2020年01月

2020年01月26日

Rolling Stone Indiaが選ぶ2019年ベストアルバム10選!

毎年紹介しているRolling Stone India誌が選ぶ年間ベストシリーズ、今回は2019年のベストアルバムを紹介します!
(元の記事はこちら)
同誌の編集者が選ぶこのセレクションは、毎年「ボリウッドのようないかにもインドらしい音楽」ではなく「オシャレで洗練された音楽」を選出してくるのが特徴。
日本にもよくある「歌謡曲やアイドルは取り扱わず、作家性が強くてセンスの良いものを紹介するメディア」みたいな傾向があるので、決してインドの主流ではないものの、「インドの先端的なインディーミュージック」と思って読んでみてください
今回は各アルバムを代表する1曲の動画を貼り付けておきます。
Spotifyなんかでも聴けるので、気に入った楽曲があったらぜひアルバムを通して聴いてみてください。

Peter Cat Recording Co. "Bismillah"

Peter Cat Recording Co.はニューデリーで2009年に結成された、インドのインディーミュージックシーンではベテランにあたるバンド。
この"Bismillah"は彼らの久しぶりのアルバムだ(おそらく前作は2012年リリース)。
以前からジプシー・ジャズやボールルームのようなレトロな音楽の影響を強く受けた作風が特徴としているが、今作でもその路線を踏襲。
バート・バカラックみたいに聴こえるところもあれば、曲によってはサイケデリックな要素もある。
過去の優れた音楽をセンスよくまとめるスタイルは、日本でいうと90年代の渋谷系を思わせる。
インドのオシャレ系アーティストの代表格で、フランスのPanache Parisレーベルと契約している。


Parekh & Singh "Science City"

こちらもインドを代表するオシャレアーティストとして有名なコルカタのドリームポップデュオ。
彼らはイギリスのPeacefrogレーベルと契約しており、日本でも高橋幸宏に紹介されたりしている。
今作でもその音楽性は健在で、ウェス・アンダーソン的な世界観ともども確固たる個性を確立している。


The Koniac Net "They Finelly Herd Us"

2011年結成のムンバイのオルタナティブロックバンドで、Stills, Smashing Pumkins, Death Cab For Cutieらに影響を受けているとのこと。
確かに、90年代から2000年ごろのバンドのような質感のあるサウンドで、楽曲も非常によくできている。
Rolling Stone India曰く、「ロックが死んだというやつがいるなら、このアルバムはその復活だ」。


Shubhangi Joshi Collective "Babel Fish"

ギター/ヴォーカルのShubangi Joshi率いるムンバイのインディーポップバンド。
曲はファンクっぽかったりジャズっぽかったり、たまにボサノバっぽかったりする。
ここまで全て英語ヴォーカルの洋楽的サウンドが占めているところがいかにもRolling Stone India的な感じだ。


Blackstratblues "When It's Time"
ムンバイのギタリストWarren Mendonsaが率いるインストゥルメンタルバンド。
2017年のこの企画でもベストアルバム10選に選出されたこのランキングの常連だ。
その時もまったく21世紀らしからぬサウンドで驚かせたが、今作も音楽性は変わらず、ジェフ・ベックのような心地よい音色のフュージョン風サウンドを聴かせてくれている。
ギタリストとしての力量は非常に高いと思うが、音楽の質さえ高ければ、あまり同時代性に関係なく選出されるのがこのランキングの面白いところ。
ちなみにWarren Mendonsaはボリウッド音楽のプロデューサー集団として有名なShankar-Eshaan-LoyのLoy Mendonsaの甥にあたる。


Lifafa "Jaago"

ここにきてようやくインドらしさのあるサウンドが入ってきた。
Lifafaは冒頭で紹介したPeter Cat Recording Co.のヴォーカリスト、Suryakant Sawhneyのソロプロジェクトで、バンドとはうってかわって、こちらではエレクトロニカ的なサウンドに取り組んでいる。
無国籍な音になりがちなエレクトロニカ・アーティストのなかでは珍しく、彼はインド的な要素を大胆に導入して、独特の世界観を築き上げている。
そのせいか、不思議な暖かさがあり、妙にクセになるサウンドだ。


Divine "Kohinoor" 

2019年はインドのヒップホップ界にとっては飛躍の年だった。
その最大の理由は、映画『ガリーボーイ』のヒットによって、それまでアンダーグラウンドなカルチャーだったヒップホップが広く知られるようになったこと。
Divineはインドのストリートヒップホップ創成期から活躍するムンバイのラッパーで、『ガリーボーイ』の主人公の兄貴分的なキャラクターであるMCシェールのモデルとしても注目された。
今作は自身のレーベル'Gully Gang Entertainment'からのリリースで、同レーベルのShah RuleやD'evilらが参加している。
『ガリーボーイ』のエグゼクティブ・プロデューサーを務めたNasによるインタールードも収録されており、「メジャー感」で他のアーティストと一線を画す内容。
表題曲のイントロや、Chal Bombayのビートなど、レゲエっぽい要素が入ってきているところにも注目したい。
個人的にはダンスホール・レゲエやレゲトンはもっとインドで流行る可能性のある音楽だと思っている。
最近のボリウッド系の曲ではかなりレゲトン的なビートが使われていて、それゆえにアンダーグラウンド・ヒップホップ界隈では敬遠されていたのかもしれないが、今後どうなるだろうか。
このDivine、ムンバイのヒップホップシーンのアニキ的な立ち位置を確立しており、日本でいうとZeebra的な存在、のような気がする。


Arivu x ofRo "Therukaral"


日本語で「浴びる、お風呂」みたいな名前の二人組は、インド南部タミルナードゥ州のヒップホップユニット。
今作は、日本でも映画祭で公開された『カーラ 黒い砦の闘い(原題"Kaala")』の監督パー・ランジットによる音楽プロジェクト、その名もCasteless Collectiveの一員でもあるラッパーArivuと、プロデューサーのofRoによるプロジェクトによるファーストアルバムにあたる。
Casteless Collectiveではカースト制度に反対するメッセージを、タミルの伝統音楽Gaanaとラップを融合した音楽に乗せて発信していたが、このユニットでは、政治的なメッセージはそのままに、よりヒップホップ色の強いスタイルに取り組んでいる。
この"Anti-Indian"は、「タミル人としてのアイデンティティを持っていることが、北インドのヒンドゥー的な価値観のナショナリストにとっては『反インド的』になるのか?」という痛烈なメッセージの曲のようだ。


Taba Chake "Bombay Dreams"

「茶畑」みたいな変わった名前の彼は、インド北東部アルナーチャル・プラデーシュ州出身のシンガー・ソングライターで、現在ではムンバイを拠点に活動をしている。
ギターやウクレレの音色が心地よいアコースティックな質感のアルバムで、ちょっとジャック・ジョンソンみたいな雰囲気もある。
いわゆる「インドの山奥」であるインド北東部には、この手の南国っぽいアコースティック・サウンドのアーティストが結構いるのだが、地元の伝統音楽との親和性があるのだろうか。
このアルバムは曲によって英語、ヒンディー語、そしてアルナーチャルの言語であるニシ語の3つの言語で歌われており、自身のルーツに対する彼のこだわりも感じられる。


Winit Tikoo "Tamasha" 

カシミールのフュージョン・ロック(伝統音楽とロックの融合)バンド。
以前紹介したベストミュージックビデオに続いて、混乱が続くカシミールのアーティストがここにもランクインした。
以前Anand Bhaskar Collectiveを紹介したときにも感じたことだが、北インドの伝統音楽風の歌い方は、グランジ風の演奏に非常に合うようだ。
Pearl JamのEddie Vedderのような声の揺らぎがあるのだ。
そう考えると、かつて映画『デッドマン・ウォーキング』のサウンドトラックでEddy VedderとNusrat Fateh Ali Khanを共演させた人は、ずいぶん早くこのことに気づいていたのだなあ、と思う。


と、ざっと10枚のアルバムを紹介してみた。
「今のインドでかっこいい音」であるのと同時に、地域の多様性やアクチュアルなメッセージ性にも配慮したラインナップであると言えるだろう。
欧米の音楽への憧れが具現化したようなものもあれば、「インド人としてのルーツ」が入っているものもあるのが、いつもながらインドの音楽シーンの面白いところ。

昨年、一昨年のベスト10と比べてみるのも一興です。





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2020年01月21日

T.J.シン伝説 番外編(日本のリングを彩ったインド系プロレスラーたち)

前回まで、伝説のヒール(悪役)レスラー、タイガー・ジェット・シン(Tiget Jeet Singh)の半生を振り返る連載企画をお届けした。
ジェット・シンについて調べた過程で気がついたのだが、じつは日本のリングで活躍したインド人レスラーはジェット・シンだけではなく、意外にもかなり大勢いたようなのだ(「活躍した」とまで言えるのはジェット・シンだけだったかもしれないが)。
そのほとんどがジェット・シン同様にパンジャーブ出身のシク教徒だった。
その理由を挙げるとするならば、クシュティにルーツを持つパンジャーブのレスリング文化の豊かさと、戦士としての誇りを持つシク文化、そして20世紀初頭から積極的に移民として海外に進出していた彼らのもの怖じしない性格ということになるだろう。

裸一貫で海を渡り、その肉体と技術のみを頼りに生きてきた彼らの姿は、世界中の都市で目撃されている謎の占い師、ヨギ・シンとも重なって見える。
今回は、日本のリングを彩った、ほとんど人々の記憶にも残っていないインド系レスラーたちの情報をまとめてお届けします。


タイガー・ジェット・シン以前
おそらく最初に日本の地を踏んだインド人レスラーは、海外ではTiger Joginder Singhのリングネームで知られたタイガー・ジョギンダーと、「インドの英雄」ダラ・シン(Dara Singh Randhwa)だろう。

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タイガー・ジョギンダーことTiger Joginder Singh(画像出典:https://www.wikiwand.com/en/Tiger_Joginder_Singh

タイガー・ジョギンダーは、1955年に行われた「アジア選手権大会」で、キングコングとのタッグで力道山&ハロルド坂田組を破り「日本最古の王座」であるアジアタッグの初代王者に輝いたレスラーだ。
パンジャーブ出身のジョギンダーだが、この「アジア選手権大会」のシングル部門には、なぜかマレーシア代表として参加していたようで(ちなみにインド代表はダラ・シン)、レスラーの国籍ギミックは今でも珍しくないとはいえ、当時のマット界はかなりおおらか(適当ともいう)だったのだろう。
ちなみに当時のアジアタッグ王座は、タイトルマッチで移動する形式ではなく、アジア選手権大会に優勝したタッグに与えられる称号のようなものだったらしく、ジョギンダー&キングコング組は防衛戦を行わないまま、1960年に第2回アジアタッグ王座決定トーナメントで優勝したフランク・バロア&ダン・ミラー組が第2代王者として認定されている。
来日前のジョギンダーは、シンガポールや米国のマットでキャリアを築いていたようで、来日前後にはインドのリング(プロレスかクシュティかは不明)でダラ・シンらと闘っていたという記録が残っている。
1960年代以降は恵まれた体格を生かしてインドで映画俳優としても活躍した。
ちなみにタッグパートナーだったキングコングもなにかと南アジアと縁が深く、wikipediaの情報によると、彼は1937年にインドのボンベイ(現ムンバイ)でレスラーとしてデビューしたとのこと。
ハンガリー出身者がインドでデビューするとは謎すぎるキャリアだが、どうやら独立前のインドには、南アジアの伝統的なレスリングであるクシュティとは別に、植民地の支配者たちの娯楽として行われていたレスリングがあったらしい。
「キングコング」という見も蓋もないリングネームも、当時のインド映画でキングコング役を演じたことからつけられたものだそうだ。
ラホール(現パキスタン領)で行われたキングコング対ダラ・シンとの一戦には、20万人もの観衆が集まったというから、当時の南アジアのレスリング文化は相当なものだったようだ。

タイガー・ジョギンダーと同じく55年のアジア選手権大会シリーズで来日したダラ・シン(Dara Singh.本名Deedar Singh Randhawa)は、日本での目立ったタイトル獲得歴こそないものの、500戦無敗という伝説を持ち、レスラーとしての格はジョギンダーよりもずっと上だった。
なにしろ、あのタイガー・ジェット・シンにレスラーになることを決意させた人なのだから、当時のインドでは相当なヒーローだったのだろう。
1928年生まれのダラ・シンは、1947年にシンガポールに渡り、工場で働きながらレスリングジムに通って、レスラーとしてのキャリアをスタートさせたらしい。
1954年にはインドのレスリング(クシュティ)トーナメントRustam-e-Hindに出場し、決勝でジョギンダーを破って優勝しているが、デビュー前後の経歴は不明で、500戦無敗と言われるエピソードの真偽ははっきりしない。
ひょっとしたらこれもインドという未知の土地から来たレスラーにハクをつけるための演出だったのかもしれないが、実際にインドでかなり尊敬を集めていたレスラーことは間違いないようだ。
各種媒体によると、日本では当時の外国人レスラーには珍しい正統派のファイトスタイルで、力道山のライバルとして活躍したらしい。
ちなみに1955年の来日時には、パキスタン代表のサイド・サイプシャー(英語表記不明)なるレスラーとタッグを組んでいたようだが、このムスリムっぽい名前のレスラーについては詳しく分からずじまいだった。
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ダラ・シン(画像出典:https://wrestlingtv.in/dara-singh-tributes-pour-in-from-bollywood-wrestling-world-on-91st-birth-anniversary/
その後、ダラ・シンは1967年にも来日しているが、このときのダラ・シンと1955年のダラ・シンが同一人物であるかどうかについては諸説あり、このあたりの謎も昭和のプロレスならではの怪しい魅力に満ちている。
(別人説についてはこちらの記事に詳しい「ダラ・シンの謎」
ダラ・シンは50年代からプロレスと並行してスタントマンや俳優としても活躍しており、武勇の猿神ハヌマーン役などを務めて人気を博した。
その後、2000年からはインドの上院議員も務めているというから、ドウェイン・ジョンソン(ザ・ロック)や馳浩の大先輩のような存在と言えるかもしれない。
2018年にはWWE殿堂入りを果たすなど、その実績は世界的にも高く評価されている。
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映画『ラーマーヤナ(Ramayan)』でハヌマーンを演じたダラ・シン(画像出典:https://www.cinetalkers.com/dara-singhs-photos-were-found-in-temples-as-hanuman-people-started-worshiping-as-god/


67年の来日時にダラ・シンのタッグパートナーを務めていたのが、サーダラ・シン
ダラ・シンの実の弟である。
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サーダラ・シン(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Randhawa_(wrestler)
彼の名前をサー・ダラ・シンと表記している記事も見かけるが、いちレスラーの彼がSirの称号を持っているはずもなく、英語表記はSardara Singh(本名Sardara Singh Randhawa)。よりインド風に書くならサルダーラ・シンということになるだろう。(それを言ったら、ジョギンダーもジョギンダルと書くべきだが)
彼も兄を追って1952年にシンガポールに渡り、海外ではファミリーネームのRandhawaというリングネームで活動していたようだ。
日本のリングでは、すでに全盛期を過ぎていたダラ・シンともども大きなインパクトを残すことはできず、たった一度の来日で終わってしまった。
60年代から兄同様に映画にも出演していたものの、俳優としても大成した兄と違い、端役ばかりだったようだ。

ところで、ジェット・シン以前に来日したインド系レスラーの経歴を見ると、シンガポールからのルートで来日したと思われる例が多いことに気がつく。
あのジェット・シンも、カナダに渡る前にシンガポールでデビューしていたという説もあり、1960年代頃までのインド系レスラーの活躍の場としてシンガポールは相当重要な地だったようだ。


1959年の日本プロレス第1回ワールドタッグリーグ戦で来日したのが、「インドの巨人」とも「パンジャブの虎」とも異名を取った198センチの巨漢レスラー、ターロック・シン(Tarlok Singh)。
真偽不明ながらインドレスリングの王者という経歴の持ち主で、実際に1953年にはパキスタンのカラチでアクラム・ペールワンの兄アスラムと戦ったという記録が残っているが、日本のリングでは活躍できず、彼もたった1回のみの来日となってしまった。
日本では印象に残らなかったターロックだが、帰国後のエピソードが強烈だ。
なんと、「象狩り」に行ったまま行方不明となってしまい、足が不自由になった状態で発見され、その後は乞食同然となって暮らしたという。
いくらなんでもこれは嘘だと思うが(象狩りというのは聞いたことがない)、来日前の演出のためのホラ話ではなく、後日談までこの怪しさ、昭和のプロレスならではである。

1971年に自費で来日(!)し、ジャイアント馬場への挑戦を表明したのが「インドの飛鳥」ことアジェット・シン(英語表記はArjit Singhで、本来はアルジットと読むべきだろう)と「インドの蛇男」ことナランジャン・シン(Naranjan Singh)。
アジェットはダラ・シンの弟という触れ込みだったようだが、これが事実なのかどうかは分からない。 
しかし馬場には一切相手にされず、結局国際プロレスのリングに上がったものの、思うように活躍できず来日はこの1回限りとなったようだ。
それにしても「インドの飛鳥」だというのにアジェット・シンの得意技はブロックバスターだったみたいだし、「インドの蛇男」に関してはもはや意味が分からない(得意技は地味なチンロック)。
見世物的なインパクトを狙ったのだろうが、あまりにも適当なネーミングは面白くももの悲しい。
この二人は来日前はイギリスやシンガポールでキャリアを積んでいたようだ。
ところで、この頃来日したインド系レスラーは、インド・ヘビー級チャンピオンなる実態不明の肩書きを名乗っていることが多かったようである。
おそらくはハクをつけるためのハッタリだと思われるが(Rustam-e-Hindというクシュティ/ペールワニの王座は存在するようだが、これも認定団体や歴代王者等が不明の謎の称号)この二人に関しては「インド洋タッグチャンピオン」というさらに正体不明な肩書きを引っ提げていた。


タイガー・ジェット・シン以後
1973年のジェット・シンの来日、そして大ブレイク以降、これまでのシンガポール経由ではなく、カナダや南アフリカから来日するインド系レスラーたちが増えた。
どうやら、カナダでキャリアを積み、南アのブッカーとしても力を持っていたジェット・シンが、自ら連れてきたレスラーが多いようなのだ。
これ以降も記憶や記録に残るほどのインド系レスラーはほぼいないのだが、成功を独り占めせず、少しでも多くの同郷のレスラーにもチャンスを与えようとするジェット・シンの器の大きさが分かるというものだ。

1975年に来日したファザール・シン(Farthel Singh)は、ジェット・シンの実弟というギミックで、「インドの狂虎」ジェット・シンに対して「インドの猛豹」というニックネームがつけられていた。
しかしリングでは良いところを見せることができず、この1回きりの来日に終わってしまった。
あまりのふがいなさに、猪木に「二度と新日のリングに上げない」とまで言われたという情報もある。
もともとはデトロイトやモントリオールを拠点としていたようで(シンのテリトリーとも近い)、売り出し方ともども、ジェット・シンの手引きによる来日と見て間違いないだろう。

1976年に初来日した「インドの若虎」(やはりジェット・シンを意識したニックネームだろう)ガマ・シン(Gama Singh)は、さえないレスラーが多いインド系には珍しく、その後も77年、79年と三度に渡って新日本プロレスに招聘されている。
リングネームの「ガマ」は、20世紀前半に活躍したパキスタン出身の伝説的な格闘家であるグレート・ガマから取ったものだろう。
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ガマ・シン(画像出典:https://prowrestling.fandom.com/wiki/Gama_Singh
彼はパンジャーブ出身ながら、カリブ海のバハマ育ちで、ジェット・シン特集の第2回目で書いた1960年以降にアフリカやカリブからカナダに渡ったインド系移民ということになる。
カナダに渡ったのちにカルガリーで多くの地元タイトルを獲得し、南アフリカでも人気を誇ったようだ。
彼が何度も招聘されるほどに活躍できたのは、ひとえに早い時期からアメリカ式のプロレスに親しんでいたからではないだろうか。
彼はWWEで大活躍しているジンダー・マハルの伯父にあたり、実の息子もガマ・シンJr.の名前でプロレスラーとして活動している。

数多くの南アジア系泡沫レスラーのなかでも、とりわけ悲劇的なのがゴーディ・シンだ。(Gurdaye Singh. 彼もまたカナ表記が微妙。インド系レスラーのリングネームは英語読みからマイナーチェンジすべし、というルールでもあるのだろうか)
76年に行われた新日本プロレスのアジアリーグ戦に、ガマ・シンらと同時に来日。
もともとはカナダのバンクーバーを拠点としていたレスラーだったようだ。
パキスタンのラホール出身という肩書きになっているが、これが事実なのか、このリーグ戦に「パキスタン代表」として参戦するためのギミックなのかは不明(ジェット・シンとガマ・シンがインド代表)。
このシリーズには、ジェット・シン、ガマ・シン、ゴーディ・シンと、3人の「シン」が参戦していたことになる。
ちなみにゴーディ・シンのタッグパートナーだったマジット・アクラ(Majid Ackra)は、南アジアに縁もゆかりもないニュージーランドの先住民マオリの血を引くレスラーで、本名は ジョン・ダ・シルバという(John Walter da Silva. ファミリーネームがポルトガル語っぽいのが少々気になる)。
マオリの戦士をパキスタン人に仕立ててしまうのだから、あいかわらず昭和のプロレスはおおらかである。
ゴーディ・シンの悲劇が始まるのは巡業後だ。
しょっぱいながらもシリーズを終え、生まれて初めて見る大金を抱えてバンクーバーに帰ると、なんとゴーディの家は火事で全焼しており、さらにその1週間後には妻が交通事故で亡くなってしまう。
10歳の一人娘はそのショックで葬儀の最中に突然笑い始め、精神病院に入院。
何もかも失ったゴーディは、遠洋漁業の漁師として再起を図ることにしたというが、その後の彼がどうなったかは、誰も分からないという。 

翌1977年に新日本プロレスに来日したのが「インドの白虎」ことタルバー・シン(Dalibar Singh. 本来ならダリバール・シンと表記すべきだが、もう何も言うまい)。
イギリスや南アフリカで活躍していたというから、やはり南アに強いジェット・シンのルートでの来日と思われる。
DalibarSingh
タルバー・シン(画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=ysXdS6kjAc4
イギリスではTiger Dalibar Singhの名前で活躍していたらしく、どうやらパンジャーブ系のレスラーにタイガーというリングネームをつけるのは、欧米では定番のようである。
もともとはイギリスのアマレスで名を上げた選手で、少し間を置いて83年にも新日マットに上がったのち、インド系のレスラーには珍しく85年には旧UWFにも招聘されている。
今ではジェット・シンの会社で働いているという情報もあるが、真偽は不明。

タルバー・シンと同じく77年に新日に初来日したのがモハン・シン(Mohan Singh)。ニックネームは「インドの魔術師」。
クシュティの実力者でダラ・シンからインド王座を奪ったとのふれこみだったが、インドから出たことがなかったようで、日本のリングでは活躍できず、その後の経歴も不明である。

ジェット・シン以降、ここまでが新日本プロレスに来日したレスラーたちである。
誰一人としてジェット・シンに並ぶインパクトを与えたレスラーはいなかったが(リアルタイムのファンによるブログを読むと、みんな「しょっぱかった」ようだ)、凶暴なジェット・シンのもと、インド系の謎のレスラーたちが一人また一人とやって来るというコンセプト自体は悪くなく、彼らを「シン軍団」と読んでいる記事も見かける。
当時からその呼称があったかどうかは不明なので、ここから先は完全に妄想だが、次から次へと正体不明のレスラーが増殖する(シン軍団の場合は、増殖するのではなく入れ替わり立ち替わりやってくるわけだが)というアイデアは、のちに一斉を風靡した「マシン軍団」を彷彿とさせる。
ひょっとしたら、マシン軍団のアイデアや名称は、「シン軍団」から着想を得た部分もあるのかなあ、なんて思ったりもして。

これ以降、そもそも良い人材がいなかったためか、ジェット・シンが新日ナンバーワン外国人レスラーの座から陥落したためか(あるいは、新日にアメリカとのルートができ、得体の知れないインド系に頼らなくてもよくなったのかもしれないが)、インド系レスラーの来日はぱったりと止む。
81年のジェット・シン全日移籍後も、アメリカマットとの豊富なコネクションを持つ全日本プロレスにシン軍団はお呼びでなかったらしく、全日に招聘されたインド系のレスラーは85年のダシュラン・シン(ダシラン・シンとも。英語表記はDashran Singh)のみのようである。
しかしこのダシュランも、あまりにもふがいないファイトで2試合のみで帰国してしまう。

1987年には、226cmもの身長を誇るパキスタンの自称空手チャンピオン、ラジャ・ライオン(Raja Lion)がジャイアント馬場の生涯唯一の異種格闘技戦(!)のために来日する。
試合前に「馬場は小さい」という歴史に残る言葉を発し(馬場は209cm)、話題になったそうだが、このラジャ・ライオン、試合ではまるで強さを見せられず、ヨロヨロとリング上を動き回ると、全盛期を過ぎていた馬場にあっさりと敗れている
彼はこれまでのインド系レスラー/格闘家の中でも輪をかけて酷く、素人目にも格闘技経験が無いのが解るほどで、「その後カレー屋の店長をしていたのを見た」という真偽不明の噂が広まるなど、別の意味で記憶に残る人物だった大槻ケンヂがよくネタにしていた)。
これに懲りたのか、その後、インド系レスラー不在の時代が長く続く。

久しぶりにやってきたインド系レスラーは、ジャイアント・シンことダリップ・シン(本名Dalip Singh Rana)。
Giant Singh
ジャイアント・シン(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダリップ・シン

2001年、迷走していた時期の新日本プロレスに蝶野が呼び寄せた巨漢レスラー2人組のうちの1人で、216cmもの長身を誇る、その名の通りの「巨人」だった(もう1人はブラジル出身のジャイアント・シルバ)。
しかしながら、見た目のインパクトに反して不器用なファイトが続き、シルバとの仲間割れや一騎打ちなど、それなりに話題になりそうなことをしていたのだが、正直あまり記憶に残っていない。
当時の専門誌に「ラテン系の陽気なシルバとインド出身で真面目なシンの確執」と説得力があるんだかないんだか分からない記事が書かれていたのをうっすらと覚えているくらいの印象である。
インドで警察官、ボディビルダーとして活躍してミスターインドにも輝いたのち、レスラーを目指してアメリカに渡り、マイナーな団体をいくつか渡り歩いたのちの来日だった。
クシュティではなくボディビル出身で、プロレスが完全にエンターテイメントと化した時代に海を渡ったジャイアント・シンは、新しい時代のインド系レスラーと言って良いだろう。
ちなみに彼はパンジャーブ系ではあるものの、シク教徒ではなくヒンドゥー教徒のようである。

相方のジャイアント・シルバはその後総合格闘技に転向(ぱっとしなかったが)。
ジャイアント・シンはこのまま消えてしまうのかと思われたが、2006年にWWE入りすると、グレート・カリ(Great Khali)のリングネームで猛烈にプッシュされ、WWEヘビー級王座を獲得するなど大活躍。
これは急速な成長を続ける(そしてプロレスファンが非常に多い)インド市場を見越した抜擢だろうが、いずれにしても南アジア系では初の快挙となった。
2015年にはパンジャーブにCWE(Continental Wrestling Entertainment)なる団体(プロレス学校も兼ねているようだ)を設立し、母国のプロレス文化普及に務めている。


…と、こうしてまとめて書かなければ、よっぽどコアなファン以外からは忘れられてしまいそうなインド系レスラーたちを紹介してみた。
改めて感じるのは、ジェット・シンはインド系レスラーの中では本当に別格だったんだなあ、ということだ。
鬼気迫る狂気を完璧に表現し、リング外でも徹底して凶悪ヒールのイメージを形成する自己プロデュース能力、リングでのテクニック、チャンスを独り占めせず同郷の仲間たちにも与える器の大きさ、そしてプロレス以外でも事業を営み成功させる経営能力と、全てにおいて桁外れの才能の持ち主だったことがはっきりと分かる。

インドでのクシュティ人気の低下や、これまでのクシュティ出身者がしょっぱかったせいだと思うが、昨今ではクシュティ出身のプロレスラーが全くいなくなってしまったのは、なんだか少し寂しいような気がしないでもない。
「寝技がなく、相手の背中を地面につけたら勝ち」というクシュティのルールで育った選手では、現代的なプロレスにはもはや対応できないのだろう。


ふと気づいたのだが、このクシュティのルールで育った選手が活躍できそうな格闘技があるとしたら、それは相撲ではないだろうか。
クシュティはインドの都市部では廃れてしまったが、地方ではまだまだ盛んなようで、きっとハングリー精神の旺盛な選手がたくさんいるのではないかと思う。
シク教徒は食のタブーのない人もいるので(個人や宗派による)、ちゃんこを食べることにも抵抗は少ないだろう。
ハワイ勢、モンゴル勢に続いて、インドの力士が活躍する時代が来たら面白いなあ、なんて思っている次第である。

だんだん何を書いているか分からなくなって来たので、今回はここまで。

今回の記事を書くにあたり、プロレスライターのミック博士が書いている「ミック博士の昭和プロレス研究室(http://www.showapuroresu.com)」から非常に多くの情報をいただいた。
っていうか、懐かしい名前がたくさん出てきて、ブログを書く作業が進まないっていったらなかった。
歴史に埋もれてしまいそうなレスラーたちを記録していただいたことに改めて感謝しつつ、タイガー・ジェット・シンを巡る連載を終わります。




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goshimasayama18 at 23:18|PermalinkComments(0)プロレス 

2020年01月14日

タイガー・ジェット・シン伝説その3 全てを手に入れた男

その1の記事はこちら


その2の記事はこちら


猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件、腕折り事件といったスキャンダラスな話題に満ちたアントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンの抗争は、新日本プロレスに(もちろん、シンにも)巨万の富をもたらした。
シンはその狂気を感じさせる独特のファイトスタイルで、新日ナンバーワン外国人レスラーの座を確かなものとした。

しかし、シンと新日本プロレスとの蜜月にも終わりがやってくる。
1977年、カウボーイ・スタイルのアメリカ人レスラー、スタン・ハンセンが新日に初参戦する。
ハンセンは、必殺技の「ウエスタン・ラリアート」でブルーノ・サンマルチノの首をへし折ったというふれこみだったが、それは実は後付けで、その実態は下手なボディスラムでサンマルチノの首を負傷させてしまった不器用なレスラーに過ぎなかった。
しかし、ハンセンはシンの暴走ファイトを参考に「ブレーキの壊れたダンプカー」と称されるスタイルを確立すると、みるみるうちに人気レスラーとなり、ついにはシンから新日ナンバーワン外国人の座を奪うまでになる。
ハンセンのトレードマークであるブルロープを振り回し、観客を蹴散らしながら入場するのは、サーベルを振り回して入場するシンの影響だと言われている。
シンがザ・シークのスタイルを取り入れて日本でトップを取ったように、ハンセンはシンのスタイルを取り入れ、そのお手本を上回る人気を得たのだ。
(それでも、ハンセンはシンに対する尊敬の気持ちを持ち続けており、二人はけっして不仲ではなかった)

さらに、1981年には新日本プロレスが全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜くという事件が発生。
ブッチャーはシンと同様に反則ファイトや凶器攻撃を得意とする怪奇派の人気ヒールレスラーだ。
シンは来日前からブッチャーと面識があったが、もともとウマが合わず、さらには自分と似たキャラクターのレスラーを引き抜いた新日フロント陣への不満も募っていった。
一方、ブッチャーを引き抜かれた全日本プロレスは、報復として新日からのシン、ハンセンの引き抜きを画策する。
シンとハンセンはそれに応じて全日本プロレスへの移籍を決意、新日本と全日本の興行戦争はますます加熱してゆく。
正直に告白すると、私がタイガー・ジェット・シンを記憶しているのはこの頃からだ。
全日本プロレスでのシンは、ハンセンやブルーザー・ブロディよりも格下の扱いであり、そのヒールぶりは狂気というよりは伝統芸能、様式美の域に達していたが、それでもなおサーベルを振り回して入場する彼の姿は、子供心にインパクトを残すには十分なものだった。

ところで、地元トロントでは事業家としても知られるシンは、現役時代からレスラーとしてだけではなく、ブッカーとしても活躍していた。
とくに、100万人を超えるインド系住民が暮らしている南アフリカには多くのレスラーを派遣していたようだ。
1987年、ある悲劇が起きる。
シンは全日本プロレスに南アフリカへの選手派遣を依頼し、ジャイアント馬場は要請に応えて、当時若手有望株だったハル薗田を遠征させることにした。
新婚だった薗田のハネムーン兼ねたものにしてやろうと思っていたのだ。
ところが、南アフリカ行きの飛行機が墜落し、薗田夫妻は帰らぬ人となってしまう。
このとき、シンは狂人ヒールというキャラクターを捨て去り、スーツ姿でマスコミの前に現れて深い悔恨の意を伝え、ファンを驚かせた。
シンの本当の人柄が伝わるエピソードだが、これはあくまでも非常事態に見せた例外的な対応だ。
シンは自身のキャラクターを守ることを強く意識しており、とくにヒールとして活躍していた日本では、自分からその素顔をメディアに見せることは決してなかった。(そして、今日まで、その信念は揺らいでいない)
一方で、ベビーフェイス(善玉レスラー)として活躍していたカナダでは、事業家や慈善活動家としての一面も隠さずにメディアに語っており、こうしたキャラクターの使い分けは、シンの高いプロ意識によるものと言えるだろう。
全日本プロレスでのシンは、元横綱の輪島大士のデビュー戦の相手を務めたり、新日から復帰したブッチャーと不仲を乗り越えて「最凶悪タッグ」を結成したりするなど話題を振りまいたが、その活躍は新日のトップヒール時代とは比べるべくもなかった。
だが、シンの伝説はこのままでは終わらない。

全盛期を過ぎたかに見えたシンだが、新日本プロレスの古参ファンたちは、彼のことを忘れてはいなかった。
1990年9月30日、新日本プロレスのアントニオ猪木デビュー30周年興行。
シンは、この記念すべき試合の猪木のタッグパートナーに、ファン投票によって選ばれたのだ(対戦相手はビッグバン・ベイダー、アニマル浜口)。
日本では極悪ヒールとして活躍してきたシンだが、日本マット界の最大のカリスマである猪木のプロレス人生で最も重要なレスラーとして選ばれたことに対しては、万感の思いがあったようだ。
横浜アリーナに集まった18,000人(超満員札止め)の大観衆が見守るなか、シンは、いつものような狂乱ファイトを封印し、多少のラフさを残しながらも、猪木を立てる役割に終始する。
彼の本当の人柄が現れた日本では稀有な試合で、機会があればぜひ見てみることをお勧めする。

生まれ故郷のインドを離れ、居を構えたカナダからも遠く離れた日本で、彼は生まれ持った真面目さを捨て、いや、その真面目さゆえに、「インドの狂虎」として暴れまわり、恐れられた。
カナダに妻子を残し、本来の性格とは正反対の悪役を完璧に演じることで、彼は成功を手にした。
日本のプロレス界の絶対的ヒーローである猪木と初めて同じコーナーに立ち、割れんばかりの歓声(罵声や恐怖の叫びでなく)を浴びたシンの思いはいかばかりだっただろうか。
それにしてもこの試合、「教祖としての猪木」への観客の盛り上がりが凄まじい。
全盛期はとうに過ぎているにもかかわらず、動きや表情の一つ一つで観客を魅了してゆく猪木の格闘アーティストぶりは素晴らしく、シンからタッチされた直後にベイダーに腕折りを仕掛ける場面なんかは天才的な発想だ。(猪木がかつて、死闘の末にシンの腕を折ったとされる伝説の試合のオマージュになっており、またほぼ全ての観客がそれを理解しているのも凄い)

話をシンに戻す。
猪木30周年記念試合をきっかけに新日本プロレスに復帰したシンは、馳浩と巌流島で戦うなど、一定の話題を振りまくが、やはり全盛期ほどの活躍はできず、1992年にふたたび新日を離れることになる。

しかし、これでもまだ終わらないのが、シンの凄いところだ。

これ以降、シンはFMW、NOW、IWAジャパンといった、いわゆるインディー団体への来日を繰り返し、まだまだ健在であることをアピールしてゆく。
これらの団体では、もちろんシンはトップ外国人レスラーであり、サーベルを手に存分に暴れまわってその力を誇示した。
ちなみに、「日本のプロレス報道のクオリティ・ペーパー」である東京スポーツは、この頃からシンのリングネームの表記を、より本来の発音に近い「タイガー・ジット・シン」と記載するようになった。
本人の意向もあったようだが、一般のファンや他のマスコミには浸透せず、私もそんなことはまったく知らなかった。
ちょうどこの時期、私はプロレスから遠ざかっていたので、たまに東スポ紙上で「ジット・シン」がインディー団体に上がっているという記事を見るたびに、超大物レスラーであるシンとマイナーな団体とが結びつかず、「これは本物のシンなのか、それともシンによく似たパロディ・レスラーなのか」と悩んだものだった。

さらに時は流れる。
2005年、タイガー・ジェット・シンの姿は、まだ日本のリングの上にあった。
「ハッスル」というかなりエンターテインメント色の強いプロレス興行ではあったが、60歳のシンの鍛え上げられた肉体はリアルだった。
トレーニングではベンチプレスを軽々と持ち上げ、全盛期と同様にサーベルを振り回し、観客を恐怖に陥れながら入場すると、リングでは凶器攻撃でオリンピック柔道銀メダリストの小川直也を徹底的に痛めつけた。
この光景は、このシリーズを書くにあたってかなり参考にした"Tiger!"というドキュメンタリー番組(2005年、カナダ制作)の一場面である。
あくまで画面からの印象だが、このときのシンのコンディションは、体重が増加し思うように動けなかった全日時代よりもむしろ良かったのではないかと思えるくらいだ。
このドキュメンタリーのなかで、シンは自らの言葉で半生を語っている。
試合での年齢を感じさせない狂乱のファイトとは対象的に、広大な敷地の豪邸で穏やかにインタビューに答える様子は、成功者としての貫禄にあふれ、人々に慕われ、尊敬されている様子が伝わってくる。

結局のところ、この男は何者なのだろうか。


シンの半生を振り返る。
彼は「すべてを手に入れた男」だ。
力、富、尊敬、家族、地位、名誉。
およそ人間が手に入れたいと願うもので、彼が手に入れられなかったものはない。
しかも、彼が手にしたもののうち、親から授かったものは、恵まれた肉体(彼の身長は191㎝)と、その誠実な人柄だけであり、それ以外の全ては、彼が努力によって手に入れたものなのだ。

「力」については言うまでもないだろう。
インドで身につけたクシュティ、フレッド・アトキンス仕込みのプロレスの技術、ザ・シークから学んだ暴走ファイト、そして、60歳を過ぎてなおリングで大暴れできるほどにストイックに鍛え上げられた肉体。
自身をどう見せるかというプロデュース能力を含めて、こうした全てが彼にリングでの成功をもたらした。
そこには、自分のキャラクターとスタイルへの強烈なプライドもあった。
稀代の悪役として新日本プロレスで暴れ回っていた頃、新日ストロング・スタイルの創始者であり、「神様」とも称されたカール・ゴッチは、シンのスタイルを快く思っていなかったそうだ。
だが、シンはゴッチと一触即発の状況になっても、一歩も引かなかったという。
自身が新日立て直しの最大の立役者であるという自負が、そうさせたのだろう。
一方で、シンはいわゆる「ストロング・スタイル」の日本のプロレスのスタイルに強い思い入れを持っていたようで、地元のメディアに対して「現在のWWE的なプロレスはフェイク。自分が日本でしていたのは本物の戦いだった」という趣旨のことを語っている。
シンの強烈なハングリー精神とプライドは、より「リアル」を重んじる日本のリングだからこそら華開いたのだ。

「富」については、彼の現在の暮らしぶりを見れば何の説明もいらないはずだ。
リムジンで移動し、誕生日をクルーザーで祝う彼は、成功におぼれ身を持ち崩す者も多いレスラーの中では、極めて堅実に成功している例と言えるだろう。
シンは、カナダでは日本で稼いだ金をもとに事業に成功した実業家としても知られている。
彼はホテル、不動産、土地開発を手がける経営者でもあり、今では800エーカーの敷地に立つ豪邸に住んでいる。

「尊敬」に関しては、これまで述べてきた通りだ。
日本でのシンは、ヒールとしての悪名から転じて、やがて誰からも愛される存在となった。
カナダのメディアは、「日本ではシンは神のように扱われている。妊婦がシンのもとにやってきて、彼のように強い子どもが生まれるように、お腹をさわってほしいとお願いしに来ることもある」と驚きをもって伝えている。
うれしいことに、シン自身も地元メディアに日本のファンへの感謝を常に語っており、最も印象的な試合として、アメリカでも有名なアンドレ・ザ・ジャイアントやザ・シークとの対戦ではなく、猪木戦や輪島戦を挙げている。
地元カナダでも彼は名士として知られているが、やはり日本での知名度と存在感は格別であり、シンもその事実を誇らしく思ってくれているようだ。

彼の「家族」について見てみると、今では幸せに孫たちに囲まれて暮らしているものの、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
シン夫妻には3人の息子がいる。
妻は結婚早々に故郷のパンジャーブを離れてカナダに引っ越すことになり、巡業で家を空けがちな夫がいない寂しさに耐えなければならなかった。
当時は英語も満足に話すことができず、孤独感のなかで子供たちを育てざるを得なかったという。
インターネットのない時代に、いつ命にかかわるケガをするか分からない仕事をしている夫を、慣れない異国の地で待って暮らすのはさぞ心細かったことだろう。
だが、子供たちは立派に育った。
長男のGurjitはTiger Ali SinghのリングネームでWWEなどで活躍し、タイガー・ジェット・シンJr.の名前で来日して親子タッグも組んだこともある(彼のリングネームは、自身のヒーローである父とモハメド・アリの名前を合体したものだ。彼は今ではケガを理由にプロレスを引退して、父の名を冠した財団の仕事をしている)
他の息子たちも、ホテルを経営するなど、さまざまな分野で活躍しているようだ。

日本ではなく、カナダにおける「名誉」や「尊敬」については、少し説明が必要だろう。
シンは、プロレスや事業で稼いだお金を、決して自分や家族のためだけには使わなかった。
彼は、「タイガー・ジェット・シン財団」を作り、ドラッグ対策、健康増進、奨学金などの形で社会貢献をしてきた。
2010年には、そうした活動を称えて、彼が暮らしているオンタリオ州ミルトンの公立学校に、Tiger Jeet Singh Public Schoolの名前がつけられることになった。
カナダで初めてシク教徒の名前がつけられた学校であり、そしておそらく世界初のプロレスラーの名前を冠した学校でもある。
命名にあたって、「暴力的なプロレスラーの名前を学校につけるのはいかがなものか?」という意見もあったようだが、彼が地域をより良いものにしたロールモデルであるという理由で、シンの名前が採用されることになったという。
2012年には、こうした活動を称えられ、財団の仕事をしている息子のGurjitとともに、英国王室からダイヤモンド・ジュビリー勲章を授与された。
日本人としては、2011年の東日本大震災に対して、彼の財団が日本支援のためのキャンペーンをしてくれたことも忘れずに覚えておくべきだろう。

1971年に、インドからたった6ドルを握りしめて海を渡ってきた少年が、ここまでの成功を収めるとは、いったい誰が想像しただろうか。
だが、彼の絶え間ない努力と誠実さを考えれば、彼が手にした成功は全く不思議ではないのだ。
今後、もし「尊敬する人は誰か?」と聞かれたら、私は即座に「タイガー・ジェット・シン」と答えることにしたい。


さて、その後のシンは、明確な引退宣言をしないまま、セミリタイア状態が続いている。
どうやら2009年にハッスルのリングに上がったのが、現役レスラーとしての最後の姿になったようだ。
いくら頑健な肉体を誇るシンとはいえ、もう75歳であり、これからリングの上で戦うことはないだろう。
引退試合は難しいかもしれないが、せめて引退セレモニーくらいはしてほしいというのがせめてもの願いである。
シンがプロレスのリングを離れて10年以上が経過した。
かつてシンが活躍した新日本プロレスは、当時の猪木体制から完全に決別しており、また全日本プロレスもシンが来日した馬場時代とは全く別の体制となっている。
現在の日本のプロレス界でシンの功績が振り返られることはほとんどない。
だが、シンの居場所がオールドファンの心の中だけというのはあまりにも寂しい。
そして、現役を退いた今だからこそ、シンに、日本のファンに向けてありのままの人生を語ってもらえないだろうか。
彼はヒールとしてのキャラクターを貫きたいのかもしれないが、ぜひシン自身の言葉で、彼の哲学を、努力を、大切にしているものを聞いてみたい。
彼の人生から我々が学べることは、あまりにも多いのだから。



参考サイト:


カナダでやはりインド系の映像プロデューサーLalita Krishaが作成したドキュメンタリー"Tiger!"では、日本では決して見せないシンの素顔を見ることができる。







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goshimasayama18 at 19:37|PermalinkComments(0)プロレス 

2020年01月11日

タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ

(前回の記事はこちら)


プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。

シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
 
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。

ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。

20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。

多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)

しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。

シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。

ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。

1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。 
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
 
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発送は、天才的だった。
この騒動に、当事者でもあり経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
新日本プロレスの経営者であったアントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だったのだ。

その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。

シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。

TJシン2


猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。

とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。

また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんできたときも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。

プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。

(つづきはこちら)


参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか



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goshimasayama18 at 19:49|PermalinkComments(0)プロレス 

2020年01月08日

タイガー・ジェット・シン伝説その1 パンジャーブの虎、カナダに渡る。そして虎たちの系譜


ジャグジート・シン・ハンス(Jagjeet Singh Hans)という名前を聞いて、ピンとくる人はほとんどいないだろう。
だが、ある世代の日本人にとって、彼はもっともよく知られているインド人であり、そしてもっとも恐れられたインド人でもあるはずだ。
彼のもうひとつの名前は、タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)。
インドの狂虎。
稀代の悪役レスラー。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。

新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。

Punjab_in_India
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)


1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
「シク教」は、15世紀にパンジャーブで生まれた宗教で、男性の信徒がターバンを巻くことでよく知られている。
シク教徒は、インド全体の人口の2パーセントほどに過ぎないマイノリティだが、早くから海外に出た人たちが多かったため、インド人といえばターバンというイメージが世界中で定着してしまった。
ジャグジートの出生地は、現在のインド領パンジャーブ州の中央に位置する、ルディヤーナー郡のスジャプルという村だ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインド領内を目指すヒンドゥー教徒・シク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒がパニック状態となり、混乱のなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人に上るとも言われている。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。

シンの父は軍人、母は伝統的な専業主婦だった。
シク教徒は古来、勇猛な戦士として知られており、今日でも軍隊に所属する者が多い。
ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
少年時代のジャグジートは、アカーラー(Akhara)と呼ばれる道場で、インド式レスリングのクシュティとカバディを習っていたという。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)

ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
彼らもそうした流れに乗って、より豊かな生活を求めて移民となったのだろう。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。

バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
「ターバンを巻いたレスラー」という個性をタネイに評価されてのことだった。
徐々に多文化社会となってゆくカナダで、人種的多様性に着目したのは先見の明と言って良いだろう。

ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
アトキンスはジャイアント馬場の修行時代のコーチとしても知られる名レスラーで、彼もまたニュージーランド出身の移民だった。
 
ジャグジート改めタイガー・ジェット・シンは、1965年にデビューする。
21歳のときのことだった
シンは、きびしい練習の成果からめきめき頭角を現し、その年の暮れには、タッグマッチでメインイベントを任されるまでに成長した。
パートナーは日系人レスラーのプロフェッサー・ヒロ。
この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
ちなみに、日本のファンには、「シンは地元カナダではベビーフェイス(正統派)のレスラー」と知られているが、この頃のシンは、まだ荒っぽいファイトを繰り広げるヒール(悪役)だった。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
しかしトロントのレスリングマーケットは小さく、大入りでも3,500人程度しか入らない。
週にたった100ドルを稼ぐために、必死で戦う毎日が続いた。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。 
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。 
だが、苦労するジャグジートを見かねた父は、彼をインドに連れ戻してしまう。
さすがのシンも、軍人の父親には頭が上がらなかった。

1967年8月、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
花嫁は、夫がしているという「レスリング」がどんなものだか知らなかったという。
シンの妻は、はじめは太った大男かと思って彼を怖がっていたが、会ってみると思いのほか紳士的な男性だったと語っている。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。

ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
Tiger Joginder Singhを1954年にインドで破ったのが、Dara Singh(ダラ・シン)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。

この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
今もパンジャーブにはシク教徒が多く、世界中のシク教徒の6割以上がこの地に暮らしている。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。

パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
本名(Ghulam Mohammad Baksh Butt)を見る限り、彼はシクではなくムスリムのようだが、彼もまた、英領時代のパンジャーブ地方の生まれである。
彼はイギリスや英領時代のインドで数多くの強豪と戦い、52年に渡るキャリアで、5,000試合無敗という伝説も残っている英雄だ。
グレート・ガマはペールワニ(Pehlwani)と呼ばれるインド式レスリングの絶対王者だった。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。 
猪木ファンの間では、「ペールワン」とは最強の男にのみ許される称号だという説が有名だが、実際は、「ペールワニのレスラー」という程度の意味である。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。 
とにかく、「パンジャーブから世界的(プロ)レスラーになる」という道筋は、20世紀のごく初期から作られていたのだ。

彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。

いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
おそらく、パンジャーブから次々とプロレスラーが誕生した理由は、こんなところではないだろうか。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。

気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。

話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。

シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
そして、その伝説は、まだ始まってすらいない。

(続きはこちらから)


【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold

https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1

ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など



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goshimasayama18 at 19:59|PermalinkComments(0)プロレス 

2020年01月04日

Rolling Stone Indiaが選ぶ2019年のベストミュージックビデオ11選

今年もRolling Stone India誌が選ぶ2019年のベストミュージックビデオが発表された。
例年なら10選であるところ、今回はなぜか中途半端な11選。
二部作になっているものもあるので、そういう意味では12選ということになる。

インドのミュージックビデオは近年加速度的にその質を向上させており、今年も見ごたえのある作品が選ばれている。
例によってとくに順位はつけられていないのだが、ウェブサイトで紹介された順番に、さっそく見ていこう。

The Local Train "Gustaakh"


The Local Trainはデリーを拠点に活動する活動するヒンディー語で歌うロックバンド。
この"Gustaakh"は彼らが2018年に発表したセカンドアルバムからのミュージックビデオとなる。
彼らは毎回ショートフィルム風の凝った映像を作っていて、過去にもロードムービー仕立ての"Khudi"のミュージックビデオが2017年のRolling Stone Indiaのベストミュージックビデオとして選出されている。
今回はコマ撮りによる近未来SFという新機軸で、ムンバイの映像作家Vijesh Rajanによる作品。
日本生まれのカルチャーである「怪獣映画」は、近年ハリウッドでのリメイクが相次いでいるが、その波がインドまで届いていると思うと感慨深いものがある。


Vasu Dixit "Nadiyolage"

Vasu Dixitは映画のプレイバックシンガーとしても活躍するシンガーRaghu Dixitの弟で、ベンガルール(バンガロール)を拠点に活動するバンドSwarathmaのヴォーカリスト。
この曲でもバンドと同様に伝統音楽を現代的/幻想的にアレンジしたフュージョンフォークサウンドを披露している。
Swarathmaとしても、2018年に発表したアルバム"Raah-E-Fakira"がRolling Stone Indiaの年間ベストアルバムに選ばれており、欧米的洗練を評価することが多い同誌にも、その音楽センスは高く評価されている。
この楽曲は、ベンガルールの詩人Mamta Sagarのカンナダ語の詩(「川の詩」という意味らしい)がもとになっているとのこと。
CGアニメーションによる映像は、やはり同郷ベンガルールのアニメ作家Rita Dhankaniによるもので、水や生命をテーマにした幻想的な映像は、一瞬も目が離せないほどに美しい。
この手の映像を作らせるとインドのアーティストは本当に素晴らしい才能を見せるが、それはやはり彼らの哲学や宇宙観によるものなのだろうか。
幻想的なアニメによるミュージックビデオは、先日紹介したEasy WanderlingsGouri and Akshaなども発表しており、最近のインドの音楽シーンのトレンドのひとつになっている。


Black Letters "In My Senses"

Black Lettersはケーララ州出身でベンガルールを拠点に活動しているポストロックバンド。
彼らもまた毎回優れた映像作品を発表していて、2017年にも"Falter"という曲がRolling Stone Indiaが選ぶベストミュージックビデオに選出されている。
このビデオに見られるような、レトロ/ローファイ感覚のサウンドや映像は、インドのインディー音楽シーンの新しいトレンドだ。
シーンの成熟にともなって、古い時代を古臭いダサいものとして扱うのではなく、クールなものとして再定義する感覚が、インドでも芽生えてきているのだ。


Parekh & Singh "Summer Skin"

インドのインディーロックファン(自分とマサラワーラー鹿島さん以外にいるのか不明だが)にはおなじみのコルカタ出身のドリームポップデュオ。
彼らはイギリスのレーベルPeacefrogと契約しており、日本でも高橋幸宏に紹介されるなど、国際的にも高い評価を得ている。
ウェス・アンダーソンを思わせるポップな色使いと世界観はこの"Summer Skin"でも健在で、これまでも彼らのビデオを手がけてきた映像作家のMisha Ghoseが今作も制作している。
Parekh & Singhは衣装から小道具まで、毎回かなりこだわったビデオを作っており、その制作費はどこから出ているのか非常に疑問に思っていたのだが、どうやら「実家がとんでもない大金持ち」というのがその真相らしい。
それでもここまで凝った世界観を構築するのは簡単なことではない。
彼らのこだわり抜いた姿勢にあらためてリスペクトを捧げたい。


Small Talk "Tired"

このミュージックビデオはムンバイのオルタナティブバンドSmall Talkのデビュー作品で、同郷ムンバイの映像作家兼ミュージシャンのJishnu Guhaが手がけている。
ポップでモダンな都市生活に、少しの空虚さと孤独感を感じさせる作風は、先進国の都市文化に通じる感覚と言えるだろう。
世界的な視点で見ると、けっして新しい種類の作品ではないかもしれないが、こうした感覚の映像がインドでも作られるようになったという意義が評価されてこのリストに選出されたものと思われる。


Parikrama "Tears of the Wizard"

20年のキャリアを誇るデリーのベテランハードロックバンドの初のミュージックビデオ(とRolling Stone Indiaは紹介していたが、私の知る限り、彼らは以前にもミュージックビデオを制作している)。
この作品は、黒い衣装に身を包んで荒野で演奏するという、メタルバンドに非常にありがちなもの。
音楽的にも映像的にも急に古典的なものが入ってくるあたり、やはりインドは一筋縄ではいかない。
この曲調にギターソロではなくバイオリンソロが入ってくるのはインドならではだ(バイオリンはインド古典音楽の楽器として、とくに南インド音楽でよく使用されている)。
やはり「欧米っぽいものをインド人が作った」ことを評価しての選出なのだろうか。


Peter Cat Recording Co. "Floated By"

2009年にデリーで結成された彼らは、強いて言えばオルタナティブ・ポップバンドと呼ぶことができるだろう。
ジプシー・ジャズなどを取り入れ、インドではかなり古くからオシャレでセンスの良いサウンドを聴かせていたバンドのひとつだ。
今作では、バート・バカラックあたりの影響を感じさせる渋谷系的なサウンドを披露している。
昔ながらの結婚式の映像を合わせるセンスは、Black Lettersの"In My Senses"同様に、伝統とモダンの融合を試みたものだ。
ちなみに結婚式のシーンは、ヴォーカルのSuryakant Sawhneyの実際の結婚式の映像が使われているとのこと。
こんなに現代的なサウンドを作るアーティストでも、結婚式は完全に伝統的なスタイルで行っているのが面白い。


The F16s "Amber"

The F16sは2012年結成のチェンナイのインディーロックバンド。
この作品も、前述の通りインドの音楽シーンでトレンドとなっているアニメによるミュージックビデオで、アーメダーバードのアニメーション作家Deepti Sharmaが制作している。
インドのアニメのミュージックビデオでは、スタジオジブリなどの日本のアニメーションの影響を感じる作品も多いなかで、このビデオではアメリカのカートゥーン調の映像が効果的に使われている。
扱われているテーマは、インターネット、パーティーカルチャー、返信願望、孤独感、そして自己の喪失といったグローバルな現代都市文化に共通して見られるもの。
1:56に一瞬寿司が出てくることにも注目!
寿司はここ最近のインドのフィクション作品のなかで、「モダンで奇妙な食べ物」として象徴的に扱われることが多い。
インドでも大都市を中心に寿司店が増えてきているが、「生魚を食べる」というインドとは真逆の食文化は、インド人にとってそれだけインパクトがあるものなのだろう。
それにしても、インドのインディーバンドのミュージックビデオに寿司が出てくるなんて、少し前までは想像もできなかった。


Your Chin "Luv Important"

Your Chinはムンバイのエレクトロニック・ポップアーティストRaxit Tewariによるソロプロジェクト。
彼はオルタナティブ・ロックバンドSky Rabbitの中心メンバーとしても活動している。
シュールな世界観のミュージックビデオはクラブミュージック系の音楽にありがちなものだが、やはりインドのアーティストがこの「ワールド・クラス」の作品を作ったということに意義がある。


Aabha Hanjura "Roshwalla" Part1 and Part2


Aabha Hanjuraは、ベンガルールで活動する女性シンガーで、印パ、ヒンドゥー/ムスリムの対立が続く北部カシミール地方の音楽を現代風にアレンジして歌っている。
衣装や顔立ちからすると、彼女自身もカシミール系のようなので、紛争の難を逃れて活動拠点を南部ベンガルールに移してきたのかもしれない。
コチを拠点にしたプロダクションMadGeniusによるミュージックビデオは、劇中で人形劇が繰り広げられるというメタ構造。
パート1の人形劇では古い価値観の権威に引き裂かれる恋人たちが描かれ、パート2では彼らが愛と意志の力で圧迫を乗り越える様が描かれている。
カシミール地方は、1947年の印パ分離独立にともなって両国に分断されて以来、悲劇にさらされ続けている土地だ。
インド領のカシミールは、全人口の8割をヒンドゥー教徒が占めるインドでは例外的にムスリムが多数派を占める地域となった。
この地域では、カシミールの独立やパキスタンとの併合を目指す運動が盛んに行われ、武装勢力によるテロ行為やその弾圧を目的とした政府側の暴力行為によって、多くの血が流された。
それでも、インド独立以降、この地域はジャンムー・カシミール州として、他州同様の自治権が与えられていた。
ところが、昨年10月、ヒンドゥー至上主義的な傾向を持つBJP(インド人民党)のモディ政権は、ジャンムー・カシミールの州の自治権を剥奪し、連邦直轄領としてしまう。
これに対する抗議運動を抑えるため、中央政府はカシミール地方のインターネットを遮断し、4ヶ月以上にも及ぶ封鎖を続けている。
ロックと伝統音楽と融合した音楽性は今聴くと少し古臭く聴こえるし、映像も選出された他のミュージックビデオに比べると垢抜けなく見えるかもしれないが、Rolling Stone Indiaは、こうした時代背景を考慮したうえで、この楽曲とビデオが持つメッセージが与えうる希望を評価して、ベストミュージックビデオのひとつに選出したという。
こう見えて、じつは社会的なメッセージのある一曲なのだ。


Uday Benegal "Antigravity"

Uday Benegalは、老舗ロックバンドIndus Creedのヴォーカリスト。
Indus Creedの前身は1984年にムンバイで結成されたRock Machineだから、インドのロック史上では最古参と呼べるほどのベテランシンガーということになる。
この楽曲は、インド音楽界の超大物A.R.ラフマーンとボリウッドの音楽プロデューサーClinton Cerejoが立ち上げたデジタルメディア企業Qyukiグループによって立ち上げられた、英語で歌うインド人アーティストを世界に売り出すためのプロジェクト'Nexa Music'の一環としてリリースされたもののようだ(ちなみにこのプロジェクトは日印合弁企業のMaruti Suzukiによって支援されている)。
大手がバックについているだけあって、モダンヘヴィロック風の楽曲も、'antigravity(反重力)'を映像化したミュージックビデオも非常にクオリティが高く、すでに500万回を超える再生回数を叩き出している。
映像はドバイを拠点に活動する映像作家のTejal Patni.
英語話者数ではアメリカに次ぐ人数を誇るインドが、本格的に英語ポピュラーミュージックのマーケットに進出することができるのかどうか、非常に興味深い試みだ。


ざっと11曲を見てみたが、今年は映画『ガリーボーイ』による空前のストリートラップブームが巻き起こっていたにも関わらず、ヒップホップからの選出がゼロだったことに驚いた。
個人的には、Dopeadeliczの"Aai Shapath Saheve Me Navtho"や、MC AltafとD'Evilが共演した"Wazan Hai"(いずれもムンバイ最大のスラムであるダラヴィ出身のラッパー)あたりは選出されても良かったように思う。
(彼らのミュージックビデオは「Real Gully Boys!! ムンバイ最大のスラム ダラヴィのヒップホップシーン その1」参照)
ヒップホップシーンがすでに成熟し、表現が類型化してきたことが「ヒップホップ外し」の理由かもしれないが、この企画は、多分にRolling Stone Indiaの編集方針による恣意的な部分が大きいので(例えば、バングラーラップなどのボリウッド的な大衆性の強いものは例年選出されない)、単に選者の好みなのかもしれない。
それでもこうして11曲を並べて見てみると、インドのインディペンデント系音楽カルチャーのトレンドが読み取れるように思う。

今年とくに目立ったのは、アニメーションの流行だ。
インドでは多くの若手アーティストが日本のアニメを見て育っており、おそらくはその影響が少なからずあるものと考えられる。
(もちろん、インドは映像系アーティストの人材が豊富で、またインディミュージシャンにとっては、予算の都合などで実写では表現できない映像を簡単に作れるという理由もあるだろう)
インドにおける東アジア系カルチャーは、音楽ではK-Popの人気が圧倒的だが、映像においては日本のアニメの存在感が非常に大きい。
なにかと英米志向の強いインド人だが、今後、映像や音楽の分野でアジアのカルチャーの影響がどのように開花するのか、今後も注目して見てゆきたい。

また、「古き良きインド」的なものを、ノスタルジーとしてではなく「キッチュでクールなもの」として描く傾向も近年目立ってきている。
こうした表現は、伝統文化と若者文化の間にある種の断絶があるからこそ可能なものであり、「変わりゆくインド」を象徴するものと言えるだろう。
一方で、「モダンな都市生活」を描くときに、それを憧れの対象としてではなく、虚無感や孤独感をともなったものとして描く作品も目立つようになった。
こうした傾向は今後も加速してゆくものと思われるが、その中で世界的に評価される作品が生み出されるのか、あるいはインドならでは面白さにあふれた作品がとび出してくるのか。
いずれにしても、近年急速に進歩しているインドの音楽シーンやミュージックビデオから、ますます目が離せなくなりそうだ。


過去の映像作品と比べてみるのも一興です!




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