2019年06月

2019年06月29日

DEL48, MUB48は果たしてインドで成功できるのか?

先日から報道されている通り、6月19日にニューデリーで記者会見が行われ、AKB48グループに、デリーを拠点とした'DEL48'と、ムンバイを拠点とした'MUB48'が加わることが発表された。
AKB48系列の海外のグループとしては、インドネシア、タイ、フィリピン、中国、台湾、ベトナムに続いて7カ国めの発足となる。
DEL48はインドの国旗から取ったサフラン色と白が、MUB48は同じく国旗から緑と白がイメージカラーとなるそうだ。

インドのAKB系列のグループといえば、2017年にやはりムンバイを拠点とする'MUM48'の発足が発表されていたが、ライセンス契約を結んでいた企業との契約期間が終わり、結局何もしないままプロジェクト終了となってしまったようだ。
新たな2グループを運営するのはYKBK Enterprise Private Limitedという企業。
何をしている会社なのか調べてみると、インドで2017年に発足した3x3バスケットボールのリーグ'3BL'を運営しているとのこと。

その3BLは、加藤鷹也という日本人がチェアマンを務めており、それが今回のDEL48、MUB48のマネジメントにつながったと見られる。
まずはムンバイの先に、デリーのDEL48が今年中のお披露目を目指しているそうだが、これはこの会社の拠点がデリー近郊のグルガオンであるからだろう。

それにしても、インドで3人制バスケのリーグを運営するというのは非常にチャレンジングな取り組みだ。
インドは国際バスケットボール連盟(FIBA)のランキングで67位(ちなみに日本は48位)。
圧倒的な人気を誇るクリケットに比べると、バスケはかなりマイナーなスポーツである。
あるインド人作家の小説に「バスケットボールは広いスペースもいらないし、道具もいらない。もっとインドで流行ってもいいのに」というセリフがあったが、3BLもこうした「伸びしろ」の部分に注目して発足したものと思われる。
ご存知の通りバスケットボールはストリートファッションとも非常に相性の良いスポーツであり、インドでは近年、中産階級の伸長にともない、カジュアルなファッションの人気が急速に高まっている。
こうした背景も同社が3x3バスケのリーグに勝算を感じた理由なのかもしれない。
(参考「インドの音楽シーンと企業文化! 酒とダンスとスニーカー、そしてデスメタルにG-Shock!」

3BLはインド全土12都市のチームからなる本格的なリーグだが、動画を見るとまだまだ観客は多くはないようだ。
インドに住む友人に聞いてみたが、インドにバスケットボールリーグがあったなんて全く聞いたことがなかったとのことだった。
とはいえ、インドの市場規模と経済成長はバスケットボールの本場アメリカからも魅力的に映るようで、なんとNBAは2019年10月にムンバイでプレシーズンマッチの開催を決定。
確かに追い風は吹いているようだ。
話をアイドルグループに戻す。

私見だが、DEL48とMUB48も、3BL同様に、非常にチャレンジングな取り組みになることと思う。
プロジェクト立ち上げと同時に公開された動画がこちら。
(※2019年7月6日現在、AKBグループの活動を紹介し、DEL48への応募を募る動画は削除されてしまっていた。オーディションへのエントリー期間は7月31日までのようだが、不可解なことである。以下に書いたような批判があったのか、それともさっそくプロジェクトが頓挫しかけているのか、はたまた予想外に応募が多く宣伝をする必要がなくなったのかは、分からない)
 

「会いに行けるアイドル」というコンセプト、専用劇場での公演、大規模会場でのコンサートなど、グループの活動が分かりやすくまとめられているが、この動画を見たインドの女の子たちが、これを憧れの対象として捉えるかどうかは、正直言って未知数だ。

なぜかと言うと、インドには「未成熟なものを良しとし、そこに自己を投影して応援する」という日本的なアイドルの文化が無いからだ。
これまでにAKBグループが成功を納めてきた東アジア、東南アジアの諸国は、日本的なアイドル文化や、いわゆる「カワイイ」文化がすでに浸透している国々だった(と思う)。
だが、インドは日本や東アジアとの地理的な隔たりも大きく、こうした文化への親和性は低い。
かつてイギリス領だった歴史や、公用語のひとつである英語を理解する人が多いこともあり、インドで人気があるのは、アメリカやイギリスの「プロフェッショナル」で「クール」な文化だ。
インドで日本の音楽と比べてK-Popの人気が高いのも、韓国のアイドルたちが「未成熟」や「カワイイ」よりも「プロフェッショナル」「クール」を志向しているからだろう。
実際、インドでのK-Popの認知度は、日本の音楽とは比べ物にならないほど高く、インドのSpotifyの25%はK-Popが聞かれているという報道もある。
一方、日本の音楽に関しては、コアなジャンルのマニアックなファンには認知されているものの、日本のヒットチャートを賑わすような、いわゆるJ-Popの知名度は極めて低い。
日本の文化としては、アニメや漫画はインドでもかなりポピュラーだが、音楽に関してはまだまだなのだ。

先日、珍しくRolling Stone Indiaで日本の若者文化の記事が掲載されたが、内容はアニメと漫画についてがほとんどで、わずかに紹介されているミュージシャンにも、MonstaXなど韓国のグループがいくつか混じっており、認知度の低さを感じさせられるものだった(その後、その誤りの部分は訂正されたようだが)。
数は少ないもののインドにもファンがいる日本のアイドル的グループは、私の知る限りではPerfumeとBabymetalだ。
欧米でも一定の人気を得ているこの2組は、日本的なカワイイ要素よりも、むしろプロフェッショナルなライブパフォーマンスで人気を集めているという点で共通している。
AKBの「カワイイ」一点突破型の手法は、はたしてインドでどこまで通用するのだろうか。
(参考:「インドで盛り上がるK-Pop旋風」

日本には、伝統的に「表現力の拙さ(歌がそんなに上手くない、とか)」を「かわいさ」に置き換え、純粋さや、若さゆえの不安定な心の表現、不完全な自己の共感の対象として評価してきた文化がある。
たとえば、昔から芸者遊びの世界で、芸事の修行をひととおり終えている芸妓よりも、未成年で芸も拙いはずの舞妓が珍重されてきたのも、芸の洗練よりも「ういういしさ」が良しとされてきたからだろう。
アイドル以外でも、日本には、例えばホイットニー・ヒューストンのような圧倒的な歌の上手さを売りにした人気シンガーはほとんどいない。
そこには、誰にも真似できないような高い技量よりも、共感が得やすいものが支持されるという、日本人の傾向があるように感じる。
私だって、例えば日本語で失恋の悲しみを歌うときに、8オクターブの音域を駆使して絶唱されたりしたら、「歌上手いなあ」とは思っても、感情移入して聴くことはたぶんできない。

こうした日本ならではの文化的傾向がインドにないことは明白で、プロモーション映像の「女の子たちが短いスカートをはいて、決してレベルが高くはないダンスを踊って決して上手くはない歌を歌う」というコンセプトは、インドでは好意的に受け止められず、「ロリコン的」と見られるリスクが大きい。
性的タブーに曖昧な部分が多い日本とは異なり、インドでは未成年に「セクシー」な格好や表現をさせることは、完全にアウトである。
この部分で悪評が立ってしまうと、成功は極めて難しくなるだろう。
今回の募集の対象年齢は、12歳から20歳の、いわゆる未成年。
「アイドル」というからには、異性から疑似恋愛の対象として見られることを意識しなければならないだろうが、客観的に見て批判されうるものにならないように、かなり神経を使う必要があると思う。

プロジェクト立ち上げ後の運営にも、心配の種は尽きない。
ただでさえ自己主張と上昇志向の強いインド人の、さらに芸能人志望の女の子をこれだけ集めて、競わせながらパフォーマンスするという試みは前代未聞のはずだ。
(ボリウッド映画などでも群舞があるが、あれはスター女優とバックダンサーという明確な序列があるものだ) 
ご存知のように、インドのコミュニティーは、民族、宗教、言語、カースト等によって分断されており、人種的均質性を基本とする日本や、調和を美徳とする東アジア的文化圏とは全く異なるものだ。
それに、実際のところは分からないが、フィクション作品の中では、インドの芸能界は、女性を搾取しようとする輩が跋扈し、妬みや虚栄心が渦巻く魑魅魍魎の世界として描かれていることが多い。
メンバー本人やその両親の野心や競争心を束ね、インド芸能界の海千山千のなかを漕ぎ出すプロジェクトを、果たしてうまく舵取りすることができるのだろうか。


ここまで心配ばかりを書いてきたが、もし、このプロジェクトが成功する要素があるとすれば、それは「リアリティー・ショー」的な方向性が上手くハマるかどうかだろう。
モーニング娘。以降、日本のアイドルは、「カリスマ的な魅力を持つかわいい女の子を愛でる」のではなく、「女の子たちが励まし合い、時にぶつかりあいながら挑戦し、成長するさまを感情移入しながら応援する」という新しいファンのあり方を作り上げてきた。
私が思うに、この方法論は、たとえ文化が違っても、同じように人の心を動かすことができるのではないだろうか。

例えば、8月に日本でも公開になるボリウッド映画「シークレット・スーパースター」は、決して「超美人」タイプではない女の子が、(これまでの映画音楽のように技巧に富んだスタイルではなく)より素朴な歌い方で有名になってゆくというサクセス・ストーリーだ。
もちろん、この映画は完全なフィクションだし、映画の感動は主演のザイラー・ワーシムの高い演技力と、プレイバック・シンガーの素朴とはいえ上手い歌唱があってのことだが、インドのポピュラー音楽界で、古典音楽ベースの技巧的な歌い方でも、欧米のソウル/R&B的な歌唱でもなく、「素朴さ」を感じさせる楽曲が受け入れられてきているというのは、新しい時代の到来を感じさせられることである。

それに、インドでは、テレビのリアリティー・ショー番組は非常に人気がある。
かつてのASAYANや韓国のProduce48のように、アイドルたちがさまざまな課題を乗り越えながら活動に取り組み、その結果として楽曲が実際にリリースされるという方法論は、インドでもかなり訴求力のあるエンターテインメントになりうると思う。

ただ、インド政府は、リアリティー・ショーで子ども達が「本来は大人が踊る、子どもには不適切なダンス」などの扇情的な表現をすることを規制する方針を打ち出したばかり。
(参考サイト:The Print.in "Govt goes after TV reality shows portraying kids in a ‘sleazy’ way"
Sputniknews.com "Indian Government Asks TV Channels to Show Children in Appropriate Context"
日本のポップカルチャーであるアイドル文化が、おかしな目で見られないような配慮が求められるのは言うまでもない。
また、そもそも彼女たちの活動をリアリティー・ショーとして成立させるには、取り扱ってくれるチャンネルが必要なわけで、現時点でインドでは海のものとも山のものとも知れない「日本発のアイドルグループ」が大手のメディアで取り上げられることは難しいだろう。

だが、もしネガティブに取られないような見せ方に最大限に配慮できるなら、そして、日本の「カワイイ」文化がインドでどのように受容されるのかという試行錯誤までをショーの一部にできるなら、この取り組みは非常に面白いものになるように思う。
ご存知のように、欧米でも「カワイイ」的なカルチャーは一定数の人気があるわけで、東アジアとも欧米とも違うインドで、「カワイイ」カルチャーをどうアレンジすれば、どのくらい人気を博すことができるのか、という取り組みは、かなり興味深い試みになりそうだ。
さまざまなコミュニティー出身の女の子たちが、ぶつかり合いながらヒットを目指してゆくストーリーも、間違いなく面白いものになるだろう。
リアリティー・ショー的な見せ方をするのであれば、当面はインターネット等の自前の媒体で発信することになるのだろうが、できればこうした文化的な相違とその克服も含めて、エンターテインメントに昇華してほしいものである。

なんだか全体的にネガティブな話が多くなってしまったが、日本の鬼才、秋元康が考え出し、東アジアで成功した方法論が、全く文化的背景の異なるインドでどこまで通じるのか、非常に興味がある。
また、ご存知のとおりインドには、それはもうこの世のものとは思えないような、女神のような美人がたくさんいる。
インド映画の群舞のように、「一人のヒロインとイケメン俳優、それにバックダンサー多数」というのではなく、美人メンバーが並んでダンスする姿というのは、さぞ壮観なことだろう。
そのなかから新しいスターが出てくるなんてこともあるかもしれない。
DEL48とMUB48のこれからの活動を見守りたい。


インドには日本的なアイドル文化が無いと書いてきたが(インドの友人も聞いたことがないと言っていた)、MTVが登場し、映画音楽以外の音楽が台頭し始めてきた90年代以降、アメリカやイギリス的なダンスポップグループというのは、何組か存在が確認されている。
これらのグループは、インドの音楽シーンに存在した数少ないアイドル的な要素があるアーティストたちだということができるだろう。

例えば、Spice Girlsあたりを参考にしたと思われるグループ'Viva!'

彼女たちは2002年から2005年にかけて活躍。
メンバーだったAnushuka Manchandaは、現在はNukaの名前でよりアーティスティックなシンガーとして活躍している。


同じ時期に活躍した男性グループ、A Band Of Boys.

こちらはBackstreet Boysあたりがモデルになっているようだ。

こうしたグループは、Indi-Popと呼ばれていたが、これは「大手資本からの独立(インディペンデント)」ではなく、「映画音楽から独立した(映画とは無関係の)ポップミュージック」という意味である。

インドの友人から、お隣のバングラデシュにはちょっとアイドルっぽいこんなグループがいると教えてもらった。 

どうやらオーディション番組出身の4人組で結成されたグループのようだ。
ただ、やはり日本的な要素のある「アイドル 」というよりは、やはり「ポップグループ」といったイメージか。

いずれにしても、興味の尽きないインドでの日本式アイドルの取り組み、次なるニュースが待たれるところです!




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2019年06月23日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(後編)

(前編はこちらから)

インド版の予告編は日本版よりもぐっと勇壮さが強調されたイメージ。

インドで大ヒットを記録し、ここ日本でも公開中の映画『パドマーワト 女神の誕生』に対して、反ムスリム的で、女性の人権を軽視した作品であるという批判がある。
はたして、この批判は的を射たものなのだろうか。
前回の記事では、インドのメディアに掲載された、パキスタンのムスリムやインドの女性の立場からのこの映画への批判と、その反論を紹介した。
今回は、また別の視点からの議論と批評を紹介してみたいと思います。

最初に紹介するのは、UAEのドバイを拠点とするメディアGulfnews.comに掲載された"Why 'Padmaavat' bothers me as an Indian Muslim"(「なぜ『パドマーワト』はインドのムスリムである私を悩ませるのか」)と題された記事。
https://gulfnews.com/opinion/op-eds/why-padmaavat-bothers-me-as-an-indian-muslim-1.2164257
ペルシア湾岸諸国は、インドからの出稼ぎ先としてよく知られており、UAEはインド系住民が全人口の3割を占めている。
そのなかでもドバイは人口の半分がインド系で、パキスタン系やバングラデシュ系まで含めると、南アジア系住民の割合は全人口の8割にものぼるほど。
海外メディアであるにも関わらず、インド映画の批評が掲載されているのは、こうした事情があるからなのだ。

記事によると、「『パドマーワト』は視覚的には壮観だが、歴史を無視した豪華な建築や衣装や音楽は、ヒンドゥー右派にムスリムを叩くために手渡された新しい棍棒である」と手厳しい。
その理由として、架空のキャラクターであるパドマーワティが美しさや美徳の象徴とされている反面、実在の人物であるアラーウッディーンは欲望のままに生きる野蛮人として描かれているということが挙げられている。
これは、原作の叙事詩にも、歴史的な事実にも反する表現であるという。

記事では、歴史上のアラーウッディーンの英雄的な側面が全く無視されているという点も強調されている。
アラーウッディーンはユーラシア大陸各地を荒廃させたモンゴル軍の襲来から6回もインドを守り、穀物の備蓄をすすめて物価を安定させるなど、合理的な統治システムを構築した有能な王だった。
著者は、アラーウッディーンは領土の拡大を企図することはあっても、女性を追いかけて他国を征服したり、素手で肉を引きちぎったりするような人物ではなかったと主張している。

1000年以上にわたって南アジアに君臨したイスラームの王とその遺産を誇りに思っているインドのムスリムにとって、こうした描写は何世紀も前の王の行動の責任を負わせようとしているものであり、ただでさえさまざまな攻撃を受けているインドのイスラーム・コミュニティを邪悪に見せようとするものだ、とこの記事は批判する。

日本でもよくある「吉良上野介は本当は名君だった」とか「司馬遼太郎が描いた龍馬は、実際の龍馬とは全く異なる」みたいな指摘なのだが、それが現代の宗教対立と結びついているがゆえに、批判はより深刻な調子を帯びている。

そこで思ったのだが、この『パドマーワト』によるアラーウッディーンとムスリムの汚名を挽回するために、今度はアラーウッディーンがヒンドゥー教徒と共同してモンゴル軍の侵略からインドを守る続編の制作してみてはどうだろうか。
1作目では凶暴な殺戮者だったアンチヒーローが、2作目でこの上なく心強い味方になるという、「ターミネーターの法則」を利用するのだ。
あれだけ凶悪だったアラーウッディーンが、正義の味方として敵を蹴散らす大活躍をしたら、さぞかし喝采を浴びることと思う。
絶対に面白い映画になりそうだし、私自身もぜひ見てみたいのだが、そうすると今度はモンゴル人が抗議してきたりして、余計ややこしくなったりするかもしれない。


カシミールのニュースサイトGreater Kashmirは、"Why aren't Muslims protesting Padmaavat?"(なぜムスリムはパドマーワトに抗議しないのか)と題した記事で、やはり歴史的な観点と、現在のインドの状況からこの映画を非難している。
https://www.greaterkashmir.com/news/opinion/why-arent-muslims-protesting-padmaavat/

ヒンドゥー・ナショナリズム(Hindutva)の1世紀以上にわたる取り組みによって、インドのムスリムは、母国でもすっかりよそ者のような存在になってしまった、という嘆きから、この記事は始まる。
これまでに見てきた記事同様に、監督が映画のなかでラージプート(ラタン・シン側の、ラージャスターンの戦士階級)を善良で誇り高いヒンドゥーとして描き、対照的にアラーウッディーンを悪魔的に描いているということを挙げて、著者は、ラージプート至上主義団体がこの映画に対する抗議行動(ヒンドゥー王妃とムスリムの王のラブシーンがあるという誤解に基づくもの)をしていたにもかかわらず、ムスリムの指導者たちが何もリアクションを起こしていないことを批判している。

実際の歴史では、ラージプートのなかには、イスラーム王朝であるムガル帝国とともに外敵と戦ったり、ムガル王家と結婚した者も多かった。
例えば、タージマハルの建築で有名なムガル帝国の君主シャー・ジャハーンの母は、ラージプートの女性である。

そうしたイスラーム王朝をめぐる「歴史的事実」に対して、メーワール王国の王妃パドマーワティはあくまで詩人が想像したキャラクターにすぎないのに、バンサーリー監督は、歴史的事実はおろか、ジャーヤシーの叙事詩にすら忠実であろうとしていない。
昨今、ボリウッド映画やテレビの歴史ドラマでは、イスラームの支配者たちは、暴力的で醜い侵略者として描かれている。
もし彼らが本当に血に飢えた殺戮者で、寺院を破壊し、ヒンドゥーを強制的に改宗させていたなら、インドはとっくにイスラームの国になっているはずである、と著者は主張する。
イスラーム王朝の支配者たちは、ヒンドゥー文化を破壊できる十分な時間も力もあったにもかかわらず、ヒンドゥーとの共存を選び、この国を自分の故郷として発展させてきた。
それなのに、現在のインドのムスリムはマイノリティーの地位に追いやられ、映画やテレビによって、パキスタンに忠実で、聖なる動物である牛の肉やヒンドゥーの女性を欲しつづけているというイメージをあたえられ、攻撃されている。

ムスリムの社会的、経済的指標は下落しつづけており、インド最大のマイノリティーであるにもかかわらず、今日ではダリット(歴史的に、カースト外の「不可触民」とされ、政府から進学や就職上の優遇措置を取られている「指定階級」)よりも後進的な存在になってしまった。
政治や行政職、軍や警察でのムスリムの割合は低下しており、一方で、受刑者の中に占める割合は増えている。
そこまで弱体化しているにもかかわらず、ムスリムは脅威の対象と見なされつづけており、それなのに、それに対してイスラームの指導者たちは何も対策を取っていない。
スペインでは、かつてイスラーム王朝が支配する時代があったが、その後キリスト教徒によってムスリムは排斥され、いまではスペインには一人のムスリムもおらず、モスクもない。(これはさすがに誇張した表現だろう)
ヒンドゥー原理主義者たちが、スペインにインスピレーションを求めているというのも不思議ではない。
(記事の引用、ここまで)

読んでいただいて分かるように、この記事では、現在のインド社会でムスリムが置かれた状況への危機感が訴えられている。
後半は、映画を離れて、かなり熱のこもったインド社会への恨み節、そしてムスリム同胞へのアジテーションになっているが、この記事の背景には、カシミール地方が辿ってきた悲劇的な歴史がある。
カシミールは、印パ分離独立時に、多数派のムスリムをヒンドゥーの王が統治する体制が取られていた。
イスラーム王朝時代と立場こそ逆だが、ヒンドゥーとムスリムが共存する土地だったのだ。
だが、地理的にインドとパキスタンの国境地帯に位置するカシミールは、どちらの国の一部となるのかを、決めなければならなかった。
藩王国としての帰属を決めかねているうちに、カシミールはパキスタンによる侵攻を受け、王はインド側に応援を要請する。
インドとパキスタンによる紛争が勃発し、結果としてカシミールはインドがその大半を、パキスタンがその一部を実効支配することとなった。
その後のカシミールでは、インドとパキスタン、さらには独立派による抗争や闘争、テロ、そして治安維持を名目としたインド軍の暴力行為によって、多くの市民の血が流された。
カシミールは、分離独立以降、ヒンドゥーがマジョリティーを占めるインドのなかで周縁化され、危険視され、暴力に晒されてきた。
この記事には、映画の批評の形を取りながら、歴史の犠牲となってきたカシミール住民の切実な悲しみと憤りがこめられているのだ。

こうしたインドのムスリムによる批評を読んで、『パドマーワト』に対する評価の温度差(イスラーム差別的と見るか、そうでないと見るか)の原因が分かったような気がした。
『パドマーワト』という映画を単体で見れば、バンサーリー監督は、アラーウッディーンを悪役として描きながらも、そこに過度に宗教性が出ないように、十分に配慮していると見ることもできる。
あくまでも彼は狂気を持った個人であり、イスラームの信仰ゆえに悪人として描かれているわけではないのだ。
だが、他の映像作品の傾向や、ヒンドゥー至上主義が台頭する社会情勢の中では、この映画の描写は、単なるエンターテインメントとして片付けることのできないものになってしまう。
これは、『パドマーワト』という作品だけの責任ではなく、エンターテインメント全体とインド社会との関係性の問題だ。

『パドマーワト』に関するこうした議論がどの程度一般的なのか、それともムスリムの中でも少数意見なのかは分からない。
あるいは、こうした意見が少数派に見えるとしたら、ひょっとしたらそれはこうした声を上げづらい空気がインドにあるからなのかもしれない。
(考え過ぎかもしれないが、紹介したムスリムの意見が、いずれもパキスタン人のものであったり、外国であるUAEや、カシミールというムスリムがマジョリティーを占める地域の媒体のものだったりするのは偶然だろうか)
いずれにしても、たとえヒンドゥーの観客が信仰とキャラクターとを分けて楽しむことができたとしても、ムスリムの側にこうした懸念が出てきてしまうのが、いまのインドの現実なのだろう。



『パドマーワト』に対する、また別の視点を示唆しているのがこの記事だ。
https://scroll.in/article/867000/opinion-in-padmaavat-sanjay-leela-bhansali-displays-his-sympathy-for-the-devil
(「オピニオン:『パドマーワト』において、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は悪魔への同情を示している」)

この記事の著者は、バンサーリー監督がキャラクターを極力信仰から切り離して描く努力をしたことを評価した上で、心理学的な寓話としての解釈を披露している。
著者は、まず、原作者である16世紀のスーフィー(神との合一を目指すイスラーム神秘主義者)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシー(Malik Muhammad Jayasi)が、作品の舞台となったチットールを「肉体」、ラタン・シンを「心」、パドマーワティを「知性」、そしてアラーウッディーンを「幻想」の寓意としていることを紹介した上で、映画の荒々しいアラーウッディーンが「幻想」だとはとても思えないことから、フロイト心理学的な解釈こそがよりふさわしいのではないか、という新説を展開している。

フロイトは、人間の精神をイド、エゴ(自我)、スーパーエゴ(超自我)の3つの概念に分けて考えた。
アラーウッディーンは「イド」、すなわち快楽原理に基づいた本能的な欲求の象徴であり、道徳を無視して欲望や攻撃性に従う存在である。
「イド」の対極に位置するのがラタン・シンだ。
彼は「スーパーエゴ(超自我)」の象徴であり、親から受け継がれたラージプートの規範にのっとり、ときにそれが不合理であっても、疑いなく文化的ルールと道徳的価値観に従って生きている。
そのふたつの間に存在する「エゴ(自我)」がパドマーワティで、彼女は柔軟性と合理的思考を示している唯一の人物だという。
彼女は戦争に反対するためであれば、ラージプートの規範に反することもいとわない。
自身の姿をアラーウッディーンに見せても構わないと考え、また夫であるラタン・シンに、賓客として迎え入れたアラーウッディーンの殺害を勧めたり、危険を冒して敵のテントに行くことを止めたり、ラタン・シンを救うためにデリーに乗り込んだりもする。
さらに著者は、ミルトンの『失楽園』やローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』("Sympathy For The Devil")を引き合いに出したうえで、この作品はバンサーリー監督による、アラーウッディーンに象徴される「イド」、すなわち精神の自由さや根源的欲求への共感を示した作品であるという解釈を展開している。

16世紀の叙事詩のアレゴリー(寓意)を、映画の脚色をふまえてフロイトの心理学で読み解くという、すごい批評である。
一見、突拍子もない分析のようだが、登場人物の荒唐無稽さ(いくらなんでもここまで義と誇りを重んじるわけないだろ、とか、見たこともない女のために戦争起わけないだろ、とか)を考えると、この解釈は非常に説得力があるように思える。
原作が寓話なのだから、映画も現実世界の宗教対立に即して見るのではなく、寓話的に見るべきだという、現代の宗教間の対立から離れた、また別の視座を提示しているのだ。
 
今回紹介した批評の中では、この分析がもっとも『パドマーワト』という作品の本質に迫っているのではないかと思うのだが、問題が山積したインドの現実社会の中では、寓話や時代劇を単にそれだけのものとして受容することは難しい。
大衆芸術である映画が、現実社会にどのような影響を及ぼすかという視線が、常に映画制作者には注がれている。
映画を作る側にしてみれば、やりづらい部分もあるのかもしれないが、鑑賞者にとっては、作品論だけでなく、社会状況をふまえた様々な批評が行われることで、他の人の視点を学んだり、新しい見方を覚えたりすることができる。

日本のエンターテインメントが過度に政治性を避けている状況と比較すると、1本の歴史映画を巡ってここまで多角的な議論ができるインドが、逆に健全にも見えてきてしまう。
そして、感情ではなく、各々の知性と感性に基づいてこうした議論が行われているインドの面白さを、またしても感じさせられてしまった。

インドの映画は面白いが、その批評もまた同じくらいに面白い。




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goshimasayama18 at 15:28|PermalinkComments(0)インド映画 

2019年06月20日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)

(注:記事の性質上、映画のネタバレを含みます。未見でネタバレを望まない方は、ここでお引き返しください)

全国で公開中の歴史大作映画『パドマーワト 女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督)。
その美学とヒロイズムに貫かれた圧倒的な世界観については、以前このブログでも書いた通りだ。
「史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)」



「究極の映像美」という明確な売りがある映画とはいえ、その絢爛な舞台はヴェルサイユ宮殿ではなくラージャスターンのチットールガル城砦だ。
日本では、ほとんどの人が、「何それ?どこ?」という状況なわけで、日本の映画ファンが「インドの歴史大作」というなじみのないジャンルのこの作品をどう受け入れるのか興味があったので、映画を見た方がTwitterでつぶやく感想をたまにチェックしていた。
予想通り、「ディーピカーが神々しいほど美しかった!」とか「ランヴィールの狂いっぷりがすごかった!」とか「めくるめく映像美の酔いしれた!」といった、美や演技に関するものがほとんどだったのだが(『北斗の拳』を連想したアホーは私くらいだったようだ)、そのなかにいくつか気になるものがあった。

曰く、「冒頭に『サティ(夫に死なれた未亡人の焼身自殺)を推奨するものではない』とか言っておきながら、思いっきり殉死を美化してるのはいかがなものか」とか、「インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラームの対立が激化しているこのご時世に、アラーウッディーンを肉をむさぼりハーレムに女をはべらせるステレオタイプな悪役スルターンとして描くのはよろしくない」とか「バジュランギおじさんの爪の垢を煎じて飲ませるべき」といったもの。
「原作が古典なんだからしょうがないじゃん」とも思ったのだが、こういった感想はだいたいインドに詳しい方が書いているので「いくらスーフィー(イスラームの神秘主義者)の叙事詩が原作とはいえ」とあらかじめ断っていたりして、ぐうの音も出ない。
要は、インド社会の中でマイノリティーであったり弱者であったりするムスリムや女性に対しての配慮に欠ける、ヒンドゥーナショナリズム的で保守反動的な映画だという、実にまっとうな批判なわけだ。

確かに、こうした視点は重要である。
実際にこの映画はマレーシアでは「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったというし、インドでは公開前に「ヒンドゥーの王妃とイスラームのスルターンのラブシーンがある」という噂が立ち、逆にヒンドゥー至上主義者から反対運動が起きている。
『パドマーワト』はインドでもほかの国でも、宗教的なバックグラウンドと結びつけて捉えられており、日本のファンだけ能天気にそのへんの事情に無頓着というのも、あんまりよろしくないような気がする。

この問題についての私のスタンスを明確にしておくと、「古典が原作であり、過去が舞台である以上、現代の価値観と合わない部分があるのは仕方ない」というものだ。
インドの歴史において、かつては侵略者だったムスリムが、現在はマイノリティーであるというねじれた現実がある以上、こうした議論が避けられないのは致し方ないことだ。
映画を制作するうえで、必要以上に「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれないバンサーリー監督の姿勢は、むしろ健全であるとも感じた。

それに、このストーリーの主人公は実質、ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンで、確かにステレオタイプな暴君として描かれているかもしれないが、それでもその描かれ方は、率直に言って非常にカリスマ的で「かっこいい」ものだ。
彼は『北斗の拳』のラオウや、『スターウォーズ』のダースベイダーのような、強さと誇りを併せ持った「愛すべき悪役」として描かれている。
ストーリー上、悪役として描かなければならないという前提のもとでは、最良の描かれ方をしているのではないだろうか。
この映画のなかでは、ことさらに宗教の違いが強調されているわけではなく、国と国、王と王との戦いがテーマであり、今回はその中の敵役がイスラームだった、ということだと解釈している。

とはいえ、これはヒンドゥーもイスラームもほとんど存在しない極東の島国での感想。
インドの現在の状況を踏まえた上で、「ナショナリズム的で反動的」という批判が的を射たものなのかどうか、できる範囲で確かめてみたいと思う。
そのためには、「ムスリムやインドの女性が、この映画をどう感じたのか」「この映画によって、イスラーム嫌悪や、女性蔑視的な風潮が強まったのか」を調べるしかない。
私にできるのはネットを使って調べることくらいだが、そんなわけで、今回は、インドを中心に、こうした観点から書かれているインドのメディアのレビューを紹介したいと思います。

 まずは、インドのニュースサイトScroll.inに掲載されたこの記事から。
"View from Pakistan: ‘Padmaavat’ puts together every stereotype of Muslims in India" 
(「パキスタンからの視点:「パドマーワト」はインドにおけるムスリムのステレオタイプの寄せ集め」)

パキスタン人の記者によるこの記事の冒頭では、パキスタンの教育では、南アジア地域の歴史のなかではヒンドゥー国家こそが暴君であって、イスラームの国家が人々を解放したと教えられていることが紹介されている。
そうした教育にもかかわらず、著者は、インド映画を見ることによって、ヒンドゥーの人々もまた自分たちと同じような良心のある人間だと知ったと述べている。
歴史教育や歴史の解釈は、ところ変われば真逆にすらなりうるもので、それでも人間の本質は地域や信仰によって変わるものではない、という「バジュランギおじさん」的な真理だ。
そのうえで、著者は、『パドマーワト』が美的な面では非常に優れていると認めるにしても、政治的な部分では人種差別的、性差別的、イスラーム嫌悪的だと指摘する。
この映画のなかのイスラームの描かれ方はあまりにもステレオタイプで、自分がかつてインド映画でヒンドゥー教徒を見て「彼らも同じ良心を持った人間」と感じたのとは真逆な、残虐な描かれ方をしている。
つまり、インドのヒンドゥーコミュニティに暮らす人々が、この映画を見ることによって、ムスリムに残虐な印象を持ちかねない、と危惧しているわけだ。
(著者は、「芸術は'ポリティカリー・コレクト'であるべきか」という論点にも触れており、必ずしもそうあるべきでないとしても目に余る、という意見なのだろう。) 
具体例として、ヒンドゥーの王ラタン・シンと王妃パドマーワティとの関係が愛に満ちたものとして描かれているのに対して、スルタンであるアラーウッディーンと彼の妻との関係は暴力的に描写されている点を挙げており、また夫への殉死であるジョウハルが解放の手段として描かれているなど、女性への重大な人権侵害を美化していると指摘している。
また、パドマーワティがラタン・シンの第二夫人だったという描写が欠けているという言及もあり、この記事は、『パドマーワト』におけるヒンドゥーとイスラームの描き方がフェアではないという批判なのである。

この記事に対する読者の反応がまた面白かったので、いくつかを抜粋して紹介する。
https://scroll.in/article/866261/readers-comments-was-the-portrayal-of-allaudin-khilji-in-padmaavat-islamophobic
(「読者コメント:『パドマーワト』におけるアラーウッディーンの描き方はイスラム嫌悪的だったのか?」)
  • 実際のアラーウッディーンは、野蛮というほどではないにしても、いくつもの国の侵略者であることは事実で、自らが国王になるために叔父を殺した人物である(=残酷な描かれ方もそこまで批判されるべきものではない、ということだろう)。アラーウッディーンの最初の妻は、歴史上は傲慢な人物だったが、劇中ではパドマーワティとラタン・シンを救う優しい人物として描かれている(=イスラームを好意的に描いている部分もある)。パドマーワティは指揮官の反対にも関わらず、単身デリーに乗り込んだ聡明で強い女性として描かれており、劇中の時代背景の中で名誉を守るために死を選んだからといって、それを今日の価値観で女性差別的だと考えるのは未熟である。
  • 著者の分析は正確。この映画は非常に反動的だ。
  • 著者は(名誉を守るための自死である)ジョウハルと、(夫の火葬の火に飛び込んで死ぬ)サティは全く別のものだと認識すべきだ。パドマーワティは自身が性奴隷となることを避けるために、自由意志で死を選んだ。女性蔑視的なのは著者のほうである。
  • 著者は考え不足だ。アラーウッディーンはムスリムとしてではなく、一人の常軌を逸した男として描かれていたし、映画を観に行く人はみんなそのことを理解している。パキスタン人であることが記者の視点に影響したのかもしれない。
  • これはあくまでも映画であって、歴史ではない。それに映画はジョウハルを賛美してもいない。 それは夫が戦争で殺された場合、女性が自分自身を守るためには死ぬしかなかったということを示しているだけだ。 ムスリムの描写に関しては、宗教に関係なく単に支配者として描いているだけであり、その支配者の信仰がイスラームだったということにすぎない。 アラーウッディーンは現在のインドだけでなく、現在パキスタンに属している地域も侵略していた(=現在の印パの対立に関連づけて考えるのはおかしいということだろう)。
  • (前略)いずれにせよ、私は『パドマーワト』を見に行くことはない。パドマーワティがジョウハルを恐れる描き方ならば見にいったかもしれないが。サティ廃止後150年が経った今、それこそが望ましい描かれ方だ。
  • この記事の見解は面白かったけど、映画のネタバレを含んでいるということが冒頭で触れられていなかったことを指摘したい。作品のレビューにネタバレを含むのであれば、免責事項として最初に書いてもらえると助かる。(=『パドマーワト』は最初に免責事項としてフィクションである旨やサティを美化していないことに触れているのだから、そのように見るべきだという皮肉か)
  • どうして記者は、アラーウッディーンの描写がムスリムの王としてのものであり、冷酷な一個人として描かれているのではないと考えるのだろうか?映画のどこで宗教について言及されているのか?記者の豊かな想像力のせいで、このレビューは過剰なものになっている。
  • この記事は新しい視点に気づかせてくれた。私はインドの都市部で育った53歳のヒンドゥー教徒だが、自分のまわりには多くの「反イスラム・バイアス」がある。著者は、このようにすでに偏ってしまっている社会の中で、この映画が、とくに若者によって、どのように解釈されるおそれがあるか、そして監督がどのような描写の仕方を選んでいるのかについて、優れた指摘をしている。私も、非論理的な部分では、反イスラム・バイアスを持っていた(今も持っているかもしれない)ことを認めざるを得ない。しかしパキスタンのテレビ番組を見て、そこに住む人々も我々と変わらないということを理解することができた。たとえこうした点に気づくのがインドのコミュニティの10%だとしても、今後の印パ関係をより良くし、ムスリムの性格のステレオタイプな解釈をしなくて済むようにしてくれたことについて、記者に感謝したい。

記者に同意する意見もいくつかあるが、アラーウッディーンの描写はムスリムとしてではなく一人の暴君としてのものであり、ジョウハルについても当時の歴史の文脈ので捉えるべきだという反論が目立つ。
ちなみに、名前を見る限り、ほぼ全てがヒンドゥー教徒からのコメントのようだ。


女優としての数々の受賞歴があり、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督作品への出演歴もあるスワラ・バスカル(Swara Bhaskar)は、女性としての立場から、『パドマーワト』を批判している。
https://thewire.in/film/end-magnum-opus-i-felt-reduced-vagina
(‘At The End of Your Magnum Opus... I Felt Reduced to a Vagina – Only’ 「あなたの傑作は、結局のところ…女性器に矮小化されてしまっている…ただそれだけに」)

この批評で、バスカルは、バンサーリー監督への手紙の形式を取って、まず多くの反対運動にも関わらず、犠牲者を出さずに公開にこぎつけたこと、そして出演者のすばらしい演技に祝意をあらわしている。
そのうえで、この映画に登場する女性は、男性の「性の対象」でしかないという観点からの批判を繰り広げている。
彼女は、全ての女性には自分の人生を生きる権利があり、性的なだけの存在では決してなく、仮にレイプ被害にあったとしても人生は生きるに値することを強調している(つまり、女性が敵への服従よりも死を選ぶジョウハルの描写を批判しているわけだ)。
いくら冒頭で「サティを美化しているのではない」と宣言しても、都市部では女子学生が、農村部ではアウトカーストの女性がレイプされ、必死の抵抗にもかかわらず殺害されている現代のインドで、このような描き方をするべきではないと舌鋒鋭く主張している。
また、ジョウハルが決して遠い過去の話ではなく、印パ分離独立の際にも、女性が他宗教の男性からの性暴力から逃れるために行われており、決して大昔の歴史の一部として美化できるものではないとも述べた上で、それでも監督の表現の自由のためであれば、自分もともに戦うことを宣言して、手紙を結んでいる。


こうした批評を読むと、『パドマーワト』のムスリムや女性の描き方に対する意見の違いは、そもそもの視座が違いが理由となっていることが明らかになったと思う。
すなわち、批判的に見ている人たちは、この物語を現代の物語として見ており、アラーウッディーンの描写を残虐なムスリムのステレオタイプとして捉えている。
一方で、映画の描き方に問題がないと考えている人たちは、この物語を歴史を舞台にしたフィクションとして見ていて、アラーウッディーンの描写は宗教に関係のない暴君の典型だと捉えている。

客観的に見ると、アラーウッディーンがムスリムであったことは紛れのない歴史的な事実だが、バンサーリー監督は、この映画の中で信仰をことさらに強調する描き方をしないよう、気を配っているように思える。
強烈な悪役として描く以上、表現者としての配慮をしたのは確かだろう。
その配慮が十分であったのか、それとも、そもそもスルタンを暴君として描くこと自体、今日のインドではすべきでないのか、という問いとなると、もはや誰もが納得できる答えを出すことは不可能だ。

また、この視座の違いは、インド社会の中で弱者の地位に甘んじているムスリムや女性としての立場に基づくのか、それとも彼らの危機感の対象である、ヒンドゥーもしくは男性としての立場に基づくのか、という違いでもある。

マイノリティーからの「自分たちが脅かされるのではないか」という異議申し立てに対して、マジョリティーの側が「心配には及ばない」と答えているという図式である。
とはいえ、マイノリティー側は、直接的な影響ではなく、ムスリムや女性により抑圧的な「風潮」が静かに強まることに対して危惧を抱いているのだろうし、そういった風潮がこの映画のせいで強まったのかどうかということについては、これまた測りようがない。
(マイノリティーの危惧にはそれだけの理由があり、映画の評価とは別の部分で根本的な対策が必要であることは言うまでもないが)

それにしても、インドで、一本の映画に対して、メディア上でここまで健全な、成熟した議論が行われているということに、うらやましさすら覚えてしまうのは私だけではないだろう。
議論好きで理屈っぽいインド人の、最良の部分が出ている感じである。

次回、後編では、こう言ってはなんだが、さらに面白い『パドマーワト』批判と批評をお届けします。
歴史的な観点からの批判と、さらに心理学的な観点からの驚愕の映画分析!
乞うご期待!
(つづく) 


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goshimasayama18 at 21:01|PermalinkComments(0)インド映画 

2019年06月16日

ソーシャル・メディア時代のボリウッドの傑作!『シークレット・スーパースター』!

日本公開が決まった2017年の大ヒットヒンディー語映画『シークレット・スーパースター』がめっぽう面白かった。
主演は『ダンガル きっと、つよくなる』で子役を演じたザイラー・ワシーム(Zaira Wasim)。
主人公の母親役に『バジュランギおじさんと、小さな迷子』でも迷子の女の子の母を演じたメヘル・ヴィジュ(Meher Vij)。
アーミル・カーン(Aamir Khan)は物語の鍵を握るくせものの音楽プロデューサーを演じるとともに、製作とプロデュースにも名を連ねている。
監督・脚本は今作が監督デビューとなるアドヴェイト・チャンダン(Advait Chandan)。
ボリウッドの王道的なサクセス・ストーリーを、現代インドを舞台にしたみずみずしいエンターテインメントに仕上げている。
本国インド、そして中国での大ヒットを経て、いよいよ8月9日に日本公開となる。
(6月18日追記:日本版の予告編がついに解禁!新たに貼っておきます)


(オリジナルの予告編はこちら)
 

【あらすじ】(試写会でのパンフレットから抜粋)
インドに暮らすインシアは、両親と祖母、弟と暮らしている。
父親は、権威的で、母親に暴力をふるうこともしばしば。
インシアは、歌手を夢見てギターを弾き、自分で曲を作っていた。
父からは叶わない夢にうつつを抜かすなと厳しく歌を禁止されていたが、母はインシアを応援しており、ある日父親に内緒でノートパソコンを買い与える。
そこでインシアは、母の提案もあってブルカで顔を隠してYoutubeで自分の歌う姿をアップする。
するとその歌声はたちまちインド中で話題になり、新聞やTVまでもが、"シークレット・スーパースター"の話題で持ちきりとなる。
自分の歌声が響き、たくさんの人に聞いてもらっていることに喜びを感じるインシア。
しかし、父に隠れて歌を歌っていることがバレてしまい、投げやりになりノートパソコンを壊してしまう。
そんな時、有名ではあるが若干落ち目の音楽プロデューサー、シャクティが彼女を見つける。
インシアは学校にも親にも内緒で、彼女を支えてくれる友人チンタンの助けを得てシャクティに会いに行く。
最初にシャクティから渡された曲は全くインシアに合わない曲だった。
上手く歌うことのできないインシアをみて、プロデューサーたちはがっかりし、諦めかけていた時、インシアはシャクティの昔のバラードを歌いたいと願い出る。
そこで歌った彼女の歌声が全員の心を掴んだ。
しかし帰ってきた彼女には大きな障害が立ちはだかっていたのだった…。



全編を通して印象に残ったのは、役者たちの演技の素晴らしさだ。
主演のザイラー・ワシームは、夢見る少女の素朴さ、夢に向かう力強さ、夢破れそうになる絶望や淡い恋への不器用さを見事に演じきっており、彼女に想いを寄せる同級生チンタン役のティルト・シャルマ(Tirth Sharma)とのかわいらしい恋模様も良いアクセントになっている。
ザイラー・ワシームは、インド映画の典型的なヒロイン女優とは違って絶世の美人タイプないが、平凡にも見える彼女がシーンによってこの上なくかわいらしく見えたり、頼もしく見えたり、時には孤高にすら見える名演を見せている。
カシミール出身のムスリムである彼女は、先日、自身の信仰生活を大事にするために女優業からの電撃引退を発表したばかり。
この稀有な女優の一世一代の名演技をぜひ目に焼きつけてほしい。
脇役陣も素晴らしく、娘のことを思いながらも運命に抗うことができない母親役のメヘル・ヴィジュも、鬼気迫る封建的な父親役を演じた父親役のラージ・アルジュン(Raj Arjun)も迫真の演技で、夢や恋を追う若い世代との対比が、物語にいっそうの深みを増している。
アーミル・カーンは、傲慢でいかがわしいが、音楽の才能を見抜くことに関しては天才的なプロデューサー役。
シリアスなストーリーの中で唯一のコミカルな役柄で、彼が登場するたびに映画の空気感が変わり、笑いが起きる存在感はさすがだ。
このあらすじに書かれていない細やかな伏線もすばらしく、150分の長丁場だが、誰もが飽きることなく楽しめて感動できる作品になっている。

インシアの歌を吹き替えたのは、2001年生まれのプレイバックシンガー、Meghna Mishra.
幼さと力強さを兼ね備えた歌声が印象的で、この映画でいくつもの映画賞・音楽賞に輝いた。

シャクティが提案した無内容でセクシーなダンスミュージックの代わりに歌うことを選んだのは、若き日のシャクティが作ったラブソング"Nachdi Phira".

曲調にも歌い方にもインドっぽい要素がほとんどないので、典型的なインド映画のミュージカルシーンが苦手な人にも違和感なく受け入れられるはずだ。
映画のストーリーにも見事にはまっており、映画のなかで見ると、この歌の魅力は何倍にも増して聴こえる。

古い価値観からの解放と夢や自由の追求、世代間の断絶というインドの娯楽作品の古典的なテーマがこの作品のタテ糸であるとすれば、ヨコ糸はインターネット時代に抑圧された立場の女の子がどう夢を実現させるかという現代性だ。
古典的な主題に、インターネットという現代的なツールを取り入れ、音楽を通して夢の実現を図るという構図は、今年本国で大ヒットしたヒップホップ映画"Gully Boy"とも対比できる。
「映画"Gully Boy"のレビューと感想」

どちらの作品も、主人公が自身の育った環境のなかで名乗ることになった「芸名」が映画のタイトルになっており、自分の音楽をようやく手に入れたPC("Gully Boy"の場合はiPad)を使ってYoutubeにアップすることで成功への道を歩んでゆく。
ムンバイのスラムを舞台にした"Gully Boy"とは、作品の質感こそ全く違うが、とてもよく似た構成なのだ。

PCを手に入れたインシアは、母と弟とともにネット上の音楽や映画を楽しみ、ともに踊り、新しいレシピの料理に挑戦する。
姿を隠して歌う動画をアップロードしたインシアの「大勢の人が歌を聴いてくれたわ!会ったこともない人たちよ!」 というセリフは、インターネット環境を手に入れることで、飛躍的に世界が広がり、自身の才能ひとつで経済的、地理的、社会的なさまざまなギャップを乗り越えて成功できる「インドの新しい夢」を象徴するものだ。

「親子の価値観の対立」は、インド映画で頻出するテーマだが、この作品でも大きな意味を持っている。
インシアのいちばんの理解者である母は、彼女が音楽を楽しむことを容認しているが、音楽が彼女のキャリアになるとまでは思っておらず、女性が従属的な立場で生きるしかないことを受け入れている(というか、他の生き方を知らない)。
古い価値観のなかで考えることをやめてしまった母の生き方は、才能と機知でチャンスをつかみ、現状を打開しようとするインシアとは見事に対照的だ。

封建的な考えを持ち、家族を束縛し、ときに暴力すら振るう父親は、夢や自由を阻害する徹底的な悪役。
"Gully Boy"の主人公Muradの父親がそうであったように、インシアの父もまた、娘が音楽の道に進むことを認めない、古い価値観の象徴として描かれる。
だが、丁寧に映画を見てゆくと、彼もまた彼なりに家族を愛していることが示唆されている部分がある。
インシアの弟への接し方もそうだし、学校でも塾でも授業そっちのけで音楽のことばかり考えている娘に対して心配し厳しく接するのも、常軌を逸した怒り方さえ別にすれば、そこまでおかしなことではない。
暴力は論外としても、女の子の誕生を喜ばず、娘に良い結婚をさせるために、音楽に夢中になるよりも高い学歴を求める父の価値観もまた、彼だけの悪徳ではなく、彼が生きてきた時代や社会によって育まれたものなのだ。
保守的な価値観の中で生きてきて、家族のために遅くまで働いている父が、妻と子どもが自分とは違う価値観の中に生きるようになってしまったことに、孤独と焦燥のなかにいるであろうことは想像に難くない。
この映画では、分かりやすい「悪役」として描かれているが、新しい時代の考えについてゆけず、父もまた苦悩していることを丁寧に描けば、また別のインド社会の一面を表現することもできただろう。
(そこを描ききらなかったことで、娯楽作品としてのこの映画の価値が下がっているわけではないが)
映画のなかでは「束縛の象徴」として、逃避すべき存在として描かれているが、ここに描かれた「断絶」は、インド社会全体の断絶でもあり、逃避以外の解決策が提示されないのは、いささか絶望的でもある。

また、信じられないほどのYoutubeの再生回数を叩き出し、有名音楽プロデューサーやインドじゅうの人々から絶賛されるほどの才能を持っていないと、古い価値観の束縛から自由になれないのかと思うと、やはりこの映画で描かれたような「成功」は一般庶民からは遠い夢なのだろうな、と感じさせられたりもした。

この『シークレット・スーパースター』は、こんなふうに現実の社会問題を扱いながらも、優れたインドの現代劇がいつもそうであるように、爽快な娯楽作品として、非常に高い完成度を誇っている。
インドの社会問題と関連して、少しネガティブな感じのことを書いてしまったが、映画を娯楽として楽しむ上では全く気にしなくて良い視点なので、あしからず。

試写を見ていて、たくさんのインドのミュージシャンのことが頭に浮かんだので、そのうち何組かを紹介してみたい。

まず最初に紹介するのは、懐かしのボリウッド映画のヒットソングをロックアレンジでカバーし、Youtubeにアップしてスターとなったバンド、"Sanam".
これは1972年の映画"Mere Jeevan Saathi"からの楽曲"O Mere Dil Ke Chain".


今ではモルディブロケまで行うほどに成長し、この1970年の映画"The Train"のカバー曲"Gulabi Aankhen Jo Teri Dekhi"は1億ビューを超える視聴回数を叩き出している。

「Youtubeでスターダムにのし上がる」とか「無内容な最近のダンスミュージックよりも、昔の心のこもった音楽のほうが良い」というテーマは、まさに「シークレット・スーパースター」と重なるものだ。

ムンバイの女性ラッパー、Dee MCは、インド社会で抑圧されがちな女性のエンパワーメントをテーマにした楽曲を数多くリリースしている。

父親が海外に出稼ぎに出ていたために、家で気兼ねなくインターネットを使うことができ、ヒップホップに出会って、家族からの反対にもめげずにラッパーとなったという彼女は「ヒップホップ版インシア」だ。
この曲は、生理を不浄なものとされてきたインド女性の解放をラップする"No More Limits".
彼女については以前の記事「インド女性のエンパワーメントをラップするムンバイのフィーメイル・ラッパーDee MC」で詳しく紹介している。

映画の中に、お母さんの無償の愛を讃える歌、"Meri Pyaari Ammi"が出てくるが、家族への愛情をストレートに出すお国柄のインドでは、こうした「お母さんに捧げる歌」がたくさんある。

曲の冒頭で、鉛筆とゴムで即席のカポ(ギターのフレットを抑えるための器具)を作るところ、あり合わせのものでどうにかして音楽をしようとするインシアの一途さが伝わってくる、好きなシーンだ。
この曲を聴いて思い出したのは、女性シンガーAbhilasha Sinhaの"Mother".

この曲は、かつてはKomorebiの名前で活動するエレクトロニカアーティストのTarana Marwahらとのトリオを結成していたAbhilashaのソロデビューシングルで、インドを遠く離れてニューヨークで暮らす彼女が故郷の母を思って作曲したもの。
(関連記事:「母に捧げるインドのヒップホップ/ギターインストゥルメンタル」

映画のなかでは、落ちぶれているが腕は確かなボリウッドの音楽プロデューサーのシャクティ・クマールがインシアの才能を評価してプロデュースを申し出るが、インディーミュージックの世界でも、若い才能をすでに世に出ているミュージシャンがサポートした事例がある。
ジャールカンドのラッパーTre Essと、ギタリストのThe Mellow Turtleがプロデュースしたのは、同郷の盲学校の生徒たち、Dheeraj & Subhashによる楽曲"Dil Aziz"だ。

歌っているDheerajは15歳、作曲したSubhashはまだ14歳。
幼さと深みの同居する歌声に、ふとインシア(というか、プレイバックシンガーのMeghna Mishra)を思い出した。
彼らもまたスターへの道を歩むことができるだろうか(ちなみに現時点でのYoutubeの再生回数は33万回)。


最後に、知らなくてもいいけど知っているとより楽しめる、私が気がついた『シークレット・スーパースター』の面白い部分をいくつか紹介します!

  • 「謝る」ことがテーマとなるシーンがあるが、そこで使われるのはヒンディー語ではなく、英語の「ソーリー」。「インドの言語では『ありがとう』『すみません』『ごめんなさい』がない」とよく言われるが(実際はあるが、ほぼ使われない)、それを象徴するシーンだ。
  • インシアが、アーミル・カーン演じるくせものプロデューサーのシャクティに「ダンスソングじゃないと映画がヒットしないんだ」と言われて「『愛するがゆえに』はバラードばかりでもヒットした」と言い返すシーンがある。シャクティの作った往年のバラードを見事に歌い上げたインシアに、シャクティは「スター誕生だ」と絶賛する。この『愛するがゆえに』は、日本でも公開されたボリウッド映画"Aashiqui 2"のことで、ストーリーはハリウッドの『スター誕生』のインド版リメイクだ。このセリフは訳者さんの粋な心遣いだろう。
  • その"Aashiqui 2"は2013年の大ヒット映画。ゴアのバーで歌っていた歌手志望の女の子を落ちぶれた人気歌手がスターに育て上げるストーリーは「シークレット・スーパースター」にも通じるものがある。だが、"Aashiqui 2"では主人公がスターになる手段としてSNSは出てこず(「スター誕生」という原作があるからかもしれないが)、主人公の歌い方もインシアのような素朴なものではなくて古典音楽をベースにした技巧的なもの。ここ数年のインドの社会や音楽の変化を感じることができる。
  • 物語のなかで「女の子の誕生自体が望まれていない」というインド社会の問題が示唆されるが、実際にインドでは女児は結婚するために高額の持参金が必要とされることから、違法な堕胎が数多く行われている。インドにおける男女別の出生数は、男子1,000人に対して女子は900人という数字からも、問題の深刻さが分かる。この映画の舞台となったグジャラート州では男子1,000人に対して女子は854人と、インドのなかでもとくに女子の出生数が少ない州のひとつだ。ちなみにインドのなかで女子の出生数がいちばん多いのは、進歩的な土地柄で知られるケーララ州で、それでも男子1,000人に対して女子967人。(参考:https://niti.gov.in/content/sex-ratio-females-1000-males
  • 歌手として紹介されるモナリ・タークル(Monali Thakur. 女優も務める)やシャーン(Shaan)は、実際のスター歌手のカメオ出演だ。
  • サウジアラビアへの引っ越しが、夢を失うことと同義に語られているのは、世俗国家であるインドと比べて、女性の自由が大きく制限されているからでもある。

と、いろいろと書かせてもらったが、適度な同時代性と社会性を孕みつつ、150分を飽きずに楽しませ、笑わせ、感動させてくれる『シークレット・スーパースター』は、優れたインド映画がいつもそうであるように、映画という娯楽の面白さがぎゅっと詰まった大傑作!
インドの社会背景を題材にしながらも、近年のインド映画のヒット作品『バーフバリ』や『バジュランギおじさん』と比べると、「インド臭さ」は少なく、インド映画ファン以外にも大いにアピールする内容だ。
ぜひみなさんお誘い合わせのうえご覧になることをお勧めします!

(2019.8.7追記 この映画のパンフレットで、映画の内容と関連して現代インドの音楽シーンを紹介するコラムを書かせてもらいました!映画だけでなく是非パンフレットもお楽しみください!他にも映画をさらに深く味わえる記事が盛りだくさんです!)

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2019年06月12日

私的大発見!インドと吉幾三、そして北インド言語と演歌、レゲエの関係とは?

きっかけは、インド人の友人のこのツイートだった。

 
 Perfumeファンの彼が、彼女たちのSpending All My Timeと吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」のマッシュアップを聴いて「これ原曲なに?インドの曲じゃないみたいだけど、すごくインドっぽい」とつぶやいていたのを読んで、思わず感動してしまった。

なんで吉幾三なんか(失礼)で感動しているかというと、私はかねがね、ある種のインドの歌について「まるで吉幾三みたいだ!」と思っていたからなのだ。
例えば、インド最初のラッパーであるBaba Sehgalのこの曲。

思いの外かっこいいイントロに「どこが吉幾三?」と思った方も、歌が始まった瞬間にずっこけたはずだ。
これ、完全に幾三だろう。
現在はすっかり洗練されてきたインドのヒップホップだが、始まった当時は完全に吉幾三だったのだ。
(詳しくはこちらに書いています。「早すぎたインド系ラッパーたち アジアのPublic Enemyとインドの吉幾三、他」
インドのヒップホップ史において、最初のラッパーがこのBaba Sehgalだということは、日本の音楽史上最初のラップのヒット曲が吉幾三「俺ら東京さ行くだ」であったことと同じくらい、無かったことにしたい歴史だろう。

吉幾三っぽく聞こえる楽曲はこれだけにとどまらない。
Jay Zによるリミックスが世界的に大ヒットしたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"も、冷静に聴くとかなりの幾三っぷりである。

そう、インドの音楽、とくに、ここに紹介したような90年代頃のラップ調のバングラーに関しては、じつはかなり吉幾三っぽく聞こえるものが多いのである。
私がそれらの音楽を「吉幾三っぽいなあ」と思っていたところに、インド人の友人が吉幾三を聴いて「なんだかインドの音楽みたい」とつぶやいたのだから、これに感動しないわけがないだろう。

バングラーは、インド北西部、パンジャーブ州が発祥の音楽だ。
パンジャーブ州からは、イギリスに移民として渡った人々が多く、伝統音楽だったバングラーはそこで当時最先端のダンスミュージックと融合し、インドに逆輸入されて、インド全体で大人気となった。
我々にとっては吉幾三っぽく聴こえる音楽だが、当時のインドでは、伝統と最先端の理想的な融合だったのだろう。

さて、ここでもうひとつの大発見をしてしまった。
吉幾三といえば演歌歌手だが、インドと演歌といえば、まっ先に思い浮かぶのが、チャダ。

インドの知識がある方はきっともうお気づきだと思うが、ターバン姿が印象的なチャダは、シク教徒だ。
そして、シク教のルーツは、パンジャーブ州。
そう、彼もまた、出身こそニューデリーだが、パンジャーブの人なのである。
チャダことSarbjit Singh Chadhaは、16歳でミカンの栽培技術を学ぶために来日し、日本で耳にした演歌に惚れ込んで演歌歌手になったという。

パンジャーブの音楽と演歌が似ていると発見して驚いていたら、なんとパンジャーブの人間がとっくの昔に演歌歌手になっていた!
パンジャーブと日本、バングラーと演歌。
お互いに何も文化的な影響を及ぼしていないはずなのに、この不思議な相似はいったい何なのだろうか。

外国人演歌歌手としては、米国系黒人であるジェロも有名だが、彼の場合、幼い頃から母方の祖母に演歌を聴かされて育ったというバックグラウンドがある。
それに対して、16歳で来日するまで演歌を聴いたこともなかったはずのチャダが、演歌の独特の歌い回しに魅力を感じ、そしてそれを(北島三郎への師事があったにせよ)完璧にマスターしているということは、やはりパンジャーブの音楽文化と演歌には、相通じる何かがあるのだ。

さらに、Youtubeで関連動画を探していたら、この5月に行われた「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インド祭in十日町」で吉幾三の「酒よ」を歌うチャダを発見!

吉幾三、バングラー、パンジャーブ、演歌。
これで全てが繋がった!
酒など決して口にしないであろうガンディーが、自身の生誕150年祭で歌われる「酒よ」を聴いてどう思うのか分からないが、インド国旗に描かれた法輪のごとく、とにかくこれでパンジャーブ文化と吉幾三がひとつの円環となったのである。(自分でも何を言っているのかよくわからないが)

ここで改めて注目したいのは、吉幾三とバングラーの、メロディーや発声方法ではなく、歌の節回しだ。
みなさんも、「俺ら東京さ行くだ」の、東北訛りをカリカチュアしたような歌い回しと、バングラーの歌い回しの、微妙に音程を外したり、うわずらせたりする部分がとてもよく似ているということに気がついただろう。
北インドの言語であるヒンディー語やパンジャービー語は、歌ではなく会話でも、その言語の響きそのものが、東北弁や茨城弁っぽく聞こえることがある。
こうした言語固有のイントネーションそのものが、歌われる音楽を田舎くさい(失礼)演歌っぽく聴こえさせているのではないだろうか。

同じ北インドの音楽でも、例えば古典音楽のヒンドゥスターニーの場合、インド独特の音階(ラーガ)や、技巧的な節回しが前面に出るため、決して演歌っぽくは聞こえないのだが、よりシンプルなスタイルであるバングラーとなると、ヒンディー語やパンジャービー語の語感が強く出てしまい、途端に演歌っぽくなってしまうのだ。

ここからは極めて個人的な話になるが、私は10代最後の歳にインドを一人旅して以来、インドという国やその文化に大いに興味を持ってきた。
であるにもかかわらず、他の多くのインド好きたちが惹かれているのに、私がいっこうに魅力を感じられなかったものがある。
それは何かと言うと、映画音楽だ。

例えば、先日、「Aashiqui 2」という映画のDVDを見たのだが、インドでは大変高い評価を得たというその音楽を聴いても、私は「なんか演歌みたいだな」という以上の感想を抱くことができなかった。(ちなみにこの曲です)
 
メロディーラインのせいもあるが、ヒンディー語で西洋音階のシンプルな旋律を歌うと、その歌い回しのせいで、どうしても演歌っぽく聴こえてしまう。
何が言いたいかというと、若い頃ロック好きだった自分が、インドの映画音楽をどうも好きになれないのは、非ロック的な大仰なアレンジのせいだけではなく、どうやらこの「演歌っぽさ」にも理由があったようだということだ。
私なんかの世代のだと(40代)、ロック好きは深層心理に「演歌は旧弊な価値観を象徴する音楽で、自由を標榜するロックとは相容れないダサいもの!」みたいな意識がこびりついている。
その意識が、どことなく演歌っぽいボリウッド(ヒンディー語)映画音楽を敬遠させていたのだ。

ちなみに最近では、ロックなどのジャンルではヒンディー語であっても、英語的なメロディーや言葉の当て方が十分に確立され、演歌らしさを全く感じさせない楽曲がたくさんある。
例えば、ヒンディー語で歌うポストロックバンドAsweekeepsearchingの音楽を聴いて演歌っぽいと思う人はいないはずだ。

ここでさらに話が飛躍するのだが、ヒンディー語やパンジャービー語が持つ東北弁や茨城弁っぽさは、彼らが英語を話す時にも引き継がれる。
北インドの人々が話す英語は、やっぱり東北弁や茨城弁っぽく聞こえるのだ。

で、東北弁や茨城弁ぽい英語がどう聞こえるかというと、なんとジャマイカン訛りっぽくなるのである!
実際は、ジャマイカ人が話すいわゆる「パトワ語」とインド訛りの英語のイントネーションは全く異なるものなのだが、ネイティブ言語の訛りを色濃く残す北インド人の英語は、レゲエに乗せてラップするトースティング(っていうの?レゲエには詳しくないのだけど)に、結果的にそっくりなってしまっているのだ。

例えば、こちらも90年代に大ヒットしたApache Indianの"Boom Shak-A-Lack".


最近の楽曲では、デリーのレゲエバンド、Reggae RajahsのメンバーGeneral Zoozによる"Industry".


どこまでがレゲエに寄せていて、どこまでがヒンディー訛りなのか分からないこのニュアンス、お分かり頂けるだろうか。

言語の特徴と音楽の話で言えば、もうひとつ気になっているのが、最近のヒンディー語/パンジャービー語のポップスが、現代のラテン音楽、具体的にはレゲトンに近づいてきているということ。
例えばこんな感じに。
パンジャービーの商業的バングララッパー、Yo Yo Honey Singhの"Makhna".

 
さらには、スペイン語を導入したこんな曲もある。Badal feat. Dr.Zeus, Raja Kumari "Vamos".

音楽やスタイルにおける現代インドとラテン系の相似については、かつてこちらの記事に書いたので、興味のある方はぜひご一読を。(「ソカ、レゲトン…、ラテン化するインドポップス」

レゲトンはスペイン語圏であるプエルトリコ発祥の音楽だが、ヒンディー語話者の英語の訛り方は、じつはスペイン語話者の訛りと瓜二つなんである。
「-er」や「-ar」で終わる単語の'r'をはっきりと発音するとか、sの子音から始まる単語を話すときに、頭にエがついてしまう(例えばスクール'school'がエスクール'eschool'になってしまう)など、特徴的なところがことごとく似ているのだ。
同じ傾向の英語の訛りを持つ二つの言語圏が、同じようなスタイルの音楽を好む傾向がある。
これは単なる偶然なのだろうか。

さて、レゲエやラテンに少し脱線したが、ここまでヒンディー語/パンジャービー語圏のバングラーが吉幾三的な演歌にそっくりという話を書いてきた。
これも以前書いたネタだが、もうちょっと歌謡曲テイストの演歌にそっくりなのが、ゴアの古いポップスだ。
「まるで日本! 演歌?歌謡曲? 驚愕のゴアのローカルミュージック!」


ゴアで話されているコンカニ語も、ヒンディー語やパンジャービー語と同じインド・アーリア語派の言語。
ひょっとしたら、北インド系の言語を話す地方に、まだ知らぬ演歌っぽい音楽が他にもあるのかもしれない。
もし時間とお金が無限にあるなら、インド中を放浪しながら地元の人に演歌を聞かせて、「これに似た音楽を知らないか」と尋ねて回るのも面白そうだ。
きっとまだ見ぬ「演歌っぽいインド音楽」が見つけられるに違いない。
(いったいそれに何の意味があるのか自分でも分からないが)

というわけで、今回は、音楽史的もしくは 言語学的な裏付けの一切ない、北インド諸語と演歌やレゲエの類似点についてのたわごとをお届けしました。



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2019年06月08日

ロックバンドKrakenがアンダーグラウンドラッパーを従えて初の(?)コスプレツアーを実施!


22年前に南米を旅行していた時のこと。
確かアルゼンチンだったと記憶しているが、私が乗っていたバスに、いかにもハードコア・パンクとかをやっていそうな、革ジャンを着てタトゥーの入った、いかつくてコワモテの男が乗車してきた。
絡まれたら嫌だなあと思いながら彼の様子を伺っていると、彼はおもむろにカバンの中から、ローマ字で"Otaku"と書かれた日本のアニメの絵が表紙の雑誌を取り出し、夢中になって読み始めた。
当時(今もかもしれないが)、日本ではアニメなどのオタクカルチャーは、ハードコア・パンクや不良文化とは真逆のイメージだったので、彼の好みの振れ幅の大きさに、ものすごく驚かされたものだ。
そういえば、ニューヨークのハードコア・バンドSick Of It Allが、インタビューで、自分たちがいかにドラゴンボールが好きか、どれだけドラゴンボールに衝撃を受け、夢中になったかを熱く語っているのを読んだのも同じ頃だったように思う。
硬派で激しいハードコア・パンクと、小学生のときに読んでいたマンガの印象がどうしても重ならなくて、やはり強烈な違和感を感じたものだった。

何が言いたいのかというと、アニメに代表される日本のオタクカルチャーは、じつは海外ではサブカルチャーのひとつとして、コアな音楽ジャンルと結びついて、面白い受容のされ方をしているのではないか、ということである。

さて、話をいつも通りインドに戻すと、今回の記事のタイトルは「ロックバンドKrakenがアンダーグラウンドラッパーを従えて初の(?)コスプレツアーを実施」というもの。
何を言っているのか、わけが分からないという方も多いのではないかと思う。

解説するとこういうことだ。
かつてこのブログでも紹介した、デリーを拠点に活動するマスロック/プログレッシブメタルバンドKrakenは、ジャパニーズ・カルチャーに大きな影響を受けたグループである。
彼らのファーストアルバム"Lush"では、複雑でテクニカルなロックサウンドに日本文化の影響をミックスしたユニークな世界観を披露しており、Rolling Stone India誌で2017年のベストアルバム第7位に選ばれるなど、音楽的にも高い評価を受けている。


そんな彼らがインド各都市で行う今回のツアーは「コスプレツアー」というかなりユニークなもの。
彼らのTwitter曰く、「初のミュージック&コスプレツアー!最高のパーティーを開くために、音楽ファンとコスプレファンに橋渡しをする!」とのことだそうだ。

こうした「コスプレライブツアー」が世界初なのかどうかは分からないが、もしコスプレ発祥の地であるここ日本で前例があったとしても、アニソン歌手とか、声優のコンサートなのではないかと思う。
Krakenの音楽は直接アニメと関連しているわけではなく、サウンドもプログレッシブかつマスロック的なもので、このコスプレライブがいったいどのような雰囲気になるのか、想像もつかない

しかも、今回彼らがツアーのサポートに起用したのは、ロックバンドではなく、ヒップホップアーティストのEnkoreとHanuMankind.
ラッパーのパフォーマンスにコスプレをした観客がいるというのはもはやシュールでさえある。
インディーシーンが発展途上のインドでは、異なるジャンルのアーティスト同士の共演も珍しくはないが、プログレッシブ・メタルとコスプレとヒップホップの融合と言われると、もう全然わけがわからない。
(ちなみに前回のKrakenのツアーのサポートは、このブログでも紹介したマスロックバンドのHaiku-Like Imagination. 音楽的にはかなり近いバンドだった)

サポートアクトの一人、Enkoreはムンバイのラッパーで、2018年に発表した"Bombay Soul"がRolling Stone Indiaの2018年ベストアルバムTop10に選ばれるなど、批評家からの評価も高いアーティストだ。

その音楽性は、昨今インドで流行しているGully Rap(インド版ストリートラップ)のような前のめりなリズムを強調したものではなく、メロウでジャジーな雰囲気のあるものだ。
(インド各地でこの傾向のアーティストは少しづつ増えてきており、代表的なところでは、ムンバイのTienas, バンガロールのSmokey the Ghost, ジャールカンドのTre Essなど。デリーの人気トラックメイカーSezのサウンドも同様の質感を強調していることがある)
彼のようなアンダーグラウンド・ヒップホップは、音楽的にはKrakenが演奏するプログレッシブ・メタルとは1ミリも重ならないように思えるが、ここにジャパニーズ・カルチャーからの影響という補助線を引くと、意外な共通点が見えてくる。
メロウで心地よいビートを特徴とするチルホップ/ローファイ・ヒップホップ(ローファイ・ビーツ)は、日本のトラックメーカーである故Nujabesが創始者とされている。
彼の楽曲は深夜アニメ『サムライ・チャンプルー』で大々的にフィーチャーされ、ケーブルテレビのアニメ専門チャンネルを通して世界中に広まった。
その影響もあって、今でもチルホップのミックス音源を動画サイトにアップしたときには日本のアニメ風の映像を合わせるのがひとつの様式美になっている。
例えばこんなふうに。 
意外なところで、ヒップホップはアニメカルチャーと繋がっているのだ。



そしてもう一方のサポートアクトであるHanuMankindがまた強烈だ。
ヒンドゥー教の猿の神ハヌマーンと人類を意味するhumankindを合わせたアーティスト名からして人を食っているが、彼のラップの世界感はさらに驚くべきもの。

メロウでローファイな質感のこの曲のタイトルは、なんと"Kamehameha". 
そう、我々にも馴染深いあの「ドラゴンボール」の「かめはめ波」である。 
ビートが入ってきた瞬間に、「孫悟空」という単語からフロウが始まり、続いてSuper Sasiyan(スーパーサイヤ人)という言葉も耳に入ってくるという衝撃的なリリック。
とはいえ彼のサウンドにはドラゴンボール的なヒロイズムや派手さではなく、あくまでチルなビートに乗せて「カメ!ハメ!ハ!」のコーラスが吐き出される。
いったいこれは何なのだ。 

さらにはこんな楽曲も。
その名も"Super Mario". トラックはそのまんまだ!
 
この曲も、リリックにはゲーム、ドラゴンボール、クリケットなどのヒップホップらしからぬネタが盛りだくさん。

"Samurai Jack"と名付けられたこの曲はジャジーなビートが心地よい。

ここでもリリックではギークっぽい単語とインドっぽい単語が共存している不思議な世界。これは、インドで実を結んだナードコア・ヒップホップのひとつの結晶という理解で良いのだろうか?

それにしても、KrakenとHanuMankindとEnkore、いくら日本のサブカルチャーという共通点があるとはいえ、そもそもプログレッシブ・メタルバンドがラッパー2人とツアーをするというところからして意外というか想像不能だし、しかもコスプレの要素も入ってくるとなると、もうなんだかわけがわからない。


わけがわからないとはいえ、まるで日本のバンドブームの初期のように、インディーミュージックシーン全体がジャンルにこだわらず盛り上がっている様子はなんだかとっても楽しそうだ。
そういえば、いまやインドNo.1ラッパーとなったDivineがインドの「ロックの首都」と言われている北東部メガラヤ州の州都シロンで行なったライブのサポートは地元のデスメタルバンドPlague Throatだった。
バンガロールでは先日ラッパーのBig Dealとやはりブルータル・デスメタルバンドのGutSlitのジョイントライブがあったばかりだ。
なんだかAnthraxがPublic Enemyと共演し、映画"Judgement Night"のサントラでオルタナティブロックとヒップホップのアーティストたちがコラボレーションした90年代前半のアメリカを思い起こさせるようでもある。 (古い例えで恐縮ですが)
特定のジャンルのファンではなく、インディーミュージック/オルタナティブミュージックのファンとしての連帯感が、インドには存在しているのだろうか。
この混沌とした熱気は、ジャンルが細分化されてしまった日本から見ると、正直少々
うらやましくもある。

以前行ったインタビューでは、Krakenのメンバーは日本のヒップホップにも影響を受けたことを公言しており、Nujabes、Ken the 390、Gomessらの名前をフェイバリットとして挙げている。
ギター/ヴォーカルのMoses Koul曰く、次のアルバムは前作"Lush"とは大きく異なり、ヒップホップの要素が大きいものになるとのことで、いったいどうなるのか今から非常に楽しみだ。

それにしても、インドの音楽シーンにおける「ジャパニーズ・カルチャー」の面白さは、いつも想像を超えてくる。
先日、「インドで生まれた日本音楽」J-Trapの紹介をしたときにも感じたことだが、もはや日本文化は日本だけのものではないのだ。
また、インドでのK-Popブームと比較すると、韓流カルチャーがポップカルチャー(大衆文化)として受容されているのに対して、日本のカルチャーはサブカルチャー(マニア文化)として受け入れられているというのも面白い。
(参考:「インドで盛り上がるK-Pop旋風!」

今後、日本で生まれた要素が、インドでどんな花を咲かせ、実を結ぶのだろうか。
ジャパニーズ・カルチャーをマサラの一つとして、全く新しいものがインドで生まれるってことに、ワクワクする気持ちを抑えられない。
これからも「インドの日本文化」紹介していきます!


(インドのコスプレ文化といえば、ムンバイなどの大都市だけでなく、北東部ナガランド州でも異常に盛り上がっているようだ。「特集ナガランドその3 ナガの地で花開く日本文化 ナガランドのオタク・カルチャー事情とは?」

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2019年06月04日

Big Dealがラップで訴える故郷オディシャ州のサイクロン被害からの復興

5月3日、20年ぶりとなる猛烈な強さのサイクロン'Fani'がインド東岸とバングラデシュを直撃した。
インド東部オディシャ州の政府は事前に各種メディアを通じて120万人以上の人々に避難を指示し、43,000人のボランティアを準備してサイクロンに備えた。
この'Fani'によって、インドでは同州を中心に72名が亡くなったが、10,000人を超える死者・行方不明者を出した1999年のサイクロンと比べると大幅に犠牲者数を減らすことができたのは、事前の準備と対策が功を奏したからだと言えるだろう。
odisha_map
オディシャ州の位置(出典:Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_districts_of_Odisha

だが、喜んでばかりはいられない。
過去の大災害と比べて人的被害が少なかったせいか、サイクロン通過後の状況は、海外でも、そしてインド国内でもほとんど報道されていないようなのだ。
'Fani'が過ぎ去ると、インドのニュースは、ほとんど下院選挙一色となってしまった。

しかし、最大風速毎時250キロ、再低気圧937ヘクトパスカルに達した'Fani'の被害は甚大だった。
被害の中心地は州沿岸部のプリー地区、コルダ地区で、12世紀に建築された有名なジャガンナート寺院も被害を受けた。
被災者数は1,700万人弱にのぼり、オディシャ州内の物的損害の推定額は17.4億米ドルに達するという。
'Fani'の被害を受けたインフラ再建のためには、24億6,000万ドルが必要とされている。

甚大な被害にも関わらず、その後の支援が不十分な状況に対して、同州プリー出身の日印ハーフのラッパーBig Dealは、さらなる支援を呼びかける楽曲をYouTubeで公開した。

"I am Odisha".

豊かな自然のもとで暮らすオディシャの人々にとって、日本同様に自然災害の脅威は避けられないものだ。
1999年に続き、2013年の'Phailin'、さらには今年の'Fani'と、オディシャ州は度重なるサイクロンの被害に見舞われており、そのたびに住民たちはそこから立ち直ってきた。
このビデオにも出てくるように、過去の被災経験から、オディシャ州には数多くの避難施設(シェルター)が建設され、今回の'Fani'上陸の際には、適切な避難行動によって人的被害を最小限にとどめることができた。

とはいえ、生活基盤が破壊された状況からの再建は容易ではなく、オディシャ州は多くの支援を必要としている。
とくに沿岸部には貧しい漁民が多く暮らしており、住まいや漁船を破壊されたりした者も少なくないようだ。
私も20年ほど前にプリーを訪れたことがあるが、海岸沿いに掘っ立て小屋のような漁民の住居がひしめきあうように建てられていたのを覚えている。
もし彼らの生活が20年で大幅に改善していなければ、彼らが生命以外のほぼ全てを失ってしまったであろうことは想像に難くない。

Big Dealはオディア語(オディシャ州の言語)でラップした最初のラッパーであり、"Mu Heli Odia"(俺はオディシャ人)という曲をリリースしたこともある、名実ともにオディシャを代表するヒップホップアーティストだ。
日印ハーフの彼は、少年時代には、顔立ちの違いからいじめを受けたこともあったそうだが、それでもオディシャ州をレペゼンするアーティストになり、活動拠点を南部の大都市バンガロールに移した今も、オディシャ人であることを誇る楽曲をリリースしている。
このビデオでは、自身のラップスキルと報道の映像、そして美しいオディシャの自然や文化を織り交ぜながら、報道が途絶えた今も苦しんでいる被災者に代わって支援を訴えている。

オディシャのニュースサイトMyCityLinksにBig Dealが語ったところによると、この曲は、過去20年で5つのサイクロンに見舞われたオディシャが、決して打ちのめされず、そのたびに立ち上がってきたことを示すものだという。
この曲は地元言語オディア語ではなく、英語とヒンディー語でラップされているが、インド国内で少しでも多くの人に今回の被災への意識を高めるために、話者数の多い言語を選んだそうだ。
彼は'Fani'襲来の2日後に曲を書き始め、2週間でこの曲を完成させた。
(mycitylinks.in "Big Deal’s “I am Odisha” tells the resilience of disaster-prone State"

いつものように、Big Dealのラップから感じられるのは、ファッション的な暴力性や露悪性ではなく、真摯で誠実なメッセージであり、問いかけである。
自分のコミュニティーをレペゼンし、抑圧された人々の声なき声を代弁し、社会的なメッセージを発信する。
ここには、ヒップホップの美徳の全てがある。

'Fani'の被害を受ける前の美しいオディシャを取り戻すためにも、彼のこの活動をシェアしたいと思う。
Big Dealによる世界初のオディア語ラップ、"Mu Heli Odia"で、この土地の美しさを改めてご覧いただきたい。


過去のBig Dealに関する記事はこちらから。
「レペゼンオディシャ、レペゼン福井、日印ハーフのラッパー Big Deal」
「律儀なBig Deal」(インタビュー)
「インド独立記念日にラップを聴きながら考える」(彼が独立記念日に寄せて作った曲について)
「"Gully Boy"と『あまねき旋律』をつなぐヒップホップ・アーティストたち」(彼がインド北東部への差別について作ったプロテストラップについて)


"I am Odisha"の動画の最後に出てくる州政府首相による基金のウェブサイト(cmrfodisha.gov.in)では、日本からの支援は難しいようなので、日本で支援を受けつけている団体を紹介する。
NPO法人JAPAN INDIA CLUB」という、プリー在住のロックドラマーの宮原"ナチョス"剛さんが代表を務める団体だ。
同団体は2014年からプリーで日本とインドのミュージシャンによる音楽フェス「オディシャジャパンフェスティバル」を開いており、日本からはモーモールルギャバンなどのバンドが出演している。

現地プリーに拠点のあるこの団体が、緊急支援プロジェクトを立ち上げており、詳細は以下のリンクから確認できる。

サイクロンへの支援についてはこちらから:
JAPAN INDIA CLUB 【緊急】『インドオディシャ州プリー2019サイクロン災害救援プロジェクト』

JAPAN INDIA CLUBについてはこちらから:
JAPAN INDIA CLUBとは?活動理念



団体のウェブサイトからのメッセージを引用して紹介します。

【緊急】
救援金の受付を開始いたします。

5月3日プリーを襲った巨大サイクロンによる災害について

2019年5月3日、インド東部オディッシャ州プリーに巨大サイクロン「Fani -ファニ-」が上陸しました。

「ファニ」の勢力はプリー至上最大級のサイクロンで、現在も120万人以上が避難生活を送っていると報道があります。

想像を絶する暴風雨が人々や家を襲い、停電、断水、通信手段断絶等の甚大な被害をもたらしています。

現在はインド政府の対応や近隣の週からのサポートもあり少しずつ、復旧に向かってはおりますが、

依然として猛暑等も重なり、この過酷な状況は続いています。

今現在、我々が把握している現地からの被災情報は
「プリーの学校、民家、商店、ホテル等の崩壊」
「ライフライン断絶、復旧の見通しがたたない」
「多くの方が避難している」
「漁村の船も家屋もすべてなくなり、漁村が村ごとなくなったこと」

そして、甚大な被災に遭われた現地では

人々が協力し合い、過酷な状況下で復興を目指し、
「前向きにがんばっている」
ということです。

しかし連絡手段が限られている中、実際の被災状況などが少しづつ明らかになってきてはいますが、最新の被災情報を入手することは困難を極めています。

この甚大な被害に一刻も早く対応をするために、
日本国内での救援金の募金による支援のお願いを開始することと致しました。

この度のみなさまからお寄せいただきました救援金は、
当NPO法人が責任を持ち、2019サイクロン災害救援金として、
被災した方々への支援活動及び復興活動のために使用させて頂くことをお約束致します。

(引用以上)
JAPAN INDIA CLUBが行なっているODISHA JAPAN FESTIVALの様子はこちら!

JAPAN INDIA CLUBでは、来年もプリーのペンタコタ地区でこのフェスティバルの開催を考えているとのことで、そのためにも1日もはやく現地の生活が健やかになるよう願っているというメッセージをいただいた。

Let's help rebuild Odisha!


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goshimasayama18 at 23:24|PermalinkComments(0)インドのヒップホップ 

2019年06月01日

インドならではのGully Cricket Rap!そして日本ではなくインドで生まれたJ-Trapとは何か?


映画"Gully Boy"のヒットで、今やムンバイだけではなくインドを代表するラッパーとなったDivine.
最近ではPumaの新しい広告に起用されて、"SockThem"という楽曲でラップを披露している。
(インド映画史、音楽史に残るヒップホップ映画"Gully Boy"についてはこちらから「映画"Gully Boy"のレビューと感想」)
 
クリケットはインド最大の人気スポーツで、スター選手は30億円以上の年収を手にする国民的ヒーロー。
そのクリケットのインド代表選手でもあるVirat Kohli、女子クリケット選手のSushma Vermらをフィーチャーした、インドならではのコマーシャルビデオだ(ちなみに東アジア系の顔立ちの男女は、北東部マニプル州出身の女子ボクシングのチャンピオンMary Komと、同州出身のサッカー選手Dheeraj Singh Moirangthem)。
国民的スポーツであるクリケットを、ヒップホップに代表されるストリートカルチャーにも通じる「クールなもの」として扱ったこのCMは、インドでもスポーツウェアをファッションのひとつとして定着させようというPumaの戦略の一環として作成されたものだ。
(関連記事:「インドの音楽シーンと企業文化! 酒とダンスとスニーカー、そしてデスメタルにG-Shock!」

ここで起用されたDivineは、ヒンディー語で「路地」を意味する'Gully'という言葉をインドの「ストリート」を象徴するものとしてヒップホップに導入した先駆者でもある。
大衆スポーツであるクリケットもまたあらゆる場所でプレイされており、路地のような広いスペースがない場所でも、ルールが簡略化された'Gully Cricket'なるものが楽しまれている(ヴァラナシのガンジス河のほとりの、火葬場のすぐ近くで子供達がクリケットに興じているのを見たときにはさすがに驚いた)。
つまり、この曲は、'Gully'というインドのストリート文化を象徴する言葉を軸にしてヒップホップとクリケットをつなげるという、非常にインド的かつ今日的なものになっているのだ。
"SockThem"というスペースのないタイトル表記も、ハッシュタグ文化や検索しやすさを意識した、とても今日的なものと言えるだろう。

"SockThem"のトラックを手がけているのは、Karan Kanchan.
ムンバイのヒップホップシーンで数多くのトラックを手がけている22歳の新進クリエイターだ。

代表的なところだと、"Gully Boy"の主人公のモデルになったNaezyが2017年にリリースした"Aane De"のトラックは彼によるもの。
当時若干20歳!
ムンバイのヒップホップシーンが若い才能によって活気づいていることが分かる。

Karan Kanchanの名前を最初に知ったのは、インドの媒体で彼がJ-Trapアーティストとして紹介されていたのを読んだ時だった。
Trapというのは、ヒップホップから派生した、あの重低音を強調した音楽ジャンルのトラップのことである。
では、接頭語の'J'は何なのかというと、驚くべきことに、それはJ-Popなどと同様に、日本、つまりJapanを表す'J'なのである。
調べてみたが、J-Trapなるジャンルは、日本国内には今のところ存在していないようだ。
いったいどういうことなのかというと、どうやら彼は、琴や三味線といった日本古来の楽器とトラップを融合して、J-Trapという全く新しいジャンルをインドで編み出したてしまったようなのだ。


インドのアーティストが、古典音楽と現代音楽を躊躇なく融合させているという話を先日書いたばかりだが、まさかインド人が日本の伝統音楽とトラップまで融合させているとは思わなかった。
さっそくそのサウンドを聴いてみよう。
"Kawaii Killer".
 
アタック感が強くてサステインの少ない三味線の音色が意外とトラップサウンドに合っている!

この"Torii"は、マンガやゲームなどのジャパニーズカルチャーの影響を受けたベトナム人トラップアーティストのTrickazが運営する'Otodayo Rocords'からリリースされた楽曲。
Karanによると、日本の戦争映画の音楽に影響を受けたとのことだが、完全にオリジナルな個性を持つサウンドに仕上がっている。



琴や三味線の音が入ると、結果的に「謎の村雨城」みたいな昔のゲームのBGMを思い出させる雰囲気もあって、それがまた面白い。(歳がバレますが)

日本カラーが少ない曲はこんな感じ。 

以前、謎のジャンル「ターバン・トラップ」のアーティストとして紹介したGurbaxの楽曲のリミックスも。

ターバン・トラップとJ-トラップ、トラップミュージック界の日印タッグ結成!(どちらもインド人だけど)

ここ数年、世界中のアンダーグラウンド・シーンでオタクカルチャーとクラブミュージックの融合が進んでいて、ハードコアテクノから派生した日本のナードコアやヒップホップから派生したアメリカのナードコア、スムースなトラックに日本のアニメの映像を取り入れたローファイ・ビーツ/チルホップなど、様々なジャンルが誕生している。
このKaran KanchanのJ-Trapもその新しい一例として見ることができるだろう。
(参考:「日本とインドのアーティストによる驚愕のコラボレーション "Mystic Jounetsu"って何だ?」
(参考サイト:面白外人イアンの謎の文化チガイ 第51回「入門ナードコア」

その究極とも言えるトラックが、日本在住のアメリカ人Youtuber(現在ではすでに離日しているようだ)Nathalia Natchanとのコラボレーションであるこの"Trap Bandit".

カンちゃんとなっちゃんによるこの楽曲は、外国人によって作られた全く新しい「ジャパニーズ・ミュージック」だ。

こういう作品を聴くと、日本文化はもはや日本人だけのものではないことを改めて感じる。
かつて、イタリア人がマカロニ・ウエスタンを作り出し、日本人が数々の欧米文化を独自にアレンジしてきたように、日本文化も外からの目線で再構築される時代になったということなのだろう。
日本のリスナーにとって、これはかなり楽しいことである。
我々が知らない間に日本のカルチャーが、見たこともない「クールなもの」になっているというのは、最高にクールで面白いことではないか。


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