2020年03月

2020年03月28日

『世界はリズムで満ちている』("Sarvam Thaala Mayam")は音楽映画の傑作!

先日、タミル映画『世界はリズムで満ちている』(原題"Sarvam Thaala Mayam", 英語では"Madras Beats"というタイトルがつけられている)の日本語字幕つきDVD発売記念試写会に行く機会があった。
この映画は2018年の東京国際映画祭ワールドプレミア上映されたものの、その後日本での一般公開はされていない、いわば「幻の名作」。
私も映画祭のときに見ることができず、今回が初見だったのだが、これが大変素晴らしかった!

監督はラージヴ・メーナン(Rajiv Menon. 以下、日本語表記は東京国際映画祭のときの表記で記載)。
メーナンは1995年のマニ・ラトナム監督の名作映画『ボンベイ』や日本でも撮影が行われた2020年公開予定の"SUMO"など多くの作品で撮影監督を務めている人物で、総監督としては前作からほぼ20年ぶりの3作目となる。
主演のG.V.プラカーシュ・クマール(G.V. Prakash Kumar)は、この映画の音楽監督であるA.R.ラフマーン(A.R.Rahman)の姉の息子で、映画のプレイバック・シンガーなども務める音楽畑出身(自作曲も歌う)の俳優。この映画で国内のいくつかの映画賞の主演男優賞にノミネートされるなど、高い評価を得た。
主人公の師匠役には数多くの出演作品・受賞歴を誇るベテラン俳優ネドゥムディ・ヴェーヌ(Nedumudi Venu)、ヒロイン役にアパルナー・バーラムラリ(Aparna Balamurali)。
ちなみにこの作品はタミル語映画だが、監督はタミル・ナードゥではなくケーララ州出身であり、ヴェーヌとバーラムラリもケーララ出身でマラヤーラム語映画をメインに活躍しているようだ。

…と、さも詳しそうに書いているものの、インド映画に疎い私は、ラフマーン以外は全くの初耳。
全くよく分からない状態で見たのだが、どの役者も素晴らしく、とくに演奏シーンはまったく違和感なく超絶技巧を演じていて圧巻の一言。
私同様、インド映画に疎い人も安心して見てほしい。


今回発売されるDVDの日本語字幕は、南インドの映画やカルチャーの発信拠点としても有名なインド料理店「なんどり」さんと、南インド研究者の小尾淳(おび・じゅん)さんによるもので、DVDは「なんどり」さんで購入できる。
通販でも買えるが、このお店、南インド料理も絶品で、そしてお酒の品揃えも素晴らしいので、お近くの方はぜひ直接お店を訪れることをお勧めする。
(「なんどり」さんはJR宇都宮線/高崎線の「尾久駅」から徒歩5分、都電荒川線(さくらトラム)「荒川遊園地前」「荒川車庫前」停留所から徒歩3分。)
と思っていたら、大好評につき初回入荷分はすでに売り切れとのこと!今後の入荷予定はなんどりさんからの情報をチェックしてみてください!



タミル語の予告編はこちら。
この予告編、個人的にはこの映画の魅力を全然伝えきれていないと思うのだけど、一応貼り付けておきます。


私はインド映画だけでなくインド古典音楽にも疎いので、もしついていけなかったらどうしようと少しだけ心配していたのだが、その心配は全くの無用だった。
試写会場が音響に定評のあるチュプキ・タバタだったのも幸運が重なった。
というのも、この映画の実質的な「主役」は、カルナーティック音楽で使用される両面太鼓「ムリダンガム」の大迫力かつ繊細なリズムそのものだからだ。

古典音楽というと小難しく聞こえるが(そして、実際にインド古典音楽は極めて複雑で深淵な理論に基づくものだが)、この映画を見るためにそうした知識は全く必要ない。
日頃、電子音楽やロックやヒップホップを中心に聴いている耳にも、ムリダンガムのリズムはとにかくめちゃくちゃ凄くてカッコいい。
かつて、タブラの演奏を指して「人力ドラムンベース」という表現がよく使われていたが、この映画を見れば、インド古典楽器のリズムはドラムンベース以上のダイナミズムと繊細さを持ち、そして打ち込みのリズムを上回る恐るべき音数と正確さで組み立てられていることがわかるはずだ。
音楽が好きな人だったら、必ず楽しめるし、素晴らしい音楽映画だけが与えてくれる爽快感が味わえる作品である。


【あらすじ】
主人公のピーター・ジャクソンは、ムリダンガム職人の家の一人息子の大学生。
タミル映画の大スター、「ヴィジャイ」の熱狂的なファンで、映画に入れ込むあまり、勉強にも打ち込めずに過ごしていた。
ある時、ピーターはムリダンガムの巨匠ヴェンブ・アイヤルの演奏を間近で見たことで、この楽器の素晴らしさに開眼する。
ピーターはヴェンブへの弟子入りを熱望するが、伝統音楽のカルナーティックはもともと寺院で演奏される神聖な音楽であり、低いカースト出身の彼は、ブラーミン(バラモン)中心の師匠や弟子たちに拒絶されてしまう。
やがて、そのたぐいまれなセンスと熱意をヴェンブに認めてもらい、なんとか弟子入りを許されたピーターだったが、彼の弟子入りを快く思わない先輩から嫌がらせを受けることになる。
ヴェンブはテレビのショーや映画音楽を認めない、伝統を重んじる演奏家だった。
ところが、ちょっとした行き違いからピーターはテレビの古典音楽のリアリティー・ショーに出ることになり、そこで起こしたトラブルから破門されてしまう。
音楽家としての夢を否定され、家庭にも居場所をなくしたピーターは、失意に陥るが…。




はっきり言ってストーリーはツッコミどころ満載だし(インド映画にこれを言ってもしょうがないが)、映画スターへの信仰にも似た崇拝や、恋人へのストーカーっぽい愛情表現など、インド映画にありがちな「クセの強さ」にちょっと引いてしまう人もいるかもしれない。
さらにはカースト差別というインド特有の社会問題も描かれており、多様な側面のある作品なのだが、この映画の本質をあえて一言で表すとしたら、それは「音楽や芸術の普遍性」ということになるだろう。


その話をする前に、映画のストーリーの中で匂わされるものの、明言はされない設定について、少し書いておきたい。
(この先、ストーリーの一部に触れているところがある。すでに書いた通り、この映画の実質的な主人公は音楽そのものであり、ネタバレが作品の楽しみを損なうタイプの映画ではないと思っているが、気にされる方はここでお引き返しを。)


主人公のピーター・ジャクソンというインド人らしからぬ名前や、冒頭の教会のシーンからも分かる通り、彼の一家はクリスチャンである。
両面太鼓のムリダンガム作りは、動物の皮を材料として扱う。
動物の皮革、すなわち動物の「死」と関わる彼らの生業は、「汚れた仕事」とされ、カーストの最底辺のひとつとされている。
ヒンドゥー教に基づく序列であるカーストのくびきから逃れるために、おそらくピーターの一家はキリスト教に改宗したのだろう。
主人公の名前がピーター・ジャクソンで、彼の父の名がジャクソンというのがなんだか紛らわしいが、これはタミルには伝統的に苗字という概念がなく、父親の名前が苗字のように使われているからである。
(父の名前には苗字にあたる部分がないので、ひょっとしたら父の代にチェンナイに出てきて改宗したという設定なのかもしれない)

大都市チェンナイの生活では、表向きはカースト差別はないことになっているのだろう。
病院で献血すれば手放しで喜ばれるし、屋台でも他のお客とおなじようにコーヒーを提供してくれる。(輸血の相手がカースト的概念を持つヒンドゥー教徒ではなくムスリムだったのが意味深な気がしないでもないが)
クリスチャンのコミュニティで成長してきたピーターは、これまで理不尽な差別をさほど経験せずに暮らしてきたようでもある。
だが、一歩保守的な世界に足を踏み入れると、ピーターはその差別に直面することになる。
師ヴェンブのもとでは、伝統主義にこだわる兄弟子に疎まれ、父の故郷の屋台では、ガラスではなくプラスチックのコップでチャイを出されてしまう。
いくらキリスト教に改宗したといっても、カーストの呪縛から逃れることはできないのだ。

タミルのブラーミン(バラモン)は、伝統を重んじていることで知られている。
今なお菜食主義を守り、酒も口にせず、掟に忠実に「清浄に」生きている人々も多く、映画に出てくる伝統音楽の演奏者たちも、そのような暮らしを守っている。
いっぽうで、クリスチャンにとっては、肉食(ヒンドゥー教の聖なる動物である牛肉も含めて)も罪ではないし、アルコールも嗜むことができる。
ピーターが先輩のマニに、「酔っぱらい」と見下されたり、師匠から菩提樹の実をもらったときに「これを身につけているときは酒や肉を口にするな」と言われたりするのは、こういう理由からである。
とにかく、この映画のなかで彼が会う苦難は、ほぼ全てが「低いカースト出身である」ということに基づいている。

話を本題に戻すと、彼の才能に嫉妬した元兄弟子の奸計と、カーストに対する偏見への怒りから、ピーターは大きなトラブルを起こし、破門されてしまう。
師匠からも家族からも見放された失意のピーターは、あるきっかけから、リズムは師匠からだけではなく、森羅万象から学ぶことができると気づく(このあたり、かなり強引な展開だったが、まあいい)。
旅に出たピーターは、インド北東部(メガラヤ、ナガランドあたりか)の音楽や、パンジャーブのバングラー、ラージャスタンのマンガニヤール音楽、ケーララの太鼓チェンダなど、インド各地のリズムを学んでゆく。
(とくに説明のないシーンなので、分からなくても問題はないのだが、風景や民族衣装からこうした背景を理解できれば、この映画の味わいはさらに増すことになる)
こうしてインドじゅうで学んだリズムが、クライマックスで大きな意味を持ってくる。

この映画は、カースト差別という社会問題をモチーフにしながら、芸術の真髄とは伝統を守ってゆくことなのか、それとも芸術は万人に開かれ時代とともに更新されてゆくべきものなのか、という問いをメインテーマとして扱っている。
クリスチャンで、なおかつアウトカーストであるピーターが伝統に基づいたカルナーティック音楽にインドじゅうで学んだリズムを取り入れてゆくクライマックスは、音楽の「普遍性」は保守的な伝統(差別的な因習を含む伝統)を上回り、それこそが芸術の本来あるべき姿である、というメッセージを伝えている。
クライマックスまでに伝統的なカルナーティック音楽のリズムの素晴らしさがたっぷりと描かれているから、多少強引なストーリー展開であっても、このメッセージは単なる伝統の軽視ではなく、じゅうぶんな説得力を持って我々に刺さってくる。

さらに言うと、この映画の序盤に出てくる映画スターへの異常なほどの崇拝や、好きになった女性や師匠へのストーカーのような愛情表現、そして、音楽に対する果てしのない求道心といった様々な要素は、宗教を超えて南アジアに共通する「究極的な存在(例えば神)に近づこうとする気持ち」のひたむきさともつながっているようにも思える。
(劇中歌の歌詞にも注目)
憧れや崇拝や愛情といった「思慕」、そして音楽や芸術の普遍性というテーマが、冒頭からラストまで、この作品には通底しているのである。


この映画の「本当の主役」であるムリダンガムという楽器については、この動画でわかりやすく説明されている。
シンプルだが無限とも言える可能性のある楽器なのだ。
 

なにやら理屈っぽいことをいろいろと書いたが、この映画のそこかしこに出てくるムリダンガムの超絶のリズムを全身で浴びれば、それだけでもう十二分にこの作品を楽しめるはず。
同じ「打楽器師弟もの」 の映画として、『セッション』(原題"Whiplash",2014年米)あたりと比較してみるのも面白いと思う。

なかなか外に出られない昨今、鬱々と過ごすことも多い毎日に、とくにオススメの作品です。
見るべし!



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2020年03月23日

『タゴール・ソングス』が描く「うた」と人間の理想的な関係

2020年4月18日(土)からポレポレ東中野で公開される映画『タゴール・ソングス』のパンフレットに少し感想文のようなものを書かせてもらっている。

 

というわけで、パンフの内容と若干重複するところもあるのだけど、ここであらためて映画『タゴール・ソングス』について書いてみたい。

そもそもの話になるが、タゴールという名前を聞いたことがある人でも、「タゴール・ソング」を知らないという人は多いのではないだろうか。(私もそうだった)
1861年、当時イギリス領インドの首都だったコルカタに生まれたタゴールは、数多くの詩や小説、戯曲を書き、詩集『ギタンジャリ』で、アジア人で初のノーベル賞(文学賞)を受賞した。
日本では詩人のイメージが強いタゴールだが、じつはその生涯で2,000曲を超える楽曲を作った「ソングライター」でもあった。
そのタゴールによって作られた「うた」がタゴール・ソングだ。
ヒンディー語では「ラビンドラ・サンギート」、彼の故郷の言葉であるベンガル語では「ロビンドロ・ションギト」という。
タゴール・ソングは今でもベンガルの地で愛唱されており、タゴールの歌とともに生きる人々を綴ったドキュメンタリー映画が、この『タゴール・ソングス』なのだ。

と、さも知った風なことを書いたけれども、これらは全てこの映画を見てから覚えたこと。
正直に言うと、最初にパンフレットの原稿の話をもらった時は、困ったなあと思ったものだった。
タゴールのことは名前くらいしか知らなかったし、100年前の大文学者である彼は、いつも私が追いかけている現代のラッパーやミュージシャンとはあまりにもかけ離れた存在だ。
はっきり言って、何も書ける気がしない。
ところが、気乗りしないまま軽い気持ちで試写を見てみたら、私はすっかりこの映画に夢中になってしまった。
そこに「うた」と人間との理想的な関係が描かれていたからだ。

誰にでも、大切な「うた」というものがあるだろう。
励ましてくれたり、慰めてくれたり、ときに生きる指針を示してくれるような「うた」。
あるいは、それはもっと暗い、やるせない孤独や憂鬱を肯定してくれるような「うた」かもしれない。
多くの人にとって、それは思春期に出会った、自分とほぼ同時代に作られた「うた」なのではないだろうか。
「歌は世に連れ世は歌に連れ」とはよく言ったもので、世の中が変われば人の心も変わるし、時代が変われば新しい歌が必要になる。
だから、ポピュラーミュージックにはその時代や社会で歌われる理由が必ずあるし、そうやって音楽は発展してきた。

ところが、ベンガルでは、現代の音楽だけではなく、100年も前に作られた「タゴール・ソング」が、今もなお個人の魂に寄り添ってくれる「うた」であり続けているのだ。
まるで、ポピュラー・ミュージックのように。
別に懐古的な老人や、伝統主義者たちだけではない。
ストリートのラッパーや、EDMやデスメタルも聴く音楽ファン、スラム育ちの青年、今風の女子大生まで、誰もがタゴールの「うた」に寄り添われて生きている。
念のために言うと、ここで「ベンガル」と書いているのは、コルカタを含むインド領ウエストベンガル州と、ベンガル地方の東部すなわちバングラデシュの両方のこと、つまりベンガル全域のことである。

別にベンガルに限らなくても、インド人は(南アジア人は、と言ってもよい)伝統をとても大事にしている人々だ。
このブログでもいつも紹介しているように、インドの若手ミュージシャンは、古典音楽の楽器や歌唱法をロックに取り入れたり、伝統音楽をサンプリングしてヒップホップのトラックを作ったりもしている。
ミュージシャンに限らなくても、南アジアには信仰を大事にしている人が多いから、そういう人たちは何百年、何千年前の言葉を日々祈りのなかで唱えていたりもする。
だが、この映画を見る限り、タゴール・ソングは、そういった「俺たちの誇るルーツ」とか「信仰」とは全く違うもののように思える。
なんというか、タゴール・ソングは、もっと普遍的で、かつ個人的な「うた」なのだ。

タゴール・ソングのテーマはさまざまだ。
『カントリーロード』や『ふるさと』みたいなものもあれば、ブルーハーツの『月の爆撃機』みたいなものもある。
ゲーテの詩みたいなものもあれば、黒人霊歌みたいなものもあるし、最近のアメリカあたりの女性シンガーみたいに「女性を自立した個人として扱ってほしい」と歌うものまである。

いずれにしても、100年も前の歌が、単なる伝統としてではなく、極めてリアルなものとして、現代を生きるベンガルの人々に語りかけているのだ。
映画に出てくる人々の年齢や宗教、階層や立場が極めて多様であるということからも、タゴール・ソングが持つ普遍性が分かる。
タゴール・ソングは、コミュニティや世代の違いを超えて、ベンガルの人々にとって特別な存在なのである。
いったいタゴール・ソングの何が特別なのだろうか。

ここまで書いてこう言うのもなんだが、私はタゴール・ソングの音楽としての素晴らしさについては、じつは今でもよく分かっていない。
メロディーは決してキャッチーではなく、つかみどころがない。
それに唱歌のようにシンプルに歌われるタゴール・ソングは、インドの古典音楽ヒンドゥスターニーやカルナーティックのように、ヴォーカリストの超人的な技量を味わうものでもないようだ。
シンプルな4拍子やワルツではなく、歌詞に合わせて拍が変わったりするから、リズムも取りにくい。
要するに、言葉を超えて伝わりやすい要素が、ほとんどない音楽なのだ。

これは、きっとまず初めに伝えるべき「ことば」があり、その「ことば」を活かすための抑揚として、メロディーが作られているからだろう。
おそらくだが、タゴール・ソングの本当の良さを理解するには、ベンガル語を正しく理解し、その表現や響きの美しさを感じられるようになることが必要なのではないか。
大詩人タゴールが作った「うた」は、きっと何よりも「ことば」を大事にした「うた」なのだ。
(「ソング」というよりも、「詩」に近いんじゃないか、ということで、私はさっきから「歌」ではなくひらがなで「うた」と書いている)

こんなふうに書くと、タゴール・ソングはベンガル語を解さない我々にとって、音楽的な魅力に乏しい「うた」のように思えてしまうかもしれないが、じつはこのことは、この映画の魅力にほとんど影響を及ぼさない。

歌を作る人は、自分の作品がいつまでも人々の心に影響を与えるものであってほしいと願うことだろう。
そして、歌を聴く人もまた、歌に自分の心にぴったりとはまる「ことば」を求めているはずだ。
そんな音楽と人間の理想的な関係が、100年前の「うた」と現代を生きる人々の間に存在している。
この奇跡のような事実を扱っているというだけで、この映画の面白さはもう半分以上決まったようなものである。
この面白さの前では、メロディーの「つかみどころの無さ」は、ほとんどどうでもいい要素なのだ。
『タゴール・ソングス』に出てくる人たちは、プロの音楽家も一般人も、それぞれがタゴールとの間に特別な関係を築いている。
その誰もが愛おしくて、彼らがときに誇らしげに、ときに自分を慰めるかのように歌うタゴール・ソングは、その歌い手の表情や佇まいを含めて、例えようもなく魅力的である。

もう一つ付け加えると、ベンガル人たちと「詩」の距離の近さもたまらなく素敵だ。
女子大生が会話の中で唐突に「私も詩人よ」なんて言い出したりしても、誰にも変に思われたりせず、自然と「無理するなって。君の詩、読んだことないけど」なんて返される。
そんなベンガル人たちと「ことば」との距離感は、とても好ましいもののように思える。
詩を全然読まない自分が言うのもなんだけど、本当は詩ってもっとこんなふうに身近にあるべきものなんだろうなあ。
いつから「ポエム(笑)」みたいになっちゃったんだろうか。

この映画を見れば、100年も前の「うた」とともに生きることができるベンガルの人々が、きっとうらやましく思えるはずだ。
それに、100年前の「うた」や「ことば」を糧に生きている彼らが、なんだかとてもかっこよくも見える。
さて、そうした「うた」も「ことば」も持たない我々は、どうやって生きてゆこうか。
映画『タゴール・ソングス』は、遠いベンガルの人々を見ていたはずなのに、そんなことを思わされる作品である。





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2020年03月17日

コルカタ&バングラデシュ ベンガルのラッパー特集!




前回、前々回とコルカタのロックシーン特集をお届けした。
今回は、満を持してヒップホップ特集!
それも、インド領ウエストベンガル州のコルカタだけではなく、バングラデシュを含めたベンガル地方のヒップホップアーティストを紹介します。

ふだんチェックしているインドの音楽メディアでは、どうしてもヒンディー語圏のアーティストが紹介されることが多く、ベンガルの音楽シーンの情報というのはほとんど入ってこない。
とくにヒップホップに関しては、映画『ガリーボーイ』 の舞台にもなったインドのシーンの中心地ムンバイや、インド随一のヒップホップレーベル'Azadi Records'を擁するデリーが全国的に注目されており、ベンガルのラッパーはインド国内でもほとんど取り上げられていない。
多言語国家インドのこの状況は、例えばここ日本で欧米の音楽情報を入手しようとしたときに、アメリカ・イギリス以外の地域や、英語以外の言語で歌うアーティストの情報がなかなか入ってこないのと同じようなものだと考えれば分かりやすいだろう。
ところが、ベンガル語圏は、ロックバンドだけでなく、ヒップホップにおいてもセンスの良いアーティストの宝庫なのだ。

まずは、コルカタを代表するラッパー、Cizzyを紹介。

このジャジーなビートと落ち着いたラップは、パーカッシブなビートにたたみかけるようなラップが特徴のムンバイのガリーラップとは趣を異にする、じつにコルカタらしいサウンドだ。

Cizzyの存在に最初に気がついたのは、ジャールカンドのヒップホップアーティストTre Essによる7人のラッパーのマイクリレー"New Religion"のトップバッターを務めていたのを聴いた時だった。

メディアへの露出こそ少ないベンガリ・ラッパーたちだが、どうやら北インドの言語圏のラッパー同士の交流は行われているようである。

彼のリリックのテーマはコルカタのライフスタイルのようで、この曲のタイトルはそのままずばりの"Kolkata".
ここでは抑制の効いたビートに乗せて、ムンバイのDivineのスタイルに似たアッパーなラップを披露している。
コルカタのシンボルのひとつ、人力車も出てくるミュージックビデオの見所は、デリーやムンバイとは雰囲気の違うコルカタのガリー(裏路地)だ。
イギリス統治時代に作られた街並みなのだろうか。

このCizzyの曲をリリースしているJingata Musicは、コルカタのヒップホップシーンを代表するレーベル。
Jingata MusicのYouTubeチャンネルでは、他にもイキのいいウエストベンガルのラッパーたちをチェックすることができる。

Old BoyとWhy Sirによる"Nonte Fonte"には、ダンサーやラッパーたちが大勢出演したコルカタのシーンの勢いが感じられる楽曲。
 
Mumbai's Finestの"Beast Mode"と比較してみるのも面白いだろう。
ラップのスキルやセンスはともかく、コルカタのほうがちょっと垢抜けない感じなのも微笑ましい。

このOld Boyによる"Case Keyeche"のリリックは『ガリーボーイ』ブームに便乗して出てきたギャングスタ気取りのエセラッパー(誰のことだ?)を揶揄するもののようだ。

そのくせ、彼自身も動画のタイトルに、コラボレーションしているわけでもないDivineやNaezy(いずれも『ガリーボーイ』のモデルになった人気ラッパー)を入れており、そういうオマエも便乗してるじゃん!と突っ込みたくなってしまう。
とはいえ、この曲を聴けば彼が確かなスキルを持ったラッパーであることが分かるだろう。
この曲のビートにはBraveheartsの"Oochie Wally"が使われているが、ベンガル語混じりのラップが乗ると一気にインド的な雰囲気になってしまうのが面白い。

前回の記事で紹介したラップメタルバンドUnderground AuthorityのヴォーカリストEPR Iyerは、有名なタゴール・ソングからタイトルを拝借した"Ekla Cholo Re"(ひとりで進め)という曲を発表している。

この曲は、貧しい生活を余儀なくされ、自殺者が相次いているインドの農民たちがテーマとなっている。
EPR曰く「これは単なる歌ではなく、雄叫び(Warcry)だ。誰にも気にされずに死んでゆく人々のための、戦いの叫びである。」
こうした強い社会意識はインドのラッパー全体に広く見られるものだが、そこにタゴール・ソングの曲名を引用してくるというセンスはベンガルならではのものだ。
トラックを担当しているGJ Stormはコルカタを代表するビートメーカーのひとり。

色鮮やかなクルタに身を包んだMC HeadshotとAvikのデュオによる"Tubri"は、オールドスクールなビートにインドっぽい音色も入ったトラックに乗せて、確かなスキルのラップを聞かせてくれる一曲。


ストリートのリアルを直接的に表現することが多いムンバイのシーンと比較すると、コルカタのシーンはどこか知性や批評性を感じさせるラッパーが多いように感じられる(ムンバイのラッパーに知性がないと言いたいわけではない。念のため)。
かつてのアメリカのヒップホップになぞらえると、ムンバイは西海岸に、コルカタはニューヨークのシーンに似ていると言えるかもしれない。
(面白いことに、それぞれの街の位置もアメリカの西海岸とニューヨークにあたる場所にある)


ベンガルで優秀なラッパーが多いのはコルカタだけではない。
国境を越えたバングラデシュにも、また数多くの優れたラッパーたちがいる。

バングラデシュを代表するラッパーの一人、Nizam Rabbyはドキュメンタリー映画『タゴール・ソング』にもフィーチャーされ、映画の中で郷土の大詩人タゴールへの思いを語っている。

たとえ言葉はわからなくても、彼のラップを聴けば、その高いスキルを感じることができるはずだ。
現代ストリートカルチャーの最先端のラッパーが、100年前の詩人からつながるカルチャーを持っていることこそ、ベンガルのシーンの豊饒さと言うことができるだろう。

Bhanga Banglaは「バングラデシュで最初のトラップアーティスト」という触れ込み。
 
ミュージックビデオに描かれているベンガル風の近未来的ディストピアが面白い。

本場アメリカで活動しているベンガル系ラッパーもいる。
この"Culture"で国旗を振り回してラップしているSha Vlimpseは、ニュージャージー出身のバングラデシュ系ラッパー。
いわゆる狭義の'Desi Hip-Hop'(在外南アジア系アーティストによるディアスポラ市場向けヒップホップ)ということになるが、その中でも彼のリリックのテーマは、「バングラデシュ系としてアメリカで生きること」のようだ。
 
彼のフロウにはエミネムの強い影響が感じられる。
インドでは、バンガロールのラッパーBrodha Vもかなりエミネムっぽいフロウを聞かせているが、南アジア系のラッパーがエミネムから受けた影響の大きさをあらためて感じさせられる。

ベンガルのラッパーの情報は、インドのインディー音楽シーンのメインストリームばかり追いかけているとなかなか入ってこないが、センス、スキルともに高いアーティストが多く、ムンバイともデリーとも異なる雰囲気のシーンが形成されている。
インド領のコルカタとバングラデシュでもまた違った空気があるようで、今後とくに注目してゆきたい地域である。

ベンガルにはまだまだ優れたラッパーたちがいるが、今回紹介するのはひとまずここまで!


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2020年03月14日

特集!コルカタのインディーミュージックシーンその2 現在のコルカタのロックバンドたち


前回、60年代〜70年代のコルカタ(カルカッタ)で活躍した驚くべきロックバンド、The Flintstones, Calcutta-16, Great Bear, そしてHighを紹介した。

コルカタは1911年まで英領インドの首都として栄えていた街だ。
イギリスによるインド支配の中心地だったコルカタには、イギリス人男性とインド人女性との間に生まれた子どもたちの子孫である「アングロ・インディアン」と呼ばれる人々のコミュニティーが形成されていた。
彼らの多くがイギリス統治時代に官僚として活躍し、また西洋音楽(ジャズ、ブルース、のちにロックなど)をコルカタ、そしてインド全体にもたらすうえでも大きな役割を果たした。
さしずめ、アングロ・インディアンたちは、1960年代の日本で外国にルーツを持つメンバーを中心に結成され、本格的なロックを演奏していたゴールデン・カップスのような存在だったのだろう。

インドのなかでロックが盛んな地域といえば、ケーララ州やインド北東部といったキリスト教信仰が盛んな場所が挙げられるが、アングロ・インディアンたちもまたクリスチャンだった。
ここでもクリスチャンが西と東の文化をつなぐ役割を果たしていたのである。
(一方で、インドのキリスト教徒たちがヒンドゥー原理主義者たちから「インドの伝統を破壊する」として理不尽な排斥の対象にもなっているということにも留意しておきたい)

1970年代以降も、コルカタは洗練されたロックバンドを多く生み出している。
1975年に結成されたMohiner Ghoraguliは、欧米のロックの模倣だけでなく、ベンガルのフォークやバウルの影響も取り入れた、ベンガル語で歌うバンドだ。
さまざまなスタイルの曲を演奏しているが、この曲は穏やかなメロディーにむせび泣くギターが印象的な、まるでインド版Pink Floydだ。


1998年から2010年まで活動していたInsomuniaは、サイケデリックな要素のあるベンガル語のヘヴィ・ロック。ヴォーカルが弱いが、この時代のインドでこのサウンドを鳴らしたセンスはなかなかのもの。


ベンガル語で歌うバンドとしては、他にもCactus(1992年結成)、Fossils(1998年結成)、 よりフォーク的な曲調のKrosswinds(1990年)らがおり、現地の記事ではロックバンドとして扱われていることも多いが、あまりロック的な音楽性ではないのでここでは割愛する。

ベンガル語のポピュラーソングを聴いて感じるのは、インドの他の言語の歌と比較して、メロディーの「くせ」が少なく、どこか垢抜けているということだ。
例えばヒンディー語やパンジャービー語の歌やラップを我々日本人が聴くと、歌い回しや独特の「こぶし」が茨城弁や東北弁っぽく聴こえることが多い。
(参考記事:「インドの吉幾三」
ところが、ベンガル語の歌やラップには、こうした独特の節回しがほとんど感じられないのだ。
これは、言語のイントネーションの違いによるものかもしれないし、それぞれの言語圏の音楽の伝統の違いによるものかもしれない。
独特のうねるような歌い回しが特徴的なヒンドゥスターニー音楽(北インドの伝統音楽)と比べて、例えばベンガルに伝わるバウルの歌は、歌い声こそ力強いが歌い方はもっとストレートだし、ベンガル人たちの愛唱歌タゴール・ソングも唱歌のようなシンプルなメロディーのものが多い。
つまり、ベンガル人の音楽的なルーツには、いかにもインド的な節回しは存在していないようなのだ。
ひょっとしたら、コルカタにインドらしからぬ音楽性のロックバンドが多い理由のひとつに、こうしたベンガル語やベンガル音楽の「くさみの少なさ」が影響しているのかもしれないと思った次第である。

インドの他の地域同様、コルカタのロックシーンもまた、2000年以降、経済成長やインターネット普及の追い風を受けて加速度的に発展してゆく。
Highの影響を強く受けているというThe Supersonicsは、2006年に結成されたバンドだ。

Highとはうってかわって現代的なサウンドだが、それだけにコルカタのロックの伝統が21世紀まで続いていることを感じさせられる。

2010年結成のUnderground Authorityはインド初のラップメタルバンドと言われている。

Rage Against The Machineを彷彿とさせる社会的メッセージの強い楽曲を演奏している。
この曲は全編英語だが、彼らは英語ラップとヒンディー語のヴォーカルを融合させた曲も多く、また映画のカヴァー曲なども手がけている。

2011年に結成されたThe Ganesh Talkiesもちょっと社会風刺っぽい要素のあるロック。

独立後のウエストベンガル州は、伝統的に共産党政権が長く続いていたことでも知られており、またナクサライトのような過激な運動を行う組織が誕生した地でもある。
こうした社会批判的な視点というのもコルカタのバンドの伝統と言えるのだろうか。
ちなみにインドには'◯◯ Talkies'という名前のバンドがいくつかあるが、いずれも古い映画館から取られた名前のようだ。

そしてコルカタの洗練されたロックバンドの究極とも言える存在が、2011年に結成されたこのParekh And Singhだろう。



Parekh & Singhはボストンのバークリー音楽院を卒業したNischay Parekhと、コルカタの名門私立学校La Martiniere Calcuttaでの友人だったJivraj Singhによるドリームポップ・デュオだ。
彼らは、イギリスの名門インディーレーベルPeacefrogと契約しており、日本の音楽情報サイトでもたびたび紹介されたり、高橋幸宏にリコメンドされたりするなど、国際的な評価を得ている。
毎回ウェス・アンダーソンを思わせるポップな色使いのミュージックビデオを制作することでも知られており、音楽的にもビジュアル的にもインドらしさのまったくない無国籍なセンスの良さを誇っている。
それにしても、いくら世界的にも評価されているバンドだといっても、大人気と言えるほどでもない彼らが、いったいどうやって毎回こんなにお金のかかったビデオを撮ることができるのか、ずっと不思議だったのだが、ある筋から聞いた情報によると、どうやらその秘密は「実家がとんでもないお金持ち」ということらしい。
Parekhの実家は、お手伝いさんが10人以上いる大豪邸だそうだ。
彼らもまた、コルカタの富裕階級の趣味の良さを感じさせてくれるグループなのだ。

2回に分けてコルカタ出身の様々なロックバンドを見てきたが、そこに共通点を見出すとしたら、イギリス統治時代から続く西洋文化の吸収に積極的な「センスの良さ」と、文学的ともいえる深みのある表現と言うことができるだろう。
やはりどのバンドを見ても、ムンバイともデリーとも違う「コルカタらしさ」が感じられるように思えるのは、気のせいではないはずだ。

次回は、ベンガルのラッパーたちを特集してみたいと思います!
乞うご期待!



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2020年03月08日

特集!コルカタのインディーミュージックシーンその1 驚愕の60〜70年代ロック!

どうやら最近巷では、南インド料理ブームに続いて、ベンガル料理が注目されているようだ。
さらに4月には、ベンガルが誇る世界文学史上の偉人、タゴールをテーマにしたドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』も公開される。
(不肖、軽刈田もこの映画のパンフレットに 文章を書かせてもらっています。今なおベンガルの地で愛唱されている、タゴールの歌とともに生きる人々を綴った素晴らしい作品。必見!)

というわけで、ベンガルブームの波が密かに迫ってきている昨今、インド4大都市の一つであり、ウエストベンガル州の州都であるコルカタのインディー音楽の歴史を特集してみようというのがこの企画。

まずはベンガルという土地についてざっとおさらいをすると、この地図の赤い部分が、インドのウエストベンガル州だ。
WestBengalMap
(出典:Wikipedia)

この地図では空白になっているが、ウエストベンガル州の東側の抉れたように見える部分には、バングラデシュがある。
抉れた先の、ちぎれそうになっている部分は、このブログでも何度も特集してきたインド北東部だ。
インドの東のはずれにあるのに、なぜ「西」ベンガル州なのかというと、ベンガル地方の東半分は、バングラデシュとして別の国になっているからなのである。

コルカタ―かつてのカルカッタ―は、いにしえの王朝が栄えた古都ではない。
かつては小さな村しかなかったこの地域が栄え始めたのは、イギリスの東インド会社が拠点を構えてからのことだった。
1877年には、イギリス領インド帝国の首都に定められ、行政の中心地となったことで、官僚として働くインド人の知識階級が成長した。
コルカタは、タゴールをはじめ、映画監督のサタジット・レイや、宗教家/思想家のスワミ・ヴィヴェーカーナンダのような、伝統を踏まえつつもどこか進取の気性に富んだ人物を多く排出した街という印象があるが、それはこの街が、藩王国時代からの伝統ではなく、イギリス支配以降の「新しい」時代の影響を強く受けているということも関係している。
古いものと新しいもの、東と西の文化が混ざり合う風土があったのだ。
そして、イギリスによるインド統治の中心地だからこそ、支配のなかで自分たちのアイデンティティを捉えなおそうという気風が育ったのだろう。
 
コルカタの歴史は穏やかなものではなかった。
知識階級となったベンガル人たちは、やがてイギリス支配からの独立運動に取り組み始める。 
スバシュ・チャンドラ・ボースや「中村屋のボース」として知られるラース・ビハリ・ボースといった独立運動の英雄は、いずれもベンガルの出身である。 
こうした動きを削ぐため、イギリスは1905年にはベンガルのヒンドゥーとムスリムの団結を避けるべく居住地を分割し、1911年には首都をデリーへ移転した。 
ベンガル出身の2人のボースは、ついにインドの独立を見ることはなく、チャンドラ・ボースは台湾で、R.B.ボースは日本で、いずれも1945年に亡くなっている。

インドとパキスタンがイギリスからの「分離独立」を果たしたのは、その2年後の1947年のことだ。
この独立にともない、ベンガルの地は、インド領ウエストベンガル州と、東パキスタン(のちのバングラデシュ)に分断される。
イギリス領だったころの分割統治が、そのまま2つの国を生んでしまったのだ。
ヒンドゥーがマジョリティを占める世俗主義国家インドと、イスラームを国教とする東パキスタンへの分割は、多くの難民を生み、カルカッタはその後長く路上生活者のあふれる街という印象を持たれることになった。
さらに、分離独立によって、主要産業である綿花やジュートの原料生産地の東ベンガルを失ったコルカタの経済は、その後長く低迷することになる。

だが、イギリス統治時代に育まれた、新しい文化に積極的な気風は、独立後もこの街に生き続けていた。
アングロ-インディアンと呼ばれるイギリス人の血を引くインド人たちのコミュニティーが、西洋文化の受容を続けていたこともその理由の一つだったようだ。 
1960年代には、ビートルズやジミ・ヘンドリックスなどの欧米の新しい音楽の影響を受けた本格的なロックバンドがカルカッタに登場する。
The Cavaliers, The Flintstones, Calcutta-16といったバンドたちは、サウンドだけ聴けばインドのバンドであることを感じさせない、同時代のアメリカやイギリスのバンドのようなロックを演奏している。



The CavaliersのリズムギタリストだったDilip Balakrishnanが、Calcutta-16に合流する形で誕生したGreat Bearは、インドで最初のプログレッシブ・ロックバンドとされている。

King CrimsonやELPのような構築的なプログレではなく、初期Pink Floydのようなサイケデリック・サウンドは、テクニックよりも雰囲気で聴かせるタイプのようだ。

メンバーの脱退によりGreat Bearが解散したのち、Balakrishnanは、The CavaliersのベーシストLew Hilt、Calcutta-16のドラマーNondon Bagchiらとともに、1974年にHighを結成する。

このHighは、今でも評価の高いコルカタ・ロックシーンの伝説的なバンドだ。
Grateful Dead, The Beatles, Rolling Stones, Pink Floydの影響を受けた彼らは、カバー曲の演奏が中心だった当時のシーンでは珍しく、英語のオリジナル曲をいくつも残している。
 

この"Is It Love", "Place in The Sun"の2曲は彼らのオリジナル曲。
彼らは欧米のバンドのカバーも多く手掛けており、Marshall Tucker Bandの"Can't You See", Allman Brothers Bandの"Wasted Words"などの優れたカバーを披露している。


Highは70〜80年代にインドでは数少ないロックファンの人気を博したようだが、90年に中心人物のBalakrishnanが39歳の若さで亡くなり、その活動を終える。
これだけの質の高いバンドでありながら、彼らはインドのインディー音楽の黄金時代がやってくるずっと前に解散してしまったのだ。
彼らが活動していた時代は、楽器や機材の調達にも苦労し、バンドだけで生活してゆくことなどとてもできなかったようだ(これは今のインドのインディーミュージシャンたちもあまり変わらないかもしれないが)。
これだけの音楽の才能を持ったリーダーのBalakrishnanですら、企業に務めながら音楽活動をしていたという。

それにしても、60年代、70年代のインドに、ここまで洗練されたロックバンドがいたということに、ただただ驚かされる。
これもコルカタという街の持つ独自性が育んだ、素晴らしい文化遺産のひとつと呼ぶことができるだろう。
Highの作品は、2009年にインドのSaReGaMaレーベルから再発売され、翌年には新たなメンバーを加えて、'High Again'という名前で再結成を行ったようだ。

次回はより新しい時代のコルカタのシーンを紹介したい。

参考サイト:
https://www.redbull.com/in-en/a-high-point-in-indian-rock

http://www.sunday-guardian.com/artbeat/high-to-dilip-remembering-the-granddaddies-of-kolkatas-rock-scene-2 

https://www.businesstoday.in/magazine/bt-more/return-of-the-native/story/4765.html

https://www.facebook.com/pg/HIGH.THE.BAND/about/



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2020年03月05日

インドのメタル系フェスの最高峰!Bangalore Open Air

たびたびこのブログでも書いている通り、インドでは多くの音楽フェスティバルが開催されている。
もともとお祭り好き、踊り好き、音楽好きの多い国民性に加えて、インターネットの発展にともなって多様なジャンルのリスナーが育ってきたこと、経済成長によって欧米の人気アーティストを招聘できるようになったこと、自国のインディーミュージシャンが増えてきたことなどが、インドのフェス文化隆盛の理由と言えるだろう。

これまでに紹介してきたNH7 WeekenderやZiro Festivalのように、さまざまなジャンルのアーティストが出演するフェスもあれば、大規模EDMフェスのSunburnや古城を舞台にしたMagnetic Fieldsのように、エレクトロニック系に特化したものもある。





さて、インドで根強い人気を誇っている音楽ジャンルとして、忘れてはならないのがヘヴィメタルだ。
ヘヴィメタルに熱狂するインド人を見たのは、この2007年のIron Maidenのバンガロール公演が最初だった。
彼らの全盛期だった80年代にはまったくロックが浸透していなかったにも関わらず、これだけたくさんのMaidenのファンがインドにいることに、ずいぶん驚いたものだった。


インドのメタルファンたちは、海外のバンドに熱狂するだけではない。
ムンバイやバンガロールのような大都市は言うに及ばず、キリスト教徒が多く、欧米の文化への親和性の高い南部ケーララ州やインド北東部にも、数多くのヘヴィメタルバンドが存在しているのだ。
(詳しくは、このカテゴリーで紹介している)


その中には、GutslitやAmorphiaのように、小規模ながらも来日公演を行ったバンドもいるし、Demonic ResurrectionやAgainst Evilといったヨーロッパツアーを成功させているバンドもいる。
そんな知られざるヘヴィメタル大国であるインドには、当然メタル系のフェスも存在していて、その頂点に君臨しているフェスが、今回紹介するBangalore Open Air(BOA)なのである。

このBOAは2012年にドイツの大御所スラッシュメタルバンド、Kreatorをヘッドライナーに第1回が行われ、以降、毎年Iced Earth, Destruction, Napalm Death, Vader, Overkillといった海外のベテランバンドをヘッドライナーに、インドのバンドも多数参加して、大いに盛り上がっている。

これはDestructionがトリを務めた2014年のフェスの様子。
インドからも、シッキム州のハードロックバンドGirish and Chroniclesや、正統派メタルサウンドにスラッシュメタル風のヴォーカルが乗るKryptosらが参加。
ときにモッシュピットも巻き起こるほどに盛り上がっている。


昨年のBOAの様子を見ると、5年間で会場の規模もぐっと大きくなっているのがわかる。


さて、このフェスの'Open Air'という名称にピンと来たあなたは、結構なメタルヘッズですね。
そう、このBOAでは、ヘヴィメタルの本場のひとつ、ドイツで行われている超巨大メタルフェス、Wacken Open Air(通称ヴァッケン、またはW:O:A)に参加するための南アジアのバンドのコンテストであるWacken Metal Battleの南アジアの決勝戦も行われているのだ。

BOA開催に先駆けた2011年から、インドからは毎年W:O:Aにバンドを送り込んでいる。
というわけで、ここではこれまでW:O:Aに参加したインドのバンドたちを紹介してみたい。
(デスメタルばかりなので食傷気味になるかもしれない)

まずは2011年にW:O:Aにインドから初参加を果たしたバンガロールのデス/メタルコアバンド、Eccentric Pendulum.
彼らは2018年にもW:O:A参戦を果たしている。


2012年に参加したのはムンバイのスラッシュ/グルーヴメタルバンドZygnema.


1998年結成のバンガロールのベテランKryptosは、2013年と2017年にW:O:A参戦を果たしている。


2014年のW:O:AにはムンバイのシンフォニックデスメタルバンドDemonic Resurrecrtionと北東部メガラヤ州シロンのPlague Throatの2バンドがインドから参加している。



2015年には同じく北東部から紅茶で有名なダージリンのデスメタルバンドSycoraxが出演。


2018年にはハイデラバードのGodlessが、2019年にはニューデリー出身のパロディバンド的な要素もあるBloodywoodがW:O:Aに参戦している。


同じようなメタルバンドがたくさん出演するフェスだからだと思うが、やはり類型的なデスメタルやメタルコアよりも、インドの要素が入った個性的なバンドの方が受け入れられやすいようで、オーディエンスの反応はBloodywoodが群を抜いて盛り上がっている。
インド国内のメタルファンは、自国の代表として正統派のメタルバンドを推したいのかもしれないが、海外のオーディエンスからすると、いかにもインドらしいバンドのほうが個性的で魅力的に感じられるというミスマッチがあるようにも思えるが、どうだろう。

2020年のBangalore Open Airは3月21日に開催され、スウェーデンのブラックメタルバンドMardukがヘッドライナーを務めるようだ。
インドからはDown Troddenceが出演する。
BOA2020
BOA2020battle

BOAに先立って、19日にはWacken Metal Battleのインド地区の決勝が、そして20日にはインド亜大陸の決勝が行われる。
果たして今年はどんなバンドがW:O:Aへのチケットを手に入れるのだろうか。

インドでも新型コロナウイルスの感染者が出てきており、デリーではホーリーに合わせて行われるフェスが中止になったりしているが、インドではフェスシーズンの大詰め。
BOAをはじめとするフェスが無事に行われることを願っている。


関連記事:



インドらしいメタルサウンドといえば、シタール・メタルやPineapple ExpressあたりもW:O:Aに出演したら盛り上がると思うんだけど。





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2020年03月02日

インディアン・カウボーイ!インド人カントリー歌手Bobby Cashのビリヤニ・ウエスタン!


「インディアン・カウボーイ」という言葉を聞いて、どんな人物を思い浮かべるだろうか?
おそらく、ほとんどの人が、頭に羽飾りをつけたアメリカ先住民のカウボーイを想像するのではないかと思う。
ひょっとしたら、1970年代のB級マカロニ・ウエスタンにそんな映画があったかもしれない。
ところが、今回紹介するインディアン・カウボーイの「インディアン」はアメリカ先住民ではない。
このインディアン・カウボーイは正真正銘のインド人。
なんと、インド生まれのカントリー歌手がいるのである。

この一度聞いたら忘れられない異名を持つ男の名前は、ボビー・キャッシュ。
百聞は一見に如かず。
さっそく彼の音楽を聴いてもらおう。



どうだろう。
私はカントリーというジャンルには全く詳しくないが、それでもこのサウンドを聞けば、彼が決してイロモノではない、本格派のカントリー・ミュージシャンであることが分かる。
それに彼のファッションがまた堂に入っている。
テンガロンハットにウエスタン風のシャツ。
あまりインドには売っていなさそうなデザインの衣装は、本場で仕入れたのか、それともインドで仕立てて作ってもらったのだろうか。

この突然変異的なアーティストは、いったいどのように誕生したのだろう。
ボビー・キャッシュことBal Kishoreは、1961年、ヒマラヤをのぞむウッタラカンド州の街、クレメントタウンに生まれた(インドの片田舎にこんな英語の名前の街があったということにも驚いた)。
Kishore一家には、カントリーの本場テネシー州のナッシュビルに移住した叔母がいて、幼い頃から毎月彼らに最新のカントリーのヒット曲を送ってくれていたという。
幼いBalは、叔母が送ってくれる音楽に夢中になった。
やがて、彼らは叔父が作ってくれたギターで姉妹や従兄弟たちと演奏を始めるようになる。
彼の従兄弟は、小さい頃にインドを訪れたビートルズが、ヨガの聖地リシケシュに行くために彼らの住んでいた街を通り過ぎたことをきっかけに、ロックに目覚めたのだそうだ。
彼らがこのかなり早い時代に欧米の音楽に夢中になった理由のひとつに、ナッシュビルの叔母の存在に加えて、Balの曽祖父の代に彼らがクリスチャンに改宗していたということが挙げられるだろう。
やがてBalは、父が彼をBabuと呼んでいたことから、名をBobbyと改め、キショール(Kishore)というファミリーネームを英語風にCashに変えて、英語風にBobby Cashという名前での音楽活動を始める。
みるみるうちにギターの腕を上げたボビーだったが、クレメント・タウンにはプロのミュージシャンとして活躍する場などない。
彼は音楽教室を開いたり、インド軍を相手に演奏したりして活動していた。
カントリーを一緒に演奏する仲間がいなかったことが、プラスに作用することもあった。
彼は、ベースラインをギターで再現する独特のプレイスタイルを編み出したのだ。

彼の生き方もまた、本場のカントリー歌手のようなところがある。
家族想いで律儀な男なのだろう。
ボビーは、1995年に父親が亡くなるまで、故郷のクレメントタウンで過ごしていた。
父の死後、ミュージシャンとしてのキャリアを本格的に追求すべく、彼は初めて首都デリーに出てくる。

だが、首都とはいえ、当時のデリーにも、やはりカントリー音楽の需要などなかった。
私が初めてインドを訪れたのは1997年のことだったが、デリーのカセットテープ屋(当時のインドでは、主要な音楽メディアはCDではなくカセットだった)のオヤジでもロックというジャンルを理解していなかったのを覚えている。
世界的にとっくに流行の過ぎ去った時代遅れのカントリーミュージックとなれば、知らないのはなおさらのことだろう。
仕方なく彼は、ヒンディー語のポップスのアルバムを発表する。

当時台頭してきていた、'Indi-Pop'と呼ばれる非映画音楽のポップミュージックを志したものだったが、ボビーはやはり、カントリー音楽への情熱を捨てきることはできなかった。

数枚のアルバムを発表した彼は、デリーの5つ星ホテル、オベロイで演奏するなどして、なんとかミュージシャンとしての活動を続けていた。
だが、そんな彼にも転機が訪れる。
オーストラリア人の映像プロデューサーが、オベロイで演奏している彼を見て、地元のカントリー音楽フェスに招待し、その様子を撮影することにしたのだ。
2003年1月、ボビーがオーストラリアのニューサウスウェールズで行われたTamworth Country Music Festivalに出演したのは、41歳になってからのことだった。

果たして、本格的カントリーミュージックを演奏するインド人のニュースは、またたく間に話題となった。
この時の様子は、地元のテレビ局によって"The Indian Cowboy...One in a Billion"というドキュメンタリー番組として放送されている。


ボビーの幸運は続く。
彼の演奏を聴いたオーストラリアの裕福な農家が、アルバム制作の話を持ちかけたのだ。
こうして、彼は2004年に、オーストラリアのレーベルから、最初のカントリーアルバム、"Cowboy at Heart"をリリースする。
"Cowboy at Heart"、なんともいいタイトルではないか。
アメリカから遠く離れたインドに生まれ、西部のカウボーイとして生きているわけではないけれど、カントリーミュージックを愛する俺の心はカウボーイなのさ。
そんなボビーの心意気が伝わってくるようなタイトルのこのアルバムは、オーストラリアのカントリー音楽チャートに入っただけでなく、本場アメリカでも高く評価され、ナッシュビルのカントリーミュージック協会のベスト海外アーティストにもノミネートされた。
受賞こそ逃したものの、ブロードウェイでのパフォーマンスはスタンディングオベーションで称えられたという。

その後、彼は家族と故郷クレメントタウンで暮らしながらも、カントリーミュージシャンとしてはオーストラリアを拠点に活動し、何枚かのアルバムを発表している。

それにしても、世界的にメインストリームであるEDMやヒップホップのミュージシャンがインドにもいるのは分かるけど、カントリーのような、アメリカの伝統芸能とも言えるジャンルにも優れたインド人ミュージシャンがいるということには驚かされる。
ボビー・キャッシュの音楽を初めて聴いたときのアメリカ人やオーストラリア人の驚きは、きっとチャダやジェロの演歌を聴いた時の日本人と同じようなものだっただろう。
カントリーはなんとなく保守的な人たちが聴く音楽という印象を持っていたが、

彼がヒンディー語で発表した楽曲のなかには聴くべきものが少ないが、なかにはタブラとカントリースタイルのギターが融合したこんな楽曲もある。
この歌はどうやらヒンディー語のゴスペルのようだ。

カントリー調の歌声にタブラを合わせた驚くべき音楽性は、マカロニ・ウエスタンならぬビリヤニ・ウエスタン!

彼のことを扱ったドキュメンタリー番組のタイトル"Indian Cowboy...One in a Billion"同様、インディアン・カウボーイはインド広しと言えども、10億に一人の存在だろう。
インターネットの普及でさまざまな音楽に触れる機会が爆発的に増えてきたインドで、これからも、びっくりするようなジャンル(例えば、タンゴとかケルト音楽とか)で素晴らしい才能が出てくることが、ひょっとしたら、あるのかもしれない。

最後に、ボビー・キャッシュが演奏するエルビス・プレスリーの名曲をお届けして、今回の記事を終わりにしたい。



追記:
ちなみに彼のことを教えてくれたのは、以前このブログでもインタビューをお届けした、ムンバイ在住のPerfumeファンのインド人、Stephenです。ありがとう!


それからコルカタには、こんな本格的なブルース・バンドがいます。
いやはやインドは広い!



さらに追記:この原稿を書いた後に思いついた「ビリヤニ・ウエスタン」という呼び方が気に入ったので、タイトルと本文をちょっと変えてみました。

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