2018年11月
2018年11月24日
サイケデリック・リゾート ゴアの表と裏(その1)
インドのゴアといえば、20世紀のサイケデリック文化に多大な影響を与えたインドの港町。
60年代から欧米のヒッピーたちのデスティネーションとして人気を集め、90年代にはゴア・トランスという独特のダンスミュージックを生み出した、サイケデリックムーブメントの聖地ともいえる土地だ。

今回は、欧米の音楽シーンと地元の人々の双方から見たゴアのサイケデリックカルチャー史を見てゆきたいと思います!
話は大航海時代にさかのぼる。
インド西部の港町ゴアは、16世紀前半にポルトガル人によって征服されると、ポルトガルのアジア貿易の拠点として発展し、17世紀には「東洋のローマ」と呼ばれるほどの栄華を誇った。
ここ日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの遺体は、今でもこの街の教会に安置されている。
その後もインドに併合される1961年まで、ゴアはポルトガル領としての歴史を重ねてきた。
ゴアでは今でも人口の30%ほどがクリスチャン(カトリック)で、街には植民地風の教会や、ヨーロッパ風のサービスを提供するホテルやレストランが並んでいる。
温暖で美しいビーチがあり、欧米人にも過ごしやすい環境が整ったゴアは、欧米のツーリスト達がもっとも心地よく過ごせるインドの街になった。
ここで話の舞台は1960年代のアメリカに移る。
ベトナム戦争が激化すると、欧米では若者たちによる反戦運動が巻き起こった。
おりしもビートルズを始めとするロックミュージックが人気を集め、またLSDのような幻覚作用がある新しいドラッグが台頭してきた時代。
若者たちは、戦争に反対して愛と平和と自由を訴え、その象徴的行為として幻惑的なサウンドのロックを聴きながらドラッグに耽溺するようになる。彼らはヒッピーと呼ばれた。
ヒッピームーヴメントが頂点に達したのが1969年にニューヨーク州で開催されたウッドストックフェスティバルだ。主催者側の予想を大きく上回る40万人もの若者が集まり、会場はコントロールが効かない完全な無政府状態と化したが、大きな混乱も起きず、観衆は助け合いながらロックと自由を謳歌した。
ウッドストックは反体制文化の理想郷となり、ヒッピームーブメントが頂点を迎えた瞬間だ。
ヒッピームーブメントをものすごく簡単に言うと、平和思想とロックとドラッグ文化が融合したものと言えるだろう。
この時代、ドラッグ同様に彼らの「知覚を広げ、意識を覚醒させる」手段として人気を集めたのがヨガやインド思想だ。
ビートルズがヨガ行者マハリシ・マヘシュ・ヨギに傾倒し、インド北部の街リシケシュを訪れたのもこの頃だ。
多くの若者たちが、物質文明にまみれた欧米社会からドロップアウトし、輪廻転生やヨガといった精神文化の生きる神秘の地、インドを目指した。
夏の間はリシケシュやマナリというヒマラヤのふもとの街で過ごしたヒッピーたちが、冬になると集まった街がゴアだった。
温暖な気候でヨーロッパ文化が根づいたゴアは過ごしやすく、ヒッピーの溜まり場に最適な環境だった。
薄汚れた長髪の欧米の若者達は、安宿に長逗留してはゴアのビーチでマリファナとパーティーに耽った。
日本のバックパッカーの間では、一つの街にどっぷりとはまってしまい抜け出せなくなってしまうことを「沈没」というが、ゴアのヒッピーたちこそ、近代バックパッカー史で最初の沈没者たちだったかもしれない。
その後、発祥の地アメリカでのヒッピームーヴメントは長くは続かなかった。
ジョン・レノンは早々にマハリシに幻滅し(理由は諸説ある)、彼を批判する楽曲'Sexy Sadie'を発表した。
ウッドストックの4ヶ月後にローリング・ストーンズがオルタモントで開催したフリーコンサートでは警備を担当したヘルズエンジェルズによる殺人事件が発生し、愛と平和の理想は早くも綻びを現した。
1970年に入ると、ムーヴメントの中心を担ったジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンが相次いでドラッグで死去し、翌年にはドアーズのジム・モリソンもこの世を去った。
残されたミュージシャン達も人気ゆえに商業主義に取り込まれ、音楽は反体制の象徴ではなく、商品として消費されるようになった。
さらに1973年のオイルショックにより社会が不況に陥ると、楽天的で理想主義的なヒッピームーヴメントは、完全に終りを告げることになる。
物質的な価値観からの脱却を訴えたムーヴメントが、経済の不況で終焉するというのはなんとも皮肉な話だった。
だがしかし、欧米から遠く離れたゴアでは、ムーヴメントは簡単には終わらなかった。
欧米社会に嫌気がさし、自由と冒険を求めた若者達は、ゴアの雰囲気を愛し、その後も次々とこの街にやってきた。
ヨーロッパ文化の影響の強いゴアは、ドロップアウトした欧米人にとって過ごしやすい街であり続けたのだ。
ビーチは心地よく、食べ物も口に合い(欧米風の料理が手軽に食べられる)、ドラッグも手に入りやすかった。
彼らが愛聴していた音楽と言えば、ピンク・フロイドのようなサイケデリック・ロック、レゲエ、そして、グレイトフル・デッドに代表されるジャム・バンドたちだった。
ところが、1990年代に入り、欧米の音楽シーンでテクノやハウスが台頭してくると、ゴアのパーティー・ミュージックも一変する。
カリフォルニア出身のGoa Gilやオーストラリア出身のRaja Ramら(名前からしてインドかぶれ丸出し!)が、サイケデリックな「曲がった音」や民族音楽的な要素をテクノに導入し、ヒッピー系トラベラーたちの熱狂的な支持を受けた。
この新たな電子的サイケデリック・ミュージックは、ゴア・トランスと呼ばれた。
彼らに続くJuno Reacor, Astral Projection, Space Tribe, Hallucinogenらの活躍により、またたく間に世界中にアンダーグラウンドなシーンが形成される。
これが当時のゴアでのパーティーの様子。
ゴアにはいくつもの美しいビーチがあるが、とくにアンジュナ・ビーチにはヒッピー系のトラベラーが多く滞在し、盛んにパーティーが行われた。
ゴアトランスのムーヴメントはその後世界中に波及。
90年代末には日本にも流入し、山間部のキャンプ場などでレイヴ(野外パーティー)が開催されるようになった。
正直に書くと、私もあのころのゴアトランス/レイヴカルチャーに魅力を感じていた一人だ。
あのころの日本のレイヴシーンは本当に純粋で、面白かった。
初めて行ったのは、愛知県の山奥で行われたDJ Jorgが出演したレイヴだった。
会場についた夕暮れの時間帯には、ロングセットで知られるJorgは穏やかなアンビエントをプレイしていた。
そこから夜の闇が濃くなるのに合わせて、物語を紡ぐように盛り上げてゆき、フルオンに持ってゆく彼のDJは本当にすばらしかった。
都会を離れて自然の中で音楽に陶酔し、夜明けまで踊ったり、疲れたら森林の中で回るミラーボールを眺めてチルアウトしたりという経験は、軽く人生観を変えるくらいのインパクトがあった。
この文化が広まれば世の中は今の何倍も素晴らしくなるのにと本気で思っていたものだ。
当時こんなふうに思っていたのは私だけではなく、オーガナイザーたちも単なるパーティー以上のものを作ろうと様々に工夫をこらしていた。
本当の意味でオルタナティヴな文化を創造するため、環境への配慮にとことんこだわったり、世界の民族音楽のアーティストを出演させたり、南米のシャーマンを招聘したレイヴもあった(そのイベントには行ってないのだけど、シャーマンは一体何をやったんだろう)。
オーディエンスたちも自然やカルチャーへの敬意を持っていて、ゴミを拾ったり持ち帰ったりしていたし、会場はピースフルな雰囲気に満ちていた。
だがしかし、楽しい時代は続かない。
その後、日本ではイベントの商業化が進み、客層も楽しんで騒ぎたいだけの人たちが増えてきて、レイヴ本来の精神は忘れられていった。
愛好家が増えるにつれ、お祭り騒ぎだけを求める人たちが増えてきたのだ。
やがてレイヴカルチャーは、新しい楽しみを見つけることに関しては天才的なギャル文化に吸収されてしまい、ドラッグの問題も報道されるようになり、すっかり反社会的なイベントというイメージで捉えられるようになる。
ゴアでも、薬物の蔓延や風紀の悪化が問題視され、当局によりレイヴの開催が厳しく制限されるようになってしまい、ゴアトランスのシーンは衰退していった。
音楽的な意味での衰退の大きな原因となったのは、日々進化するダンスミュージックのなかで、極めて形式化されたスタイルを持つゴアトランスそのものが新鮮さを失い、陳腐化、形骸化していったことだ。
かつては深淵な精神性とサイケデリアを表現していたゴアトランスのサウンドは、メッキが剥がれたかのように輝きと刺激を失っていった。
民族音楽の導入やヒンドゥーの神々を用いたアートワークは、その神秘的な魔術を失い、安っぽいエキゾチシズムの盗用と感じられるようになった。
精神の高揚をもたらした「曲がった」サウンドは、手っ取り早く盛り上げるための陳腐で安易な音作りと聴こえるようになった。
要は、ゴアトランスはダサくなったのだ。
こうして、ゴアトランスの季節は終わっていった。
トランスミュージックそのものは、その後もより大衆的なエピックトランスや、ゴアトランスをよりダークでアグレッシヴにしたサイケデリック・トランスなどに分化し、EDMが台頭するまでは大規模な商業レイヴや野外パーティーなどで一定の人気を誇った。
だがムーヴメントの精神や音楽的なクリエイティヴィティーはもはや死んでしまっていたのだ。
長くなったので今回はここまで!
次回はまた別の視点、ゴアのローカルから見たムーヴメントと、その後のゴアの音楽シーンを紹介します。
(続き)
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60年代から欧米のヒッピーたちのデスティネーションとして人気を集め、90年代にはゴア・トランスという独特のダンスミュージックを生み出した、サイケデリックムーブメントの聖地ともいえる土地だ。

今回は、欧米の音楽シーンと地元の人々の双方から見たゴアのサイケデリックカルチャー史を見てゆきたいと思います!
話は大航海時代にさかのぼる。
インド西部の港町ゴアは、16世紀前半にポルトガル人によって征服されると、ポルトガルのアジア貿易の拠点として発展し、17世紀には「東洋のローマ」と呼ばれるほどの栄華を誇った。
ここ日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの遺体は、今でもこの街の教会に安置されている。
その後もインドに併合される1961年まで、ゴアはポルトガル領としての歴史を重ねてきた。
ゴアでは今でも人口の30%ほどがクリスチャン(カトリック)で、街には植民地風の教会や、ヨーロッパ風のサービスを提供するホテルやレストランが並んでいる。
温暖で美しいビーチがあり、欧米人にも過ごしやすい環境が整ったゴアは、欧米のツーリスト達がもっとも心地よく過ごせるインドの街になった。
ここで話の舞台は1960年代のアメリカに移る。
ベトナム戦争が激化すると、欧米では若者たちによる反戦運動が巻き起こった。
おりしもビートルズを始めとするロックミュージックが人気を集め、またLSDのような幻覚作用がある新しいドラッグが台頭してきた時代。
若者たちは、戦争に反対して愛と平和と自由を訴え、その象徴的行為として幻惑的なサウンドのロックを聴きながらドラッグに耽溺するようになる。彼らはヒッピーと呼ばれた。
ヒッピームーヴメントが頂点に達したのが1969年にニューヨーク州で開催されたウッドストックフェスティバルだ。主催者側の予想を大きく上回る40万人もの若者が集まり、会場はコントロールが効かない完全な無政府状態と化したが、大きな混乱も起きず、観衆は助け合いながらロックと自由を謳歌した。
ウッドストックは反体制文化の理想郷となり、ヒッピームーブメントが頂点を迎えた瞬間だ。
ヒッピームーブメントをものすごく簡単に言うと、平和思想とロックとドラッグ文化が融合したものと言えるだろう。
この時代、ドラッグ同様に彼らの「知覚を広げ、意識を覚醒させる」手段として人気を集めたのがヨガやインド思想だ。
ビートルズがヨガ行者マハリシ・マヘシュ・ヨギに傾倒し、インド北部の街リシケシュを訪れたのもこの頃だ。
多くの若者たちが、物質文明にまみれた欧米社会からドロップアウトし、輪廻転生やヨガといった精神文化の生きる神秘の地、インドを目指した。
夏の間はリシケシュやマナリというヒマラヤのふもとの街で過ごしたヒッピーたちが、冬になると集まった街がゴアだった。
温暖な気候でヨーロッパ文化が根づいたゴアは過ごしやすく、ヒッピーの溜まり場に最適な環境だった。
薄汚れた長髪の欧米の若者達は、安宿に長逗留してはゴアのビーチでマリファナとパーティーに耽った。
日本のバックパッカーの間では、一つの街にどっぷりとはまってしまい抜け出せなくなってしまうことを「沈没」というが、ゴアのヒッピーたちこそ、近代バックパッカー史で最初の沈没者たちだったかもしれない。
その後、発祥の地アメリカでのヒッピームーヴメントは長くは続かなかった。
ジョン・レノンは早々にマハリシに幻滅し(理由は諸説ある)、彼を批判する楽曲'Sexy Sadie'を発表した。
ウッドストックの4ヶ月後にローリング・ストーンズがオルタモントで開催したフリーコンサートでは警備を担当したヘルズエンジェルズによる殺人事件が発生し、愛と平和の理想は早くも綻びを現した。
1970年に入ると、ムーヴメントの中心を担ったジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンが相次いでドラッグで死去し、翌年にはドアーズのジム・モリソンもこの世を去った。
残されたミュージシャン達も人気ゆえに商業主義に取り込まれ、音楽は反体制の象徴ではなく、商品として消費されるようになった。
さらに1973年のオイルショックにより社会が不況に陥ると、楽天的で理想主義的なヒッピームーヴメントは、完全に終りを告げることになる。
物質的な価値観からの脱却を訴えたムーヴメントが、経済の不況で終焉するというのはなんとも皮肉な話だった。
だがしかし、欧米から遠く離れたゴアでは、ムーヴメントは簡単には終わらなかった。
欧米社会に嫌気がさし、自由と冒険を求めた若者達は、ゴアの雰囲気を愛し、その後も次々とこの街にやってきた。
ヨーロッパ文化の影響の強いゴアは、ドロップアウトした欧米人にとって過ごしやすい街であり続けたのだ。
ビーチは心地よく、食べ物も口に合い(欧米風の料理が手軽に食べられる)、ドラッグも手に入りやすかった。
彼らが愛聴していた音楽と言えば、ピンク・フロイドのようなサイケデリック・ロック、レゲエ、そして、グレイトフル・デッドに代表されるジャム・バンドたちだった。
ところが、1990年代に入り、欧米の音楽シーンでテクノやハウスが台頭してくると、ゴアのパーティー・ミュージックも一変する。
カリフォルニア出身のGoa Gilやオーストラリア出身のRaja Ramら(名前からしてインドかぶれ丸出し!)が、サイケデリックな「曲がった音」や民族音楽的な要素をテクノに導入し、ヒッピー系トラベラーたちの熱狂的な支持を受けた。
この新たな電子的サイケデリック・ミュージックは、ゴア・トランスと呼ばれた。
彼らに続くJuno Reacor, Astral Projection, Space Tribe, Hallucinogenらの活躍により、またたく間に世界中にアンダーグラウンドなシーンが形成される。
これが当時のゴアでのパーティーの様子。
ゴアにはいくつもの美しいビーチがあるが、とくにアンジュナ・ビーチにはヒッピー系のトラベラーが多く滞在し、盛んにパーティーが行われた。
ゴアトランスのムーヴメントはその後世界中に波及。
90年代末には日本にも流入し、山間部のキャンプ場などでレイヴ(野外パーティー)が開催されるようになった。
正直に書くと、私もあのころのゴアトランス/レイヴカルチャーに魅力を感じていた一人だ。
あのころの日本のレイヴシーンは本当に純粋で、面白かった。
初めて行ったのは、愛知県の山奥で行われたDJ Jorgが出演したレイヴだった。
会場についた夕暮れの時間帯には、ロングセットで知られるJorgは穏やかなアンビエントをプレイしていた。
そこから夜の闇が濃くなるのに合わせて、物語を紡ぐように盛り上げてゆき、フルオンに持ってゆく彼のDJは本当にすばらしかった。
都会を離れて自然の中で音楽に陶酔し、夜明けまで踊ったり、疲れたら森林の中で回るミラーボールを眺めてチルアウトしたりという経験は、軽く人生観を変えるくらいのインパクトがあった。
この文化が広まれば世の中は今の何倍も素晴らしくなるのにと本気で思っていたものだ。
当時こんなふうに思っていたのは私だけではなく、オーガナイザーたちも単なるパーティー以上のものを作ろうと様々に工夫をこらしていた。
本当の意味でオルタナティヴな文化を創造するため、環境への配慮にとことんこだわったり、世界の民族音楽のアーティストを出演させたり、南米のシャーマンを招聘したレイヴもあった(そのイベントには行ってないのだけど、シャーマンは一体何をやったんだろう)。
オーディエンスたちも自然やカルチャーへの敬意を持っていて、ゴミを拾ったり持ち帰ったりしていたし、会場はピースフルな雰囲気に満ちていた。
だがしかし、楽しい時代は続かない。
その後、日本ではイベントの商業化が進み、客層も楽しんで騒ぎたいだけの人たちが増えてきて、レイヴ本来の精神は忘れられていった。
愛好家が増えるにつれ、お祭り騒ぎだけを求める人たちが増えてきたのだ。
やがてレイヴカルチャーは、新しい楽しみを見つけることに関しては天才的なギャル文化に吸収されてしまい、ドラッグの問題も報道されるようになり、すっかり反社会的なイベントというイメージで捉えられるようになる。
ゴアでも、薬物の蔓延や風紀の悪化が問題視され、当局によりレイヴの開催が厳しく制限されるようになってしまい、ゴアトランスのシーンは衰退していった。
音楽的な意味での衰退の大きな原因となったのは、日々進化するダンスミュージックのなかで、極めて形式化されたスタイルを持つゴアトランスそのものが新鮮さを失い、陳腐化、形骸化していったことだ。
かつては深淵な精神性とサイケデリアを表現していたゴアトランスのサウンドは、メッキが剥がれたかのように輝きと刺激を失っていった。
民族音楽の導入やヒンドゥーの神々を用いたアートワークは、その神秘的な魔術を失い、安っぽいエキゾチシズムの盗用と感じられるようになった。
精神の高揚をもたらした「曲がった」サウンドは、手っ取り早く盛り上げるための陳腐で安易な音作りと聴こえるようになった。
要は、ゴアトランスはダサくなったのだ。
こうして、ゴアトランスの季節は終わっていった。
トランスミュージックそのものは、その後もより大衆的なエピックトランスや、ゴアトランスをよりダークでアグレッシヴにしたサイケデリック・トランスなどに分化し、EDMが台頭するまでは大規模な商業レイヴや野外パーティーなどで一定の人気を誇った。
だがムーヴメントの精神や音楽的なクリエイティヴィティーはもはや死んでしまっていたのだ。
長くなったので今回はここまで!
次回はまた別の視点、ゴアのローカルから見たムーヴメントと、その後のゴアの音楽シーンを紹介します。
(続き)
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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
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2018年11月18日
ワタシ?キモチヨウカイ?俳句のような想像力?日本語の名前を持つインドのアーティストたち!
これまでにこのブログでは、スタジオジブリなどの日本文化に影響を受けたエレクトロニカ・アーティストのKomorebiや、日本のカルト映画「鉄男」の名を冠したトラックをリリースしたコルカタのテクノ・ユニットHybrid Protokol、日本文化への造詣が深すぎるロックバンドのKrakenを紹介してきた。
北東部ナガランドでは日本のアニメやコスプレが大人気だというのも先日書いた通りだ。
とはいえ、欧米文化や韓流アーティストに比べると、インドでは日本文化はまだまだマイナーな存在。
インドの音楽シーンを扱う媒体でも、欧米の人気アーティストやK-Popの話題はよく目にするが、日本の音楽シーンについてのニュースは全く見たことがない。
(ドラえもんのような子ども向けアニメはかなり人気があるようだが)
そんなインドにもかかわらず、またしても日本語のバンド名を持つ面白いアーティストを発見したので、今回は3組まとめて紹介します!
まず紹介するのは、バンガロールのドラムンベースアーティスト、その名もWatashi.
ワタシ。
そう「私」だ。
なんという斬新なアーティスト名。
つい先ごろ大注目レーベルのNRTYAから発表したばかりの新曲、'In-A-Morato-Rium'を発表したばかりなのだが、Soundcloudの貼り付け方が分からないので、こちらから別のサイトに飛んで聞いてみてほしい。
https://soundcloud.com/nrtya/watashi-in-a-morato-rium
曲もかなりかっこいい!
こちらはバンガロールのクラブ、Kitty Koでの今年1月のDJの様子。
動画で見る限り、けっこうイケメンなWatashiなのだった(いや、だから、私じゃなくてWatashiのことです)。
このWatashiという(日本人にとっては)不思議なアーティスト名は、本人に聞いてみたところ、もともとは彼のメールアドレスであった'Watashi Wa Yogi San'から取ったものらしく、さすがに長くて覚えにくいので、'Watashi'に省略したとのこと。
子どもの頃にたくさんのアニメからの影響を受けたという'Watashi'.
早くフルアルバムが聴いてみたいアーティストの一人です。
続いて紹介するアーティストは、ムンバイ出身の5人組バンド、Kimochi Youkai.
自分たちの音楽をヒップホップ、ジャズ、R&Bと自称しているが、聴く限りではロックやレゲエやジャムバンド的な要素も感じられる音楽性だ。
彼らもSoundcloudにはまだこの1曲しかアップしていないが、なかなかの心地よいグルーヴを聴かせてくれている。
アメリカのヒップホップグループBlack Streetが1996年に発表した'No Diggity'のレゲエカバーを聴いてみてください。
https://soundcloud.com/user-186337827
ライブの様子はこちらから。
彼らのFacebookによると、Kimochi Youkaiは'feel good demons'という意味とのこと。
うーん、ちょっと惜しいかな(笑)
Kimochi Youkaiは、音楽を通じて人々をいい気持ちにさせることを唯一の目的としたグループだそうで、彼らが言いたいのは「気持ち(Kimochi)」じゃなくて「気持ちいい」なのかもしれない。
いずれにしても、彼らのサウンドを聴く限り、人々をいい気分にさせるっていう目的はほぼ達成されているように思える。
彼らもまたフルアルバムが待たれるアーティストだ。
最後に紹介するのは、KrakenやPineapple Expressとも共演経験のあるバンド、Haiku Like Imagination.
「俳句のような想像力」とはこれいかに。
バンガロールのマスロック/ポストハードコアバンドである彼らのサウンドはこんな感じ!
これまたかっこいい!
彼らにバンド名の由来を聞いてみたところ、5拍子や7拍子といった、奇数の変拍子を使うことが多いマスロックを演奏しているので、五七五の「俳句」をバンド名に取り入れたとのこと。
なるほど!よく考えたなあ。
彼らはデビュー音源を現在作成中で、なんとその後は日本ツアーも企画しているとのこと。
またしてもなんとも楽しみなアーティストだ。
今回紹介した3組はいずれもまだ新人ミュージシャンではあるけれども、徐々にメディアの露出に取り上げられるようになってきた有望株。
そして3組とも名前こそ日本語だけど、音楽性は三者三様で、そして音楽面からはこれといって日本の影響を感じないのがまた不思議だ。
日本語の響きが、英語でもインド風でもない、独特な雰囲気を醸し出しているのだろうか。
そういえば、90年代にイギリスにUrusei Yatsuraっていうバンドがいたのを思い出した。
確か彼らは著作権だかの問題で、Yatsuraと名前を変えさせられたうえに、大して売れることもなく解散してしまったように記憶している。
今回紹介した3組には、願わくば末長く活動してもらって、そしてできればここ日本で彼らのパフォーマンスが見てみたいものだ。
がんばれよ!
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北東部ナガランドでは日本のアニメやコスプレが大人気だというのも先日書いた通りだ。
とはいえ、欧米文化や韓流アーティストに比べると、インドでは日本文化はまだまだマイナーな存在。
インドの音楽シーンを扱う媒体でも、欧米の人気アーティストやK-Popの話題はよく目にするが、日本の音楽シーンについてのニュースは全く見たことがない。
(ドラえもんのような子ども向けアニメはかなり人気があるようだが)
そんなインドにもかかわらず、またしても日本語のバンド名を持つ面白いアーティストを発見したので、今回は3組まとめて紹介します!
まず紹介するのは、バンガロールのドラムンベースアーティスト、その名もWatashi.
ワタシ。
そう「私」だ。
なんという斬新なアーティスト名。
つい先ごろ大注目レーベルのNRTYAから発表したばかりの新曲、'In-A-Morato-Rium'を発表したばかりなのだが、Soundcloudの貼り付け方が分からないので、こちらから別のサイトに飛んで聞いてみてほしい。
https://soundcloud.com/nrtya/watashi-in-a-morato-rium
曲もかなりかっこいい!
こちらはバンガロールのクラブ、Kitty Koでの今年1月のDJの様子。
動画で見る限り、けっこうイケメンなWatashiなのだった(いや、だから、私じゃなくてWatashiのことです)。
このWatashiという(日本人にとっては)不思議なアーティスト名は、本人に聞いてみたところ、もともとは彼のメールアドレスであった'Watashi Wa Yogi San'から取ったものらしく、さすがに長くて覚えにくいので、'Watashi'に省略したとのこと。
子どもの頃にたくさんのアニメからの影響を受けたという'Watashi'.
早くフルアルバムが聴いてみたいアーティストの一人です。
続いて紹介するアーティストは、ムンバイ出身の5人組バンド、Kimochi Youkai.
自分たちの音楽をヒップホップ、ジャズ、R&Bと自称しているが、聴く限りではロックやレゲエやジャムバンド的な要素も感じられる音楽性だ。
彼らもSoundcloudにはまだこの1曲しかアップしていないが、なかなかの心地よいグルーヴを聴かせてくれている。
アメリカのヒップホップグループBlack Streetが1996年に発表した'No Diggity'のレゲエカバーを聴いてみてください。
https://soundcloud.com/user-186337827
ライブの様子はこちらから。
彼らのFacebookによると、Kimochi Youkaiは'feel good demons'という意味とのこと。
うーん、ちょっと惜しいかな(笑)
Kimochi Youkaiは、音楽を通じて人々をいい気持ちにさせることを唯一の目的としたグループだそうで、彼らが言いたいのは「気持ち(Kimochi)」じゃなくて「気持ちいい」なのかもしれない。
いずれにしても、彼らのサウンドを聴く限り、人々をいい気分にさせるっていう目的はほぼ達成されているように思える。
彼らもまたフルアルバムが待たれるアーティストだ。
最後に紹介するのは、KrakenやPineapple Expressとも共演経験のあるバンド、Haiku Like Imagination.
「俳句のような想像力」とはこれいかに。
バンガロールのマスロック/ポストハードコアバンドである彼らのサウンドはこんな感じ!
これまたかっこいい!
彼らにバンド名の由来を聞いてみたところ、5拍子や7拍子といった、奇数の変拍子を使うことが多いマスロックを演奏しているので、五七五の「俳句」をバンド名に取り入れたとのこと。
なるほど!よく考えたなあ。
彼らはデビュー音源を現在作成中で、なんとその後は日本ツアーも企画しているとのこと。
またしてもなんとも楽しみなアーティストだ。
今回紹介した3組はいずれもまだ新人ミュージシャンではあるけれども、徐々にメディアの露出に取り上げられるようになってきた有望株。
そして3組とも名前こそ日本語だけど、音楽性は三者三様で、そして音楽面からはこれといって日本の影響を感じないのがまた不思議だ。
日本語の響きが、英語でもインド風でもない、独特な雰囲気を醸し出しているのだろうか。
そういえば、90年代にイギリスにUrusei Yatsuraっていうバンドがいたのを思い出した。
確か彼らは著作権だかの問題で、Yatsuraと名前を変えさせられたうえに、大して売れることもなく解散してしまったように記憶している。
今回紹介した3組には、願わくば末長く活動してもらって、そしてできればここ日本で彼らのパフォーマンスが見てみたいものだ。
がんばれよ!
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2018年11月13日
(100回記念企画)謎のインド人占い師 Yogi Singhの正体
前回のあらすじ:
1930年代を舞台にしたミャンマーの小説。
1990年代のバンコク、カオサン。
2010年代のロンドン。
あらゆる場所に出没する謎のインド人占い師の情報が、さまざまな国の本や新聞、そしてインターネットで報告されていた。
調べてみると、「彼」は他にもカナダやオーストラリアやマレーシアなど、世界中のあらゆる場所に出没しているようだ。
「彼」の手口は、手品のようなトリックを使って人の心の中を的中させては、金品を巻き上げるというもの。
時代や場所が変わっても、全く同じ手口が報告されていた。
シク教徒のようなターバンを巻いたいでたちで現れ、ときに「ヨギ・シン(Yogi Singh)」と名乗る「彼」。
まるでタイムトラベラーのような「彼」はいったい何者なのか。
複数のインド人に聞いても、その正体を知るものはいなかった。
「彼」の存在に気づいた世界中の人々が不思議に思っているが、誰もその答えは分からない。
私はシク教徒のなかに、そのような占いを生業にする集団がいるのではないかと考えたが…。
(続き)
「彼」の正体はひょんなことからあっけなく判明した。
大谷幸三氏の『インド通』という本(白水社)に、その正体が書かれていたのだ。
ノンフィクション作家で漫画原作者でもある大谷氏は、1960年代から70回以上もインドに通い、元マハラジャから軍の要人まで多彩な知己のいる、まさにインド通。
この本の「クトゥブの予言者」という章に、「彼」の正体と思われる答えが書かれていた。
このエピソードもまた、思い出話から始まる。
それは彼が2度目にインドを訪れた時の話。舞台はデリーだ。
大谷氏が郊外の遺跡「クトゥブ・ミーナール」を訪れた時のこと。
クトゥブ・ミーナールは、いまでは観光客で賑わう遺跡だが、当時は人気もまばらな場所だった。
そこで、大谷氏は予言者だという白髭に長髪姿の老人に声をかけられた。
老人は唐突に大谷氏の家の庭にある松の木の本数を的中させ驚かせると、こう不吉な予言を言い残した。
「お前は人生のうちに、三十二度インドへ帰ってくるであろう。このインドの天と地の間で、お前は名声と富を得るだろう。そして、三十二度目のインドで死ぬであろう」
この謎の預言者が「彼」なのではない。
話は続く。
インドに魅せられた大谷氏は、予言通りにその後何度もインドを訪れることになる。
そこで出会ったインドの友人たちにあの占い師のことを伝えると、彼らは皆本気で心配した。
あの預言者はお金を要求しなかった。
金銭に執着しない聖者のような占い師は、詐欺師まがいではなく本物の予言者である可能性が高いからだ。
ある友人がその占い師の消息を探すと、彼はもう亡くなっているらしいことが判明する。
これは悪い知らせだ。
死んだ占い師の予言を覆すことはできない。
友人たちは、大谷氏に、一回のインド滞在をできるだけ長くして、三十一回目にインドを訪れたら二度と戻ってくるなと真剣に忠告した。
少なくとも当時のインド社会では、力のあるものによる予言は、極めてリアルなものと考えられていたのだ。
そんな中、ただ一人この予言を信じず、真っ向から否定する友人がいた。
彼の名前はハリ・シン。
占い師の家系に生まれた、シク教徒だ。
彼は、全ての占いは欺瞞であると言って憚らなかった。
彼のこの態度は、家族の生業と自分の運命に対する、複雑な気持ちによるものだった。
彼の父は高名な占い師だった。
それなのに、なぜ家族は裕福になれなかったのか。
未来を知る能力があるのに、なぜ幸せな未来を手に入れられなかったのか。
自分の境遇へのやるせない思いが、「占い」への疑念や憤りへと変わっていったのだ。
彼は、酒に酔うと、小さい頃に仕込まれた、相手が心に浮かべた数字や色を当てるトリックを、簡単なまやかしだと言って披露しては悪態をついた。
(しかし、この本に書かれているトリックでは、相手の母親や恋人のような固有名詞を当てることはほぼ不可能で、依然として謎は残るのだが)
インドでは辻占は低い身分の仕事とされる。
さきほど「金銭に執着しない占い師は詐欺師まがいではなく本物の予言者」と書いたが、これは「お金のために占いを行う辻占は詐欺師同然」ということの裏返しだ。
ハリ・シンの出自は、彼にとって誇らしいものではなく、憎むべきものだった。
彼は小さい頃に家を出て、占いではなく物売りをして生計を立てていたが、それでは食べてゆくことができず、皮肉にも彼もまた占い師になる道を選ぶことになる。
「逃れようとしても逃れられないのがジャーティだ」とブラーミン(バラモン)の男は言ったそうだ。
ハリ・シンは、インディラ・ガンディー首相暗殺事件に端を発するインド国内でのシク教徒弾圧を避け、子ども達の教育費や結婚資金を稼ぐため、オランダに渡ることを選んだ。
外国で占い師として稼いだお金を、インドに仕送りとして送るのだ。
字も書けないというハリ・シンが、占い師という職業でどうやって就労ビザを取ったのか、いまひとつよく分からないが、そこはインドのこと、裏金や人脈でどうにかなったのだろう。
もうお分かりだろう。
ハリ・シンもまた、世界中で例の占いをして日銭を稼ぐ、「彼」らのひとりだったのだ。
オランダにもまたひとり「ヨギ・シン」がいたということだ。
ミャンマー、タイ、オーストラリア、イギリス、カナダ、インドネシア。
世界中で「詐欺師に注意!」「不思議!わたしの街にも同じような人がいた!」と報告されている「彼」。
その一人は、自らの家業を憎みつつも、家族のために異国の地で辻占を続け、その稼ぎを故郷に仕送りをする男、ハリ・シンだった。
世界中のヨギ・シンに、きっとこんなふうにそれぞれの物語があるのだろう。
海外で必死で稼いだお金で、「彼」は娘たちの持参金を払い、立派な結婚式を挙げる。
息子たちに質の高い教育を受けさせ、優秀な大学に通わせる。
占い師ではなく、もっと別の「立派な」仕事に就かせるために。
そして、ヨギ・シンの子どもたちはエンジニアに、企業のマーケティング担当者に、どこかのいい家のお嫁さんになる。
医者や弁護士になる人もいるかもしれない。
ヨギ・シンの子どもたちは、もう誰もヨギ・シンにはならない。
誰よりも、ヨギ・シン自身がそれを望んでいるはずだ。
たとえ、成功した子どもたちに、家族代々の仕事を古臭いまやかしだと思われるとしても。
インドにおいて、正統な伝統に基づく占いは、社会や生活に深く溶け込んでいる。
どんなに時代が変化しても、インドから伝統的な占い師がいなくなることはないだろう。
ただ、世界中で報告されている「ヨギ・シン」スタイルの占い師に関してはどうだろう。
彼らの子どもたちが誰も後をつがなかったとき、この守るべき伝統とも考えられていない占い師たちは、歴史の波間に消えていってしまうのだろうか。
このまま「彼」の存在は、知る人ぞ知る、しかし世界中に知っている人がいる、マイナーな都市伝説のひとつになってゆくのだろうか。
2050年の「ヨギ・シン」を想像してみる。
先進国で誰にも相手にされなくなった「彼」は、ようやく経済成長の波に乗ることができたアフリカの小国に辿り着く。
いかにも成金といった風情の身なりのいい男に、ターバンを巻いたインド人が声をかける。
「あなたの好きな花を当ててみせよう」
誰も知らないが、実は彼こそは最後のヨギ・シンだった。
一族の結束はいまだに固いが、この占いのトリックができるのは彼が最後の一人だ。
仲間たちはみな、エンジニアやビジネスマンになり、少数の占い師の伝統を守っている者たちもコンピュータを駆使した新しい方法で占いを行っている。
「彼」もまた子どもたちを大学に行かせるために異国の地で辻占をしているが、子どもたちには後を継がせないつもりだ。
「彼」自身も知らないまま、ひとつの伝統と歴史がもうじき幕を降ろす。
あるいは、「彼」はデリーの郊外あたりに作られたテーマパーク「20世紀インド村」みたいなところで、「ガマの油売り」よろしく伝統芸能のひとつとしてその手口を披露しているかもしれない。
若者たちが物珍しげに眺めている後ろで、年老いたインド人は懐かしそうに彼を見つめている。
パフォーマンスを終えた「彼」に、「ずっと探していたんだ」と話しかける日本人がいたら、それはきっと私に違いない。
話を大谷氏の本に戻すと、このエピソードはまだ終わらない。
あの不気味な予言のことだ。
時は流れ、大谷氏に三十二回目のインド訪問がやってくる。
そこで虎狩りの取材に出かけた大谷氏はあの不吉な予言を思わせる、信じられない目に合うことになる。
詳細は省くが、この章では例のヨギ・シンの辻占以外にも、インドの占い事情が詳らかに紹介されていて、非常に興味深い内容だった。
インド社会のなかで、占いという超自然的な力がどんなふうに生きているのかを知りたい方には、ご一読をお勧めする。
子どもたちも皆結婚し、初老になったハリ・シンは、今となってはもう父を罵ることもなく、こう言っているという。
占い師は自分で自分を占うと、力を失うんだ、と。
彼は、思うようにならなかった運命を、諦めとともに受け入れたのか。
それとも、家族を養う糧を与えてくれた代々の家業を、誇りを持って認めることができたのだろうか。
それにしても、これはいったい何だったんだろう。
たまたま読んだ本と新聞で見つけた「彼」は、インターネットで世界中が繋がった時代ならではの都市伝説の主人公になっていた。
その「彼」の正体は、秘密結社ともカルト宗教とも関係のない、伝統的な生業を武器にグローバル社会の中で稼ぐことを選んだ、インドの伝統社会に基づく「ジャーティ」の構成員たちだった。
これが私がヨギ・シンについて知っていることのすべて。
日本から一歩も出ないまま、インドに関する不思議を見つけ、そしてその答えが分かってしまうというのも、時代なのかな、と思う。
「彼」の正体を知ってしまった今、もし「彼」に出会うことがあったら、いったいどんな言葉をかけられるだろうか。
「彼」に占ってほしいことは見つかるだろうか。
それでもやっぱり、会ってみたいとは思うけれども。
(世界中での「彼 」の出没情報は、「Indian fortune teller」もしくは「Sikh fortune teller」で検索すると数多くヒットする。ご興味のある方はお試しを)
2019年11月18日追記:
この記事を書いてから1年、まさかここ日本を舞台に続編が書けるとは思ってもいなかった。
予想外の展開を見せる続編はこちらから。
1930年代を舞台にしたミャンマーの小説。
1990年代のバンコク、カオサン。
2010年代のロンドン。
あらゆる場所に出没する謎のインド人占い師の情報が、さまざまな国の本や新聞、そしてインターネットで報告されていた。
調べてみると、「彼」は他にもカナダやオーストラリアやマレーシアなど、世界中のあらゆる場所に出没しているようだ。
「彼」の手口は、手品のようなトリックを使って人の心の中を的中させては、金品を巻き上げるというもの。
時代や場所が変わっても、全く同じ手口が報告されていた。
シク教徒のようなターバンを巻いたいでたちで現れ、ときに「ヨギ・シン(Yogi Singh)」と名乗る「彼」。
まるでタイムトラベラーのような「彼」はいったい何者なのか。
複数のインド人に聞いても、その正体を知るものはいなかった。
「彼」の存在に気づいた世界中の人々が不思議に思っているが、誰もその答えは分からない。
私はシク教徒のなかに、そのような占いを生業にする集団がいるのではないかと考えたが…。
(続き)
「彼」の正体はひょんなことからあっけなく判明した。
大谷幸三氏の『インド通』という本(白水社)に、その正体が書かれていたのだ。
ノンフィクション作家で漫画原作者でもある大谷氏は、1960年代から70回以上もインドに通い、元マハラジャから軍の要人まで多彩な知己のいる、まさにインド通。
この本の「クトゥブの予言者」という章に、「彼」の正体と思われる答えが書かれていた。
このエピソードもまた、思い出話から始まる。
それは彼が2度目にインドを訪れた時の話。舞台はデリーだ。
大谷氏が郊外の遺跡「クトゥブ・ミーナール」を訪れた時のこと。
クトゥブ・ミーナールは、いまでは観光客で賑わう遺跡だが、当時は人気もまばらな場所だった。
そこで、大谷氏は予言者だという白髭に長髪姿の老人に声をかけられた。
老人は唐突に大谷氏の家の庭にある松の木の本数を的中させ驚かせると、こう不吉な予言を言い残した。
「お前は人生のうちに、三十二度インドへ帰ってくるであろう。このインドの天と地の間で、お前は名声と富を得るだろう。そして、三十二度目のインドで死ぬであろう」
この謎の預言者が「彼」なのではない。
話は続く。
インドに魅せられた大谷氏は、予言通りにその後何度もインドを訪れることになる。
そこで出会ったインドの友人たちにあの占い師のことを伝えると、彼らは皆本気で心配した。
あの預言者はお金を要求しなかった。
金銭に執着しない聖者のような占い師は、詐欺師まがいではなく本物の予言者である可能性が高いからだ。
ある友人がその占い師の消息を探すと、彼はもう亡くなっているらしいことが判明する。
これは悪い知らせだ。
死んだ占い師の予言を覆すことはできない。
友人たちは、大谷氏に、一回のインド滞在をできるだけ長くして、三十一回目にインドを訪れたら二度と戻ってくるなと真剣に忠告した。
少なくとも当時のインド社会では、力のあるものによる予言は、極めてリアルなものと考えられていたのだ。
そんな中、ただ一人この予言を信じず、真っ向から否定する友人がいた。
彼の名前はハリ・シン。
占い師の家系に生まれた、シク教徒だ。
彼は、全ての占いは欺瞞であると言って憚らなかった。
彼のこの態度は、家族の生業と自分の運命に対する、複雑な気持ちによるものだった。
彼の父は高名な占い師だった。
それなのに、なぜ家族は裕福になれなかったのか。
未来を知る能力があるのに、なぜ幸せな未来を手に入れられなかったのか。
自分の境遇へのやるせない思いが、「占い」への疑念や憤りへと変わっていったのだ。
彼は、酒に酔うと、小さい頃に仕込まれた、相手が心に浮かべた数字や色を当てるトリックを、簡単なまやかしだと言って披露しては悪態をついた。
(しかし、この本に書かれているトリックでは、相手の母親や恋人のような固有名詞を当てることはほぼ不可能で、依然として謎は残るのだが)
インドでは辻占は低い身分の仕事とされる。
さきほど「金銭に執着しない占い師は詐欺師まがいではなく本物の予言者」と書いたが、これは「お金のために占いを行う辻占は詐欺師同然」ということの裏返しだ。
ハリ・シンの出自は、彼にとって誇らしいものではなく、憎むべきものだった。
彼は小さい頃に家を出て、占いではなく物売りをして生計を立てていたが、それでは食べてゆくことができず、皮肉にも彼もまた占い師になる道を選ぶことになる。
「逃れようとしても逃れられないのがジャーティだ」とブラーミン(バラモン)の男は言ったそうだ。
ハリ・シンは、インディラ・ガンディー首相暗殺事件に端を発するインド国内でのシク教徒弾圧を避け、子ども達の教育費や結婚資金を稼ぐため、オランダに渡ることを選んだ。
外国で占い師として稼いだお金を、インドに仕送りとして送るのだ。
字も書けないというハリ・シンが、占い師という職業でどうやって就労ビザを取ったのか、いまひとつよく分からないが、そこはインドのこと、裏金や人脈でどうにかなったのだろう。
もうお分かりだろう。
ハリ・シンもまた、世界中で例の占いをして日銭を稼ぐ、「彼」らのひとりだったのだ。
オランダにもまたひとり「ヨギ・シン」がいたということだ。
ミャンマー、タイ、オーストラリア、イギリス、カナダ、インドネシア。
世界中で「詐欺師に注意!」「不思議!わたしの街にも同じような人がいた!」と報告されている「彼」。
その一人は、自らの家業を憎みつつも、家族のために異国の地で辻占を続け、その稼ぎを故郷に仕送りをする男、ハリ・シンだった。
世界中のヨギ・シンに、きっとこんなふうにそれぞれの物語があるのだろう。
海外で必死で稼いだお金で、「彼」は娘たちの持参金を払い、立派な結婚式を挙げる。
息子たちに質の高い教育を受けさせ、優秀な大学に通わせる。
占い師ではなく、もっと別の「立派な」仕事に就かせるために。
そして、ヨギ・シンの子どもたちはエンジニアに、企業のマーケティング担当者に、どこかのいい家のお嫁さんになる。
医者や弁護士になる人もいるかもしれない。
ヨギ・シンの子どもたちは、もう誰もヨギ・シンにはならない。
誰よりも、ヨギ・シン自身がそれを望んでいるはずだ。
たとえ、成功した子どもたちに、家族代々の仕事を古臭いまやかしだと思われるとしても。
インドにおいて、正統な伝統に基づく占いは、社会や生活に深く溶け込んでいる。
どんなに時代が変化しても、インドから伝統的な占い師がいなくなることはないだろう。
ただ、世界中で報告されている「ヨギ・シン」スタイルの占い師に関してはどうだろう。
彼らの子どもたちが誰も後をつがなかったとき、この守るべき伝統とも考えられていない占い師たちは、歴史の波間に消えていってしまうのだろうか。
このまま「彼」の存在は、知る人ぞ知る、しかし世界中に知っている人がいる、マイナーな都市伝説のひとつになってゆくのだろうか。
2050年の「ヨギ・シン」を想像してみる。
先進国で誰にも相手にされなくなった「彼」は、ようやく経済成長の波に乗ることができたアフリカの小国に辿り着く。
いかにも成金といった風情の身なりのいい男に、ターバンを巻いたインド人が声をかける。
「あなたの好きな花を当ててみせよう」
誰も知らないが、実は彼こそは最後のヨギ・シンだった。
一族の結束はいまだに固いが、この占いのトリックができるのは彼が最後の一人だ。
仲間たちはみな、エンジニアやビジネスマンになり、少数の占い師の伝統を守っている者たちもコンピュータを駆使した新しい方法で占いを行っている。
「彼」もまた子どもたちを大学に行かせるために異国の地で辻占をしているが、子どもたちには後を継がせないつもりだ。
「彼」自身も知らないまま、ひとつの伝統と歴史がもうじき幕を降ろす。
あるいは、「彼」はデリーの郊外あたりに作られたテーマパーク「20世紀インド村」みたいなところで、「ガマの油売り」よろしく伝統芸能のひとつとしてその手口を披露しているかもしれない。
若者たちが物珍しげに眺めている後ろで、年老いたインド人は懐かしそうに彼を見つめている。
パフォーマンスを終えた「彼」に、「ずっと探していたんだ」と話しかける日本人がいたら、それはきっと私に違いない。
話を大谷氏の本に戻すと、このエピソードはまだ終わらない。
あの不気味な予言のことだ。
時は流れ、大谷氏に三十二回目のインド訪問がやってくる。
そこで虎狩りの取材に出かけた大谷氏はあの不吉な予言を思わせる、信じられない目に合うことになる。
詳細は省くが、この章では例のヨギ・シンの辻占以外にも、インドの占い事情が詳らかに紹介されていて、非常に興味深い内容だった。
インド社会のなかで、占いという超自然的な力がどんなふうに生きているのかを知りたい方には、ご一読をお勧めする。
子どもたちも皆結婚し、初老になったハリ・シンは、今となってはもう父を罵ることもなく、こう言っているという。
占い師は自分で自分を占うと、力を失うんだ、と。
彼は、思うようにならなかった運命を、諦めとともに受け入れたのか。
それとも、家族を養う糧を与えてくれた代々の家業を、誇りを持って認めることができたのだろうか。
それにしても、これはいったい何だったんだろう。
たまたま読んだ本と新聞で見つけた「彼」は、インターネットで世界中が繋がった時代ならではの都市伝説の主人公になっていた。
その「彼」の正体は、秘密結社ともカルト宗教とも関係のない、伝統的な生業を武器にグローバル社会の中で稼ぐことを選んだ、インドの伝統社会に基づく「ジャーティ」の構成員たちだった。
これが私がヨギ・シンについて知っていることのすべて。
日本から一歩も出ないまま、インドに関する不思議を見つけ、そしてその答えが分かってしまうというのも、時代なのかな、と思う。
「彼」の正体を知ってしまった今、もし「彼」に出会うことがあったら、いったいどんな言葉をかけられるだろうか。
「彼」に占ってほしいことは見つかるだろうか。
それでもやっぱり、会ってみたいとは思うけれども。
(世界中での「彼 」の出没情報は、「Indian fortune teller」もしくは「Sikh fortune teller」で検索すると数多くヒットする。ご興味のある方はお試しを)
2019年11月18日追記:
この記事を書いてから1年、まさかここ日本を舞台に続編が書けるとは思ってもいなかった。
予想外の展開を見せる続編はこちらから。
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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
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2018年11月10日
(100回記念特集)謎のインド人占い師 Yogi Singhに会いたい
約1年前に始めたこのブログも今回の記事で100回目。
というわけで、音楽からは離れるのだけど、インドに関する話題で、個人的にここ数年でもっとも面白いと感じている話を2回に分けて書いてみます。
楽しんでもらえるとよいのだけど。
「彼」のことを初めて知ったのは、辺境ノンフィクション・ライター、高野秀行氏の『辺境の旅はゾウにかぎる』(のちに『辺境中毒!』という名前で集英社から文庫化)という本だった。
ある朝方、バンコクの安宿街カオサンで、高野氏がインド人の占い師に声をかけられたところから、この話は始まる。
「君は占いに興味があるか」
ヒマだった高野氏は、そのインド人の相手をしてみることにした。
「彼」は何事か書いた小さな紙を丸めて高野氏に握らせると「君の好きな花は何か」と尋ねる。
高野氏が「Rose」と答えると、「彼」は握った紙を開いてみろという。
なんとそこには「Rose」の文字が書かれていた。
占い師は、その後も次々と同じ手口で好きな色、好きな数字を的中させると、もし同じように母親の名前を当てることができたら、彼が所属する宗教団体に100ドルを寄付しろという賭けをしかけてきた。
いつの間にか、この賭けの証人役と思われる仲間のインド人もやって来ている。
好きな花や色や数字は、偶然の一致、あるいは潜在意識や統計をもとに的中させた可能性もあるだろう。
だが、日本語の母親の名前は当てられるわけがない。
成り行きと対抗意識から高野氏がその要求を飲むと、占い師はなんと母親の名前をも的中させ、100ドルを巻き上げて消えていったという。
それは1993年のことだったというが、話はここで終わらない。
その後、高野氏が1930年代を舞台にしたミャンマーの小説を読んでいると、なんとそこにインド人の占い師による全く同じ手口の詐欺の話が載っていた。
ターバンを巻いたインド人の男が「旦那、占い、どうですか」と声をかけ、好きな数字などを的中させると、仲間のインド人を連れてきて賭けをしかけ、まんまとシャツを勝ち取っていったという話だ。
この小説が出版されたのは1955年だが、著者は1909年生まれ。
著者が実際に1930年代に体験したことがもとになっている可能性が高いという。
高野氏は、1990年代のタイと1930年代のミャンマーで、インド人による全く同じ手口の詐欺が行われていたという事実に驚きつつも、たとえ詐欺であったとしても、変化の激しい時代に60年以上も続いた手口をこれからも大切にしてほしいものだと結んでいる。
当時、これを読んだ私は、どちらもインドが舞台ではないにもかかわらず「うわあインドっぽいエピソードだなあ」と感じたものだった。
インドはワケがわからないことが起こることに関しては世界有数の国(この話、インドじゃないけど)。
こんなことがあっても全く不思議ではないのだが、その後、いつの間にかこの話も忘れてしまっていた。
次に「彼」と出会ったのはそれから数年後。
新聞を読んでいた時のことだった。
2012年9月20日、東京新聞、夕刊。
「世界の街 海外レポート」という海外特派員によるエッセイ風のコーナーにロンドン担当の小杉さんという方が寄せた文章を、少し長いが引用させていただく。
間違いない。
高野氏の本に書いてあった「彼」だ。
1930年代を舞台にしたミャンマーの小説、1990年代のバンコク、そこにいた「彼」が2012年のロンドンにも存在している。
こんなことがあるのだろうか。
彼は占い詐欺をしながらあらゆる時代と場所をめぐるタイムトラベラーなのだろうか。
ロンドンでこの不思議な出来事があったということは、インターネットで英語で検索したら何か情報が得られるかもしれない。
そう思って、「Indian fortune teller」とGoogleに打ち込んでみると、出てくる出てくる。
「彼」が現れたのは、なんとミャンマー、バンコク、ロンドンだけではなかった。
シドニー、メルボルン、シンガポール、トロント、香港、マレーシア、カンボジア、そしてもちろん、ニューデリー。
「私も同じ手口に合ったことがある!」「私も!」と世界中のあらゆる場所で「彼」の出現が報告されていた。
よくよく読んでみると、その手口には、ほとんどの場合共通点がある。
・"You have a lucky face"などと声をかけてくること。
・丸めた紙を手に握らせ、好きな花、好きな数字、恋人の名前などを尋ねるということ。答えた後にその紙を開くと答えが的中していること。
・慈善団体への寄付を装い、金品を要求すること。
・多くの場合、ターバンを巻いたシク教徒風の格好をしていること。
また、「彼」が「ヨギ・シン(Yogi Singh)」 と名乗ることが多いということも分かった。
だが「ヨギ」 はヨガ行者などの「師」を表す言葉で、「シン(Singh) 」はシク教徒の男性全員が名乗る名前。
これだけで世界中で報告されている「彼」が同一人物であるとか、同じ一族であるということを判断するのは早計だ。
ではいったい「彼」は何者なのか。
こうした報告をインターネット上でまとめていた男性の一人は、「時間さえあれば彼らのことを調べて本にするのに」と書いていたが、私もまったくの同感だった。
彼らとの遭遇が報告された土地に東京が含まれていないのがとても残念だった。
もし叶うなら「彼」に会ってみたい。
しかし、例えば「彼」に会うためだけに休みを工面してメルボルンあたりに1週間くらい滞在しても、会える保証は全くないし、インド系コミュニティーで彼らのことを聞いて回ったりした場合、もし「彼」が良からぬ組織に関わっていたりしたら、身に危険が及ぶかもしれない。
シク教徒の本場であるパンジャーブ系の人を含めて、何人かのインド人に「彼」の噂を聞いたことがないか尋ねてみたが、誰も知っている人はいなかった。
ただ、彼らが一様に、不思議がるふうでもなく「あいにく自分は知らないけど、まあそんなこともあるだろうね」という反応だったのがとても印象に残っている。
やっぱり、インド人も認める「インドならあり得る話」のようだ。
いずれにしても、インドでも有名な話ではないということが分かった。
インターネットで世界中が繋がる時代になって、初めて顕在化したグローバルな都市伝説。
とにかく「彼」の正体が知りたくてしょうがなかった。
現実的に考えて、1930年代から2012年という幅のある期間での報告がされているということからも、「彼」が同一人物であるという可能性はないだろう。(タイムトラベラー説も魅力的ではあるが)
また、「彼」がこれだけ世界中の多くの街で報告されているということは、彼らが少人数の近しい親族(例えば親子や兄弟) だけで構成されているということも考えにくい。
決して大金を稼げる商売ではないであろう辻占で、これだけ世界中を漫遊するみたいなことはできないだろうからだ。
これはきっと「ジャーティ」だ。
シク教徒のなかに、この手の占いを生業とする「ジャーティ」の人々がいるに違いない。
「ジャーティ」とは、カースト制度の基礎となる職業や地縁などをもとにした排他的な共同体の単位のこと。
よく「インドでは結婚は親が決めた同じコミュニティーの人としなければならない」とか「インドには村全員がコブラ使いの村がある」という話を聞くことがあるが、これらはみな「ジャーティ」を指している。
「結婚は同じ(もしくは同等の)ジャーティの人とするもの」「コブラ使いのジャーティの村」というわけだ。
「ジャーティ」はヒンドゥー教の概念で、建前としてはシク教やイスラム教には無いものとされているが、実際は彼らの間にも同じような、職業や地縁をもとにしたコミュニティーは存在している。
都会ではもはや「ジャーティ」に基づく職業選択は過去のものとなっているが、今でも「ジャーティ」を結婚などの局面で尊重すべきと考えている人たちは多い(とくに古い世代に多い)。
これだけ世界中の多くの街で「彼」が報告されているということは、シク教徒のなかに、占いを生業として、同じトリックを身につけた同一のジャーティ集団がいるに違いない。
シク教の故郷、パンジャーブ州には、詐欺占い師ばかりが暮らす村があったりするのだろうか。
インドでも知る人の少ない彼らが、何らかのネットワークを使って世界中に進出し、同じトリックで稼いでいるということか。
自分の所属する宗教団体への献金を装うことも多いということは、もしかしたら秘密結社やカルト宗教?
シク教徒のなかには、パンジャーブ州のインドからの独立を目指す過激な一団もいる。
もしかしたら、そうしたグループと関わりのある人たちによる、占いを口実にした資金集めということもあるかもしれない。
謎は深まるばかりだ。
つづく
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というわけで、音楽からは離れるのだけど、インドに関する話題で、個人的にここ数年でもっとも面白いと感じている話を2回に分けて書いてみます。
楽しんでもらえるとよいのだけど。
「彼」のことを初めて知ったのは、辺境ノンフィクション・ライター、高野秀行氏の『辺境の旅はゾウにかぎる』(のちに『辺境中毒!』という名前で集英社から文庫化)という本だった。
ある朝方、バンコクの安宿街カオサンで、高野氏がインド人の占い師に声をかけられたところから、この話は始まる。
「君は占いに興味があるか」
ヒマだった高野氏は、そのインド人の相手をしてみることにした。
「彼」は何事か書いた小さな紙を丸めて高野氏に握らせると「君の好きな花は何か」と尋ねる。
高野氏が「Rose」と答えると、「彼」は握った紙を開いてみろという。
なんとそこには「Rose」の文字が書かれていた。
占い師は、その後も次々と同じ手口で好きな色、好きな数字を的中させると、もし同じように母親の名前を当てることができたら、彼が所属する宗教団体に100ドルを寄付しろという賭けをしかけてきた。
いつの間にか、この賭けの証人役と思われる仲間のインド人もやって来ている。
好きな花や色や数字は、偶然の一致、あるいは潜在意識や統計をもとに的中させた可能性もあるだろう。
だが、日本語の母親の名前は当てられるわけがない。
成り行きと対抗意識から高野氏がその要求を飲むと、占い師はなんと母親の名前をも的中させ、100ドルを巻き上げて消えていったという。
それは1993年のことだったというが、話はここで終わらない。
その後、高野氏が1930年代を舞台にしたミャンマーの小説を読んでいると、なんとそこにインド人の占い師による全く同じ手口の詐欺の話が載っていた。
ターバンを巻いたインド人の男が「旦那、占い、どうですか」と声をかけ、好きな数字などを的中させると、仲間のインド人を連れてきて賭けをしかけ、まんまとシャツを勝ち取っていったという話だ。
この小説が出版されたのは1955年だが、著者は1909年生まれ。
著者が実際に1930年代に体験したことがもとになっている可能性が高いという。
高野氏は、1990年代のタイと1930年代のミャンマーで、インド人による全く同じ手口の詐欺が行われていたという事実に驚きつつも、たとえ詐欺であったとしても、変化の激しい時代に60年以上も続いた手口をこれからも大切にしてほしいものだと結んでいる。
当時、これを読んだ私は、どちらもインドが舞台ではないにもかかわらず「うわあインドっぽいエピソードだなあ」と感じたものだった。
インドはワケがわからないことが起こることに関しては世界有数の国(この話、インドじゃないけど)。
こんなことがあっても全く不思議ではないのだが、その後、いつの間にかこの話も忘れてしまっていた。
次に「彼」と出会ったのはそれから数年後。
新聞を読んでいた時のことだった。
2012年9月20日、東京新聞、夕刊。
「世界の街 海外レポート」という海外特派員によるエッセイ風のコーナーにロンドン担当の小杉さんという方が寄せた文章を、少し長いが引用させていただく。
多国籍の人が暮らすロンドン。どう見てもアジア人の自分に平然と道を尋ねてくる英国人はざらにいる。八月下旬、支局前の通りで喫煙していると、見知らぬ中年男性が近づいてきた。「また道案内か」と思いきや予想外の言葉を聞いた。
「あなたに来月、幸運が訪れる」。さらに「あなたは長寿だ。少なくとも八十七歳まで生きる」とも。
聞けば、インド出身の自称「占い師」。そのまま耳を傾けると、指先ほど小さく折り畳まれた紙切れを手渡された。
その上で「何のための幸運であってほしいか」「あなたのラッキーナンバーは」 と問われた。男はこちらが返した答えをメモ帳に書き取ると事前に私に渡した紙切れに「フッ」と息を吹き掛けた。
その紙を広げて驚いた。記してあったのは先ほどの答え。思わずうなった直後、男は言った。
「あなたの幸せが成就するように祈るから、お金を払わないか」
なんだ、そういうことか。提示された料金は最大で百ポンド(役一万二千円)。急速に興味を失い、支払いも丁重に断った。
この話を友人にすると、「占い詐欺でしょ」。だとしたら、自分が目にしたのは単なる手品か。いいカモにされかけたが、最初に言われた幸運とやらが気になって仕方ない。
間違いない。
高野氏の本に書いてあった「彼」だ。
1930年代を舞台にしたミャンマーの小説、1990年代のバンコク、そこにいた「彼」が2012年のロンドンにも存在している。
こんなことがあるのだろうか。
彼は占い詐欺をしながらあらゆる時代と場所をめぐるタイムトラベラーなのだろうか。
ロンドンでこの不思議な出来事があったということは、インターネットで英語で検索したら何か情報が得られるかもしれない。
そう思って、「Indian fortune teller」とGoogleに打ち込んでみると、出てくる出てくる。
「彼」が現れたのは、なんとミャンマー、バンコク、ロンドンだけではなかった。
シドニー、メルボルン、シンガポール、トロント、香港、マレーシア、カンボジア、そしてもちろん、ニューデリー。
「私も同じ手口に合ったことがある!」「私も!」と世界中のあらゆる場所で「彼」の出現が報告されていた。
よくよく読んでみると、その手口には、ほとんどの場合共通点がある。
・"You have a lucky face"などと声をかけてくること。
・丸めた紙を手に握らせ、好きな花、好きな数字、恋人の名前などを尋ねるということ。答えた後にその紙を開くと答えが的中していること。
・慈善団体への寄付を装い、金品を要求すること。
・多くの場合、ターバンを巻いたシク教徒風の格好をしていること。
また、「彼」が「ヨギ・シン(Yogi Singh)」 と名乗ることが多いということも分かった。
だが「ヨギ」 はヨガ行者などの「師」を表す言葉で、「シン(Singh) 」はシク教徒の男性全員が名乗る名前。
これだけで世界中で報告されている「彼」が同一人物であるとか、同じ一族であるということを判断するのは早計だ。
ではいったい「彼」は何者なのか。
こうした報告をインターネット上でまとめていた男性の一人は、「時間さえあれば彼らのことを調べて本にするのに」と書いていたが、私もまったくの同感だった。
彼らとの遭遇が報告された土地に東京が含まれていないのがとても残念だった。
もし叶うなら「彼」に会ってみたい。
しかし、例えば「彼」に会うためだけに休みを工面してメルボルンあたりに1週間くらい滞在しても、会える保証は全くないし、インド系コミュニティーで彼らのことを聞いて回ったりした場合、もし「彼」が良からぬ組織に関わっていたりしたら、身に危険が及ぶかもしれない。
シク教徒の本場であるパンジャーブ系の人を含めて、何人かのインド人に「彼」の噂を聞いたことがないか尋ねてみたが、誰も知っている人はいなかった。
ただ、彼らが一様に、不思議がるふうでもなく「あいにく自分は知らないけど、まあそんなこともあるだろうね」という反応だったのがとても印象に残っている。
やっぱり、インド人も認める「インドならあり得る話」のようだ。
いずれにしても、インドでも有名な話ではないということが分かった。
インターネットで世界中が繋がる時代になって、初めて顕在化したグローバルな都市伝説。
とにかく「彼」の正体が知りたくてしょうがなかった。
現実的に考えて、1930年代から2012年という幅のある期間での報告がされているということからも、「彼」が同一人物であるという可能性はないだろう。(タイムトラベラー説も魅力的ではあるが)
また、「彼」がこれだけ世界中の多くの街で報告されているということは、彼らが少人数の近しい親族(例えば親子や兄弟) だけで構成されているということも考えにくい。
決して大金を稼げる商売ではないであろう辻占で、これだけ世界中を漫遊するみたいなことはできないだろうからだ。
これはきっと「ジャーティ」だ。
シク教徒のなかに、この手の占いを生業とする「ジャーティ」の人々がいるに違いない。
「ジャーティ」とは、カースト制度の基礎となる職業や地縁などをもとにした排他的な共同体の単位のこと。
よく「インドでは結婚は親が決めた同じコミュニティーの人としなければならない」とか「インドには村全員がコブラ使いの村がある」という話を聞くことがあるが、これらはみな「ジャーティ」を指している。
「結婚は同じ(もしくは同等の)ジャーティの人とするもの」「コブラ使いのジャーティの村」というわけだ。
「ジャーティ」はヒンドゥー教の概念で、建前としてはシク教やイスラム教には無いものとされているが、実際は彼らの間にも同じような、職業や地縁をもとにしたコミュニティーは存在している。
都会ではもはや「ジャーティ」に基づく職業選択は過去のものとなっているが、今でも「ジャーティ」を結婚などの局面で尊重すべきと考えている人たちは多い(とくに古い世代に多い)。
これだけ世界中の多くの街で「彼」が報告されているということは、シク教徒のなかに、占いを生業として、同じトリックを身につけた同一のジャーティ集団がいるに違いない。
シク教の故郷、パンジャーブ州には、詐欺占い師ばかりが暮らす村があったりするのだろうか。
インドでも知る人の少ない彼らが、何らかのネットワークを使って世界中に進出し、同じトリックで稼いでいるということか。
自分の所属する宗教団体への献金を装うことも多いということは、もしかしたら秘密結社やカルト宗教?
シク教徒のなかには、パンジャーブ州のインドからの独立を目指す過激な一団もいる。
もしかしたら、そうしたグループと関わりのある人たちによる、占いを口実にした資金集めということもあるかもしれない。
謎は深まるばかりだ。
つづく
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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
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2018年11月06日
MTV EMA2018最優秀インド人アーティスト発表!Big-Ri & Meba Ofilia
MTV EMA (Europe Music Awards)2018がスペインのビルバオで開催され、各部門の受賞アーティストが発表された。
ヨーロッパといいながら、なぜかたくさんの国のベストミュージシャンが選ばれるこのイベント。
今年のBest India Music Actに選ばれたのは、R&B/ヒップホップアーティストのBig-Ri & Meba Ofiliaによる楽曲'Done Talking'だった。
Big-Riは2009年に結成されたメガラヤ州のヒップホップグループKhasi Bloodzのメンバーの一人。
メガラヤ州はこのブログでも何度も紹介してきた、独特の文化と高い音楽性を誇るインド北東部8州(セブン・シスターズ+シッキム)の1つだ。
ヨーロッパといいながら、なぜかたくさんの国のベストミュージシャンが選ばれるこのイベント。
今年のBest India Music Actに選ばれたのは、R&B/ヒップホップアーティストのBig-Ri & Meba Ofiliaによる楽曲'Done Talking'だった。
Big-Riは2009年に結成されたメガラヤ州のヒップホップグループKhasi Bloodzのメンバーの一人。
メガラヤ州はこのブログでも何度も紹介してきた、独特の文化と高い音楽性を誇るインド北東部8州(セブン・シスターズ+シッキム)の1つだ。
Khasiとはメガラヤ州に住む先住民族の名称で、彼らもまた自分たちのルーツに誇りを持ったアーティストであることが分かる。
Khasi Bloodzはインドらしからぬこなれた英語のラップを聴かせる実力派ラッパー集団で、ここでもBig-Riは安定したラップを披露しているが、何しろ圧巻なのは同じくメガラヤ州出身の女性シンガー/ラッパーのMeba Ofiliaだ。
情感のこもった歌唱から小気味いいラップまで、独特のハスキーヴォイスで素晴らしい歌声を聴かせてくれている。
Mebaはまだメガラヤの州都Shillongで法律を学んでいる大学生。
オリジナル曲もほとんどなく、1年前にKhasi Bloodzと共演した楽曲ではまだまだ実力を発揮できていなかったが、この'Done Talking'で急速に成長した姿を見せつけることになった。
こう言っては大変失礼だが、インドの山奥から出てきたとはとても思えない堂々たるパフォーマンスで、この曲の素晴らしさの8割方が彼女によるものと言っても過言ではないと思う。
大都市や国際都市があるわけでもなく、人口も少ない北東部だが、ここの人々のロックやヒップホップ偏差値の高さにはいつもながら本当に驚かされる。
ちなみにこの賞を受賞した北東部のアーティストとしては、他には先日のナガランド特集で紹介したAlobo Nagaがいる。
北東部のミュージシャンはその音楽的才能の高さに比べて、民族的にマイノリティーであることもあって、なかなかインドの音楽シーンの主流には食い込めていないような印象を持っているのだけど、こうした海外の賞ではきちんと評価されているんだなあ、と思うと感慨深い。
今年ノミネートされていた他のアーティストはこちらのみなさんです。
Raja Kumari ft. Divine 'Roots'.
このブログでも取り上げたカリフォルニア出身の米国籍のテルグ系ラッパーRaja Kumariと、ムンバイのヒンディー語ラッパーDivineによる2度目のコラボレーション。
トラックもかっこいいし、ラップもさすがのテンションだけど、この二人はいつもこんな感じなので、ここに来てまたインド人としてのルーツを誇るみたいなテーマはちょっと新鮮味が無いような気もする。
ちなみに彼女は昨年に続いて2度目のノミネートだった。
Monica Dogra &Curtain Blue 'Spell'
Monica Dograはボルティモア出身のインド系(北西部ジャンムー系)シンガー兼女優で、MTV EMAでは2015年、2016年に続いて3度目のノミネート。
この曲ではデリーのバンドThe CircusのヴォーカリストAbhishek BhatiaのソロプロジェクトであるCurtain Blueとのコラボレーションとなっている。
Skyharbor 'Dim'
Skyharborはインド系のメンバーによるオルタナティブ/プログレッシブ・メタルバンドで、デリー、ムンバイ、アメリカのクリーブランドなど、さまざまな土地の出身者で構成されている。
2010年結成。
日本の音楽シーンとも縁があり、BabymetalのUSツアーのオープニングアクトを務めたり、マーティ・フリードマンのJ-Popカバーアルバムに参加したりもしている。
Nikhil 'Silver and Gold'
Nikhil D'souzaはムンバイ出身のシンガー・ソングライター。
'Silver and Gold'はジェフ・バックリィやスティングらの影響を受けて曲を作り始めた彼のソロデビュー曲。
アコースティックに始まって徐々に盛り上がるアレンジもよく出来ているし、力強くも繊細なヴォーカルも素晴らしい。
やけに貫禄がある歌いっぷりだと思ったら、どうやら彼は長らくボリウッド映画のプレイバック・シンガーとして活躍していたようで、いまでは拠点をイギリスに移して活動している様子。
古城で撮られたビデオも美しい。
どれも完成度の高い楽曲ではあるけれども、いったいどうやってこの5曲が選ばれたのか、謎だなあ。
そもそもRaja KumariやMonica Dograはアメリカ国籍だし、Nikhilは今ではイギリスを拠点に活動しているみたいだし。
共通項はメジャーレーベルからリリースされている作家性の強い英語の楽曲ということくらいか。
欧米の音楽シーンとの親和性も求められているセレクションのような気もする。
この賞は、2013年、2014年はYo Yo Honey Singh、2015年は女優でもあるPriyanka Chopraと、よりポップな(まあ、なんつうか下世話な)曲が選ばれたこともあり、インディー色の強いRolling Stone Indiaのベストアルバムなんかと比べるとこれはこれで個性があって面白い。
そのうちそれぞれのアーティストについても、深く紹介してみたいと思います!
ところで、インドにも増してさらに謎なのは、Best Japan Act.
今年のノミネートはLittle Glee Monster、Daoko、Glim Spanky、水曜日のカンパネラ(英語名称はWednesday Campanella)、Yahyelで、受賞はLittle Glee Monsterだって。
別に異存はないけど、インド系移民はヨーロッパにも多いのでBest India Actはまあ分かるとしても、Best Japan Actはいったいどういう基準で選んでいるんだろう。
Chaiとかは入らないのか。
うーん、謎。
まあいいや、それでは今回はここまで!
Khasi Bloodzはインドらしからぬこなれた英語のラップを聴かせる実力派ラッパー集団で、ここでもBig-Riは安定したラップを披露しているが、何しろ圧巻なのは同じくメガラヤ州出身の女性シンガー/ラッパーのMeba Ofiliaだ。
情感のこもった歌唱から小気味いいラップまで、独特のハスキーヴォイスで素晴らしい歌声を聴かせてくれている。
Mebaはまだメガラヤの州都Shillongで法律を学んでいる大学生。
オリジナル曲もほとんどなく、1年前にKhasi Bloodzと共演した楽曲ではまだまだ実力を発揮できていなかったが、この'Done Talking'で急速に成長した姿を見せつけることになった。
こう言っては大変失礼だが、インドの山奥から出てきたとはとても思えない堂々たるパフォーマンスで、この曲の素晴らしさの8割方が彼女によるものと言っても過言ではないと思う。
大都市や国際都市があるわけでもなく、人口も少ない北東部だが、ここの人々のロックやヒップホップ偏差値の高さにはいつもながら本当に驚かされる。
ちなみにこの賞を受賞した北東部のアーティストとしては、他には先日のナガランド特集で紹介したAlobo Nagaがいる。
北東部のミュージシャンはその音楽的才能の高さに比べて、民族的にマイノリティーであることもあって、なかなかインドの音楽シーンの主流には食い込めていないような印象を持っているのだけど、こうした海外の賞ではきちんと評価されているんだなあ、と思うと感慨深い。
今年ノミネートされていた他のアーティストはこちらのみなさんです。
Raja Kumari ft. Divine 'Roots'.
このブログでも取り上げたカリフォルニア出身の米国籍のテルグ系ラッパーRaja Kumariと、ムンバイのヒンディー語ラッパーDivineによる2度目のコラボレーション。
トラックもかっこいいし、ラップもさすがのテンションだけど、この二人はいつもこんな感じなので、ここに来てまたインド人としてのルーツを誇るみたいなテーマはちょっと新鮮味が無いような気もする。
ちなみに彼女は昨年に続いて2度目のノミネートだった。
Monica Dogra &Curtain Blue 'Spell'
Monica Dograはボルティモア出身のインド系(北西部ジャンムー系)シンガー兼女優で、MTV EMAでは2015年、2016年に続いて3度目のノミネート。
この曲ではデリーのバンドThe CircusのヴォーカリストAbhishek BhatiaのソロプロジェクトであるCurtain Blueとのコラボレーションとなっている。
Skyharbor 'Dim'
Skyharborはインド系のメンバーによるオルタナティブ/プログレッシブ・メタルバンドで、デリー、ムンバイ、アメリカのクリーブランドなど、さまざまな土地の出身者で構成されている。
2010年結成。
日本の音楽シーンとも縁があり、BabymetalのUSツアーのオープニングアクトを務めたり、マーティ・フリードマンのJ-Popカバーアルバムに参加したりもしている。
Nikhil 'Silver and Gold'
Nikhil D'souzaはムンバイ出身のシンガー・ソングライター。
'Silver and Gold'はジェフ・バックリィやスティングらの影響を受けて曲を作り始めた彼のソロデビュー曲。
アコースティックに始まって徐々に盛り上がるアレンジもよく出来ているし、力強くも繊細なヴォーカルも素晴らしい。
やけに貫禄がある歌いっぷりだと思ったら、どうやら彼は長らくボリウッド映画のプレイバック・シンガーとして活躍していたようで、いまでは拠点をイギリスに移して活動している様子。
古城で撮られたビデオも美しい。
どれも完成度の高い楽曲ではあるけれども、いったいどうやってこの5曲が選ばれたのか、謎だなあ。
そもそもRaja KumariやMonica Dograはアメリカ国籍だし、Nikhilは今ではイギリスを拠点に活動しているみたいだし。
共通項はメジャーレーベルからリリースされている作家性の強い英語の楽曲ということくらいか。
欧米の音楽シーンとの親和性も求められているセレクションのような気もする。
この賞は、2013年、2014年はYo Yo Honey Singh、2015年は女優でもあるPriyanka Chopraと、よりポップな(まあ、なんつうか下世話な)曲が選ばれたこともあり、インディー色の強いRolling Stone Indiaのベストアルバムなんかと比べるとこれはこれで個性があって面白い。
そのうちそれぞれのアーティストについても、深く紹介してみたいと思います!
ところで、インドにも増してさらに謎なのは、Best Japan Act.
今年のノミネートはLittle Glee Monster、Daoko、Glim Spanky、水曜日のカンパネラ(英語名称はWednesday Campanella)、Yahyelで、受賞はLittle Glee Monsterだって。
別に異存はないけど、インド系移民はヨーロッパにも多いのでBest India Actはまあ分かるとしても、Best Japan Actはいったいどういう基準で選んでいるんだろう。
Chaiとかは入らないのか。
うーん、謎。
まあいいや、それでは今回はここまで!
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2018年11月04日
インドのインディーズシーンの歴史その9 UKエイジアン・トリップホップ Nitin Sawhney
インドのインディーズシーンを紹介するこの企画。
これまでインド国内のシーン黎明期のミュージシャンと、在外インド人ミュージシャンをほぼ交互に紹介してきたが、今回はこの在外ミュージシャンを紹介。

イギリス国籍のインド系ミュージシャン、Nitin Sawhney。
Nitin Sawhneyは1964年にイギリスはロチェスター生まれのインド系ミュージシャンで、ジャンルとしてはトリップホップやアシッドジャズに分類されることが多いようだ。
音楽的ルーツとしてはピアノ、クラシックギターに加えてタブラとシタール。
これまで見てきた在外インド系ミュージシャン同様に、当時の先端の音楽にインド古典の要素を加えた音楽性で高い評価を得た。
個人的にも、彼の名前は90年代から00年代にかけて人気を博した、Buddha BarやCafe Del Marといったアンビエント系コンピレーションでよく名前を見かけた記憶がある。
今回のリストで選出された楽曲は、1999年にリリースされた'Letting Go'.
90年代末らしさ全開のセンスの良い叙情的なトリップホップを聴かせてくれる。
途中までPortishead風のサウンドだったところに、1:38からの間奏で突然インド風のヴォーカリゼーションとバイオリン(サーランギ?)が入ってくるけど、この曲のインドの要素はごくわずか。
このミクスチャーはちょっと唐突で隠し味程度のものだけど、ロンドンで育ったNitinの心象風景はこんな感じなのだろうかと思わせる。
じつは今回初めてアルバムを通して聴いたのだけど、トリップホップ調、インド風に加えて、ヒップホップからドラムンベースまで、音楽的な引き出しの多さと組み合わせのセンスの良さにびっくりした。
インド的な要素で欧米的に「センスが良い」とされる音楽をどこまで作れるかという見本市のようなアルバムだ。
反核実験のメッセージを持ったアルバムでもあるが、同じ時代にインドを訪れた私にとっては、98年の核実験を大国化への前進と位置付けて歓喜しているインドの人々と、この都会的なアルバムを作ったイギリスのインド系移民との「断絶」をかえって感じてしまう。
'Homelands'ではカッワーリーと叙情的なガットギターのコンビネーションに、北インドから中近東を飛び越えてスペインのフラメンコにまでつながるロマの音楽の始点と終点が何の違和感もなく同居しているし、'Nadia'の伝統的なインドの歌唱へのドラムンベースの合わせ方も凄い。
アルバムを通して映画音楽的なピアノやストリングスも効いている。
インドの伝統音楽の要素を、オーガニックなものとしてではなく、都会的な音像のなかで使っているのが印象的だ。
今聴いても全く色あせないこのアルバムは、20世紀末のロンドンのインド系移民にしか作れないサウンドのひとつの到達点。
このあと、ムンバイやバンガロールがどんどん栄えて、センスの良い印欧フュージョンの音楽がたくさん作られるようになっても、出てくる音がまた全然違うんだから面白い。
そのへんは追ってこの企画で紹介することになるでしょう。
それでは今日はこのへんで。
これまでインド国内のシーン黎明期のミュージシャンと、在外インド人ミュージシャンをほぼ交互に紹介してきたが、今回はこの在外ミュージシャンを紹介。

イギリス国籍のインド系ミュージシャン、Nitin Sawhney。
Nitin Sawhneyは1964年にイギリスはロチェスター生まれのインド系ミュージシャンで、ジャンルとしてはトリップホップやアシッドジャズに分類されることが多いようだ。
音楽的ルーツとしてはピアノ、クラシックギターに加えてタブラとシタール。
これまで見てきた在外インド系ミュージシャン同様に、当時の先端の音楽にインド古典の要素を加えた音楽性で高い評価を得た。
個人的にも、彼の名前は90年代から00年代にかけて人気を博した、Buddha BarやCafe Del Marといったアンビエント系コンピレーションでよく名前を見かけた記憶がある。
今回のリストで選出された楽曲は、1999年にリリースされた'Letting Go'.
90年代末らしさ全開のセンスの良い叙情的なトリップホップを聴かせてくれる。
途中までPortishead風のサウンドだったところに、1:38からの間奏で突然インド風のヴォーカリゼーションとバイオリン(サーランギ?)が入ってくるけど、この曲のインドの要素はごくわずか。
このミクスチャーはちょっと唐突で隠し味程度のものだけど、ロンドンで育ったNitinの心象風景はこんな感じなのだろうかと思わせる。
じつは今回初めてアルバムを通して聴いたのだけど、トリップホップ調、インド風に加えて、ヒップホップからドラムンベースまで、音楽的な引き出しの多さと組み合わせのセンスの良さにびっくりした。
インド的な要素で欧米的に「センスが良い」とされる音楽をどこまで作れるかという見本市のようなアルバムだ。
反核実験のメッセージを持ったアルバムでもあるが、同じ時代にインドを訪れた私にとっては、98年の核実験を大国化への前進と位置付けて歓喜しているインドの人々と、この都会的なアルバムを作ったイギリスのインド系移民との「断絶」をかえって感じてしまう。
'Homelands'ではカッワーリーと叙情的なガットギターのコンビネーションに、北インドから中近東を飛び越えてスペインのフラメンコにまでつながるロマの音楽の始点と終点が何の違和感もなく同居しているし、'Nadia'の伝統的なインドの歌唱へのドラムンベースの合わせ方も凄い。
アルバムを通して映画音楽的なピアノやストリングスも効いている。
インドの伝統音楽の要素を、オーガニックなものとしてではなく、都会的な音像のなかで使っているのが印象的だ。
今聴いても全く色あせないこのアルバムは、20世紀末のロンドンのインド系移民にしか作れないサウンドのひとつの到達点。
このあと、ムンバイやバンガロールがどんどん栄えて、センスの良い印欧フュージョンの音楽がたくさん作られるようになっても、出てくる音がまた全然違うんだから面白い。
そのへんは追ってこの企画で紹介することになるでしょう。
それでは今日はこのへんで。
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2018年11月02日
デカン高原から宮殿まで インドのフェス事情
日本のテクノDJであるDJ NOBUが11月10日にムンバイで開催されるFar Out Left Electronic Music Festivalに出演する。

このイベントはニューヨークのAurora Halal、DAUWDら海外のアーティストも多数出演するテクノ系のフェスティバル。
DJ Nobuはヨーロッパをはじめ海外でのプレイ経験も豊富なテクノDJで、つい先日も中国でのイベントに出演してきたばかり。
このフェスの会場はGreat Eastern Homeという英国植民地時代の雰囲気を色濃く残す高級家具ギャラリーだそうで、どんなイベントになるのかかなり興味がある。
Boiler Roomのアーカイブから、DJ Nobuの韓国ソウルでのDJセットを紹介します。
日本人アーティストのインド公演としては、今年に入ってから、8月にはWata Igarashi(五十嵐渉)が、9月にはDaisuke Tanabe(ともにダンス/エレクトロニカ系のアーティスト)がニューデリー、ムンバイ、バンガロールなどの都市を回るツアーを行ったばかり。
Daisuke Tanabeに関しては、2016年にもラージャスタン州のダンス系フェスティバルMagnetic FIeldへの出演を含むインドツアーを成功させており、さらにはインドの新興レーベルKnowmad Recordsからのリリースも行っている。
また、ロックバンドでは、2014年にはあの少年ナイフがゴアで行われたVans New Wave Music Festというパンク/インディーズ系のフェスに出演しており、デスメタルバンドではDefiledが2015年に、兀突骨(Gotsu-Totsu Kotsu)が2017年にそれぞれインドツアーを敢行していて、何度も書いていることだが、コアなジャンルの音楽のボーダレス化は、インドにも確実に及んでいることが感じられる。
インドで公演した日本人アーティストの共通点をあえて探すとしたら、もとから国内だけでなく世界を舞台に活動している(そして高い評価を得ている)アーティストであるということ。
つまり、もはやインドで演奏するということは特別なことではなく、世界的に活躍しているミュージシャンにしてみたら、欧米ツアーをするのと同じように、普通にインドでパフォーマンスを行う時代になったということだ。
それにしても、五十嵐渉、Daisuke Tanabe、DJ Nobuという人選をしたインドのオーガナイザーたちの慧眼ぶりはどういうことなんだろう。
日本からmonoが出演したZiro Festival然り、インドのフェスが招聘する海外アーティストのユニークさやセンスの良さにはいつも驚かされっぱなしだ。
例えば、10月27〜28日にバンガロール郊外でAsian Dub Foundationをヘッドライナーに行われた The Beantown Backyard Festival.

UKインディアンのADFはともかくとして、他の海外アーティストの無名&個性的っぷりったらない。
果たして全員知っているって人はいるだろうか?
漢字がひときわ目をひく中国・内モンゴル出身のTulegurは口琴やギターを使ってモダンなフォークミュージックを演奏するアーティスト。
[dunkelbunt]はオーストリアのバルカンビート/ジャズ/レゲエ/ダブバンド(なんだかもうわからない)。
イスラエルのMalabi Tropicalはまさかのスペイン語で歌うラテンバンド。
Ms.Mohammedはトリニダード・トバゴ出身の女性アーティストだが、以前紹介したようにトリニダードはインド系住民が多い国なので、もともとのルーツはインド系なのかもしれない。
デカン高原の自然の中で行われる会場の雰囲気も素晴らしく、ぜひ一度足を伸ばしてみたいフェスのひとつだ。
2つのステージで30を超えるアーティスト、20を超える屋台、20種類以上のビール、早朝のヨガセッションに熱気球などのアクティビティーと非常に充実した内容で、チケットは1,279ルピー(約2,000円)から8,960ルピー(約15,000円)とのこと。行きたい!
Daisuke Tanabeが出演していたMagnetic Fieldは砂漠の州ラージャスタンで行われるダンス系のアーティストを中心としたフェスティバルで、17世紀に建てられた宮殿Alsisar Mahalを会場にして行われる。
昨年は海外からBen UFOやFour Tetらのビッグネームを招聘し、インドからは痛烈な社会批判で知られるBFR Soundsystemらが出演。
ラージャスタンならではの会場の様子が素晴らしい!
こちらはテント持参で1名12,000ルピー(約19,000円)のチケットから、ツインルームの宿泊付きで2名で92,000ルピー(約14万円!)までとかなり強気の価格設定だが、それでもほとんどのプランがソールドアウトになっているようだ。
インドの新しい富裕層の最新かつ最高に贅沢な遊び場ということなのだろうね。
インドのフェスは本当に素晴らしい雰囲気のものが多く、まだまだ紹介したいのだけれども、今日のところはこのへんで!
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