『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)DEL48, MUB48は果たしてインドで成功できるのか?

2019年06月23日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(後編)

(前編はこちらから)

インド版の予告編は日本版よりもぐっと勇壮さが強調されたイメージ。

インドで大ヒットを記録し、ここ日本でも公開中の映画『パドマーワト 女神の誕生』に対して、反ムスリム的で、女性の人権を軽視した作品であるという批判がある。
はたして、この批判は的を射たものなのだろうか。
前回の記事では、インドのメディアに掲載された、パキスタンのムスリムやインドの女性の立場からのこの映画への批判と、その反論を紹介した。
今回は、また別の視点からの議論と批評を紹介してみたいと思います。

最初に紹介するのは、UAEのドバイを拠点とするメディアGulfnews.comに掲載された"Why 'Padmaavat' bothers me as an Indian Muslim"(「なぜ『パドマーワト』はインドのムスリムである私を悩ませるのか」)と題された記事。
https://gulfnews.com/opinion/op-eds/why-padmaavat-bothers-me-as-an-indian-muslim-1.2164257
ペルシア湾岸諸国は、インドからの出稼ぎ先としてよく知られており、UAEはインド系住民が全人口の3割を占めている。
そのなかでもドバイは人口の半分がインド系で、パキスタン系やバングラデシュ系まで含めると、南アジア系住民の割合は全人口の8割にものぼるほど。
海外メディアであるにも関わらず、インド映画の批評が掲載されているのは、こうした事情があるからなのだ。

記事によると、「『パドマーワト』は視覚的には壮観だが、歴史を無視した豪華な建築や衣装や音楽は、ヒンドゥー右派にムスリムを叩くために手渡された新しい棍棒である」と手厳しい。
その理由として、架空のキャラクターであるパドマーワティが美しさや美徳の象徴とされている反面、実在の人物であるアラーウッディーンは欲望のままに生きる野蛮人として描かれているということが挙げられている。
これは、原作の叙事詩にも、歴史的な事実にも反する表現であるという。

記事では、歴史上のアラーウッディーンの英雄的な側面が全く無視されているという点も強調されている。
アラーウッディーンはユーラシア大陸各地を荒廃させたモンゴル軍の襲来から6回もインドを守り、穀物の備蓄をすすめて物価を安定させるなど、合理的な統治システムを構築した有能な王だった。
著者は、アラーウッディーンは領土の拡大を企図することはあっても、女性を追いかけて他国を征服したり、素手で肉を引きちぎったりするような人物ではなかったと主張している。

1000年以上にわたって南アジアに君臨したイスラームの王とその遺産を誇りに思っているインドのムスリムにとって、こうした描写は何世紀も前の王の行動の責任を負わせようとしているものであり、ただでさえさまざまな攻撃を受けているインドのイスラーム・コミュニティを邪悪に見せようとするものだ、とこの記事は批判する。

日本でもよくある「吉良上野介は本当は名君だった」とか「司馬遼太郎が描いた龍馬は、実際の龍馬とは全く異なる」みたいな指摘なのだが、それが現代の宗教対立と結びついているがゆえに、批判はより深刻な調子を帯びている。

そこで思ったのだが、この『パドマーワト』によるアラーウッディーンとムスリムの汚名を挽回するために、今度はアラーウッディーンがヒンドゥー教徒と共同してモンゴル軍の侵略からインドを守る続編の制作してみてはどうだろうか。
1作目では凶暴な殺戮者だったアンチヒーローが、2作目でこの上なく心強い味方になるという、「ターミネーターの法則」を利用するのだ。
あれだけ凶悪だったアラーウッディーンが、正義の味方として敵を蹴散らす大活躍をしたら、さぞかし喝采を浴びることと思う。
絶対に面白い映画になりそうだし、私自身もぜひ見てみたいのだが、そうすると今度はモンゴル人が抗議してきたりして、余計ややこしくなったりするかもしれない。


カシミールのニュースサイトGreater Kashmirは、"Why aren't Muslims protesting Padmaavat?"(なぜムスリムはパドマーワトに抗議しないのか)と題した記事で、やはり歴史的な観点と、現在のインドの状況からこの映画を非難している。
https://www.greaterkashmir.com/news/opinion/why-arent-muslims-protesting-padmaavat/

ヒンドゥー・ナショナリズム(Hindutva)の1世紀以上にわたる取り組みによって、インドのムスリムは、母国でもすっかりよそ者のような存在になってしまった、という嘆きから、この記事は始まる。
これまでに見てきた記事同様に、監督が映画のなかでラージプート(ラタン・シン側の、ラージャスターンの戦士階級)を善良で誇り高いヒンドゥーとして描き、対照的にアラーウッディーンを悪魔的に描いているということを挙げて、著者は、ラージプート至上主義団体がこの映画に対する抗議行動(ヒンドゥー王妃とムスリムの王のラブシーンがあるという誤解に基づくもの)をしていたにもかかわらず、ムスリムの指導者たちが何もリアクションを起こしていないことを批判している。

実際の歴史では、ラージプートのなかには、イスラーム王朝であるムガル帝国とともに外敵と戦ったり、ムガル王家と結婚した者も多かった。
例えば、タージマハルの建築で有名なムガル帝国の君主シャー・ジャハーンの母は、ラージプートの女性である。

そうしたイスラーム王朝をめぐる「歴史的事実」に対して、メーワール王国の王妃パドマーワティはあくまで詩人が想像したキャラクターにすぎないのに、バンサーリー監督は、歴史的事実はおろか、ジャーヤシーの叙事詩にすら忠実であろうとしていない。
昨今、ボリウッド映画やテレビの歴史ドラマでは、イスラームの支配者たちは、暴力的で醜い侵略者として描かれている。
もし彼らが本当に血に飢えた殺戮者で、寺院を破壊し、ヒンドゥーを強制的に改宗させていたなら、インドはとっくにイスラームの国になっているはずである、と著者は主張する。
イスラーム王朝の支配者たちは、ヒンドゥー文化を破壊できる十分な時間も力もあったにもかかわらず、ヒンドゥーとの共存を選び、この国を自分の故郷として発展させてきた。
それなのに、現在のインドのムスリムはマイノリティーの地位に追いやられ、映画やテレビによって、パキスタンに忠実で、聖なる動物である牛の肉やヒンドゥーの女性を欲しつづけているというイメージをあたえられ、攻撃されている。

ムスリムの社会的、経済的指標は下落しつづけており、インド最大のマイノリティーであるにもかかわらず、今日ではダリット(歴史的に、カースト外の「不可触民」とされ、政府から進学や就職上の優遇措置を取られている「指定階級」)よりも後進的な存在になってしまった。
政治や行政職、軍や警察でのムスリムの割合は低下しており、一方で、受刑者の中に占める割合は増えている。
そこまで弱体化しているにもかかわらず、ムスリムは脅威の対象と見なされつづけており、それなのに、それに対してイスラームの指導者たちは何も対策を取っていない。
スペインでは、かつてイスラーム王朝が支配する時代があったが、その後キリスト教徒によってムスリムは排斥され、いまではスペインには一人のムスリムもおらず、モスクもない。(これはさすがに誇張した表現だろう)
ヒンドゥー原理主義者たちが、スペインにインスピレーションを求めているというのも不思議ではない。
(記事の引用、ここまで)

読んでいただいて分かるように、この記事では、現在のインド社会でムスリムが置かれた状況への危機感が訴えられている。
後半は、映画を離れて、かなり熱のこもったインド社会への恨み節、そしてムスリム同胞へのアジテーションになっているが、この記事の背景には、カシミール地方が辿ってきた悲劇的な歴史がある。
カシミールは、印パ分離独立時に、多数派のムスリムをヒンドゥーの王が統治する体制が取られていた。
イスラーム王朝時代と立場こそ逆だが、ヒンドゥーとムスリムが共存する土地だったのだ。
だが、地理的にインドとパキスタンの国境地帯に位置するカシミールは、どちらの国の一部となるのかを、決めなければならなかった。
藩王国としての帰属を決めかねているうちに、カシミールはパキスタンによる侵攻を受け、王はインド側に応援を要請する。
インドとパキスタンによる紛争が勃発し、結果としてカシミールはインドがその大半を、パキスタンがその一部を実効支配することとなった。
その後のカシミールでは、インドとパキスタン、さらには独立派による抗争や闘争、テロ、そして治安維持を名目としたインド軍の暴力行為によって、多くの市民の血が流された。
カシミールは、分離独立以降、ヒンドゥーがマジョリティーを占めるインドのなかで周縁化され、危険視され、暴力に晒されてきた。
この記事には、映画の批評の形を取りながら、歴史の犠牲となってきたカシミール住民の切実な悲しみと憤りがこめられているのだ。

こうしたインドのムスリムによる批評を読んで、『パドマーワト』に対する評価の温度差(イスラーム差別的と見るか、そうでないと見るか)の原因が分かったような気がした。
『パドマーワト』という映画を単体で見れば、バンサーリー監督は、アラーウッディーンを悪役として描きながらも、そこに過度に宗教性が出ないように、十分に配慮していると見ることもできる。
あくまでも彼は狂気を持った個人であり、イスラームの信仰ゆえに悪人として描かれているわけではないのだ。
だが、他の映像作品の傾向や、ヒンドゥー至上主義が台頭する社会情勢の中では、この映画の描写は、単なるエンターテインメントとして片付けることのできないものになってしまう。
これは、『パドマーワト』という作品だけの責任ではなく、エンターテインメント全体とインド社会との関係性の問題だ。

『パドマーワト』に関するこうした議論がどの程度一般的なのか、それともムスリムの中でも少数意見なのかは分からない。
あるいは、こうした意見が少数派に見えるとしたら、ひょっとしたらそれはこうした声を上げづらい空気がインドにあるからなのかもしれない。
(考え過ぎかもしれないが、紹介したムスリムの意見が、いずれもパキスタン人のものであったり、外国であるUAEや、カシミールというムスリムがマジョリティーを占める地域の媒体のものだったりするのは偶然だろうか)
いずれにしても、たとえヒンドゥーの観客が信仰とキャラクターとを分けて楽しむことができたとしても、ムスリムの側にこうした懸念が出てきてしまうのが、いまのインドの現実なのだろう。



『パドマーワト』に対する、また別の視点を示唆しているのがこの記事だ。
https://scroll.in/article/867000/opinion-in-padmaavat-sanjay-leela-bhansali-displays-his-sympathy-for-the-devil
(「オピニオン:『パドマーワト』において、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は悪魔への同情を示している」)

この記事の著者は、バンサーリー監督がキャラクターを極力信仰から切り離して描く努力をしたことを評価した上で、心理学的な寓話としての解釈を披露している。
著者は、まず、原作者である16世紀のスーフィー(神との合一を目指すイスラーム神秘主義者)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシー(Malik Muhammad Jayasi)が、作品の舞台となったチットールを「肉体」、ラタン・シンを「心」、パドマーワティを「知性」、そしてアラーウッディーンを「幻想」の寓意としていることを紹介した上で、映画の荒々しいアラーウッディーンが「幻想」だとはとても思えないことから、フロイト心理学的な解釈こそがよりふさわしいのではないか、という新説を展開している。

フロイトは、人間の精神をイド、エゴ(自我)、スーパーエゴ(超自我)の3つの概念に分けて考えた。
アラーウッディーンは「イド」、すなわち快楽原理に基づいた本能的な欲求の象徴であり、道徳を無視して欲望や攻撃性に従う存在である。
「イド」の対極に位置するのがラタン・シンだ。
彼は「スーパーエゴ(超自我)」の象徴であり、親から受け継がれたラージプートの規範にのっとり、ときにそれが不合理であっても、疑いなく文化的ルールと道徳的価値観に従って生きている。
そのふたつの間に存在する「エゴ(自我)」がパドマーワティで、彼女は柔軟性と合理的思考を示している唯一の人物だという。
彼女は戦争に反対するためであれば、ラージプートの規範に反することもいとわない。
自身の姿をアラーウッディーンに見せても構わないと考え、また夫であるラタン・シンに、賓客として迎え入れたアラーウッディーンの殺害を勧めたり、危険を冒して敵のテントに行くことを止めたり、ラタン・シンを救うためにデリーに乗り込んだりもする。
さらに著者は、ミルトンの『失楽園』やローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』("Sympathy For The Devil")を引き合いに出したうえで、この作品はバンサーリー監督による、アラーウッディーンに象徴される「イド」、すなわち精神の自由さや根源的欲求への共感を示した作品であるという解釈を展開している。

16世紀の叙事詩のアレゴリー(寓意)を、映画の脚色をふまえてフロイトの心理学で読み解くという、すごい批評である。
一見、突拍子もない分析のようだが、登場人物の荒唐無稽さ(いくらなんでもここまで義と誇りを重んじるわけないだろ、とか、見たこともない女のために戦争起わけないだろ、とか)を考えると、この解釈は非常に説得力があるように思える。
原作が寓話なのだから、映画も現実世界の宗教対立に即して見るのではなく、寓話的に見るべきだという、現代の宗教間の対立から離れた、また別の視座を提示しているのだ。
 
今回紹介した批評の中では、この分析がもっとも『パドマーワト』という作品の本質に迫っているのではないかと思うのだが、問題が山積したインドの現実社会の中では、寓話や時代劇を単にそれだけのものとして受容することは難しい。
大衆芸術である映画が、現実社会にどのような影響を及ぼすかという視線が、常に映画制作者には注がれている。
映画を作る側にしてみれば、やりづらい部分もあるのかもしれないが、鑑賞者にとっては、作品論だけでなく、社会状況をふまえた様々な批評が行われることで、他の人の視点を学んだり、新しい見方を覚えたりすることができる。

日本のエンターテインメントが過度に政治性を避けている状況と比較すると、1本の歴史映画を巡ってここまで多角的な議論ができるインドが、逆に健全にも見えてきてしまう。
そして、感情ではなく、各々の知性と感性に基づいてこうした議論が行われているインドの面白さを、またしても感じさせられてしまった。

インドの映画は面白いが、その批評もまた同じくらいに面白い。




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goshimasayama18 at 15:28│Comments(0)インド映画 

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