2018年07月26日

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ちなみにどちらもプロフィール写真は21年前にインドで遭遇した裸形のサードゥー(行者)で私ではありません。

それでは、これからもいい感じの記事を書いてゆきたいと思います。 

goshimasayama18 at 11:18|PermalinkComments(0)インドよもやま話 

2018年07月21日

Demonic Resurrectionによる驚愕のインド神話コンセプトアルバムの中身とは!

このブログでたびたび紹介しているムンバイのシンフォニック・デスメタルバンドDemonic Resurrection.
今回は、前回の記事で書いた通り、彼らによるインド以外ではありえない驚愕のコンセプト・アルバム"Dashavatar"を紹介します!

その前に、まずインド人の約8割が信仰するヒンドゥー教についておさらい!
ヒンドゥー教は、キリスト教やイスラム教のように特定の開祖を持つ一神教とは大きく異なる特徴を持つ。
ヒンドゥー教は紀元前2,000年〜1,500年頃に現在のイランあたりからインドに進入したアーリア人が起こした「バラモン教」をルーツとし、様々な土着の民間信仰を取り入れながら成立した。
こういった成立過程の宗教だから、輪廻と解脱の概念やカースト制度といった共通項はあるものの、様々な神様が崇められている多神教であり、時代や地域によって人気のある神様が変わったり、信仰する神様によって重要な神話(例えば宇宙の成立過程)が異なっていたりする。

そもそも、「ヒンドゥー」という名称からして、インド人が自ら名乗り始めたものではなく、ペルシア人たちが「インダス川の東に住む人々の信仰」という意味で呼び始めたものであり、単一の信仰を指すものでは無かった。
どちらかというと、仏教やキリスト教のような一神教よりも、「八百万の神」を信仰の対象とする日本の神道に近い成り立ちの宗教と言うことができるだろう。

そのヒンドゥー教で最も人気のある2大神様といえば、シヴァ神とヴィシュヌ神。
とくに、ヴィシュヌ神はさまざまな土着の信仰や神話と融合、合併し、今日では有名なものだけでも10のアヴァター(化身)を持つ神とされている。
この10のアヴァターをサンスクリット語で"Dashavatara"と呼ぶ。 
そう、今回紹介するDemonic Resurrectionのアルバム、"Dashavatar"は、この10の化身ひとつひとつを楽曲の形に昇華した、壮大にして神話的なコンセプトアルバムだというわけだ。

それぞれの曲のタイトルが、ヴィシュヌ神の10の化身のひとつひとつを指していて、曲順もご丁寧にそれぞれの化身がこの世界に登場したと言われる順番になっている。

収録順に見ていくと、

1.Matsya(半人半魚)

伝説によれば、太陽神スーリヤの息子マヌ王が祖先の霊に水を捧げるべく川へ入ると、手の中に角を生やした小さな金色の魚マツヤが飛び込んで来て、大きな魚に食べられないよう守って欲しいと頼んできた。
マヌはその金色の魚を瓶の中に入れて育てたが、魚はすぐに大きくなった。
そのため池へ移されたが、すぐに成長して入りきらなくなるため、川へそして海へと次々に移されていった。
マツヤは7日後に大洪水が起こり全ての命を破壊することを予言した。
マヌは海にも入りきらなくなった巨大魚マツヤがヴィシュヌの化身であることに気づいた。彼に船を用意して七人の賢者と全ての種子を乗せるよう言うと魚は姿を消した。
やがて大洪水が起こり、マツヤ(ヴィシュヌ)は船に竜王ヴァースキを巻きつけてヒマラヤの山頂まで引張った。
こうしてマヌは生き残り人類の始祖となり、地上に生命を再生させた。(Wikipediaより。一部修正加筆。以下同)

2.Kurma(亀)

Kurmaは神話上の乳海攪拌の際、攪拌棒に用いられたマンダラ山を海底で支えた大亀。
もともと『マハーバーラタ』ではマンダラ山を支えたのは長寿で知られる亀王アクーパーラで、ヴィシュヌ信仰とは関係がなかったが、『ラーマーヤナ』以降、ヴィシュヌ神の化身である亀とされるようになった。
(乳海攪拌とは、神話上の神々と悪魔との戦いの中で、神が霊薬「アムリタ」を得るために「乳の海」を攪拌したことを指す。広大な乳海をかき混ぜるために、海底の巨大亀Kurmaの上に大マンダラ山を置き、その山に巻きつけた龍王ヴァースキを引っ張ることで攪拌を行ったそうな。スケールが大きすぎるのとシュールすぎるのとで、だんだんわけが分からなくなってきたと思うけど、先は長いのであんまり気にしないように。あとさっきからロープ代わりに使われてる竜王ヴァースキの扱いが悪くてかわいそう。)

3.Varaha(猪)

Varahaはヒンドゥー教における猪の姿をしたヴィシュヌ神の第3のアヴァターラ(化身)である。大地(プリティヴィー)を海の底へ沈めた、恐ろしきダイティヤ族の王ヒラニヤークシャを打ち破るために遣わされ、1000年にも及ぶ戦いの末、勝利を収める。
ヴァラーハは純粋な猪、もしくは擬人化され、猪の頭を持つ男の姿で描かれた。
後にそれは4本の腕を持ち、2本で車輪と法螺貝、残りの手で矛、剣あるいは蓮を持ち、あるいは祈りの姿勢をとる姿で描写された。
大地は猪の牙の間に握られていた。
このアヴァターラはプララヤ(洪水)からの蘇生及び新しいカルパ(周期)の確立を象徴し、それゆえ創造神話を構成すると考えられる。
(「純粋な猪」とか、「大地は猪の牙の間に握られていた」とか、最後の一文とか、よくわからない要素が増えてきたが、あんまり難しく考えずに次に進もう) 

4.Vamana(小人)

ヴァーマナはヴィシュヌの化身である矮人で、デーヴァの敵、バリ(チャクラヴァルティ)から天と地を全て騙し取った。
ヴァーマナはバラモンの乞食少年を装って3歩歩いた分だけの土地を要求し、バリは師のアスラグル・スクラチャリヤの警告にもかかわらず、それを認めた。ヴァーマナは巨大化し、1歩目で大地を跨ぎ、2歩目で天を踏み、地底世界(パーターラ)はバリのために残しておいた。しかしバリは約束が履行されない事を望まなかった。そのためヴァーマナは3歩目でマハーバリの頭を踏み付けて地底世界へ押し付けることで同意した。バリは不死身にされ、今も地底世界に棲むと言われる。 
(今ひとつ神話の内容が頭に入ってこない理由は、神話のストーリー展開が唐突なだけじゃなくて、名前が馴染みにくいってこともあるよね。「バリ(チャクラヴァルティ)」ってどういう意味か。a.k.a.みたいなことなのか。あと不思議なことに4曲めと5曲めだけ、神話と曲の順番が逆になっている。)

5.Narashimha(獅子面の人間)

ヒンドゥー教におけるヴィシュヌの第4のアヴァターラで、ライオンの獣人(Nara=人, simha=ライオン)である。アスラ族のヒラニヤカシプを退治したといわれる。
ヒラニヤカシプは苦行をブラフマーに認められ、1つの願いを叶えてもらった。その際に願ったのは「神とアスラにも、人と獣にも、昼と夜にも、家の中と外にも、地上でも空中でも、そしてどんな武器にも殺されない体」という念の入ったものだった。ヴィシュヌは実質不死身の体を得たヒラニヤカシプを倒すため、彼の息子でヴィシュヌ信者のプラフラーダに、夕方の時刻に玄関までヒラニヤカシプを誘導してもらい、ヒラニヤカシプが調子に乗って割った柱の中からライオンの頭をした人間の姿、すなわちナラシンハとして飛び出し、地上でも空中でもない彼の膝の上で、ヒラニヤカシプの体を素手で引き裂いて殺した。
(この曲だけちゃんとしたミュージックビデオ風だが、B級映画に出てくる獣人みたいなのがイカす!)

6.Parashurama(聖仙)
斧を持ったリシ(聖仙)のアヴァターラ。一部のクシャトリヤ(戦士たち)が極端に力をもち、己の愉楽のために人々の財産を奪うようになった。斧をもったパラシュラーマが現れ、邪悪なクシャトリヤを滅ぼした。
(この曲はYoutubeになかったのでこちらからどうぞ) 

7.Rama(王子)

インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公。シーターを妃とした。
神話上、特にヴァイシュナヴァ派では、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)であるとされる。
ダシャラタ王と妃カウサリヤーとの間に生まれ、異母兄弟にバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナがいる。『ラーマーヤナ』によると、彼ら4兄弟はいずれもラークシャサ(羅刹)の王ラーヴァナを倒すために生まれたヴィシュヌ神の4分身であるという。
大聖ヴィシュヴァーミトラの導きによって、ミティラーの王ジャナカを尋ね、そこで王の娘シーターと出会い、結婚する。
しかしバラタ王子の母カイケーイー妃によって、14年の間アヨーディヤを追放された。ダンダカの森でラーヴァナによってシーターを略奪され、これをきっかけにラークシャサ族との間に大戦争が勃発する。
(以前紹介したAnanda Bhaskar Collectiveの"Hey Ram"もこのラーマ神のことだ。とても人気のある神様なので、RamやRamaという名前は「神よ!」というような一般名詞的な呼びかけとしても使われている。)

8.クリシュナ(牛飼い)

ヒンドゥー教でも最も人気があり、広い地域で信仰されている神の1柱であり、宗派によってはクリシュナとして、あるいはヴィシュヌの化身(アヴァターラ)としてスヴァヤン・バガヴァーン(神自身)であるとみなされている。 
(今度はラーマヤーナと並んで有名なインド古典の超大作文学、マハーバーラタの中の主要キャラクター、クリシュナ。細かく紹介するとあまりにも長くなるので割愛!)

9.Buddha(仏陀)
ヒンドゥー教の伝統の多くに於いては、ブッダをダシャーヴァターラ(神の十化身)として知られる最も重要な10の化身の最も新しい(9番目の)化身を演じさせている。これは大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれ、ヒンドゥー教の1宗派として仏教が扱われるようになったためである。後述の通り、偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされた。
(Youtubeになかったのでこちらからどうぞ。そう、仏教の開祖である仏陀ことゴータマ・シッダールタは、ヒンドゥー教の中ではヴィシュヌ神の化身のひとつとされているのだ)

10.Kalki(汚辱の破壊者)
翼の生えた白馬とともに現れる最後のアヴァターラ。宇宙を更新するために悪徳の時代カリ・ユガの終わりに登場するとされる。白い駿馬に跨った英雄、あるいは白い馬頭の巨人の姿で現される。
(この曲もYoutubeになかったので、こちらからどうぞ。この世紀末的なKalkiはインド的神秘主義好きに好まれる存在のようで、同じ名前のフランスのサイケデリックトランスアーティストもいる)

と、ついつい全曲背景となる神話を紹介してしまったが、リリックビデオを見てもらえれば分かる通り、インド神話を知らないと何のことやら分からない単語がいっぱい出てくる、まさにインドならではのヘヴィーメタルなのだ。

例えば3曲目のVarahaの歌い出しはこんな感じだ。

”新たなカルパ(劫=宇宙単位の長い時間)の夜明けに
 ブラフマー(インド神話の創造神)がその創造物を作り上げたとき
 ブーミデヴィ(地母神)は波の上に投げつけた… "

と、独特の固有名詞が多すぎて、インド神話の予備知識が無いと何のことだか全然わからない。
いや、インド神話を調べてみたうえで訳してみても、やっぱり難解であることに代わりはないのだけど、なんとなく神話的な雰囲気で楽しめるようにはなってくると思う。
まあとにかく、Demonic Ressurectionのシンフォニック・デスメタルサウンドは、この途方もなく壮大なインド神話の世界を雄弁に語っているわけだ。

このヴィシュヌの10の化身こと"Dashavatara"、インド国民どれくらい深く親しまれているかというと、こんなアメリカのヒーローものみたいなテイストのアニメ映画が作られていたりもする。

 
こんなアルバムを作るなんて、Demonstealerなんて凶々しい名前を名乗ってるけど、きっと敬虔なヒンドゥー教徒なんだなあー。
と思って尋ねてみたら、彼の回答はこんなだった。

「いや、俺は無神論者で、いかなる神も信じていない。俺は宗教はとにかく大っ嫌いで、人間が作り出した最悪のものだと思ってる。神や宗教は人々をコントロールするためのただの道具だね。ヒンドゥー教にいたっては宗教ですらなくて、ただの生活様式だよ。俺に言わせればヒンドゥーはただの馬鹿な連中が信じてる教訓めいた物語で、偶像を作っては崇めてるのさ」

と、気持ちいいほどの全否定っぷり。
考えてみれば、料理番組で牛肉をがんがん料理している彼が敬虔なヒンドゥー教徒なわけがない。
それならば、いったいどうしてこんなヒンドゥー神話をテーマにしたアルバムを作ったのだろう。

「そうは言っても、神話の物語時代は面白いし、俺にとって興味深いものなんだ。実際のところ、俺はこういう物語をすごく笑えるくだらない形で見て育ったんだ。地元のテレビで神話のドラマをやってたんだけど、すごく変だったから、全然興味が持てなかった。でも俺のかみさんがナラシンハ(獅子男)の物語を話してくれた時、それがすごくクールだったから、それ以来はまっちゃったってわけさ」

このDashavatar、ヘヴィーメタルのコンセプトアルバムとしての完成度もとても高く、純粋に音楽としてもっと評価されるべき一枚だと思う。
でも、それにも増して、ヘルシー料理のインドにおけるパイオニアにして、あらゆる宗教を否定する無神論者が、奥さんから教わったヒンドゥー神話をもとに作ったデスメタルのコンセプトアルバムって、もうそれだけで面白すぎる要素が盛りだくさんだ。

神話と無神論、ヒンドゥー教と牛肉食も辞さない健康食、背徳的なデスメタルと愛妻っぷりという矛盾する要素が違和感なく1人の表現者、1枚のアルバムの中に収まっている。
Demonic Resurrectionの"Dashavatar"は、音楽的な内容だけでなく、こうしたバックグラウンドをとってみても、現代インドの価値観の多様性を象徴するアルバムになっているのだ。

続いてSahilは、その子どものころみていたというヒンドゥー神話に関するテレビ番組について教えてくれた。

「俺が言っていることはこの番組の様子を見れば分かるはずだよ。アルバムに入ってるのと同じヴィシュヌの化身(Avatar)がどんなに馬鹿げた感じになってるかってね。」
彼が教えてくれた、Matsya(半魚人)の物語の番組はこんな感じ。
 
うーん、人様が信仰の対象にしているものをおちょくるようなことは基本的にはしたくないのだが、10分くらいからの、生身の人間が演じているヴィシュヌ神なんかはやっぱりちょっと無理があるように思うなあ。

さらに続きはもっと凄い。コントの西遊記みたいなことになってる。
途中、何かに配慮してか、モザイクみたいなのも入るけど、気にせず見続けて欲しい。
ヴィシュヌの化身たる聖なる魚、Matsyaが出てきてからが(1:30あたりから)本当にヤバい!
 

「このメイク、衣装、見た目、すべてが馬鹿げててくだらないだろ」
とサヒールは言うが、う、うん。思いっきり同意するしかないね。

さて、そんな彼らは自分たちをどうカテゴライズしているのだろうか。
ヒンドゥー神話をテーマにしたヴェーディックメタルというカテゴリーもあるわけだが。
 
「俺たちは自分たちのことをシンフォニック・デスメタルにカテゴライズしたいね。でも俺たちの音楽の根本にあるのはデスメタルだ。今ではそこにインドの要素が加わってるかもね。昔の作品はもっとストレートなシンフォニック・デスメタルだったんだ」
とのこと。
まあ、そりゃ無神論者だしそうなるわな。
今回紹介したDashavatarのみならず、Demonic DesurrectionやDemonstealerについては、いろんなアルバムがネット上でも聴くことができるので、興味のある人はぜひチェックを!

さて、今回のインタビューに協力してくれたDemonstealerことSahil、ケトン料理研究家としてもますます活躍しており、最近ではこんな本も出版した模様!
ketogenic
そして本業の音楽でも(もはやどっちが本業か分からないが)イギリスの大規模野外メタルフェス、Bloodstockへの出演が決定した模様!
ヘヴィーメタルという枠組みを越えて、国際的な活躍をするアーティストとして、これからも注目してゆきたいと思います。

さらに、彼にはもうひとつ別の顔があり、それはレーベルオーナー。
自身の名を冠したDemonstealer Recordsから、自身のバンドDemonic ResurrectionやThird Sovereign、Albatrossといったインドのメタルバンドだけではなく、Dimmu Borgir、Behemothといった海外の大御所バンドのアルバムもディストリビュートしている。

インドのメタルシーンと健康食シーンという、正反対の二分野で比類なき活躍を続けるSahil Makhija、又の名をDemonstealer.
バンドもますます世界的な評価を得てきていて、やがて来日公演なんかもしてくれるかもしれない。
(してくれたらいいなあ)
その時には、ケトン食で健康的になった体で暴れに行くぜ!

といったところで、また! 


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2018年07月15日

Demonic Resurrectionの欧州ツアー日記と驚愕のコンセプトアルバム!

先日紹介した、驚愕のヘヴィーメタル料理番組(しかも炭水化物を控えた「ケトン食」)の進行役、Sahil.


その記事
でも書いた通り、彼のもう一つの顔は、ムンバイのシンフォニックデスメタルバンド、Demonic Resurrectionのヴォーカリストだ(ステージネームはDemonstealer!)。

demonicresurrection



先日の記事を書いた後、いつもしている通り、Twitterでブログ更新を呟いたら、 なんとSahil本人がそれを見つけてくれてリツイートしてくれた。
そこで、どうしても気になっていた点を本人に直接聞いてみた。
いったいどうしてあなたは料理番組をやっているのか?栄養士か何かなのか?と。
Sahilによると、
「俺は単に料理が好きだからこの番組を始めたんだ。それが、時間が経つにつれてだんだん変わってきて、ケトン食(keto)のビデオを作ったらすごく人気が出てきたんだよ。だからプロってわけでも栄養士でもないよ」
とのこと。

Demonic Resurrectionは2014年にドイツの有名なメタル系フェス、「ヴァッケン・オープンエア(Wacken Open Air)」への出演を果たしており、昨年もイギリスツアーを行うなど、インドのメタルシーンでは数少ない、国外でも高い評価を得ているバンドだ。
今回はSahilことDemonstealerが語ってくれたヴァッケン・オープンエア、そしてイギリスツアーの思い出を紹介します!

まずは2014年のヴァッケンから!
彼らにとって、ドイツの超大型メタルフェス出演はどんな経験だったのだろうか。

「ヴァッケン・オープンエアは信じられない体験だったよ。俺たちはただ演奏しただけじゃなくて、3日間に渡ってフェスティバルに参加したんだ。インドから来た俺たちは、あんなでかいフェスは経験したことがなかったし、超ビッグなバンドを生で見られるってことも、全体の雰囲気も、すべてが信じられなかったよ」

ヴァッケンは大ベテランから新鋭、ポップなハードロックからエクストリーム系まで、150以上(!)ものメタルバンドが参加する世界最大級のメタル系フェスティバルだ。
彼らが出演した2014年の様子はこんな感じ。
(これはノルウェーの大御所ブラックメタルバンド、Emperorのライブ。この手の音楽でヴォーカルがメガネをかけているというのが斬新だ)


朝から晩まで、ひたすらあらゆる種類のヘヴィーメタルを聴くことができるという、メタル好きには天国のような(そしてそれ以外の人にはたぶん地獄のような)フェスティバルだ。
インドでも欧米の大御所バンドのライブには数千人単位の集客があるようだが、さすがにこの規模のフェスっていうのは、本場ヨーロッパ以外ではあり得ないように思う。
そんなフェスのステージで演奏した感想は?

「ステージでのパフォーマンスは最高に楽しかったよ。お客さんは少なかったけど熱狂的だった。俺たちが演奏したのは最終日の明け方で、Sodom(ドイツの伝説的スラッシュメタルバンド)とArch Enemy(スウェーデンのベテランメロディック・デスメタルバンド)のちょうど間だった。彼らとライブの時間が少し重なってしまっていたんだ(だからお客が少なかったということだろう)。でも、それを考えてもかなり良かったよ」

ヴァッケンでも、他のフェス同様にいくつものステージが同時進行する。
人気のある大御所バンドと時間帯が重なってしまったのはアンラッキーだった。
確かに彼らのライブ映像を見ると、そこまでオーディエンスは多くないようだけど、そういう事情があったのか。


続いて、今年行われたUKツアーについても聞いてみた。

「今年のUKツアーもすごく楽しかったよ。どのライブもイギリスでやった中では今までで最高だった。いくつかの新しい場所にも行けたし、新しいファンも獲得できた。ツアーのハイライトはIncineration Festivalだな。満員の観客にガツンと喰らわせて、でかいモッシュピットができたんだ。グッズもたくさん売れたよ。Wretched Soul(イギリスのスラッシュ/デスメタルバンド)とツアーできたのも楽しかったし、すべての経験がすばらしかったよ」

これがそのジョイントツアーのフライヤー。
どうやらDemonic Resurrectionがヘッドライナーで、Wretched Soulは前座という扱いのようだ。
ヘッドライナーでイギリスツアーなんてすごいじゃん。
ちょっと見づらいが、3公演目のロンドンがそのIncineration Festivalだったようだ。
Incinerationという単語は初めて見たので辞書を引いてみたら、「火葬」だって。
なんつうフェスのタイトルだ。

bHNrZa

そのフェスティヴァルでのライブの模様がこちら。

当然ながらヴァッケンと比べるとずいぶん小さな規模で、他の出ているバンドも聴いたことがないバンドばかりのようだが、それだけにコアなオーディエンスが集まったイベントだったのだろう。

それにしても、なぜ彼らはこんなふうにヨーロッパでのツアーができたのか、仕切ってるのはインドのエージェントなのかと聞いてみた。
「俺たちにはイギリスのエージェントがいるんだ。2017年の12月にイギリスツアーを計画したんだけど、2018年の5月のIncineration Festivalに出演できるチャンスが巡ってきたから、ほかのライブはその前後に入れることにしたんだ。そのほうが意味があるからね」

上のフライヤーにある、UKツアーのタイトルにもなっているDashavatarというのは彼らが昨年リリースしたアルバムの名前なんだが、改めてそのアルバムをチェックしてみて、このアルバムが、あるとんでもない秘密があることに気がついた。
これぞまさに、ヴェーディック・メタルの最高峰と呼ぶべきコンセプト・アルバムだったのだ。
Youtubeで個別に曲を聴いていた時はまったく気がつかなかった。

アルバムには、前回紹介した以外にも、たとえばこんな曲が入っている。
"Kurma"


"Vamana"


"Rama"


いずれも、インド古典音楽の要素が入っていたり、クリーンヴォイスのパートが入っていたりと凝った展開と大仰なアレンジが特徴的だ。
これらの曲を聴いただけで(あるいはタイトルだけで)このアルバムの「秘密」に気がついた人は、なかなかのインド好きかインド神話通!
その詳細は次回!

2018年07月10日

インドのサッカー&クリケット事情!

FIFAワールドカップもいよいよ大詰め!
日本代表は善戦むなしくベルギーに敗れてしまったが、インドの人たちも同じアジアの日本代表を応援してくれていて、インドの友人やミュージシャンたちもSNSで日本代表の健闘を称える書き込みをたくさんしていた。

インドのサッカー事情はというと、代表チームのFIFAのランキングは97位と振るわないが、近年の著しい経済成長から国内のリーグは目覚しい発展を見せている。
選手としてデル・ピエロやフォルランが、指導者としてマテラッツィやジーコがインドのクラブチームに移籍したニュースを覚えているサッカーファンも多いだろう。(フォルランは現在は中国のクラブチームに所属)
ヨーロッパで活躍した名選手が多く国内のクラブチームに所属しているものの、代表チームのレベルは今ひとつという状況は、中国やJリーグ発足時の日本に似ていると言えるかもしれない。

ただ、何事も一筋縄ではいかないインド。
国内のサッカーリーグ事情もなかなかに複雑な状況になっている。
インドには、もともと2007年に発足したIリーグというプロサッカーのリーグがあった。
ところが、2014年にインドの大財閥リライアンスやインド最大のテレビ局のスターTVをスポンサーとしたインディアン・スーパーリーグ(ISL)という新たな別のリーグが発足。
ISLは豊富な資金力をもとにIリーグを上回る人気を博すようになり、先ほど名前を挙げた名選手、指導者たちも、IリーグではなくISLに所属している(あるいは、していた)。
両リーグ間の資金面や人気面の差は大きくなってきており、Iリーグから脱退してチームごとISLに移籍するクラブも出ている。
FIFAは1カ国1リーグ制を条件としているため、両リーグの統合が議論されているが、例によって交渉はうまくいっていないというのが現状のようだ。

そんなインドで国民的人気を集めるスポーツと言えば、クリケット。
インドに行けば、都会でも田舎でも、必ずクリケットをしている子どもたちを見かけるはずだ。
アタクシも、聖地ヴァラナシのガンジス河のほとりで遺体を焼いているすぐそばで、クリケットに興じている子どもたちを見たときには、ずいぶん驚いたものだった。
インド人にとって、クリケットは映画と並ぶ国民的な娯楽なのだ。
日本では全く人気も知名度もないクリケットだが、実はサッカーに次ぐ世界2位の競技人口を誇るスポーツであり、インドのみならずパキスタン、バングラデシュ、スリランカといった南アジア諸国やオーストラリア、ニュージーランド(つまり、旧イギリス植民地)でも人気を博している。
クリケットのワールドカップは世界中で数億人に視聴される一大イベントとなっているそうだが、人口10億人のインドで大人気だったら、まあそうなるわな。
とくにインドで盛り上がるのはナショナルチームの対パキスタン戦。
カシミール地方の領有権問題をはじめ、政治、宗教など様々な面で対立するパキスタンとの一戦は、試合会場の警備にロケット・ランチャーが配備されるほどの真剣勝負の一大イベントだ。
インド・パキスタン戦でのパキスタンの勝利を祝っていた人が逮捕されたこともあるという、もはや完全にスポーツの枠を超えた戦いになっているのだ。

インドのクリケットのリーグ、インディアン・プレミア・リーグ(IPL)にはデリー、コルカタ、ムンバイ、チェンナイ、バンガロールといったインド各地の大都市の9チームが所属し、世界最大のクリケットリーグとなっている。(八百長問題で出場停止処分を受けているチームもあるというのがなんともインドらしいが)
日本とインドの合作で、「巨人の星」をインドのクリケットに翻案した「Suraj the Rising Star」というアニメが2012年に作られたときには、日本でもそれなりに話題になったので覚えている人もいるんじゃないかと思う。
 
このアニメで、原作での長嶋茂雄に相当するキャラクター、サミール(Samir)のモデルになっているのが、ムンバイ出身の大スター選手、サチン・テンドルカール(Sachin Tendulkar)。
彼の名前は、以前紹介したムンバイのラッパー、DIVINEの地元レペゼンソング「Yeh mera Bombay」にも地元の誇りとして登場している。

彼を扱ったドキュメンタリー映画の楽曲を担当したのは、インド現代音楽界の超ビッグネーム、A.R.Rahman.
インドの国民的作曲家による国民的スポーツ・ヒーローへのトリビュート・ソングがこの「Sachin Sachin」だ。


同じイギリス発祥のクリケットがここまで人気があるのに、サッカー(ラグビーも)が弱いのは何でだろうと思っていたけど、インドの友人に聞いたところ、「単に国が金をかけていないからだよ」とのこと。
コンタクトの多いスポーツなので、汚れの概念とかそういうのが関係しているのかと思ってた。

インドでもワールドカップのような世界トップレベルのサッカー観戦は人気があるみたいだし(そういえば、「ベッカムに恋して」っていうインド系イギリス人の映画もあった)、国内リーグも盛り上がっている。
スポーツは宗教や民族の多様性を抱えるインドがひとつになれる数少ない要素だ。
世界中で人気のあるサッカーであれば、いろいろな対戦国があるし、クリケットのようにパキスタン戦ばかりに注目が集まることもないだろう。
国としての一体感を高めるためにも、もっとサッカーにお金をかけても良いように思うんだけど。

インド国内のサッカー事情に関しては、以下の2本の記事がよくまとまっていて面白い。
・ムンバイのクラブチームとそのファンを追った記事。
VICE『クリケットの街から眺めるインドサッカー界の未来』
・インドのサッカーブームと2つのリーグについての記事
サッカーダイジェスト『歪な国内リーグとU-17W杯に6万超の観衆。空前のサッカーブームに湧くインドの現実』

最後に、以前紹介したデリーのレゲエ・バンド、Reggae RajahsのGeneral Zoozがソロの名義で出したこの曲を。
Champions.

では今日はこのへんで。 





2018年07月07日

ジャールカンドでの女性への暴力事件 その深層とは

ヤフーのトップニュースにもなっていたから読んだ人も多いと思うが、ジャールカンド州で起きた人身売買反対活動をしていた女性5人への集団レイプ事件がCNNやAFPによって報じられた。
ちょうどこのブログでもTre EssThe Mellow Turtleといった、後進的なジャールカンド出身ながらも先鋭的な音楽を作っているアーティストを紹介したばかりだったので、珍しく日本にも取り上げられた同地の話題があまりにも救いのないニュースで呆然としてしまった。

こういった犯罪が理由の如何を問わず許し難いものであるということは当然のことではあるけれど、この報道からだと、ほとんどの人はジャールカンドは卑劣で暴力的な人たちが暮らす場所、という印象しか受けないのではないかと思う。
またインドでレイプか、とかね。
残念ながらそれも間違いではないのだけど、今回はこの事件の背景を自分なりに解説することで、インド社会の重層性や暗部を照らし出してみたいと思います。

この事件のあらましはこうだ。
地元警察によると、ジャールカンド州クンティ地区コチャン村で、銃器で武装した男たちが、人身売買に対する啓発活動をしていたカトリック系のNGOの女性たち5人に、集団で性的暴行を行った。
被害者の女性に対して、警察に通報しないよう脅迫する様子のビデオ映像なども見つかったという。
被害にあった女性たちは、女性が貧しさから性産業に身を落とす問題に対して、演劇を通して啓発する活動を行っていた。
犯行には地元部族による反体制運動「パッタルガディ」支持者が関与しているとみられている。
パッタルガディは外部の人間が自分たちの地域に入ったり定住したりすることを認めておらず、また同地区はマオイスト(毛沢東主義者)の温床としても知られている。
ジャールカンドでは先日も少女2人がレイプされ、火をつけられるという事件があったばかり。
(詳細はhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180623-35121325-cnn-inthttp://www.afpbb.com/articles/-/3179684?cx_part=search

どうだろう。
この記事から、とんでもなく後進的な地域で起きた救いようのない暴力犯罪という以上の印象を受けることは難しい。
なんかテロリストみたいな連中も絡んでるし。
しかも、その後の報道では、事件は事前に周到に計画されていたと報じられている。

この事件の背景を探るためには、まずはこの記事の中で使われている「部族」という言葉に注目する必要がある。 
インドで部族(tribe)と言った場合、ほぼ間違いなくそれは「指定部族(scheduled tribe=ST) 」を指していると考えてよい。
指定部族とは、「指定カースト(scheduled caste=SC)」と同じように差別されてきた歴史を持ち、後進的な暮らしを余儀なくされてきた人々で、そうした境遇ゆえに、進学や公共機関への就職において、一定の優遇措置を受けられることを表す政治的な呼称だ。
「カースト制度」は聞いたことがあっても、「指定部族」というのは初めて聞く人も多いことと思う。
なぜ「指定部族」が「指定カースト」とは別にカテゴライズされているのかというと、それは、その成り立ちが全く違うからだ。

「指定カースト」とは、ヒンドゥー社会の中で「死」や「汚れ」を扱うことなどを理由に社会の最下層に位置づけられてきた人々。
カースト序列の外にいるという意味で「アウトカースト」や「不可触民(アンタッチャブル)」と呼ばれることもあるが、それでもヒンドゥー教の概念の中で定義づけられた人々だと言うことができるだろう。

それに対して、「指定部族」は、ヒンドゥーやイスラム等の宗教や伝統とは異なる文化のもとで生きる人々のこと。
端的に言えば、インドの「先住民族」だ。
島国でないインドで「先住民族」と言われても分かりにくいと思うが、インドには、アーリア人がイラン、アフガニスタンからインド・パキスタンに侵入した紀元前1500年以前の言語や伝統のもとで今も暮らしている人々がいる。 
(「先住民」を意味するAdevasi=アーディヴァーシーという言葉で呼ばれることもある)

彼らがどれだけ独自の文化を保持してきたかということについては、この地図を見てもらうとよく分かると思う(出展:英語版Wikipedia)。
Munda-Sprachen

これは、言語学的に「ムンダ語派」とされる言語のインドでの分布を示したもので、この地図の中の東側のサンタリ語、ホー語、ムンダリ語などが話されている地域がほぼジャールカンド州内に位置している。
「ムンダ語派」は、ベトナム語やクメール語(カンボジアの公用語)と同じオーストロアジア語族に属する言語で、北インドの大部分で話されているインド・ヨーロッパ語族系の言語(ヒンディー語、ベンガリ語、パンジャービー語など)とは全く異なるルーツを持つ。

なかなか日本人にはイメージしにくいが、これは同じ言語系統の中にある日本語と琉球語よりもはるかに大きい差異があるということだ。
無理やり日本に例えて言うなら、長野とか岐阜のあたりにまったく異なる言語を話す人々が住んでいる、といった感じだろうか。
アムネスティによると、指定部族とされる人々はインド全体で461部族、総人口の8.2%を占める420万人にものぼるとされている。
国にとって無視できない割合の人々が、「指定部族」とされているというわけだ(割合が少なくても無視して良いわけではないが…)。

彼らは古代インドのバラモン教、仏教の時代も、イスラム王朝の支配下や英国統治下の時代も、独自の言語と文化のもと(もちろん、時代ごとに多数派の影響を受けながら)暮らしてきた人々だ。
彼らがどのような差別に晒されてきたかは、1989年に制定された「指定部族への虐待防止法」を見るとよく分かる。


この法律では、以下のような行為が「指定部族への虐待行為」として挙げられている。
第2章 第3条 第1項 指定カースト・指定部族に属さない者が、属す者に対し、
1.食用不可のもの、または食すと害のあるものを強制的に食べさせたり飲ませたりする
2.排泄物やごみを投げつけて負傷を負わせたり、死骸や廃棄物を住居やその近隣に放置するなどして嫌がらせをする
3.強制的に衣服を脱がせて裸にして人前を歩かせたり、顔や身体に落書きをするなどして人格を傷つける
4.指定カースト・指定部族の土地を不当に占拠し、耕し、又は所有権を移転させる
6.物乞いを強制したり、他の強制的な労働や負債をカタに労働を強いる
11.指定カースト・指定部族の女性の貞節を傷つける性的攻撃
(ウェブサイト「14年目のインド」から引用させていただきました)
 
このやたらと具体的な条文からは、こうした行為が指定部族に対して継続的に行われてきたことがうかがわれる。 差別や偏見に晒されてきた彼らは、多くが支配階層が近づかないような森林地帯に暮らし、独自の文化を守ってきた。
今回の事件が起きたコチャンという場所も、グーグルマップで見る限り人里離れた森林や畑が広がる地域のようだ。
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だがしかし、時代の変化は彼らの安寧な暮らしを許さなかった。
ジャールカンド州は非常に地下資源が豊富な土地でもある。
「部族」の土地に資源が見つかると、採掘のために、多くの人々が大昔から暮らしてきた場所からの立ち退きを余儀なくされた。
立ち退きを主導したのは、大企業や州政府だ。

「指定部族」に与えられた、進学や就職で優遇される「留保制度」も、そもそも教育にアクセスできる環境がなければ意味がない。
差別や抑圧に耐えかねた彼らの一部はその主張を先鋭化させた。
記事の中にある「パッタルガディ」も、そのような極端な主張を持つグループだ。
曰く「ここはもともと我々が暮らしていた土地だ。政府のルールや選挙も我々には関係無い。よそ者は立ち入るな。出て行け」

彼らが毛沢東主義(マオイズム)に共感を寄せるのも、素朴な暮らしを続けてきたにもかかわらず、大企業や資本主義の論理の中で立ち退きや経済的後進性を余儀なくされるようになってしまったことを考えれば納得がいく。
マオイズムは農村をベースにした共同体を目指すものだが、時としてカンボジアのポルポト時代のように、強制労働や処刑が横行する悲劇を生む。
物質的豊かさを目指さず、あえて貧困と抑圧を目指すかのような方向性が加熱してしまいがちなのだ。

なぜそんな思想に共感する人々がいるのか、長らくアタクシは理解できないでいた。
でも、よく考えてみると、農業を主体とした共同体生活というのは、インドの貧しい農民にしてみれば、日常そのもの。
そして、指定部族には、そのささやかな日常生活すら脅かされ、奪われかねない現状がある。
高野秀行も書いていたことだが、マオイズムは農村主義と新自由主義的な都会との対立という軸で考えると分かりやすい。
最低限の豊かさや人間らしく生きる権利を得ること、それを想像することすら許されない環境におかれた指定部族の人々がマオイズムに惹かれるのは至極当然のことと言えるだろう。

インドでは地方の貧困地域を中心に「ナクサライト」と呼ばれる毛沢東主義ゲリラの活動が知られているが、貧しい農民たちがナクサライトの活動に共感を寄せる様子は、ケララ州出身の女性ジャーナリスト、アルンダティ・ロイの「ゲリラと森をゆく(原題:Walking with the comerades)」に詳しい。

また、襲われた女性たちはカトリック系のNGOに所属していたという。
キリスト教コミュニティーは、伝統的にインドの社会の中で差別的な待遇を受けてきた彼らに対する慈善活動を行っている。
カルカッタの路上で誰にも必要とされず亡くなってゆく貧しい人々に愛を注いだマザー・テレサのように、社会の中で虐げられてきた人々の中に神を見出し奉仕するという考え方だからだ。

いっぽうで、その対極に位置づけられるヒンドゥー至上主義の団体の中も、指定部族に対する支援活動をしている人たちがいる。
教育や職業訓練などのさまざまな支援を通して、ヒンドゥー社会の埒外に置かれていた指定部族を支援することによって、彼らを「ヒンドゥーのインド」の枠組みの中に取り込もうという動きだ。
イスラム教や仏教など、他の宗教系団体による支援もまた行われている。

いずれの団体も、抑圧されてきた人々を、宗教的な慈悲の精神に基づいて支援しているということに関して言えば、同じ志を有していると言える。
だが、例えばヒンドゥー系団体の人々からすれば、キリスト教やイスラム系の団体は、「ヒンドゥーの国であるべきインドの国民を分断しようとする輩」ということになるし、キリスト教やイスラム教の人々からすれば、ヒンドゥー系の団体は「排外主義的なナショナリズム団体」ということになる。
互いに反目こそすれ、共同して状況を改善しようとするのは難しい。

そして、こうした活動に興味を持たない大多数の人々や、より功利主義的な価値観に基づいて生きる人たちにとっては、そもそもこうした問題は他人事。
気の毒には思っても危険を顧みずに状況を改善しようなどとは思わない。
さらに、「指定部族」の中にも、今回のように善意の干渉すらも拒絶するほどに硬直化している人々もいるというわけだ。

この問題の解決にどれだけの時間がかかるのか、想像もつかない。
教育や経済的な成長だけで解決されるとも思えないし、そもそも万人が納得出来る「解決策」があるのかどうかも不明だ。

また、ルーツは違えど、このブログでも何度も触れてきた、インド北東部の人々も、多くが「指定部族」とされている。
北東部のミゾラム州やメガラヤ州では、人口の90%以上が指定部族とされているほどだ。
彼らもまた、地元では圧倒的マジョリティーでも、これまでに見てきたようにインド社会全体の中ではさまざまな差別や抑圧に晒されている。

今回扱ったテーマは、前回書いたEDMシーンの記事とはとても同じ国の話とは思えない話。
インドの多様性は、地理的、文化的なものだけでなく、人々が生きる「時代」の多様性でもある。
超近代的な都市生活を送っている人々もいれば、日本でいうと明治時代、いや江戸時代頃の農村と同じような環境や価値観で生きている人々もいる。 
インドがどんな方向に進むにせよ、必ず取り残されてしまう人々がいるというのがインドの多様性の負の側面だ。

せめて、そうした多様性の軋みの中から、音楽という形で生み出されるさまざまな表現を通して、インド社会を今後も見て行きたいと思います。

たまには社会派なアッチャー・インディアでした。 

goshimasayama18 at 00:54|PermalinkComments(0)インドよもやま話