今もタンクトップに短パンという衣装で歌い続けている。

今年はコロナウイルスによるロックダウンでディランのバースデーコンサートを開催できなかったため、この動画をYouTubeに投稿していた。

60年代のカルカッタで活躍したバンドThe UrgeのサックスプレイヤーだったGautam Chattopadhyayは、ナクサライトに共感した活動をしていたため、仲間とともに2年間の州追放処分を受けたという経歴を持つミュージシャンだ。
1975年にカルカッタに戻ると、ジャズやロックにベンガルのフォークミュージックを融合した音楽に乗せて文学的な歌詞を歌うMohineer Ghoraguliを結成した。

彼らの音楽は少数のディランのファン以外には見向きもされなかったが、90年代以降、新しい世代に、ベンガル独自のロックの先駆けとして再評価されている。


60年代から70年代にかけて、インドのロックミュージシャンたちは、お金のためではなく、音楽への純粋な愛情と表現衝動に基づいて音楽活動を行っていた。
そもそも、インドでロックバンドが職業になる時代ではない(それは今もほとんど変わらないが)。
学生時代のひとときが終わると、音楽から離れてしまう者も多かったし、アングロ・インディアンや富裕層のなかには、より良いキャリアを目指して海外へと移住してしまう者も多かった。

インドの時代背景も変わってゆく。
欧米では反体制の象徴だったロックも、社会運動の過激化に伴い、インドのロックファンの中心だった学生たちから、富裕層、すなわち「搾取する側の音楽」と見なされるようになってゆく。

そして、世界中の音楽シーンで、ロックバンドが花形だった時代は終わりを告げ、ディスコ・ミュージックの台頭が始まる。
踊りが大好きなインドのエンターテインメント産業(すなわち映画業界)は、ディスコを巧みにローカライズして映画音楽に取り入れていった。
流行に敏感なリスナーたちは、ロックから離れ、ディスコ・ミュージックに夢中になってゆく。

こうして、「インディアン・サマー・オブ・ラブ」は終わりを告げた。
(説明するのも野暮だが、英米のヒッピー・ムーブメント「サマー・オブ・ラブ」よりずっと規模の小さかったインドの「ロックンロール黄金時代」を、小春日和を意味する「インディアン・サマー」にかけてこう呼びたい)

この時代の「ビート・グループ」たちが、古き良き思い出以上の何かを、インドの音楽シーンに残したのかどうかはわからない。
結局、インドのロックシーンが復活するのは、インドが経済開放路線に舵を切り、インターネットで海外の情報がリアルタイムで入手できるようになった90年代以降まで待たなければならなかった。
インドのインディー音楽が爆発的に広がるのは2010年代に入ってからだが、今日でも、音楽シーンの圧倒的主流である映画音楽と比べると、その売り上げ規模は圧倒的に少ない。

だが、1960年代のインドで、海の向こうからやってきたリズムとサウンドに夢中になり、そこに音楽以上のもの(例えば自由とか)を見出して、お金のためでも名誉のためでもなく、全てを打ち込んで演奏した若者たちがいたという事実は、とても興味深いし、感動的だ。
経済成長著しいインドでは、懐古的な作風の映画や音楽も楽しまれるようになってきているようだし、そろそろこの時代をテーマにした映画が作られても良いと思うのだけれど。

今回もずいぶん長くなってしまったが、この時代については、まだまだ調べ甲斐がありそうなので、そのうちまた何か書くつもり。
それでは!



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2020年07月12日

卓越したポップセンスで世界を目指すシンガーソングライター Prateek Kuhad


これまでこのブログではあまり取り上げてこなかったが、インドには優れたシンガーソングライターがたくさんいる。

「インドの社会と音楽」というテーマで記事を書くことが多いので、どうしても社会的な内容を扱うラップやロックがメインになってしまい、より内面的で普遍的な歌詞を歌うシンガーソングライターについてはこれまでほとんど書いてこなかったのだが、今回は、満を持してインドを代表するシンガーソングライターを紹介したい。

彼の名前はPrateek Kuhad.
「風の宮殿」で有名な「ピンク・シティ」として知られるジャイプルで生まれ育った彼は、ニューヨーク大学で数学と経済学を学んだのちに、デリーに拠点を移して本格的な音楽活動を始めた。

まずは、彼の最新のリリースである"Kasoor"(ヒンディー語で「あやまち」とか「罪」という意味)を聞いてもらおう。

恋愛に関するさまざまな瞬間を彼のファンたちに思い出してもらい、そのリアクションのみで構成したミュージックビデオがとてもドラマチック。
コロナウイルス禍で外出が制限された中で制作されたものと思われるが、このアイデアは素晴らしい。
この曲の歌詞は、どうしようもなく恋をしてしまった気持ちを歌ったもの。

Prateekの特徴は、曲によってヒンディー語と英語の歌詞を使い分けていることだ。
2つの言語を自由に使いこなす彼にとって、これは特別なことではないようで、彼はインタビューで、両方の言語で話し、考えているのだから、どちらでも曲を作るのはごく自然なことだと答えている。
こちらは英語で歌う彼の代表曲"Cold/Mess"


ボリウッドに詳しい人であれば、このミュージックビデオに出演しているのが、『パドマーワト(Padmaavat)』や『サンジュ(Sanju)』にも出演していた俳優のジム・サルブ(Jim Sarbh)であることに気づいただろう。
(彼は最初に紹介した"Kasoor"のミュージックビデオにも出演している)

彼の音楽的ルーツは非常に多様で、ルイ・アームストロングやフランク・シナトラのような「歴史上の」アーティストから、フランク・オーシャンやカニエ・ウエストのような現代のポップスターまで、幅広いミュージシャンをフェイバリットに挙げているが、プロのミュージシャンを目指すきっかけとなったのは、ニューヨーク大学在学中に知ったエリオット・スミスだったようだ。
海外留学で欧米のカルチャーに触れたのちに、洗練されたポップミュージックをインド国内に紹介する役割を担うミュージシャンは多く、Parekh and SinghのNischay Parekhや、Easy WanderlingsのSanyanth Narothもアメリカ留学を経験している。

Prateekは帰国後の2015年にデビュー作の"In Token & Charmes"をリリース。
一躍インディーシーンの人気アーティストの仲間入りを果たす。
彼はこれまでにMTV Europe Music AwardsのBest Indian Act、iTuneのIndie Album of the Year, バンガロールのFM曲によるRadio City Freedom Awardなど、国内外で高い評価を受けており、インドのSpotifyで最も多くストリーミングされているミュージシャンの一人でもある。
(インドでは、Jio Saavnという国内のストリーミングサービスが圧倒的なシェアを占めており、ボリウッドなど映画音楽系のヒット曲のファンはほぼJio Saavnを利用している。Spotifyでのストリーミングが多いということは、一般的な人気ではなく、コアな音楽ファンの評価が高いということを意味している。)

特筆すべきはこの"Cold/Mess"で、この曲はオバマ元大統領による'Favorite Music of 2019'リストに入ったことがインドの音楽メディアで大きく報じられた。

彼の最大の魅力は、その卓越したメロディーセンスと、主に恋愛(とくに失恋)を扱った歌詞だろう。
本人は、「いい曲を書いて、レコーディングとプロダクションに全力を尽くすだけだよ」「他のみんなと比べて特別な経験をしているわけじゃない。いいアートを作るには、きちんと訓練して、全力を尽くすことさ」とあくまでも「ポップミュージック職人」的な態度を崩さないが、その楽曲は誰の心も動かしうる普遍的な魅力にあふれている。

こちらも英語で歌われた曲、"With You/For You"


彼はこれまでに、毎年テキサス州オースティンで行われている将来有望なアーティストの祭典SXSW(South by South West)に出演したり、北米ツアーを行うなど、アメリカ市場を見越した活動にも力を入れている。

米Billboard.comのインタビューによると、彼はアメリカでの成功を、世界的なミュージシャンになるための不可欠なプロセスと考えているようだ。
興味深いのは、彼がこのインタビューで、インド人としてのルーツを武器にするのではなく、楽曲の力のみでアメリカ市場で勝負したいと語っていることだ。
白人でも黒人でもラティーノでもない彼は、アメリカの音楽市場では正真正銘のマイノリティーだが(南アジア系は「ブラウン」と呼ばれることもある)、インド出身というエキゾチックさはあえて出さずに、曲の魅力そのもので国際的な評価を得たいと考えているという。

アメリカのメジャーシーンで成功するには彼の出自は決して有利ではないだろうし、インディーシーンで評価されるには彼の楽曲はオーセンティックすぎる気がするが、それは分かったうえでの発言だろう。
インド系であるというルーツを全面に打ち出したフィーメイル・ラッパーのRaja Kumariとは正反対のスタンスだ。
個人的には、アメリカよりもインド系移民の多いイギリスやカナダのほうが、成功に近いような気がするが、彼は自身の留学先でもあったアメリカに強い思い入れがあるようだ。

インド国内では、すでに女性ファンを中心に根強い支持を得ており、ライブでもこれだけ多くの人が集まっている。
  

インドのそのへんの兄ちゃんっぽい雰囲気なのに、びっくりするほど美しいヴォーカルとメロディーを聴かせてくれるギャップが人気の秘密なのかもしれない。
最近ではボリウッド作品の音楽を手がけることもあり、インド国内での存在感をますます増しているPrateek Kuhad.
彼の名前を全米チャートの上位で目にすることができる日が来るのだろうか。



参考サイト:
https://www.huffingtonpost.in/entry/prateek-kuhad-interview_in_5e06f239e4b0843d36068603

https://indianexpress.com/article/lifestyle/art-and-culture/prateek-kuha-music-fashion-interview-tour-winter-tour-songs-cold-mess-jim-sarbh-zoya-hussain-6171442/

https://www.billboard.com/articles/news/international/8528159/prateek-kuhad-interview-india-changing-music-scene

https://www.vogue.in/culture-and-living/content/prateek-kuhad-exclusive-interview-concert-dates-december-2019-mumbai-bengaluru-delhi




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goshimasayama18 at 15:22|PermalinkComments(0)インドのロック 

2020年07月07日

『バウルを探して〈完全版〉』でバングラデシュの風にどっぷり浸かる


川内有緒・文、中川彰・写真の『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)が、すごく良い。

baul(三輪舎さんのウェブサイトから画像をお借りしました)

この本は、2013年に幻冬社から出版された『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』に、バウル探しの旅に同行した中川彰さんの写真を大幅に追加したもの。
2015年には『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』と改題して幻冬社文庫にも入っているから、今回の「完全版」で、3回目の出版ということになる。
(その経緯は、川内さんが書いたこちらのnoteに詳しい。発売日に書かれたこの記事も、ぐっと来る)

私は幻冬舎文庫版を持っていて、もともとかなり好きな本だった。
単行本で買った本を気に入って、加筆された部分があるからとか、持ち運びやすいからとかといった理由で文庫化されたときにまた買うというのは、たまにある。
でも、私はコレクター的な本好きではないので、文庫で持っている本を単行本で買い直すというのは、今まで一度もしたことがなかった。
そもそも、一度文庫化された本が、全集とかでもないのに別の形で出版されるというのも、あまり聞いたことがないし。
ところが、この「完全版」、中川さんの写真目当てで買ってみたら、それだけでなく、すごく良かったのだ。

川内さんの文章は、文庫の時から変わっていない(たぶん)はずなのだが、読んだときの質感が全然違う。
なんというか、文庫版がライブ盤のCDだとしたら、今回の完全版は、ライブそのもの。
それくらい違う。

何がそんなに良いのか。
まず、本そのものの、モノとしての佇まいがすごく良い。
ページを180度開くことができて写真が見やすい「コデックス装」になっていたり、背表紙にあたる部分(コデックス装だと、ページがむき出しになっている)に打たれたドットが模様になっていたり、異常なまでにこだわりのある装丁になっている。
ただ、そういう非日常的な装丁だから良い、というのではなくて、本の内容と装丁とがぴったりと一致して、特別なものではなく、本来こうあるべきだったもののように感じられる、そういう良さがある。
この装丁を担当したのは、矢萩多聞さん。

次に、中川彰さんの写真が良い。
もともと文庫版の写真の少なさはちょっと不満だったし、文庫版のあとがきで、彼が本の出版を待たずして亡くなってしまったことを知っていたのでちょっと感傷的になっていたところはあったと思うが、それを差し引いて余りあるほどに、良い。

中川さんの写真からは、バングラデシュの人や空気の匂いが、濃厚に漂っている。
排気ガスやお香や朝靄や牛の糞の匂い、クラクションや怒鳴り声や風の音が感じられるような写真なのだ。
撮影対象を特別に見せようなんて、これっぽっちも思っていないようなのに、その表情から、風景から、色合いから、その場所にしかない空気が濃密に立ち上ってくる。
よそ者の旅人としてバングラデシュを見ているのではなく、この国で繰り返されている日常のなかに、ふっと迷い込んでしまうような、そんな写真である。

川内さんの文章もそうだ。
「バングラデシュに存在する、謎の吟遊詩人を探しに行く」という、これ以上ないほど非日常的なテーマなのに、川内さんの文章は、なんというか、日常と地続きなのである。
かつて憧れだった職場を退職し、さて、これからの人生をどうするか、というタイミングでのバウル探し。
それなのに、全く肩の力が入っていない(ように読める)。
日本での日常から、日本とは全く違うバングラデシュの奥へ、奥へと入ってゆくのだが、操縦のうまいパイロットがふわっとなめらかに離着陸するように、普段着のまま異世界に入ってゆくような感覚がある。
好奇心のアンテナは思いっきり伸ばしながらも、変な力が入っていないから、気がついたら、自分のまわりを吹いている風が、バングラデシュの風になっているような錯覚を覚えてしまう。

そう、理由はよく分からないが、この本、風にあたりながら読みたい本である。
川っぺりのベンチかなんかで読むのもいいし、ベランダに椅子を出して読むのも、なんなら窓を開けてみるだけでもいいと思う。
本の手触りを味わうように、風の感触を味わいながら読むと、たぶんこの本の良さはもっと増すはずだ。

それにしても、この装丁の力と、中川さんの写真の力はすごい。
もちろん、主役は川内さんの文章なのだが、文庫版で読んだはずの文章が、初めて読んだように、いや、初めて読んだ時以上にみずみずしく感じられる。
…という趣旨のことをTwitterでつぶやいたら、川内さんご本人から、「映画が大画面だとより楽しめるように、本の形によっても、読み心地は変わるのだろうと思います」というご返信をいただいた。
言いたかったのはまさにこういうこと!
『バウルを探して〈完全版〉』を読みながら、歴史のある佇まいの映画館の大スクリーンで、最高の音響と最高の座り心地の椅子で、大好きな映画を鑑賞してるみたいな、ぜいたくな時間を楽しんでいる。

ベンガルってどこ?とか、バウルってなに?という人も含めて、「体験としての読書」にどっぷり浸かりたい人全員に、全力でおすすめしたい。



(便宜上、この記事のカテゴリが「インド本」になっていますが、「バングラデシュ本」です。読むともれなく無性にバングラデシュに行きたくなるという副作用付きです。)






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goshimasayama18 at 20:56|PermalinkComments(0)インド本 

2020年07月05日

インディー音楽の新潮流「レトロ風かつマサラ風」はインドのヴェイパーウェイヴか?

インドのインディー音楽の歴史は、エンターテインメントのメインストリームである「ボリウッド的なもの」への反発の歴史だった。
…とまで言ったら言い過ぎかもしれないが、「ボリウッド的なものを避けてきた」歴史だったことは確かだろう。

かつて日本のインディーズバンドが「歌謡曲」的なベタさを仮想敵としてきたように、インドのインディー音楽も、ドメスティックな大衆文化であるボリウッドとは距離を置いた表現(例えば「洋楽的」なクールさを持つもの)を追求してきた。
例えば、近年成長著しいインドのストリートラップは、早くからボリウッドに取り入れられてきたバングラー・ビート(インド北西部パンジャーブ州をルーツとするバングラーのリズムや歌を取り入れたダンスミュージック)ではなく、よりアメリカのブラックミュージックに近いスタイルを取ることが多い。
新しい表現衝動には、既存の商業音楽とは異なるスタイルが必要なのだ。

ところが、ここ最近、インドのインディーミュージックシーンで、「あえて」ドメスティックど真ん中の往年のボリウッド的なビジュアルやサウンドを取り入れて、「ダサかっこいい」演出をするアーティストが増えてきている。
これは、以前からインドで見られた「古典音楽と西洋音楽のフュージョン」とか、「伝統衣装を現代風におしゃれに着こなす」といったものとは似て非なる、全く新しい風潮だ。
簡単に言うと、古いもののかっこよさの再発見・再評価ではなく、古くてダサいものを、古くてダサいまま愛でよう、という、より高度に屈折した見せ方ということだ。

こうした傾向は、2010年代に爆発的な広がりを見せたヴェイパーウェイヴなどのレトロフューチャー的なムーブメントの、インド的な発展とも言える。
(ヴェイパーウェイヴを定義するならば「80年代的な大量生産/大量消費の大衆文化を、ノスタルジーと皮肉と空虚さを込めて再編集した音楽と映像」。検索するとくわしい解説記事がたくさんヒットします)。
成長著しいインドの若手アーティストにとって、20年以上前の娯楽映画や大衆音楽は、もはや避けるべきダサいものではなく、別の時代、別の世界の作品であり、格好の「ネタにすべき素材」になっているのだ。
インドのポピュラーミュージック市場では、まだまだ映画音楽の市場規模が圧倒的に大きいとはいえ、インディーミュージックも急速に発展を続けており、メインストリームを面白がる余裕が出てきたとも言えるだろう。

まず紹介するのは、Rolling Stone Indiaが選ぶ2018年のベストミュージックビデオ10選にも選ばれた、チャンディーガル出身のガレージロックバンドThat Boy Robyの"T".
サイケデリックなサウンドに合わせて中途半端に古い映画の画像が繰り返される、無意味かつシュールで中毒性の高い映像になっている。

本来の映画の内容から離れて、インド映画の強烈な映像センスを「サイケデリックなもの」として扱う感覚が、インド国内でも育ってきているのだ。


続いて紹介するのは、ネパール国境にほど近い西ベンガル州の街シリグリー(Siliguri)出身のレトロウェイヴ・アーティストのDreamhourが先ごろリリースしたアルバム"PROPSTVUR"から、"Until She".
このレトロなシンセサウンドも驚愕だが、よくこんなにレトロフューチャー的なインド人女性の画像(時代を感じさせるメイクと衣装のラメ感!)を探してきたなあ、ということに感心した。

ムンバイやバンガロールのような国際的な大都市ではなく、「辺境の片田舎」であるシリグリーでこの音楽をやっているというのも味わい深い。
彼のセンスが地元の人々にはどう受け入れられているのか、若干気になるところではある。
彼のアルバムは全編通してレトロなテイストが満載で、まるで冷凍睡眠から覚めた80年代のダンスミュージックのプロデューサーが作り上げたかのような面白さがある。


ムンバイとバンガロールを拠点とするトラックメーカーのMALFNKTIONとRaka Ashokは、タミル語映画を中心に1970年代から活躍する映画音楽家Illaiyaraaja(イライヤラージャ)の音源をベースミュージックにリミックスした"Raaja Beats"を発表。

イライヤラージャは、電子音楽などを導入して、当時としては非常に斬新なサウンドを作り上げた音楽家だ。
今となってはレトロなそのサウンドを新しいビートで生まれ変わらせたこの試みは、意外性を狙っただけではなく、彼らの音楽的ルーツを振り返るものでもあるのだろう。


同じような試みをしているのは彼だけではない。
このP.N.D.A.というアーティストは、詳細は不明だが、Bollywood LofiとかDesi Waveというジャンル名で、古い映画音楽をヴェイパーウェイヴ的に再編集した作品をたくさんYouTubeにアップしている。

ヴェイパーウェイヴのアーティストたちの音楽的ルーツの深層に80年代の商業音楽があるように、現在インドの音楽シーンで活躍しているミュージシャンたちも、インディーミュージックに目覚める前の原体験として、このような映画音楽が刻み込まれているのだろう。
そうした音楽は、個々のインディペンデントな表現衝動とは何の関係もない、むしろ商業的で空虚なものなのだが、だからこそノスタルジーと自分自身を含めた時代への皮肉を込めた表現として両立するのである。

この「インド版ヴェイパーウェイヴ」は、例えば「インド最古の音楽レーベル」であるHindusthani Recordsの音源をヒップホップのビートに流用したコルカタのSkipster aka DJ SkipとラッパーCizzyのような、自身のルーツへの直接的なリスペクトの表明ともまた違う。

これはこれで、温故知新的なかっこよさがたまらない。

今回紹介したような屈折した表現の登場に、インドの音楽シーンの成熟を改めて感じさせられた。
そして、80年代の日本や欧米のカルチャーと比べても、格段にアクの強いサウンドやビジュアルを、よくもまあクールに再定義したものだと、大いに感心した次第である。

こうした傾向はこれからも続きそうで、まだまだ面白いサウンドが登場しそうなので、要注目です!
それでは!


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2020年07月01日

インドと寿司の話(20年前の思い出と、最近のミュージックビデオなど)


誰が決めたのかは知らないが、6月18日は国際寿司デーだったそうだ。
(と思って書き始めたら、もうとっくに過ぎてしまった…)
寿司がすっかり国際的な料理になって久しいが、今回の記事は、私の奇妙な思い出話から始めたいと思う。

あれは今からちょうど20年前の話。
卒業旅行で訪れたインドのゴアで、なんとも不思議な店を目にした。
いや、あれを店と呼んでいいのかどうかすら分からない。

ゴアは、いくつもの美しいビーチを持つインド西部の街だ。
かつてポルトガル領だったゴアは、インドでは例外的にヨーロッパっぽい雰囲気があり、そのためか、欧米人ツーリスト、とくにヒッピーやバックパッカーに人気が高い。

(ゴアのヒッピーカルチャーについては、この記事から始まる全3回にまとめてあるので興味がある方はどうぞ)

心地よい潮風が吹き、美味しい欧米料理が安く食べられ、この国ではめずらしく飲酒にも寛容なゴアは、どことなく修行のような雰囲気がただようインド貧乏旅行のなかで、珍しく楽園の空気を感じることができる街だった。
1ヶ月にわたる旅の終盤だった私は、南国の暖かい日差しの中、ヒッピーファッションやトランスのCDを扱う店を冷やかしたり、海辺で外国人ツーリストとビーチバレーをしたりして、楽園ムードを満喫していた。

その粗末な掘っ建て小屋が立っていたのは、アンジュナ・ビーチとカラングート・ビーチの間の細い道路脇のヤシの木陰だった。
トタンのような素材で作られたその小屋は、とてもレストランにもカフェにも見えず、多少旅慣れた私でも「こんな店(ひとまずそれを店と呼ぶとして)で出された食べ物は絶対に口にしたくない」と思うほどに見すぼらしかった。
だが、驚くべきことに、その小屋の壁面には、サイケデリックに曲がりくねった書体で、それまでインドでは一度も目にしたことのない料理の名前が大書きされていたのだ。

'SEAFOOD'という単語と並んで、その薄汚れた壁にド派手な原色の文字で書かれていたのは、あろうことか、'SUSHI', 'SASHIMI'という単語だった。
そこには、日本人が寿司と聞いてイメージする、新鮮さや清潔さといった要素は全くなかった。
このシュールな光景は、果たして現実なのだろうか…。

当時、日本人バックパッカー向けに、日本食っぽい料理を出す店は、インド各地に存在していた(ヴァラナシの「ガンガー富士」とか、ブッダガヤの「ポレポレ」とか)。
だが、メニューはせいぜい親子丼とかオムライスみたいなものばかりで、ご飯はパサパサのインド米、しかもオリジナルの味を知らないインド人の料理人が勝手にスパイシーな味付けにしてしまうので、食べればかえって本物の日本食が恋しくなってしまうのだった。
まともな日本食を食べるには、大金を払って、駐在員が行くような大都市の高級店に行くしかなかったのだ(行ったことがないので分からないけど)。
あの頃、生の魚料理を出す店は、インドには無かったのではないだろうか。
当時のインドに生魚を安定した冷蔵状態で輸送し、保管して調理できる環境はほとんど無かったはずだし、生魚を扱える料理人がわざわざ日本からインドに来るとも思えなかった。
(本格的な日本食の店を海外で志すなら、あの頃だったらアメリカやヨーロッパに行ったはずだ)

きっとこれは、寿司が食べたかった旅行者が、とっくに潰れた店にふざけて落書きしたに違いない。
小屋の入り口は固く閉ざされており、その寂れた雰囲気は、潰れてからずいぶんと経過しているように見えたのだ。

呆然としていると、突然、どこからともなく一人のインド人のおっさんが現れた。
なんと「店」の関係者が、客と思しき日本人を見つけてやって来たらしいのだ。
その男が、おもむろに「あんた、スシを食べに来たのか?」と聞いてきたので、私はさらに驚いた。
驚いた理由その1は、この小屋というか店は、一応、まだ営業しているらしいということ。そして、驚いた理由その2はもちろん、この小屋で、本当に寿司や刺身を提供しているということだ。

怖いもの見たさで、「ここで寿司が食べられるの?」と聞くと、そのオヤジは「今はないが、夜ならできる。夜また来い!」と力強く答えた。
それは、「日本人のあなたが満足できる寿司じゃないかもしれないけど…」みたいな謙虚さの一切感じられない、インド人特有の、根拠のない自信に満ち溢れた、堂々たる言いっぷりだった。

あまりに不意をつかれたのと、よく分からない気まずさから、お人好しな日本人の私は、つい反射的にこう言ってしまった。

「分かった。夜、また来る」

店の親父は、力を込めて「OK. 準備しておく」と答えた。

ところが、その夜、再びその店に行くことはなかった。
すっぽかしたのではない。
ゴアの強烈な日差しで熱射病になってしまったのだ。
体調は最悪で、とてもそんな不衛生な店で食事をする気にはならなかったし、そもそもベッドから起き上がることもできず、私はひたすら宿で体を休めることしかできなかった。
こうして私は、インドで寿司を食べる貴重なチャンスを逸したわけだが、正直にいうと、あの不衛生な寿司屋に行かないで済む理由ができて、どこかほっとしていた。

翌日にはすっかり元気になったものの、ゴアにはインドの他の街では見かけないような欧米風の食べ物を出す店がたくさんあり、薄情な私は、あのみすぼらしい寿司屋のことを、もうすっかり忘れてしまっていた。
ちょうど2000年のことである。

思いがけずインドで初めて寿司を食べたのは、それから10年の月日が流れた2010年のことだった。
バックパッカーからスーツケーサー(とは言わないけど)に成り上がった、もしくは成り下がった私は、出張で職場のえらい人と一緒にバンガロールのかなり高級なホテルに泊まっていたのである。
バックパッカー時代に泊まっていた宿と比べて、1泊の料金が100倍くらいするそのホテルは、私がよく知るインドとは全く別の世界だった。
見るもの全てが、かつて宿泊していた安宿とは全く異なる清潔感と高級感にあふれている。
スタッフはアイロンの効いた制服に身を包み、シーツやテーブルクロスは染みひとつない真っ白。
世界中のエグゼクティブと思しき人たちが行き交う無国籍な高級空間は、スタッフの顔立ちさえ除けば、まるでヨーロッパの大都市のホテルのようだった(行ったことないから知らないけど)。

そのホテルの朝食バイキングに、なんと、巻き寿司が並んでいたのである。
たしか、サーモン巻きとカッパ巻きだったと思う。
おそるおそるお皿にとって食べてみると、日本風のお米に酢がちゃんと効いていて、テーブルには醤油も添えられていて、正真正銘の寿司と呼んで全く差し支えのない一品だった。
(もちろん、お腹も壊さなかった)

さらに、その宿には日本風居酒屋も併設されていて、内装は外国の日本料理屋にありがちな、やたらと赤を今強調した中国風だったけれど、燗酒も出してくれたし、カツオのたたきなんかもあって(おいしかった)、なかなかに本格的な和食を出していた。
いくらIT産業が発展した国際都市のバンガロールとはいえ、インドの内陸部で寿司やカツオのたたきが食べられるなんて、と、ものすごく驚いたのを覚えている。

そして、その時、忘れかけていたゴアのあの店の記憶が蘇ってきたのだ。
清潔感と高級感にあふれる、空調の効いた大都会バンガロールの高級ホテルではなく、灼熱のゴアの掘っ建て小屋で、'SUSHI'や'SASHIMI'を出していたはずの、あの店の記憶が…。

もしあの日、あの店を訪れていたら、自分はいったいどんな料理を目にしていたのだろう。
やはり、インド人は寿司もスパイシーに仕立ててしまっていただろうか。
ご飯は日本米?インディカ米?
味やクオリティーはともかく、もしかしたら、あれはインドで最初の寿司レストランだったのかもしれない。

バンガロールで寿司を食べてからさらに10年。
その後もインドは驚異的な経済成長と国際化を続け、今ではインドのどの都市にも、寿司を出す店が出来ているようだ。
疑っているあなたは、「インドの都市名(スペース)SUSHI」と入れて、Google先生に聞いてみてほしい。

スクリーンショット 2020-06-18 21.50.23
この画像は、「Bangalore Sushi」で画像検索してみた結果だが、なぜかシャリが外側に来ている寿司が多いのが気になるものの、ひとまず「寿司」と呼んで全く問題のない料理が並んでいるのが分かるだろう。

長い思い出話に付き合っていただきありがとうございました。
ここからが本題。(前置きが長すぎる!申し訳ない)


インドでも一般化しつつある寿司だが、インド人にとって、寿司や刺身はまだまだ「生で魚を食べるという奇妙な料理」だ。
インド人は、一般的に食に関しては極めて保守的だ。
ご存知のように、人口の8割を占めるヒンドゥー教徒は牛肉食を神聖なものとして忌避しており、ムスリムは豚肉を汚れたものとして忌避している。
ヴェジタリアンも多く、かつては異なるカーストと食卓をともにしない習慣すらあったインド人は、見慣れない外国料理に好奇心を持って飛びつくようなことはなく、食べ慣れた料理こそが一番安心で、そして美味しいと思っている人がほとんどなのだ。

インドの人気作家Chetan Bhagatの小説"A Half Girlfriend"に、ビハール州の田舎育ちの主人公の大学生が、好意を寄せるデリーのお金持ちの娘のホームパーティーにうまくとけ込むことができず、戸惑う場面が出てくる
そこで登場するのが寿司だ。
ウェイターが持ってきた見慣れぬ料理が「生魚を乗せたライス」だと聞いて、主人公はびっくりするのだ。 
主人公は、翌日、似た境遇の寮の仲間たちと、傷を舐め合うかのように「寿司なんてさっぱり理解できないよ。日本の料理なんだって」と語り合うのだ。
都会的なパーティーになじめなかった彼が、金持ちのライフスタイルの理解不能さをぼやいているというわけだ。
(この小説は、後にArjun Kapoor, Shraddha Kapoor主演で映画化されたが、映画は未見なのでこのシーンがあったかどうかは分からない)
ビハール州やデリーは内陸部であり、そもそも魚を食べる週間がない。
有りあまるお金を持っているのに、わざわざゲテモノの「生魚」を食べるなんて意味が分からない、という感覚は、多くのインド人にとって、至極真っ当なものだろう。

今回は、そんなふうにインドでは高級であると同時にかなりキッチュな食べ物である「寿司」が出てくるミュージックビデオを紹介します。

まずは、チェンナイを拠点に活動しているインディーロックバンド、F16sが昨年リリースしたアルバム"WKND FRND"からシングルカットされた"Amber".
ポップなアニメーションで現代社会に生きる人々の孤独を表現したミュージックビデオの1:56に羽の生えた寿司が登場する。

リッチで華やかな生活に憧れながらもなじめない孤独感のさなかに、突如として飛んでくる謎の寿司は、"A Half Girlfriend"に出てきたのと同様に、空虚な豊かさの象徴だろう。
ちなみにF16sの活動拠点であるインド南部東岸の港町チェンナイは、貿易などに携わる日本企業が以前から多く進出している街である。
チェンナイの寿司事情を開設したJETROのこんな記事を見つけた。
内陸部よりも魚に馴染みがあるはずのチェンナイでも、やはり生魚は地元の人々にとってハードルが高いようである。



続いて紹介するのは、インド随一のセンスの良さを誇るコルカタのドリームポップデュオParekh and Singhが今年4月にリリースした"Newbury Street".
寿司は2:18に登場。

見たところ、マグロ、エビ、イカ、玉子などのなかなか本格的な寿司のようだ。
Newbury Streetはアメリカのボストンにあるお洒落な繁華街の名前。
このタイトルは、メンバーのNischay Parekhがこの通りにほど近い名門バークリー音楽大学に留学していたために付けられたものだろう。

このミュージックビデオに出てくる寿司は、これまでに見てきたような「高級なゲテモノ料理」ではなく、ポップでクールな世界観に溶け込んだ、「色鮮やかでお洒落な料理」という位置付けだ。
留学経験がある国際派であり、かつFacebookページのおすすめアーティストにウディ・アレンやマーヴィン・ゲイと並んで、アメリカ版「料理の鉄人」にも出演していた「和の鉄人」森本正治を挙げている彼らにとって、寿司は馴染みのないものではないのだろう。
(森本氏は、インドでもムンバイの5つ星ホテルTaj Mahal Palace内に、和食レストラン"Wasabi"を展開している)

多少インドのことを知っている日本人としては、Parekh and Singhのセンスももちろん分かるし、彼らと価値観を共有していない大多数のインド人(たとえ現代的な音楽のアーティストであっても)にとって、寿司が高級だが極めて悪趣味な食べ物だという感覚も理解できる。
そういえば、子どもの頃、見たことも食べたこともないエスカルゴに対して、私も同じようなイメージを持っていたのを思い出す。
今では、サイゼリヤに行けば必ず「エスカルゴのオーブン焼き」を頼むくらいエスカルゴ好きになったのだが…。

だんだん何を書いているのか分からなくなってきたが、今回はインドでの寿司の思い出と、インド人にとっての寿司、そして、インドのミュージックビデオに登場する寿司を紹介しました。

書いてたら、寿司が食べたくてたまらなくなってきた。

…寿司、食べたいなあ。
できれば回ってないやつ。

それにしても、あのゴアの寿司屋のオヤジが今頃何をやってるんだろう…。
もしあなたが、ゴアで怪しげな寿司屋を見つけたら、ぜひ食べてみて、どんな味だったか教えてください。



追伸。
そういえば、1990年代のインドで刺身を食べさせてくれた場所を1箇所だけ思い出した。
インド東部オディシャ州の海辺の小さな街、プリーにある日本人バックパッカーの溜まり場、「サンタナ・ロッジ」だ。
3食付きのこの宿では、追加料金(確か150ルピーくらい、当時のレートで500円ほどだったと思う)を払えば、大阪の飲食店での勤務経験があるオーナーが、近所の漁師から仕入れた魚の新鮮な刺身を出してくれたのだ。
日本から取り寄せた醤油とワサビもあり、日本食に飢えていた私は、もちろんこの刺身を注文した。
困ったのは、ご飯がパサパサのインド米だということと、他のおかずがインド風のカレーだということ。
食べる前から想像がついたことだが、インドの米と刺身は全く合わず、さらにインドカレーと刺身は味覚の方向性が完全に真逆で、悲劇的なまでにめちゃくちゃな組み合わせだということだ。
(念のために言うと、その刺身は鮮度もまったく味も申し分なく、単体で食べればとても美味しいものだった)

あの時の味のミスマッチを考えれば、全く異なる食文化で育ったインドの人たちが、寿司や刺身をゲテモノ扱いするのも無理がないことだと思う。


追伸その2。
ちょうどタイムリーに面白い記事を見つけたので、貼り付けておく。



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